2 壊れる心

 精神疾患に罹りやすい人の特徴としてよく勘違いされていることがある。心が弱い人、というものだ。間違いとも言い切りづらい部分ではあるが、結局のところ、自分の限界を超えて、精神的ストレスを蓄積し続けた結果脳の機能不全として生じるケースが多い。

 そしてそれは、少女の場合も例外ではなかった。

 異変は、冬休みの手前のことである。もともと入学してから上の世界というのを目の当たりにしていた少女にとって、学校という環境はストレスになった。自分なんて駄目だ。もっとやらなければ。

 もちろんその志は間違ってはいない。しかし、少女はその限度をわかっていなかった。

 絵の勉強をするのに、睡眠時間は極限まで削っていた。人とかかわることも避け、皆自分の敵と認識していた。

「へたくそ。ごみくず」

 それからだった。『声』が聞こえ始めたのは。

 空耳かと思っていた。

「しね。ごみ。描くな」

 その声は確かに聞こえる。少女は身の回りを見渡すが、誰もいない。

「きょろきょろしてんじゃねえ」

 声はさらに鋭く、少女の心を蝕んでいった。声の方向をもう一度見る。それは教科書からだった。

 絵に描かれた女性。人。猫。花。家具。食べ物。空。雲。鳥。それらがすべて少女の絵を罵った。

「うるさい!」

 そう反論するも、少女を罵倒する声は消えない。それは翌日も、その翌日も続く。家を出ると、その声は教科書の絵だけではなく、現実の無機物からも聞こえるようになった。

 道。電柱。ポスター。信号機。柱。標識。あらゆるものが少女を罵倒する。少女はいつしか家から出ることができなくなった。それを打ち消すように、机の中からチョークを取り出す。

 線を描く。その線からも描いてもいない口が歪んで現れる。その口にも罵倒される。

「何描いてんだよ。ばーか」

 それを打ち消すためにさらに描く。それしか思いつかなかった。耳をつんざくほど叫び、チョークをたたきつけるように動かし続ける。壁も。天井も。床も。家具もすべてチョークの色で埋め尽くされる。チョークが折れるたび、少女は吠えるような奇声をあげた。

 新しいチョークを使う。体を動かしていなければ頭が狂いそうだった。いや、少女は既に狂っていた。

 奇声とともに涙も零れる。嗚咽とともに声の音量はさらに上がる。獣のような声に変わる。多くの声に支配される。自分が自分でなくなっていくような気分だった。部屋に描くところはもうなくなった。赤とも緑とも青とも黄色とも黒とも判断が付かないゴミバケツのような空間に迷い込む。少女にとってここは現実ではなかった。しかし、その現実ではない現状が少女の世界を支配していた。

 世界がゴミバケツに変わる。排水溝の奥の生ごみのような匂いもする。その世界の有様に、目を、鼻を、口をふさごうとし、顔を手で覆った。闇に支配された世界で、あざ笑う声は収まらない。両手で髪の毛を引っ張る。ぶちぶちと鈍い音が笑い声に交じって聞こえる。頭に鋭い激痛が走るたびに、笑い声も大きくなる。怒鳴り声も交じる。そこに赤ん坊の泣き声や、サイレンの音も交じる。混沌と化した少女の世界は突如終わりを迎える。

 頭が今度は白くなる。霧の世界に包まれ、夢でも見ているような気がする。

 遠くから声が聞こえる。笑い声も怒鳴り声も、微かに小さくなりながら、その声は少女の耳に届いていた。

「帰国しましょう。うちで入院をして少し様子を見ますか」

 何も考えるのをやめた少女は、ただうなずいた。

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