4. 西田は気づかされる

 時刻は十二時ちょうど。


 私は研究室にてコーヒーを沸かしていた。自分の席に座り、やかんの口から吹き出る水蒸気を眺めている。現在、この研究室には私以外に誰もいない。


「素晴らしい時間だ」


 この研究室はキャンパスの東区画にある研究室棟、その五階にある。窓から外を覗けばアリがうごめくがごとく、たくさんの人が歩き回っている。


 私はコーヒーをマグカップに注ぐと一息ついた。なんと平和な時間であろうか。この日を生きるために、生まれてきたといっても過言ではないかもしれない。


「このまま昼寝でもしようかな」


 もう学園祭とか井上とかどうでも良くなってしまった。午前中は風紀委員として真面目に仕事もした。それなのに、急に怪しい奇術師に捕まったと思えば、本当に研究室までテレポートされてしまった。


 もう何がなんだか分からない。


 テレポートって何だよ、手品の域を越えちゃってるよ。


 そう叫びたくなる。


 私はどうやら疲れすぎて夢でも見ているようだ。頭がうまく回らない。


 本当は疲れすぎてどこかで野垂れ死んでいるのかもしれない。あの怪しい奇術師は夢の住人なのかもしれない。


 疲労により倒れた私は救急車で運ばれ、「あの人、いつも引き籠もってばかりだから、ちょっと外に出ただけで倒れちゃったんだって」と陰で笑われてしまうのだ。なんと最悪な一日であろうか。


 私はまぶたを閉じた。このまま眠ってしまおう。私は今日という日を精一杯がんばった。あとは熊沢がなんとかしてくれる。


 ――― おやすみなさい。






######






 研究室のドアが開く音で目を覚ました。


 時刻は十二時半。


 目を擦りながら、研究室に入ってきた者を確認するため相手を見た。すると、相手も立ち止まって私を見ている。


「西田、なぜこんなところにいるんだ」


「井上、それはこちらのセリフだ」


 それは井上だった。


 私を見た井上は、驚きからか一瞬目を丸くする。しかし、すぐにいつもの冷静な顔つきに戻った。


 そして再び歩き出す。


「それにしても今日はいい天気だな、西田。こんな日こそ、外に出なくては損というものだ」


 不自然な会話を切り出しながら、井上は自分のテーブルの上にあった書類を手に取った。


 「そうだな」と私は答える。


「俺はまだ用事があるからすぐに行かなくてはならないが、西田は学園祭を楽しんでくれ。それでは、また」


 そう言って井上は急いでいる様子で研究室から出ていこうとした。声をかける暇もない。


「待て、井上」


 そうはさせるかと私は井上の肩を掴もうとした。今日という最悪の一日の鬱憤うっぷんを晴らすため、文句を言ってやらねばなるまい。


 しかし、私が肩を掴むより一瞬先に、井上が走り出した。私の右手は空を掴む。


「悪いな、西田! 俺にはまだやることがある!」


 そんなかっこいいセリフを残して、井上は研究室を飛び出した。


「逃がすものか、井上!」


 井上を逃がしてはならない。私の本能が強くそう告げていた。


 私の足は棒きれみたいに固くなっている。それに加えて体は重く、腕をあげるのもやっとだ。しかし、私は走る。


 親友を追って文句を言うために。


 井上は階段を二段飛ばしで駆け降りながら、下の階へどんどん突き進む。私も負けじとあとを追う。同じインドア派であるためか、私と井上の距離は離れもせず、近づきもしない。


「待て、井上! 転んだら危ないぞ!」


 私は走りながら必死に叫んだ。少し走っただけで体力の限界だ。井上、どうか立ち止まってくれ。


「無理だ、西田! 俺には使命があるんだ!」


 しかし、井上は必死に走り続ける。井上も体力の限界であるはずなのに、ふらつきながらも走っている。


 井上をそこまでさせる使命とは何だろうか。気になる。しかし、そんなことを考えている暇もないほど走るだけで精一杯だった。


 そんなこんなしているうちに、私と井上は研究室棟の外に出た。学園祭の喧騒が再び聞こえ始める。


 時刻はお昼時をむかえ、学園祭の人混みはどんどん増していた。


 井上は臆することなく人混みに飛び込む。向かう先は東ステージのようだ。私も後を追って人混みに入る。


 数時間前と同じく、人混みの中で押し合い圧し合いを繰り返す。井上に追いつきたいが、前に進むのもやっとのことだ。埒が明かない。まわりの人間など気にせず、がむしゃらに突き進む。


「待ってくれ、井上!」


「追いついてこい、西田!」


 私たちは何をしているのか。


 無理やり体を押し込み、なんとか人混みを抜けた。必死になればなんとでもなるもんだ。達成感すらある。


 井上はそのまま、東ステージの観客席に走っていった。これからステージで何か始まるらしく観客席は人でごった返している。このステージに何があるのか。ステージの上は幕がかかっており、中は何も見えない。


 私もあとを追って観客席に入る。


「井上! ここで何があるんだ?」


 私は息も絶え絶えになりながら、井上に向かってたずねる。井上は観客席の最前列までどんどん進んでいく。私もあとに続く。


 ステージはもう目の前だ。


 井上が立ち止まる。そして振り返った。


「始まれば分かる」


「どういうことだ?」


 そのとき、歓声があがった。ピンクのはっぴを着たむさ苦しい男たちがサイリウムを振り回し始めた。皆が大声を張りあげる。


 井上がステージを見上げた。私もつられてステージ上を見た。


 巨大なスピーカーから音楽が鳴り始める。今どきの軽快で明るい曲だ。


 幕が上がる。


 ステージ上、そこにはマイクを持ったツインテ―ルの女の子がいた。ピンクの髪に、ピンクの衣装。満面の笑み。なんと可愛らしい女性だろうか。


「みんなぁー! はっじまっるよぉー!」


 女の子が元気よく叫んだ。


「サクラちゃーん!」


 まわりのむさ苦しい男たちも元気に叫んだ。


 井上も元気に叫んだ。


 私は呆気にとられている。なんだこれは。


 ピンクのアイドル、サクラちゃんが音楽に合わせて元気に歌いだした。軽快なダンスも披露する。人生における初めての出来事に私は理解が追いつかない。なんだこれは。


 むさ苦しい男たちと井上が、サクラちゃんの歌に合わせて、掛け声をあげる。私はそんな掛け声を知らない。なんだこれは。


 しかし、なぜか私の心は少しずつ踊り始めている。私の心の奥底から水が湧き出るがごとく、感情が湧き出してくる。


「みんなぁー! 大好きだよぉー!」


 サクラちゃんが元気に叫ぶ。その笑顔を見ると私の心は優しさに満たされた。


「サクラちゃーん! 大好きだよぉー!」


 むさ苦しい男たちと井上も元気に叫ぶ。その笑顔を見ると私の心はより一層やさしさに満たされた。なんだこれは。なんだ、この平和な世界は。


 なんだこれは。叫ばずにはいられない。


 私は叫んだ。


「サクラちゃーん! 大好きだよぉー!」







###### おわり ######

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貧乏くじ男、東奔西走 鈴木田 @mogura_suzuki

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