真冬のイタリア料理店はひさしぶりと声をかける

@yoll

真冬のイタリア料理店はひさしぶりと声をかける

 今日は久しぶりに彼と食事に行く予定だ。


 彼が住むアパートから徒歩で約五分と近いところにあるらしいそのイタリア料理を出す小さなお店が最近のお気に入りらしく、事あるごとに私と一緒に行きたいと誘ってくれていた。


 私も彼の話を何度も聞かされているうちに興味を持ち、昨日は彼の家に泊まり二人とも休みになった今日揃ってお出かけと言う訳だ。今はまだ出発前で、二人でのろのろとベッドから起き上がり昨日の汗を流したところだ。


 私はローテーブルの上のスタンドミラーで薄めの化粧を整える。隣では彼があくびをしながらシェーバーでひげを剃っている。その途中何度かお互いの目が合い、その度に何となく笑いあった。


 結局僅かの差で私の化粧のほうが早く終わった。彼は私の化粧の速さを侮っていたらしく、慌ててシェーバーを動かしていたせいか剃り残しが所々に見えている。それを見ながら相変わらず髭剃りもそれなりに時間が掛かるものなのだなぁとぼんやり思ったりしていた。


 そのあと、適当に準備を済ませて二人ともコートを羽織り玄関を出る。アパートの玄関に続く階段を降りると、少し開いたままのガラスのスライドドアの隙間から目が覚めるような冷気が踊り場まで溜まっていた。


 相変わらず北海道の冬は寒い。幾ら北国生まれ、北国育ちとは言っても寒いものは寒いのだ。そして道南と言われる地域からやって来た私にとっては札幌の気温は些か堪える。


 北海道の寒さを知らない人達は、家の中が暖かいから冬はこっちよりも過ごしやすいでしょう、なんて言う事もあるけどそれくらい家の中が暖かくないと正直なところ「やっていられない」のだ。


 特に寒がりな私は家の前の雪かきなどで骨まで冷えたあとに家の中まで寒いとなると、きっと何もしないでお風呂に直行し体が温まっているうちに髪を乾かし、何とかお肌の手入れをしてお布団に入る。そうやって寒さに抵抗するだけの生活になってしまうだろう。それ位北海道の冬は大変だ。まぁ、私が単に寒がりだという話もあるのだが。皆が皆、寒いのが苦手なわけではないのだけれど。


 私が踊り場でぶつぶつと文句を言っていると彼は何時もの事と受け取ったのか、小さく笑うと隣を抜けてスライドドアを開ける。


 途端に先程の冷気など比べ物にならないほどの、肌を刺す澄んだ空気が猛烈な勢いで雪崩れ込んできた。ああ、もうこれはダメかも。外に出たらきっと凍えてしまう。さっきの天気予報では最高気温がマイナス4度って言ってたっけ。往々にしてそういう日は予想以上に冷え込むことが多いのだ。


 何てことを考えていると彼が私の手を握って外に連れ出そうとしてくる。抵抗空しく私は彼に連れられてアパートの外へと出てしまった。


 ブランチには丁度良い時間。空は快晴。雲ひとつ無い晴れ渡った気分の良い色をしている。時々吹き付ける少し強い風が屋根に降り積もった細かい雪を吹き飛ばし、遮る物のない太陽の日差しでキラキラと煌いていた。


 酷く綺麗な光景ではあるのだが、風が強く天気が良い日にはそれなりに見る事が出来るため今ではさほど感動は無い。と言うか、むしろ今日はやっぱり寒いんだなぁ何て確認できてしまう現象だ。


 寒い寒いと文句を言い、手を繋ぎながら真冬の空の下を二人で歩くと足元の粉砂糖みたいに細かい新雪は靴あとが出来るたびに甲高い音で鳴き声をあげる。相当に冷えている証拠であるが、繋いだ手の暖かさが少しだけ体温を上げてくれた。


 幸いなことに目的のお店が直ぐに見えた。のんびりと歩いていたが十分もかからずに辿り着くことが出来たようだ。歩いて五分と言うのは嘘ではないらしい。


 二階建ての細長い一軒家の一階が店舗になっているようで、ガラス張りの入り口には小さいイタリアの国旗が風にはためいていた。店内は木製の小さなテーブルが三つだけ置かれている。とてもこじんまりとした居心地の良さそうな雰囲気が伝わってくる。幸いなことに他のお客さんは居ないようだ。


 彼がドアを開け店内を手で指し示し、私は軽く頭を下げて店内に入る。


 すると人の良さそうなおじさんが奥の調理場から小走りでやってきて一番奥の席を勧めてくれた。一番ストーブに近いらしく暖かいとのことだった。とてもありがたい話だ。それだけでこのお店の事が好きになってしまいそうだった。


 その後に差し出されたバスケットにコートとバッグを入れ椅子に座る。反対側の椅子には彼が座った。そして先程のおじさんがここのマスターだと教えてくれた。


 彼は手馴れた様子でテーブルの上の小さなブックラックからメニューを手に取ると広げて私に見せてくれた。


 数種類のパスタと数種類のピザ。そしてコーヒーと紅茶、ソフトドリンク類。小さいA5サイズの黄色の用紙に収まるだけのメニューしか書かれていなかった。どうやら彼のお勧めは最初は一番上のぺペロンチーノと言うことだ。ちなみに彼はアラビアータを頼むらしい。


 彼の提案を受け入れマスターにオーダーを伝えると、調理場の入り口付近に小さな黒板が掛けられていてそこには「今日のドルチェは洋梨のタルト」と書かれている。見てしまったものは仕方がない。彼のお勧めのこのお店の実力をしっかりと確かめなくてはならない。ああ、仕方がないのだ。


 食後にコーヒーと洋梨のタルトを追加して微笑んでいると向かいの彼は苦笑を浮かべていた。私は小さく肩をすくめて答えてあげる。


 少し古めのポップミュージックが流れる店内で彼と暫くの間談笑に興じていると、調理場のほうから香ばしい大蒜と唐辛子の匂いが漂ってきた。全く持って食欲を刺激するこの匂いは罪深いと思う。


 話題は今調理されているパスタの話に変わった。彼がこのお店のぺペロンチーノを始めて食べたときの話や、二人で何処の店で食べた何が美味しかったとか、家で作ってみて失敗したクリームパスタの話。


 気が付けばマスターがサラダをテーブルに二つ置きに来てくれていた。

 小さなサラダボウルにレタスと千切りのキャベツ、そして星型にカットされた極薄の可愛い人参が載せられてる。上にかかっている透明なドレッシングはオリジナルと思われる。自宅では余り使うことの無いビネガーを使っているのか少し変わった香りがした。多分白ワインのビネガーだろう。私の家にあるのはサラダ油とごま油くらいだ。


 次に木製のカトラリーレストが私と彼の前に置かれ、その上にスプーンとフォークが置かれる。少しずつ出来上がっていくその光景に否応無く期待が高まってゆく。


 成る程。このテーブルが三つだけ置かれた小さな店内はそのためのものなのだろうと知らずに笑顔が零れる。


 一度調理場に戻ったマスターは直ぐにその手にぺペロンチーノを載せてやってきた。それを私の前に静かに置くともう一度調理場に戻り、次はアラビアータを載せてやってくる。勿論彼の前にゆっくりと置かれた。


 ごゆっくりどうぞと一言だけ残すとマスターは調理場に戻って行った。彼と二人で小さく頭を下げると目の前に置かれた白と赤のスパゲティを眺める。


 私のペペロンチーノは茹で上げられた麺の上に、狐色のスライスガーリックと薄っすらとオイルの色が移ったみじん切りのガーリック、そしてドライバジルと輪切りの唐辛子が少し乗っているシンプルな物だ。


 彼のアラビアータは鮮やかな赤いトマトソースに細い麺が絡められ、その上に一本の真っ赤な唐辛子が載せられている。こちらもとてもシンプルな構成だ。粉チーズは掛けられていない。湯気からほんのりと唐辛子の香りが漂ってきている。


 二人でいただきますを言ったあと、目の前の物に手をつける。

 フォークを麺に軽く刺したあとくるくると回し口に運ぶ。かなり固めに茹でられた麺からはオリーブオイルとガーリック、丁度良い塩味が伝わってくる。シンプルなだけに誤魔化せない料理なのだが素直に美味しいと言葉が漏れていた。時々歯でつぶれる炒められたみじん切りのガーリックがとても良い味を出している。スプーンは上手く使えないのでそのままだ。


 彼のほうも一口目を食べ終えたようだった。満足気な表情でもう一度真っ赤な麺にフォークを刺している。


 そこでふと、サラダの存在を思い出しそちらにフォークを刺してみる。

 いつもはサラダには何もかけずに食べている私だが、ドレッシングと言うのも中々良いものだなぁと小さく頷いてみたりする。


 少し癖のあるビネガーの香り。僅かな塩味とぴりりと感じる黒胡椒の辛味。それと混ざり合う新鮮な野菜の甘さはとてもバランスが良く、ぺペロンチーノの合間に口に運んでいるとあっという間に無くなってしまった。ああ、とても美味しい。


 彼がこのお店に私のことを連れて来たがっていたことに十分すぎるほど納得をした。正直なところなんでこんなお店を出してくれているのか不思議なくらいの味の良さだ。それなりのところでも十分以上に勝負が出来る味だと思う。まぁ、こじんまりとした店内で自分の手が届く仕事をしたいからだとは思うのだが。


 少し手を止めて余韻に浸っているとまたマスターがその手に何かを持ってやってきた。話を聞くと自家製のフォカッチャとの事。薄型ではなく少しドーム型でふっくらしている。


 そして気を利かせてくれたのか、使ってくださいと置かれたのは二枚の小皿。先程私がアラビアータを食べさせてねと彼に言っていたのを聞いていたのだろう。何とも嬉しい心配りだ。


 早速その小皿を彼の前に突き出しアラビアータをねだってみる。彼も味見をして欲しかったのだろう、まだ半分くらい残っている麺を二口くらい小皿に乗せている。


 その間私はまだうっすらと湯気が昇っているフォカッチャを少しちぎり、お行儀が悪いがペペロンチーノに絡まっていたオイルを掬ってから口に入れてみる。


 ああ、何て幸せなのだろう。


 暖かいフォカッチャにオリーブオイルとガーリックの香り、塩味が足され、ペペロンチーノとはまた違った歯ごたえのある感触に舌鼓を打つ。フォカッチャ自体の味もしっかりしており小麦粉の甘さがしっかりとしている。


 もう一度フォカッチャをちぎって同じようにして食べていると彼から小皿が差し出された。勿論載っているのはアラビアータだ。


 早速私はアタビアータに手をつける。少しだけ冷えてしまっているが口に運ぶとフレッシュなトマトの酸味と結構強めの唐辛子の辛味がやってきた。しっかりとガーリックの旨みと香りも感じられた。そしてやはり麺の茹で方が絶妙なのだろう。少し時間が経っているがまだしっかりとした歯ごたえを感じる。


 あっという間にアラビアータを完食した私はもう一口くらい欲しいなぁ、何て彼のことを目で訴えてみたがゆっくりと首を横に振られた。まぁ、仕方がないか。


 ならば、とまたフォカッチャをちぎり小皿に残されたアラビアータのソースをこそげるようにして掬い上げる。ほんのり狐色のフォカッチャの内側に赤い色がしっかりと付いたことを確認するとそれを口に運ぶ。


 ペペロンチーノのときとは違ったトマトの酸味と唐辛子の辛味がフォカッチャの甘味と混ざり合うと、これはもう一つの料理だと思う。元々フォカッチャはピザの原型なんて言われているらしいが、トマトソースと良く合うことこうして発見すると非常に納得が出来た。きっと昔ピザを始めて作ろうとした人もこうして残ったソースを掬って思いついたのではないだろうかなんて思ってしまう。


 十分にアラビアータを堪能したあと、彼にペペロンチーノのお返しを渡す。正直なところ忘れていたがそこはこの美味しいペペロンチーノに免じて許して欲しい。


 そのあとは暫く無言で残っている目の前の料理を平らげた。最後の方は少し冷めてしまったけれど十分に美味しかった。勿論お皿に残っているソースはフォカッチャに絡めて残さず頂いてしまった。行儀が悪いとかは気にしちゃダメだ。向かいの彼も同じようにしてアラビアータのソースを残さず平らげていた。こういう所がお互いに気楽に付き合えるところなのだろうと思っている。


 満足感に浸っていると、調理場のほうからふと香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。メインの料理のあとはドルチェだと相場が決まっている。ああ、カロリーの件は気付かなかったことにしよう。


 間もなくテーブルの上にコーヒーと洋梨のタルトが二つ並べられた。どうやら洋梨をマスター自身が買い付けに行き、それを使いジャムも作っているとの事。販売もしているらしく、毎年それだけを買いに来るお客さんもいるとのことだ。その余りでタルト用のコンポートも作っているらしい。


 私が興味を持っていることに気が付いたのか、マスターは一度調理場に戻ると小皿に二切れのフォカッチャに先程話してくれた洋ナシのジャムを載せて戻ってきた。何とも嬉しいサービスだ。きっとこのマスターも作った物を食べさせるのが好きなんだろうなぁ、なんて思わず感じてしまった。


 目の前のタルトに手をつける前に洋梨のジャムが載ったフォカッチャを頂いてみると、砂糖とレモン果汁だけで作られたそのジャムは優しくてさわやかな洋ナシの甘味が口の中に広がった。そして同時にまるで洋酒でも入っているかのようにちょっと大人な雰囲気の強い香りが立ち上ってくる。私も多少お高いジャムを買うことはあるのだが全くと言っていいほどレベルが違う。甘味と酸味のバランスが絶妙だ。


 成る程。フォカッチャはデザートにもなりえるのだと感心してしまった。そして洋梨のジャムを一つお買い上げとマスターに告げるとにっこりと笑ってまた調理場の方へと戻って行く。


 さて、多少寄り道をしてしまったが本線を忘れるわけにはいかない。


 気持ちを入れなおしてドルチェに向かう。ジャムを頂き洋梨のタルトもかなり期待できるレベルに達していると理解していた私はフォークを手にして目の前のタルトを眺めてみる。


 白いお皿の上にはカットされた断面から薄い黄金色の洋ナシのコンポートが見えている。上には乗せないタイプのようで、狐色のタルト生地の上には外の粉雪のような粉砂糖がたっぷりと振りかけられ、目にも鮮やかなミントの葉が一枚載せられていた。


 フォークを差し込んでみると上部のタルト生地は意外とモッチリとしているようだ。底部の生地はサックリとしている感触が伝わってくる。小さく切ったタルトをフォークで刺して口へと運ぶ。


 あ、これはダメなやつだ。幾らでも食べれるやつだ。


 先程のジャムとは違い控えめな甘さで作られた洋ナシのコンポートとバターの香りがするタルト生地が何とも素晴らしい。タルトといえば上部が生地で包まれていない物を頂くことが多かったが、これはこれで素晴らしい。と言うか本当に美味しかった。ゆっくりと楽しもうかと思ってはいたのだが手が止まらなかった。不覚だ。


 結局あっという間に目の前から洋梨のタルトは姿を消してしまった。


 一口も飲んでいなかったコーヒーを思い出したかのように優雅に飲んでいると、彼の目線が私のお腹の辺りに感じたため思い切り睨みつけておく。効果は無いようだったが。


 私がコーヒーを飲み終えた頃、彼も洋梨のタルトを食べ終えたようだった。ドルチェを頂いたのは始めてだったらしく、その美味しさに舌鼓を打っていた。


 幸せな時間をたっぷりと過ごしたあとお勘定を済ませると紙袋に入れられた洋ナシのジャムをマスターに手渡された。その際にリンゴのジャムも作っていることを伝えられ、近いうちにもう一度来店することを即座にお伝えると彼が苦笑しながらも小さく何度も頷いていた。嬉しいくせにそれを誤魔化したいとき彼がよくするリアクションだ。お姉さんにはお見通しです。


 コートを着てバッグを手に持った時、ふと思い出したことがあったのでマスターに声を掛けてみた。それはちょっと可愛い言葉のこのお店の由来だった。


 すると店主ははにかみながら地元の方言で「ひさしぶり」と言う意味ですよ、と教えてくれた。


 ああ、良いなぁと思いながらきっと店名の通り「ひさしぶり」となる前に、きっと彼と二人でもう一度訪れることになるだろうことを確信しながらマスターの挨拶を背に店の外に出た。


 外はやはりまだ寒かったけど、彼と手を繋ぎ帰る道はどこか暖かい。歩くたびに足元で雪が鳴るが、それがどこか心地が良い。


 年下の彼に少し肩を預けながら、私はこの幸せな時間が何時までも続くことを願った。

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