片翼のモノポール

四葉美亜

片翼のモノポール

 その朝、無人駅にて、果たして朝日は姿をあらわした。

 美里は、息を呑む。呼吸しようにも喉の奥がつっかえている。たたらを踏みかけた足の裏を踏みしめる。

「――おはよ」いつもより朝日の挨拶は短く、声は高い。

 先輩のトランペットはこんな音だったな――と美里は思い出す。

 彼は最早「彼」と形容し難い出で立ちであった。薄化粧の細面は上品さを感じさせ、飾り気の無い白いワンピースに薄地の茶色い上着を羽織り、すらりと自然に着こなしているのである。肌は美里よりも白かった。ただ一点、喉の出っ張りを気にするとすれば、そこだけが朝日が「彼」であることを示していたが、少なくとも美里には、朝日の姿は自然に思えた。

 だから、その白さと眩しさに、彼女の視界へと闇が滲んだのも無理はなかった。彼女はそのことを悟られまいと、気丈に「おはようございます、朝日先輩」と目を合わせた。

 朝日は今や背の高い綺麗なひとであった。それは、決してその恰好が今日初めてのものではないことを暗に意味していた。朝日は幾度も「練習」し、その恰好を「習得」したのである。けれども、美里はその事実を知らない。朝日が彼の家の中で如何なる反応を受けているかも知らない。すべては唐突にあらわれた事柄である。

 小ぶりな黒のショルダーバックを肩にかけ直すと、朝日は、その柔らかな桃色をしたパンプスを一歩前に出した。

「それじゃあ行こう、美里ちゃん」

 美里は、朝日に名前で呼ばれることが実に数年ぶりであることに気が付いた。中学生のとき、名前で呼ばれたことはなかった。それは彼なりの気恥ずかしさの表現であり、彼なりの心遣いでもあった。

「はい、先輩」素直な返事には従順さと戸惑いとが同居していた。二人のよそ行きの鞄には、蝶の翅の形をした片翼のキーホルダーたちが一対になって光っていた。彼女たちは、かつての二人よりも近くに身を寄せて、今し方到着した電車に乗った。車内の人影は疎らだった。

 そのキーホルダーは水色と金色で彩られた小さなものである。朝日がこっそりと中学校卒業に際して美里に贈った、ふたつでひとつになるペアのキーホルダーであった。その事実を知るものは他に無かった。美里にとって、その片翼は朝日との秘密であった。

 だからこそ、美里は未だに朝日を思い出すのである。それは呪いに近しい。けれども、その事実に思い当たることそのものも、彼女には、未だ出来ないことなのである。

 二人の再会は、ひと月程前に遡る。

 霧雨の降る薄暗い初夏、陽の傾きかけた頃のことである。さざ波のたつ青田では蛙がたくましく啼いていた。クリーム色の雨合羽を着た美里は自転車に跨って、くたびれた脚で重いペダルを踏んでいた。荷台に括りつけられた学生鞄が鬱陶しく、汚れた白いヘルメットが美里の頭に蒸し暑い汗を滲ませていた。さして人通りもない畦道で、彼女はヘルメットの留め具を外して前籠へと投げ入れた。雨合羽のボタンを緩めると湿気た微風が身体を冷やした。

 それから畦道の凹凸に揺られて、突然、けたたましい音が足下で響いた。美里はブレーキを握り締める。背負っている紺のナップサックに付けていた、あのキーホルダーが落下したのである。彼女はうんざりしながら自転車を止めた。近くを流れる濁った用水路の傍に、そのキーホルダーは転がっていた。多少の泥は付いていたが、目だった瑕も無かった。美里は、そのキーホルダーの留め具が欠けていることを見とめた。

 ナップサックにとりつけてあったのは、それを毎日のように背負って学校へ向かうからである。それは美里の自覚していない優越の源でもあった。何かの弾みに紛失してしまうこともあるかもしれないのだが、彼女はその事実に気が付いていなかった。彼女は、僅かについた擦れ傷の具合を確かめて泥を払うと、漸くそのキーホルダーをどうするかついて考え直しているところだった。

 美里の家までは既に数百メートルもない。霧雨も最早気にする程ではなかった。キーホルダーの輪に中指を通して握り込むと、彼女は自転車を押して歩き始める。運動靴の踏みしめる泥を、一歩一歩確かめながら歩きたくなったのだった。そのくたびれから急いで帰宅しようとは思えず、この湿った風に火照った身体を冷やしたくなったのである。蛙の声がちりばめられた青田を抜け、硬いアスファルトの上で息を吐くと、その時、美里は懐かしい背中を見つけた。

 耳元で、風が呻った。

「朝日先輩」

 美里はそっと、咄嗟にキーホルダーを握り込んでその手を背に回した。金具が掌に柔らかく食い込む。

 傘もささずに、片手をポケットに突っ込んで、そのひとは気怠そうに歩いていたのだった。つぅ、と止めた息を呑んだ。壊れたキーホルダーと重い足どりで歩いていたことに、戸惑いと喜びを覚える程であった。

 だからこそ、彼女はそのひとに気安く声を掛けてしまったことに微妙な後悔の念を抱いてしまうのだったが、踏みつけられた泥のように、その気持は僅かな不快感を抱かせただけですぐに意識の表層から拭い去られてしまったのだった。

 朝日が振り返ったとき、その眼は暗く、そして鋭かった。トランペットを構え楽譜を睨みつけている時の彼、ピアノの鍵盤を叩いている時の彼、或いは将棋盤に向かった彼の眼を彷彿とさせた。かつての彼女はその眼がおそろしく思えたのだったが、今となっては懐かしいばかりだった。決してその眼はおそろしいものではないのだと知っているからである。

「……ああ」彼は少しも驚いた様子を見せずに、たったそれだけ、掠れ声で応えた。

「お久しぶり、です、先輩」

 覚えてらっしゃいますか、と美里は訊こうとした。しかしその心配が全く無用のものであるとすぐに気が付いた。朝日の眼に、やはりこちらも美里の良く知るところの、柔らかでひとの良さそうな光が戻ったのである。それは気の抜けた炭酸水と同じように半端で、だからこそ自然な眼つきなのだった。

 朝日も美里のことを覚えていた。美里の名前を呼ぶことはないままに、彼はその自然な笑みを浮かべた。

「部活の帰り? 顔を合わせるだなんて奇遇だね」

 美里にとって、彼と言葉を交わすのは朝日が中学を卒業して以来、一年ぶりのことだった。登下校のときは必ず彼の住む家の前を通るのだが、一年もの間、彼女は朝日を見かけることすらなかった。高校生になれば生活のリズムがそれまでとは大きく変わるのだと美里は思っていた。

「今日は部活が無くって、それで。テスト週間なんです」

 二人は並んで湿った道を歩く。白線も引かれておらず所々にひびの入った道には、この二人以外に影はなかった。

「朝日先輩はお散歩ですか? 今日は先輩も早かったんですね」

 歩幅は半分になっていた。制服に雨合羽を羽織った美里とは違って、朝日は上から下まで、曇り空と同化しそうな色合いの私服を着ていた。夕暮れではあるが、平日で、まだ午後五時も回っていない時間帯であった。夏休みには早すぎ、連休からも遠い。

 だから、朝日のように遠くまで通っている高校生が、この時間帯に私服で出歩いている事実は、一般的には当人にとって不都合な事実であろうと察しがついてもよかった。けれども美里はそこまで頭が回らなかったのだ。その事実を美里は連想できなかった。

「うん、少々行き詰っていて。気分転換だ」

 彼は、この地域から小一時間はかかるA校――有名な進学校に通っている。その話は彼女たちの近所では知れ渡っていた。

「髪、伸びましたね」

 朝日の黒髪は彼の肩あたりまであった。

「そうか? これくらいまだショートだろう、君の方がまだ長いじゃないか。それでも短くはなったのかな」

「あれから少し切りました。また伸びてきていますけど」

 その髪はじっとりと重く濡れている。美里は朝日の濡れ具合が自分のそれよりも酷いことに気が付いた。雨具を持っていないからだけでは無さそうだった。

「A校でも中間なんですか?」

 だから彼女は素直に尋ねてしまったのである。A校には中間試験が無かったのだが、そのことを知る由もなかった。そして彼女にとって朝日の成績は常に興味の対象でもあった。彼の学業における実績は彼女の目標であり、手の届かない彼方のものでもあったのである。

 朝日は、ポケットに入れていた白い手を出して口もとに当てる仕草をした。表情だけの微笑をぎこちなく隠したのである。その仕草は咄嗟のものであり、彼の特徴的な癖であった。言葉と言葉のあいだに空白が生じることは、二人であればごく普通のことだった。

「気になる? はは、今日は修学旅行だからね。サボって書いてるんだ」

 朝日は告げた。

 霧雨は、その言葉を隠してはくれなかった。二人の声と淑やかな足音以外の響かず、細かな雨粒が煙るだけの白く光る空は、つい先ほどから青田から蛙をいないものとして知らせていた。

 そして既に、彼女たちの大人しくややもすると間延びしているようにも思えてしまう――しかし毎日顔を合わせひと言ふた言交わしていた頃と違わない――会話をしている間に、朝日は彼の玄関のすぐ前にまで辿り着いているのだった。小学生の頃から、下校の時はそこで二人は別れていたのであり、彼が自然に玄関をくぐる一歩手前へまで向かっても美里には止められなかったし、朝日の言葉を解するだけの猶予も無かったのである。

 その事実はそれほどまでに美里にとって予想だにしていなかったことだったのである。

「こうして君と話せたんだ。サボった甲斐もあったと云うものだな。霧雨に沈む街にて――なんて、お洒落かもしれない」

 彼は彼女を残して、玄関の格子戸を開けた。向こうへ続く彼の家の庭では、深緑の植え込みに濃い桃色の花々が艶やかに濡れそぼっていた。

 それから、美里は朝日のことを再び現実のひととして気に掛けるようになった。それまでの彼女は朝日をどこか遠くの人間になったと、無意識のうちに思考していた。それは彼女のなかの朝日を誇張していたが、彼女にとっての朝日は紛れもなくその姿をしていたのである。しかしそうして一年のあいだ頭のなかに描かれてきた彼の姿が、たった数分の再会で壊れかけてしまっていた。そのことに美里は我慢できなかったのである。壊れかけた姿ならば、壊してしまって、そしてそれからもう一度朝日を思いたかった。

 そうして美里は、朝日の、秘された心裡を知ってしまったのである。

 それから数回にわたって、同じ時間帯に、彼女は彼の背に向けて一度駆け寄った。そして何度かそうした後に、初日の別れ際に取り残された言葉をぶつけた。朝日が学校を、修学旅行なるものから逃げだすことになった、その原因を。それは、普段の彼女にはない、つよい気持ちであった。

「私はもう、当たり前ではいられないんだ」

 彼はそう告げた。朝日もまた、同じ時間に美里と再度見えることを半ば期待しながらのっぺりとした青空の下を歩いていた。決して散歩に適した日和とは限らなかったし、この日の季節を先取りしたかのような強い陽射しは二人の頬に汗を伝わせていた。それでも、二人は――偶然にも――会いたかったのである。そして、美里は尋ねたかったし、朝日は明かしたかった。それは性質が違えども二人にとっての心残りであった。

 美里は彼の一人称に引っかかりを覚えた。彼は「僕」と自分のことを呼んでいたが、このときは「私」と、するりと滑り出るように口にした。

「この間からとあるものを書いていてね。もう書き終わったから、私の役目はもう終わり。全部打ち明けてしまった」

 彼の言葉は謎めいていた。美里が理解する為には、全く情報が足りなかった。そのことを知っている朝日は、尋ねられるまでもなく続けて語った。そのような会話に美里は慣れきっている。彼の言葉はかつてから難しく、美里が応えに窮したとき、或いは問に窮したときには、朝日はごく自然に解説するのであった。

「私はあの学校を辞めるよ。だからそれに相応しい置き土産を送ってきた。唯一、この一年で価値のあるかもしれないって期待できるものを大切にしたかったから」

 彼はそこで呼吸を整える。汗ではなく、目が微かに潤んでいた。その言葉の意味を理解する為にかかる時間は、美里にとって一瞬ではなかった。半ば予想していたことではあったが、いざ突きつけられたその瞬間に彼女はそれが一体何を意味する言葉であるのか解せなかった。

「好きなひとがいた。一瞬だけの、それもただの友だちでしかいられなかったけれど」

 二人はひたすらにゆっくりと歩いた。青田の傍を通り過ぎ、朝日の家の玄関をも通り過ぎた。美里は彼の横に連れ添うだけだった。彼の変容の一年を知る。真新しいチェーンで付け直された片翼が、自転車の籠のなか、ナップサックで揺られていた。間もなく、二人はお互いの家からずっと離れた海沿いの道に出た。人家から、空き家と使われなくなった海の家、背の高い草の茂った空き地が並んだ寂しい道であった。朝日が語ったことは、ありふれた失恋話に過ぎなかった。

 激しい銀色に輝く海岸で、朝日は、自らが朝日であることを棄てたことを明かした。凪いだ海は銀色の星がちりばめられているかのように輝いていた。古びた漁船が、何をしているでもなく浮かんでいた。島並には白と青の帆を張ったヨットが見え隠れしていた。暑く爽やかな瀬戸の海には、生命の色が溢れていた。やっと明かせたよ、と朝日は重い息を吐いた。その時、美里は、陽射しに浮かされたように、自らが立つ場所が夢か現か判らなくなってしまっていた。

 ――或いは今も、彼女は夢に浮かさたかのように足もとが不安定かもしれない。電車に揺られながら、彼女たちは何も話せなかった。そも、話すべき内容を知らなかった。電車は、A校最寄り駅へと向かっていた。駅に停まるごとに、休日の、それも通勤者も疎らな程に朝早い時間であったのに関わらず、水色のネクタイを締めた高校生たちがぽつぽつと乗り込んできた。美里が朝日の様子を伺うと、超然とした様子で窓際で軽く頬杖を突き外の景色を眺めていた。A校の生徒たちも、誰一人として朝日に対し何の反応も示さなかった。皆、スマートフォンか問題集か文庫本かを手にしていた。美里には、その雰囲気に違和感があるように思えた――朝日のことを知っているのに知らないふりをしている、見ないふりをしている、そんな風に。

 駅に着くと高校生たちと共に降車した。美里は場違いな思いをしながら朝日の背を追いかけた。「彼女」の背筋は堂々と伸びていた。その背は美里の良く知る朝日の背でありながらも、まるで異質なものでもあった。そのことに美里は安心し、そしてその安心する自らに対し困惑した。二人は異様な程に黙りこくっていて、口を堅く閉ざしたまま改札を出、そのままA校へと歩いた。A校への道は田畑に囲まれていて、美里が想像していたよりも遥かに田舎の学校然としていた。数台の車とごく僅かな生徒しか、同じ道を歩く影はなかった。

 数分歩くとすぐにA校に着いた。手入れの行き届いた中庭に真新しい白壁が、美里にはいっそう眩しく感じられた。ある種の異様な出で立ちである朝日を誰が気にするでもなく、朝日から誰かに声をかけるでもなく、部外者の美里に対しても誰も声をかけることはなかった。静かな学校特有のもの寂しい空気がひんやりと漂っていた。

 静かなで薄暗い廊下を通って、美里は朝日にとある教室へと案内された。そこは三階の突き当たりにある、古く薄汚い美術室だった。

「ここはもう使われていないんだ。新しい美術室が下にできたから……」

 ではどうして、と美里は訊いた。美術室のなかは、さながら倉庫然としていて狭苦しかった。

「ここで私はつくっていたんだ。同好会みたいな、有志の集まりで」

 朝日はここで初めて、寂しそうな眼になった。そしてそのことに美里がようやく気がついた。それ以前にも朝日がみせていたはずの眼つきであった。

 ここにきた理由を、朝日はひとつの作品を見届けるためだと美里に告げていた。朝日がつくったものがここに飾られていると。そして、それをつくったのは「彼」としての朝日ではなく朝日自身であったと。全ては自らの思う本当の朝日としての姿を告白する為に創られたもので、そしてそれを置き土産にしてこの場から去ることを朝日は心に決めている。既に朝日の居場所は、少なくともこのA校にはなくなってしまっていた。

 美里をつれてきたのはある種の甘えであった。朝日を否定しなかった人間に、他人に、朝日はその存在を肯定されたかったのである。美里はその点、朝日を盲目的なまでに尊敬し、その背を追っていた。そしてそれは朝日によって意図的につくられてしまった「彼」としての朝日による朝日の理想像であった。その姿がこうして変容した今、美里は迷い道で手をひかれたかのようにしてこの場に導かれている。

 黒色の分厚いカーテンの裏に、それは押し込められていた。

 それは一対の、手のひらに収まりそうなサイズの白い人形だった。精巧に指の爪までつくりこまれたそれは、色素が完全に抜けたかのように真っ白な少女の姿をしている。その少女たちは互いに手を伸ばしあい、手と手を向かい合わせにくっつけていた。その姿勢は不安定で、今にも転げてしまいそうなバランスに保たれていた。少女たちの足もとには可愛らしい草花があしらわれていて、それが人形としての土台となっていた。そしてその台には懐中時計がとりつけられている。お伽噺の一節を表したかのような作品であった。


  <霧雨に煙る街、白金の空の下。患った。薄雲が晴れるその時まで。>


 その文言は黒く流麗な筆致で、真白のプレートに刻まれている。そしてその後には、


  <『恋患い―磁力にて』>


 と名前が添えられていた。作者の名前は刻まれていなかった。

「彼女たちは惹かれあってそこにいる。その足取りは滑らかに艶やかに……」

 その人形の片方の顔だちが朝日に似ていることに、美里は気が付いた。細かな表情は個人を特定するには情報が少なすぎ、朝日の顔だちのようでもあって、美里自身の顔だちのようでもあったが、美里はその手を伸ばした人形の片方が朝日であると錯覚した。それがその人形の製作者の意図するところであったのか否かは定かではない。もう片方の少女が何者であるかを美里は知らない。少なくとも美里自身ではないと思った。彼女はこの人形のような、すらりとした背と短い髪をもってはいなかった。

「その時計はね、一緒にいられる時間。針がひと回りして電流の通った彼女らは、ひとつから一人へと戻ってしまう。共にいられる時間は有限。私たちはそれを受け入れるしかない、驚いてはいけないんだね……二人は二人のまま、ひとつはひとつのまま……。彼女たちは、ある時突然にして、惹かれあっていたなんて嘘みたいに離れ離れになって」

 かちり、と朝日はその時計の脇にとりつけられていた金色の留め具を引き抜いた。爪先ほどもない何かの栓を抜いたかのような仕草だった。ひたすら細かな意匠があしらわれた線だらけの文字盤の上を、三本の針がそれぞれ刻み始める。傍目には最も細い針のみが動いていないようにも思えるくらいの微かな動きだった。それでも美里は、それらの針が一斉に動き始める様を見た。あ、と美里は声を出していた。

「告白したんだ。私は。その結果なんてわかりきっていた。あのひとは私なんかみていたくない、私は僕であるべきなんだ、未来永劫、たとえ僕が死んだとしても」

 毅然と言い切る切なさを、朝日は奥歯で噛み殺す。

「その、告白って」

 美里は尋ねる。恐る恐る。朝日はあえてその言葉を使っていた。それはごく一般的な、この歳頃における告白の意味あいとは違っているからであった。朝日は力無く頷いた。

「ごめんよ、ごめんよ。本当にごめんなさい。私は、私は、あなたの知っている朝日じゃあないんだ。あなたが好いている朝日じゃあないんだ」

 朝日は締めるかのように自らの首に左手を当てる。それは全く、朝日にとって意識外の仕草だった。繊細な心をもった乙女のような瞳を潤ませているように美里には思えた。

 人形たちがゆっくりと動き出す。無音のオルゴールが回転する。

「それでも。それでも先輩は、朝日先輩で」

 既に、この場所にいる二人は、その場所に今いる二人ではなかった。美里はそのことを知っていた。知っていながら、それでもそこに居続けた。そこに流れている時間は既にその日の早朝のものではなくなっていた。けれども美里は、その場から離れることができなかった。

 朝日と云う名のかつての先輩が、自らの目の前で姿をみせることは、これから先ありえないのだと彼女は悟っていた。その為にこの場に連れられたのだと、朝日と長い付き合いのある聡いこの子は云われずとも理解していたから。これが、この朝日と云う美里の知る「彼」とまみえる最後の時であると。これは別れであり、同時に出会いであった。

 朝日は、自分のバックからあの翅のキーホルダーを外した。その片翼だけが人形の傍に置かれる。

「だからこそ、私は私なんだ。私はあなたを、私ではない朝日のように、私ではない誰かのように、あなたを好きになれないんだ。あなたのことは好きなのに、それでも、それでも、私はあなたを……」

 互いに悪意はなく、それでも傷つけていることを自覚している。それらは各々にとって、己の為に必要とされる避けられない代償であった。乗り越えざるを得ない壁であった。迂回し逃げることもその場で立ち消えてしまうことも、互いが自らの為にしたくなかった。

 ごめんなさい、ごめんなさい。朝日は俯き蹲り涙をひたすらに落とした。その次の言葉が涙に変わったかのようにして、朝日はそれ以上に言葉を繰れなかった。その心裡をある簡単な、摩耗した、ありふれたひと言に変えてしまうことが出来なかったのだ。その重みをその身で深々と知っているからこそ、彼にはその心裡を語るべき概念を、朝日のその感性を殺してまでその心を言葉に変換することは不可能だったのだ。

 そしてその心裡の次に伝えるべきと感じた言葉は、けれどもその心裡によって沈黙へと閉じ込められた。朝日の心には対極にあるはずのとある二つの概念が同時に存在していて、それが同時に美里に対して、そして美里の知り得ない何者かへと向かっているのである。そしてその言葉は声になることは無く、心裡は置き換えられるべき言葉を失って、互いに声なき声へ、声以上のものへと昇華してしまう他になかった。それらは互いに反撥しあう筈であるからこそ、ただひたすらに朝日は自らの中に留めることで、伝えざるを得なかった。

 彼にのしかかるべき罪があるとしても、それを美里は突きつけなかった。美里も知っていたからである。そして彼はその罪悪に駆られ告白せざるを得なかったからである。それはその罪に対する償いが、美里のあずかり知らぬところから始まり朝日を苦しめ続けていたことを意味していた。

 人形は穏やかに回転し続けていた。いつそれが止まり、いつその時計が一周してしまうのか、美里は知らない。この少女たちのあいだには、伸ばしあった手と手がどうしたって引き合わない断絶が、いずれ生じる。けれども手と手を伸ばしあったままの姿勢には、きっと変わりないのだろうと、その断絶は確実でありながら僅かな、きっと蝶の翅の薄さと同じくらいのものであろうと、美里は胡乱な頭で努めて冷静に考えていた。


 あくる雨の夕刻、美里はぽつねんと朝日の家の前に立っていた。暗い緑色をした生垣が彼女を締め出したかのようにも思えた。彼女は空を見上げて、それでも身体が彼の家へと傾くことを他人ごとのようにして感じた。そしてその原因を探った。自らの心裡が引き寄せられる、その力を、その幻を悟った。失った気がしたものは、最初から失うことすらなかったのだと知った。やっと、朝日が見せたその人形たちの意味を、そして彼の苦しみを、現実のものとしてその手に握り込んだ。朝日のいなくなったA校へ進むと心に決めた。彼女の瞳には、それまでにはあるはずもなかった鋭さが滲んでいた。そして、せめて自分だけは朝日を裏切るまいと――。

 朝日の玄関の片隅には、蝶の翅が片翼だけ置き去りにされている。

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