嗚呼 美シキ兄妹愛哉

五十鈴スミレ

嗚呼 美シキ兄妹愛哉



 深夜、申し訳程度の遊具があるだけの小さな公園。

 昼間であれば近隣の子供の声が溢れかえっているだろうそこに、足を踏み入れる二つの影があった。


「すっかり遅くなっちまったな。妹いるんだろ? こんな時間まで一人にしてていいのか」


 克巳は腕時計に視線を落としながら、相棒である冬哉に声をかける。


「留守番ができないような年じゃない」

「あー、そっか、高校生だっけか。いやぁ、十以上も下だとつい子ども扱いしちまうな。もう俺もおっさんかな……」

「無駄口はいい。案内しろ」


 冷たい瞳で睨みつけられ、おおこわと克巳は肩を竦める。

 眼鏡をかけ直しながらぐるりと周囲を見回せば、一つ、二つと異常が浮かび上がって見えてくる。


「一つ目、お前の位置から北北西に三歩」

「他は?」

「……二つ目、そこから南東に十八歩半。三つ目は……えっと、東……いや、西、じゃなくて、あそこからだと……」

「西南西」

「それだ! 西南西に五歩、だな」


 チッ。風もない夜に冬哉の舌打ちはよく響いた。

 仕方がないじゃないか、まだこのやり方には慣れていないんだから。と克巳は心の中で抗議した。彼とは違い大人なので。

 冬哉はさっさと克巳の指示した地点へと赴き、無造作に手を振った。

 何かを掴むような形に握られた手にあるものは、限られた人間にしか見えない。


 この公園にあった三箇所のテクスチャを、冬哉はすべて一瞬で剥がしてしまった。

 まー頼りになること、と手を叩く克巳を完全に無視して、冬哉は鞄の中から小さなチューブを取り出した。

 彼の私物にしてはえらく可愛らしいペンギンのパッケージのクリームだ。


「早く妹さんに連絡してやれよ。心配してるかもしれないぞ」

「……おっさん」

「ん? って、つい返事しちまった……」


 まだギリギリ二十代だというのに、おっさんという呼称には慣れたくない。

 彼の妹ならまだしも、冬哉とは六つしか違わないのだから。


「組むときにも言ったと思うが、妹はこの仕事を知らない。先輩風吹かせて余計な世話を焼こうとするな」


 冬哉の視線は先ほど以上に冷たく鋭い。

 名前の通り、冬の氷柱でも向けられたかのようだ。

 社長からくれぐれもよろしく、と言われている相棒を怒らせるのはあまり得策ではない。まだ首は繋がっていたい。


「あー、はいはい。俺が悪ぅございました」

「帰る」

「はいよ。上への報告は俺からしとく」


 現地集合、現地解散。移動のための交通費は全額支給。

 多少足は疲れるが、外回りは楽ちんだ。

 見て、案内するだけの、危険の少ない克巳にとっては。


「そら、俺だって余計なお節介だとは分かってんだけどね」


 冬哉の姿が完全に消えた、静かな公園の真ん中で、克巳はため息を落とした。

 それから胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、いくつか操作してメッセージを送る。


『今日も無事に任務完了。これから帰るってさ。こんな時間まで兄ちゃん借りちゃってゴメンネ』

『よかった……。克巳さんも、お仕事お疲れ様でした』


 労りの言葉と、両手だか両翼だかを上げたペンギンのスタンプに少しだけ癒された後、上司に報告するため電話を立ち上げた。







 知らない人間からメールが届いたのは、一ヶ月ほど前のことだった。


『私は夏摘と言います。冬哉の妹です』


 そのメールに気づいたのは煙草休憩に出ていたときだ。

 なつみちゃん、と思わず声に出して呟いてしまい、同僚にからかわれたのはあまり思い出したくない。


「似てない兄弟だな」

「よく言われます」


 何往復かメールした数日後、早上がりして向かった駅前のカフェで対面した少女は、夏よりも春のほうが似合いそうな柔らかい笑みを浮かべていた。


「ジョシコーセーとお茶するなんて、上司に知られたら羨まれて首が飛びそうだ。いや、君の兄に知られたら物理的に飛ぶかもしれないな」

「冗談がお得意なんですね」


 軽く流されたが半ば本気だった。

 首はさすがに言い過ぎだが、無傷で済むとは思えない。

 仕事のことは秘密にしていたのだから、尚更。


 メールでも軽く聞いていたが、彼女は克巳と冬哉が電話しているところを偶然耳にしてしまったらしい。

 その後、冬哉が寝ている間にこっそり履歴を盗み見て、克巳のメールアドレスをゲットした。

 道理で、普段はメルマガしか来ないアドレスに届いたわけだ。

 最低限の仕事の連絡しかしない冬哉にはメッセージアプリのIDを教えていなかった。大体が電話で事足りていた。


 聞かれるがままに、仕事内容を説明した。

 本当は冬哉本人から言うべきことだが、危険についても。

 すべて聞いても彼女は落ち着いていた。

 これからも冬哉の話を聞きたいということで、メッセージアプリのIDを交換した。

 現役女子高生の連絡先を手に入れてしまったことに、得も言われぬ罪悪感があったが、メールを見逃してしまうよりはいいだろう。


「そういえば、私、かつみなんです」

「へ?」

「なつみじゃなくて、かつみ。よく間違えられるので、気にしてないんですけど」


 彼女は悪戯の成功した子供のように笑って言った。

 なるほど、と克巳は納得する。

 冬哉とペアを組んでからの一番の謎が解けた瞬間だった。







 この世界には存在してはならない『色』や『模様』というものがある。

 どこからやってくるのか、何らかによる意図的なものか自然発生なのかもまだ定かではない。

 分かっているのは、それを放置していればその場が妙な力を持ってしまい、人間の精神に悪い影響を与えるということだ。

 原因不明の事故や急死、集団自殺などは、その『色』や『模様』――同業者が『テクスチャ』と呼ぶものが関わっていることが多い。


 克巳がこの視界を手に入れたのは、大学生のときだった。

 初めは目の病気を疑ったが、検査では健康そのもの。

 たまに変なものが見えるだけで特に生活に支障はなく、心の病を疑われる前に口を閉ざした。

 そして就活中、大学で受けさせられた心理テストの皮を被った適性テストを経て、実入りの悪くない仕事にありつけたのだった。


 そう、危険がないわりに給金はよく、保障もしっかりしている。

 残業はあるが強制ではなく、有給も取りやすいしいい会社だと思う。

 その上、表立って賞賛されることはないが、世のため人のための仕事はやりがいもある。

 が、それは『見る力』を持つ克巳に限った話だ。

 冬哉のように『剥ぐ力』を持つ片割れは、常に危険と隣り合わせ。

 克巳がそちら側だったなら、きっとこの仕事を引き受けはしなかった。


「なあ冬哉、お前この仕事怖くないの?」


 外回りの移動中、ふと克巳は問いかけてみた。

 車のほうが小回りがきくが、路上駐車に厳しくなった最近では電車とバスに徒歩移動が多い。


「怖くない」


 間髪入れずに答えた彼は、特に強がっているようには見えなかった。


「即答かよ。さすが、社長直々に引っ張ってきた期待の新人さんは違うな」


 冬哉は適性テストを受けたわけではない。力業で『剥いでいる』ところを社長が偶然見かけ、スカウトしたのだそうだ。

 通常、『剥ぐ力』を持っている人間はテクスチャの正確な位置の特定ができない。

 中には違和感を覚える人間もいるらしいが、それだけで判断できてしまえば『見る力』は必要ない。

 基本的に『見る力』保持者と『剥ぐ力』保持者はワンセットだ。

 冬哉も克巳がいなければ手間取ると分かっているから単独行動をすることはない。

 彼の場合、時間さえあれば、そして危険を考えなければ、一人でどうにかできてしまうにしても。


「腰抜けと一緒にするな」


 瞬間的に沸いた怒りを、冬哉はメッセージアプリでカワウソのスタンプを使っているというマル秘情報を思い出して落ち着ける。

 当然、情報提供は彼の妹だ。柔らかく笑う彼女は少しカワウソに似ている気もしなくもない。


「手が使えなくなれば十分な慰謝料が出る。他の仕事も回してもらえる」

「そりゃあ、じゃなきゃいくら世のため人のためっつっても、働こうなんて奴もいないだろうしなぁ……」


 手が使えなくなるかもしれない。

 それは、直にテクスチャに触れる人間が常に抱えている危険で、恐怖だ。

 テクスチャを剥がす際、ほんの僅かのズレで手に傷がつく。

 だからこそ本来はペアが丁寧に誘導するものなのだが、勘のいい冬哉は最初に位置だけ聞いたら後は一人で終わらせてしまう。

 効率が上がるとともに給料も上がったが、おかげで冬哉の手にはあかぎれのような傷が目立つ。

 普通の人間が見れば水仕事をしているのだと思うだろう。

 何度言っても聞かないので諦め気味だが、場合によっては手にテクスチャの屑が残り、神経がおかしくなってしまうこともある。


 実際、克巳が数ヶ月前まで組んでいた人は指が二本動かせなくなっていた。彼が引退を考えているときに、ちょうど冬哉が入社してきたのだ。

 もちろん、もっと危険と隣り合わせの仕事なんていくらでもある。どんな仕事でも事故が起きる可能性は0ではない。

 けれど、簡単に傷だらけになる手は、生活に支障の出てくる傷の痛みは、自分の身を削っている事実を生々しく感じさせるのだろう。

 七年この仕事をやってきて、何人も辞めた人間を知っている。

 その誰もを、克巳は腰抜けとは呼べない。


「仕事は怖くない」


 冬哉は言いながら、鞄から可愛らしいデザインのクリームを取り出す。

 レモンのような香りはシトラスというのだと、教えてくれたのはそのクリームの贈り主だ。

 まだ冬哉がこの仕事を始めたばかりのときに贈ったものらしく、傷に沁みにくいタイプは彼女なりに考えてのものだろうが、残念ながら手荒れとは違う傷にどれほど効果があるかは定かではない。


「仕事“は”?」


 思わず聞き返すと、冷たく睨まれてしまって口を閉ざす。聞かなくても予想がついてしまったということもあり。

 冬哉の手がどうにかなってしまったなら、夏摘は泣くだろう。

 彼の恐れていることは、きっとそういうことだ。

 何しろこの男は、妹から贈られた効果があるかも分からないクリームを大事に使い続ける奴で。

 妹と同じ名前というだけでペアを選んでしまうような奴なのだから。







 いつもはメッセージのやりとりで事足りている夏摘と久しぶりに会うことになったのは、彼女の希望によるものだった。


「やあ、夏摘ちゃん」


 前と同じカフェで、イヤホンを外しながら彼女の向かいの席に座る。

 待たせてごめんと謝れば、時間通りですと微笑まれた。


「今回は、少し大きな傷だったので、ちゃんとお話を伺いたくて」


 仕事内容はすべて説明してあるので、改めて話せることは多くないが、昨日の相変わらずの冬哉の仕事の仕方を聞かせた。

 後半は少々愚痴混じりになってしまったかもしれない。

 実の妹に聞かせることではなかったと話し終わってから反省する。


「……ごめんね。本当なら、冬哉に怪我をさせないために俺がいるのに」


 二人一組のペアは、力を合わせ不足を補うためのもの。

 克巳は『見えている』のに、冬哉の傷は増えるばかりだ。いつ致命的な怪我をするかと内心気が気ではなかった。

 今の克巳は、冬哉の稼ぎで自分も利を得ている、ただの金食い虫だ。


「そんな! 克巳さんが謝ることは何もないです。お兄ちゃんは頑固だから、人に言われたくらいじゃ自分のやり方を変えたりしないでしょうし」


 さすがは兄妹、兄の性格を正しく理解しているようだ。

 もし彼が素直に言うことを聞くとしたら、それはきっと心から納得できたときだけだろう。

 そして、彼を納得させたいなら、手っ取り早い方法が一つだけあると克巳は知っている。


「それに……私の、ためだから……」


 夏摘は言いながら肩を落とし、俯いてしまった。まるで自分が悪いとでも言うように。

 冬哉が金稼ぎを急いているのは、今年受験生になった夏摘を大学に行かせるためだ。

 高卒で働き、今まで貯めてきた分がどれだけあるかは知らないが、いくらあっても困らないのが金というもの。

 あればあるほど、選択の余地が増えるのだから。


「夏摘ちゃんは悪くないとか、夏摘ちゃんがいるから冬哉は頑張れるんだとか、いくらでも言えるけどさ」


 そこで一度口を閉じ、胸ポケットに入っているスマートフォンに意味もなく触れる。


「慰めの言葉も仕事の話も、本当は冬哉の口から聞きたいんじゃない?」


 赤の他人である克己にできることも言えることも、決して多くはない。だからこそ。

 克巳の問いかけに夏摘は数秒押し黙った後、ゆっくりと首を横に振った。


「兄が、私のために隠してくれているなら、私は何も知らない妹として笑っていたいんです」


 そう言いながらも、彼女の笑みはどこか寂しそうに克巳の目には映った。彼女らしい春めいた笑顔ではなかった。

 相手を思いやり、本当のことを言おうとしない。前言撤回しよう、よく似た兄妹だ。

 克巳は、彼女の傷一つない小さくて綺麗な手を見る。

 その手をずっと守ってきたのは冬哉だ。そして、その小さな手が冬哉を支えてもいるんだろう。


 克巳が冬哉のペアに選ばれたのは、冬哉直々のご指名だ。

 前の相棒が引退するきっかけをくれたのはありがたいが、彼はそんな気を回すような人間ではないし、なぜ克巳なのだろうと思っていたが今なら分かる。

 冬哉にとって『かつみ』はお守りで、自分の存在意義。

 今まで冬哉は一度も克巳の名前を呼んだことがない。それはただ呼ぶ機会がなかったからというわけではないはずだ。

 きっと、彼にとって『かつみ』は唯一人しかいないから。


 お互いがお互いのために隠し事をする。

 美しき兄妹愛と言いたいところだが、何かあったときに後悔するのは二人だ。

 大事な人の身に不幸があったときの嘆きは深く激しく、聞いているだけで心が抉れる。それを、克巳は何度も目の当たりにした。だからお節介も焼きたくなる。

 胸ポケットからスマートフォンを取り出し、イヤホンを抜いて机の上に置いた。


「お前の大事な大事な妹さんは、こんな健気なこと言ってるけど。どうする、冬哉?」

『おっさん……』

「えっ?」


 スピーカーから聞こえる声に、夏摘は目を見張った。


『どこにいる。急いで向かう』

「K駅の南改札近くのカフェ。俺はもう帰るから、二人でちゃんと話せよ」

『……ああ』


 克巳の勝手な行動に怒っていないわけではないようだが、返事をもらえたのでよしとする。

 おっさんのお節介も、多少は役に立ったかもしれない。


「おにい、ちゃん……?」


 夏摘は未だに現状がよく理解できていないらしいようで、不思議そうな顔で首を傾けている。

 ようは、冬哉と電話を繋いだ状態で夏摘と話していたというだけのこと。

 スピーカーモードでこちらの声はあちらに聞こえていたけれど、イヤホンを差していたから冬哉の文句がこちらに届くことはなかった。


「心配ばっかかける兄ちゃんに、わがままの一つでも言ってやんな」


 伝票を持った克巳が笑いかけると、夏摘は何度か目をしばたかせた後、小さく頷いた。

 ありがとうございます、と春めいた笑みを添えて。




 後日、少しは人の話を聞くようになった冬哉を見た職場の連中が『調教師克巳……』なんて冗談を言うものだから、彼の機嫌は数日直らなかった。

 本当の調教師は名前の漢字が違うのだと、克巳が口を滑らせたせいかもしれないけれど。


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嗚呼 美シキ兄妹愛哉 五十鈴スミレ @itukimi

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