8 とある病院にて
コンコンとドアがノックされる。
「どうぞ。」
カウンセラーが声をかけると、男が入室してきた。酷くくたびれた様子の男だ。
「事情は聞いております。どうぞこちらへおかけになってください。」
男はとぼとぼとイスに向かい、腰をかけた。
終始、男は無言だった。
この患者は先日まで、治安部隊によって拘束されていた。某日発生した医療機関関係者電脳ハッキング事件の実行犯として、施設で取り調べを受けていたのである。しかし、取り調べの結果、男は無実であることが分かり拘束が解かれた。
事件の主犯は別の人物であり、この男はその真犯人によって操られていたのだ。
操られたといっても、リモートコントロールされていた訳ではない。
男は偽の記憶を書き込まれ、その記憶の通りに行動していただけなのである。
『私には妻がおりまして、幼い娘もおります。』
『結婚してからしばらく経ちますが、いまだに私の狭い社宅で生活しておりまして。』
『娘も大きくなりましたし、稼ぎも安定してきたので、妻と相談して、引っ越そうと。』
『もう内見も済ませて、業者さんにもお願いして、あとは日程を決めて連絡するだけだったんですが、その連絡の最中に治安部隊の人たちが。』
男は取り調べでこう答えていた。
この取り調べの様子をカウンセラーはすでに知っている。
カウンセラーが質問を始める。
「ではいくつか質問いたします。無理にお答えにならなくて結構です。お答えできる範囲で構いませんからね。」
「はい。よろしくお願いします。」
「では、奥様と娘さんに関することで何か思い出せることはありますか。」
「はい。ええと、妻は…あれ。ええと、娘…。」
二十三秒の沈黙。
「すいません。思い出せませんでした。」
「謝らなくて大丈夫ですよ。」
「…名前は思い出せないんですが、写真ならここにあるんです。私含め三人で撮ったやつです。」
患者は、しわくちゃの印刷された写真を見せてきた。
そこには、患者の顔が映っているだけだった。
治安部隊の取り調べの際も、これは家族写真として提示された。
写真を解析した結果、身元証明用に撮影されたものを、わざわざ紙媒体に印刷したものということが分かった。
「…ありがとうございます。次の質問、よろしいですか。」
「はい。」
「貴方がご家族と住んでいた家は、こちらで間違いありませんか。」
カウンセラーが見せた情報。それは確かに男が住んでいた社宅であるが、そこに女性と住んでいた痕跡は一切なかった。
「はい。そうですここです。」
中年期の男性が、継続的に生活していたという情報しか、取得できない部屋だった。
男は、そこに、女性と生活していたというのである。
「分かりました。」
カウンセラーは淡々と質問を続けるが、動揺している。
「引っ越される予定だった新居はどのような物件だったのですか。」
五十三秒の沈黙。
「…分かりません。」
そう、男が答えると、また沈黙が訪れる。
その沈黙を男が破る。
「今日は記念日のはずなんです。」
うなだれ、うつむきながら男は続ける。
「でも、何の記念日だったか分かりません。」
十秒の沈黙。
男の目から水滴が垂れ始める。
呼吸を整えて、言葉を続ける。
「必死に思い出そうとするんですけど、すぐやめるようにしているんです。だって、存在しない記憶由来の情報なんですから。でも、思い出そうとせずにはいられないんです。このまま家に帰ったら、怒られそうな気がして。誰に怒られるのか、わからないですけど。」
男は涙ながらに続ける。
「愛していた人が存在しないと知って、私に残されたのは現実に限りなく近い空想のような世界でした。帰宅して孤独を感じ、また仕事に出るまで孤独を感じ続け、仕事をしていても孤独を感じるようになってしまって。そしてその孤独は次第に怒りへと変わっていきました。しかし、犯人を罰し、裁くのは私じゃない。ましてや、この怒りに任せて何かをおこすのはナンセンス、旧時代的な考え方だ。だからか、私の怒りはすっかり冷めて、冷たい哀しみだけが残ってしまいました。でもこの哀しみも、怒りも、犯人に対するものじゃないみたいなんです。まるで、大切な人の命をうばわれてしまったような気持ちなんです。おかしいですよね。はじめから、そんなのいないって、皆に言われて、自分でも理解しているはずなのに。だから、空想の世界にいるような感覚を今も味わい続けているんです。」
男が一通り思いを吐き出したところで今日のカウンセリングは終了となった。
後日、再びカウンセリングが行われた。
「では、今後の治療について、ご説明いたしますね。今回の事件の被害者、並びに過去の被害者、そのすべてを調査しあなたの記憶と合致する人物を探し出します。その後、その方と共同生活を送っていただきます。」
カウンセラーの説明に患者は驚愕する。
「それはつまり、私の記憶を再現するということですか。」
「その通りです。今回の事件のみならず、記憶の編集によって後遺症を患っている方はたくさん存在しています。多くの方はナノマシンによる症状の緩和治療、冷凍睡眠治療による自浄的な回復手段をとるなどの手法をとっていますが、これらはあまりにも時間がかかりすぎてしまいます。それゆえに即効性がなく、多くの方が苦しみと闘うことを余儀なくされています。しかし、今回の治療は即効性があります。」
「た、確かにそうでしょうが、そんなことが本当にできるのですか。」
「できますとも。現状不可能なのは、記憶を操作することだけです。」
カウンセリングは終了した。
後日、男はとある家の前に立っていた。
家には明かりが灯っている。
男は、医療機関から渡されたキーを持っていたが、それを使わず、扉を開けた。
『ただいま』
と思わず口から出かけたが、辛うじて飲み込んだ。
「おじゃまします。」
まるで友人の家に遊びに来たかのようだ。
しかし、ここは友人の家でも他人の家でもない。これから男が暮らす家である。
「はい。」
奥から女性の声とこちらに向かってくる足音が聞こえる。
夕飯の準備をしていたのか、出てきた女性はエプロン姿であった。
玄関先で、二人は固まった。
初めて会うはずなのに、どこかそんな気がしないような。
いや確実にどこかで会ったことがある。ずっと前にどこかで出会って、なんなら最近まで一緒に住んでいた、そんな気がする。
ありもしないはずの記憶が、形も無いのに鮮明に浮かび上がってくる。
男は口を開いた。
「はじめまして、というのもおかしい気がしますね。」
「そうですね。久しぶり、というか、お帰りなさい、というのがしっくりくる気がします。」
「じゃあ、ただいま、ですかね。」
「…おかえりなさい。」
後日、とある医療機関
「・・・以上が成功例の詳細と過程になります。」
カウンセラーが巨大なスクリーンの横でそうしめくくった。
巨大なスクリーンの前には沢山の席が用意されており、それらは全て人で埋め尽くされている。その中にはホログラムも混じっている。
「素晴らしい治験例である。」
男の声が会場に響き渡る。
「数ある治験の中で最も安定している。」
「問題を挙げるとすれば、患者に適した患者が毎度都合よく見つかるかという点でしょうかね。」
会場はシンと静まり返っている。
カウンセラーが口を開いた。
「治験の内容に問題はありません。ただ、この治験の存在が問題であると私は思います。」
会場がにわかにざわつく。
「我々は多くの権能を有しています。しかし未だに記憶への干渉はできません。」
「当たり前だ。それは人が踏み入るところではない。」
「しかし、今のままでは近いうちに限界を迎えます。セントラルコンピュータも警告を吐き続けています。」
「セントラルコンピュータは警告を吐くのが仕事だ。」
そう言い放った人物の端末にセントラルコンピュータから警告が入る。
『警告:その発言は侮辱に値する。』
「では、どうするのか。もう材料は揃っているのでしょう。提示を許可します。」
「ありがとうございます。」
壇上のカウンセラーが一礼すると同時に、スクリーン上の情報が更新される。
「では、報告会改め、新治療案提案会を開始いたします。」
この会合から四十九秒、医療機構から政府機構宛に、権能追加申請がなされ、二十八分後に申請が受理された。
【特別医療権能:記憶治療】:カウンセラー等は患者に応じて患者の症状、身辺等を精査した上で、記憶の処方(記憶の一部入力)、記憶外科(記憶の一部削除)、或いはその両方を行うことができる。上記の治療を行う場合、原則として患者の承諾を得なければならない。
人の死なない物語 ざしきあらし @zashikiarashi24
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