詭弁と正論で象られた情報のコップ

ミスターN

第1話 詭弁で象られた情報のコップ

 我々が触れる情報の量には限りがある。情報を水に例えよう。広大な情報のプールに浸った我々は、自身の体を基準としてその中を漂う。触れているの水は自分の皮膚の表面のみだが、その周りにも水が存在しているだろうという事は目で見て分かる。

 しかし、その感触や温度といった詳細は自分の体に接していなければ分からない。

 温泉がありふれた日本では電気風呂なるものがある。見た目では分からないが、ある域を超えて近づくと確かに刺激を感じる。

 もしかするとこのプールのどこかには電流が流れているのかもしれない。しかし、その範囲に行かなければ真偽は分からないままなのだ。

 情報のプールには得意不得意がある。泳げない人は沈み込み、息が出来ない。泳ぎが上手い人は快適な温度の水がある場所まで向かい、そこに入り浸る。中にはどんな水があるのか興味を持ってあちらこちらに移動する者もいる。

 そんな中で、私は情報のプールそのものを詭弁によって思考することを試みた。きっと、読者の中にも似たようなこと考えた者がいるだろう。


 まずは外側から見てみよう。そこから分かることは「情報のプールには限りがある」ということだ。無限に広がっているようだが、有限である。ではどのように有限なのだろうか。


 まずは、認知可能な世界の限界が存在する。

 この世界には咀嚼されていないだけで無数の情報が転がっている。しかし、果てが無いわけではない。人類には観測限界が存在し、それが認知の限界を決定している。その外側にいくら物質があろうが、観測できないのであれば情報は発生しない。

 勿論、その観測限界も日進月歩で広がっている。いずれは無限を見渡す目を手にすることがあるかもしれない。

 しかし、『ダークマター』や『ダークエネルギー』などの例からも明らかだが、現状は限界が確かに存在する。


 次に、世界総人口の限界。

 ここで全世界の生物全体を指し示さなかったのは、あくまで情報を定義づけているのは人類だからだ。相談も無しに全生物の情報に対する認識を一つに定めるのは傲慢だろう。

 ――私が『情報とは』と語るのも傲慢なのだが――

 さて、認知可能な世界の限界と総人口の限界は同じではないか? という疑問を持つ人もいるだろう。

 そこで、補足をする。

 一つの対象。例えば目の前のリンゴ一つにとっても、個々人で認知は異なる。赤いリンゴ、甘いリンゴ、嫌いなリンゴ、好物なリンゴ、思い出のリンゴ――

 事前の情報によってもリンゴに対する認識は変化する。事前の情報も身体性や環境の些末な違いで皆異なる。

 よって、認知可能な世界の限界から内側を、現在(2019年1月14日月曜日 9時47分21秒 日本標準時)において、数十億の五感が観測しうる


 さて、有限であるが、それでも個人スケールでは消化しきれない膨大な情報のリソースは、ここから大きく減少する。

 いくら情報のプールが大きくても、そのすべてを手中に収めた者はいない。我々は全知とは程遠い。

 では、個々人が入手可能な情報の限界はどこだろうか?

 

 その話に入る前に前提を宣言しよう。

 情報は認知してこそ存在しうる。本文章では人がが認知したものだけを『情報』と定義する。誰も見向きしない道端の石は情報ではない。監視カメラによってとらえられた石の映像も、誰かが見なければ情報として成り立たない。

 先の『情報のプール』そのものは情報ではなく、そこから認知の許容サイズのコップで掬えるものが、私、そしてそれ以外の人々それぞれの『情報』の正体となる。


 では、コップのサイズを決めるのはどういう要素か?


 一つは接続された経路だろう。視覚、聴覚、触覚などの身体性に付随された感覚器に加えて、情報を発信しうる媒体も合わせて経路として含まれている。物質やネットワークがそれだ。

 経路はバイアスによって変質されやすい。

ネットワークはその最たる一つの内で、その経路を通してやってくる情報は何気ない風景を映した動画ですら変質が発生する。

 例えば、撮影機材のサンプリングレートによる情報の欠落。例えば、その場の風や日光がもたらす肌への感触の欠落。さらには編集によって象そのものが歪められるコンタミネーションもあるだろう。

 この目で直接見たものですら、場合によっては真実と異なる。錯覚を利用したトリックアートはご存知だろう。脳は認知バイアスによって容易に歪んだ像を作り出す。

 

 しかし、このバイアスはコップのサイズに関係ない。真偽はともあれ情報は情報なのだから、経路の量に比例してコップは大きくなる。

 注意すべき点は、この経路は絶えず増減している所にある。ネットワークに接続するための端末(現在ではスマホかPC)をシャットダウンすれば、当然その経路は遮断される。逆に電源を入れてアプリやブラウザを立ち上げれば、情報は我々の内に流入する。そのオンオフに合わせてコップのサイズは変化する。


 サイズを決める二つ目の要素は個々人の解像度の限界だ。

 どんなに優れた英知であっても、理解できなければノイズに過ぎない。これは、それぞれの経験(学習と言ってもいい)に基づくもので、解像度を上げれば上げるほどコップは大きくなる。

 誰が発言したものか覚えては無いが、こういう言葉がある。『偉大な作曲家が子供の落書きを見たならば、そこには音楽がある』。経験が多ければ、分野が違って視点の角度が違っていても得られる情報の総量は増える。常人ならばノイズと判断する認知されない情報を、解像度が高ければ見出すことが出来るのだ。


 さて、ここまでで情報のプールの限界と、個々人が認知可能な情報の総量に関する要素をいくつか挙げた。勿論、これ以外にも数多く存在するだろう。それらの補完は読者の『解像度』にお任せしよう。

 ここからは情報のプールを撹拌し、我々のコップを目掛けて動くベクトルに注目する。プールにコップを入れたとき、コップの中にはどのような情報が入り込むのだろうか。


 情報のプールは人口の増減や時代の変化と共にサイズも内容物も変化している。しかし、それ以上に大きな変化をもたらす力が存在する。

 それは情報を発信する働き。つまり、人間自身が情報を取捨選択し、それを多くのコップに拡散しようというベクトルだ。

 それでは情報とはいかようにして発信されるのだろうか?


 古来より人間は食物を調理することで消化しやすく、風味良くする手段を用いてきた。

 それと同様に情報を編集することで、自己を表現したり情報を拡散しやすくする行為はもはや日常に溶け込んでいる。だれもが文章を入力し、風景や人物を撮影し、音楽に合わせて動画を作り発信する。

 より上手く編集したものが、細部まで自己を表現できる、あるいは多くの人口に情報を広められる。時には情報を発信する本人も情報として編集され、その一助となる。

 それらの要素がベクトルの向きや大きさを決定する。


 発信された情報のベクトルは受信側の影響を大きく受ける。

 受信側にはベクトルの好みが存在し、好みでないベクトルは遮断されたり向きを変えられたりすることが多い。 

 いかに調理されたものでもピーマンは苦手だから食べない。ピーマンを糾弾することすらあり得る。私はトマトを『悪魔の食べ物』だと糾弾したことがある。この場で、トマトとトマトを愛する者に謝罪をする。

 話を戻すが、受信側の影響を受け、ねじ曲がったり小さくなったベクトルを受信する者も当然いるだろう。

 逆に、好みのベクトルはより大きく、より好みの向きになって共鳴するように拡散する傾向にある。

 その作用の結果として、風味が良くて消化しやすいものが残りやすくなる。栄養価よりもそれは重要視されるようになるのだ。

 情報は快適で理解しやすいものが残り、質は二の次となる。


 この先に待つのは情報のエンタメ化だろう。エンタメ化とは、情報そのものの意味を理解せずに楽しむイベントとしてとらえる事だ。もちろんそれに逆らうベクトルも発生するだろう。しかし、情報のエンタメ化の方が優位になる。

 そちらの方がコストが少なく負担が少ないからだ。

 カロリーを節約するのは生きる上で有効な選択肢だ。だが、それは社会が存在しない野生の場合だ。

 社会が存在する以上、消化するのにカロリーを消費するが質の良い情報を積極的に吸収した方が優位に立ちやすい。それも複数の人間がばらばらの高品質の情報を吸収し、協調した方が効果的だ。

 エンタメ化に逆らう人間の中にはそうだと分かっているから、積極的な発信を行う者もいる。


 ここで留意して欲しいのだが、エンタメそのものは必要だ。エンタメに乗せて発信される大切な情報もある。

 エンタメによって救われる人だっている。私もその一人だ。

 問題は直視しなければならない情報がエンタメ化によってフィクションと相似になる事だ。


 さて、ここで自分のコップを見て欲しい。あなたのコップの情報はエンタメ化してはいないだろうか?

 その情報は嗜好品として楽しむことは出来るだろうが、それで良いのだろうか?

 あなたのコップの情報はもっと質の良いもので満たすべきではないだろうか。

 質の良し悪しは当人しか理解できない。

 情報の経路を吟味し増やして、自身の解像度を高めることがその判断を助け、エンタメ化を解くきっかけとなるだろう。

 そして、コップを見つめて情報のプールのベクトルを自分が良いと思った方向へ動かすため、自ら発信すべきではないだろうか?


 私は私以外の人々と共に情報のプールを漂う。

 コップの中を時折見つめては、文章を書いて発信する。

 私の問いが誰かのコップの片隅に残るように願って。

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