雇われ人ジルの憂鬱

高柳神羅

第1話 雇われ人ジルの憂鬱

 ああ。生きるって、本当に、面倒臭い。


 俺はとある町の一角にあるパン工房で働いている、特にこれといって特筆するようなことなど何もない、ごく普通の平民である。

 名前はジル。苗字? そんなものはない。苗字を持っているのは王族とか貴族とか、一部の上流階級の人間だけだからな。俺みたいな何の名誉も権力もない一般人は名前だけしか持っていないのが普通なのだ。

 年齢は二十六。結婚適齢期が十五歳であるこの国で、冒険者でもない男がこの歳まで独身だというのは……まあ正直に言えばかなり稀有というか、情けない話だとは思う。その自覚はある。旅をせずに生涯を生まれ故郷で暮らすことを決意した男は、すぐにでも伴侶を見つけて家庭を持つのが普通だからだ。

 どうしてそうしなかったのかって? ……仕方ないじゃないか、その機会に恵まれなかったんだよ、俺は。運が悪かったんだ。

 俺は人見知りな性格が災いして、人前に立つことを滅多にしてこなかったから……敢えて人前に出るのを避けていたから、良い出会いの機会に恵まれることがなかったのだ。

 自分にもできそうな仕事を探して職場を点々として、その日暮らしの金を稼いで、どうにか食い繋ぐ。現在の俺はそういう生活を送っている。

 俺が現在勤めているパン工房は、この国一番の大店と言われていて、俺以外にも働いている者たちが大勢いる。正確に数えたことはないが、多分百人くらいは余裕でいると思う。

 もっとも……この工房がそこまでの大店となったのは割と最近になってからのことで、俺が此処に勤め始めた頃は、全くそんなことなどなかった。


 この工房は、元々はその辺にあるような小さなパン屋だったのだ。小さな厨房の中で小麦粉を練ってパンを焼き、それを店に来た客たち相手に売る。工房としての雰囲気など欠片もなかったのである。

 現在の工房経営者に変わってから、それまで地元人にしか知られていなかっただけのパン屋は、瞬く間にパン工房と呼べるほどにまで急成長を遂げたのだ。

 今では、この工房で作られたパンを、わざわざ遠方の国からはるばる訪れた貴族たちや冒険者たちまでもがこぞって買っていく。

 工房に入る収入は、俺たち平民には想像もつかないほどに桁違いのものらしい。

 そのことに関しては、別に良いと思う。自分の職場が儲かるのは良いことだから。そこを咎めるつもりなんて俺にはない。

 工房の規模を拡大したから更に人を雇って増やすことも、当たり前のことなんだろうと思う。


 ──だが、敢えて言おう。

 俺は、この現状に心底うんざりしていた。


 普通のパン屋が巨大なパン工房になった……それは、それだけ此処で作られているパンが売れていることを表している。

 一日に約七千個。それが、現在この工房で作られていて、そして売れているパンの数だ。

 たった百人足らずの人手で、一日でそれだけのパンを作って売り捌くことが可能なのかと問われたら……正直に言えば、無理だ。決して不可能ではないし、現にこの工房はそれを実現させてはいるのだが、それは俺たち雇用人が疲労した体に鞭打って無理矢理働くことによってどうにか一日のノルマをこなせている状況なのである。

 朝から晩まで馬車馬のようにパンを作り続けて、その間取らせてもらえる休憩時間はほんの僅かしかない。日によっては全く休憩時間を貰えないこともある。当然休憩時間が取れないと飯を食うこともできない。用足しに行くこともできない。半日以上我慢しっぱなしで、立たされた状態のまま、黙々と作業を続けさせられる。

 こんな生活を毎日毎日、何年も続けていたら、否が応でも体の方にガタが来る。

 もう、何人この環境に耐えられずに辞めていっただろうか……もうそれすらも分からない。

 新しい人手は入ってくるので、一見すると人員確保に関しては問題がないようにも思えるだろうが、そう考えているのならば甘い。

 工房の仕事は、現場仕事である。つまり求められているのは即戦力となる人間であり、ノウハウを全く知らない奴をいきなり現場に突っ込まれても、使い物にならないから逆に邪魔になるだけなのだ。

 誰だって最初は新しい仕事に対しては素人だ。それは当たり前なのだから、そこに関しては文句は言わない。使えないのなら使えるようになるよう教育してやればいいだけの話なのだから。

 でも、な。どうしてその役目を上の人間じゃなくて俺たち雇用人に丸投げするんだっていう。

 工房には、雇用人である俺たち以外に俺たちを管理している現場責任者……要は上司に当たる奴がいる。もちろん一人で百人を管理することはできないので何人かその肩書きを持っている奴はいるのだが、誰も新人を教育してくれないのだ。

 ある日新人を連れてきて現場に突っ込んでは「今日から一緒に働く仲間だ、宜しく頼むぞ」とだけ言って後は放置する始末。

 新人は新人でおろおろしながら「自分は一体何をすればいいんですか?」と突っ立ってるばかりだし。

 まあ、それでも自分の役目を訊いてくるのならばそれはまだマシな方だ。中にはそれすらも訊こうとしないでただぼーっとその場に案山子みたく突っ立ってる奴もいる。そういう向上心のない奴が来た日には思わずどついてやりたくもなるってもんだ。本当に殴ったりはしないけど。

 雇用人の間に基本的に階級なんてものはないから、皆同等の立場にいる。だが個人の性格とかによって行動力なんかにも差が出るから、有事の際に自発的に行動する奴というのは必然的に決まってしまうもので……

 俺は昔から、人見知りなのが災いして人と会話をするのが苦手だったから、仕事内容は人に訊かずに人がやっているのを横から見て勝手に覚えてこなすタイプだった。

 それこそ、本来であれば上司たちがやるべきであろう装置の複雑な操作だとか書類整理とか、ただの雇用人がやる必要のない仕事に関する知識まで持っていた。それをする権限など持っていないにも拘らずだ。

 そのせいで……いつの間にやら、俺は現場の雇用人たちのリーダー的な存在として祭り上げられてしまっていた。


 同僚たちは、何か問題が起きると、普段滅多に現場にいない上司たちを呼ぶよりも先に俺の元へとやって来る。

 今日は何処に誰を配置するのか、とかこの材料は何処に保管してあるんだ、とか。

 それくらい自分らで考えて行動しろよって言いたい。お前たちの中には俺よりも長く此処に勤めてる奴だっているだろうが。こんな若造に何の疑問も持たずに訊きに来て、お前たちには年上としての矜持ってもんがないのかよ。

 材料の保管場所くらい自分たちで覚えろよ。毎日行くことになる場所なんだから。

 人の手元に置いてある道具を何も言わないで勝手に持ってくな。予備が向こうにちゃんとあるんだからそっちを使えっての。

 装置の動作がおかしい? それこそ上司呼んで来いよ。俺に言うな。いや一応装置の仕組み知ってるけどさ、俺だって作業中で忙しいんだよ、見て分からないのかよ。

 ……こんな調子で、俺は与えられたノルマをこなす以上に仲間の面倒まで見て必要に応じて世話まで焼いてやらなければならないという余計な仕事まで押し付けられている始末だ。

 万が一俺が倒れたりしようもんなら、回らなくなるんじゃないか、この工房。それを考えたことは一度や二度じゃない。


 どうしてこの工房で作られているパンが、こんなにも大量に売れているのか?

 それには理由がある。

 異世界転移、という現象を知っているだろうか。俺たちが住んでいるこの世界……それとは全く異なる別の次元に存在している世界から、そこの世界で暮らしていた人間が何らかの理由でこの世界にやって来るという現象だ。

 ここ最近、この世界では魔物と呼ばれている生き物が凶暴化して人間を見境なく襲うという事例が多発していて、その対応に各国の王たちは手を焼いている。昔から時折そういうことはあったのだが、近年はそれに拍車が掛かっているらしい。眠っていた魔王が目覚めたのだとか邪神の怒りによるものだとか色々な憶測やら噂が飛び交っているが、もしも本当にそういうことが起こっても対応できるようにと、王たちが取った対抗手段というのが──異世界から『勇者』の素質を持った人間を召喚して戦ってもらう、というものだったのだ。

 理由は不明だが、異世界から召喚されてきた人間は、決まって俺たちには想像も付かないほどに常識外れな能力を持っている。それが勇者と呼ばれる所以なのだが……彼ら異世界人は一人いるだけで百の兵士に匹敵、もしくはそれ以上とも言われる戦力となるらしい。

 異世界人の方も異世界人で、大抵の場合は自分が召喚されてきたことを喜んで勇者として働くことをノリノリで引き受けるから、彼らの召喚者となった各国の王たちも異世界人のことを諸手を上げて歓迎した。

 そこで留めておけば良いものを、つい調子に乗ってしまった王たちは、次々と異世界から勇者を召喚し続けた。

 結果として、現在この世界に召喚された『勇者』の数は把握されているだけで三千人。勇者稼業に飽きて田舎暮らしを始めてしまった元勇者を含めれば多分五千人はいるだろう。まあそいつらは数に入れないにしても、異世界人ではない元々この世界で生まれ育った冒険者たちだっているわけで……

 冒険者たちが旅をする際に必ず持ち歩くのが、食糧である。その中でも特に保存食となるパンは、冒険者にとってはもはや必須とも言える携帯食糧の代名詞なのだ。

 それに加えて。これは工房の経営者が代替わりしてから始まったことなのだが……此処で作られているパンには、かなりの種類がある。一般的なパンと言えば黒パンや白パンといったものが主流なのだが、此処ではそれ以外にも様々なパンを作っているのだ。食べられる木の実や種子なんかを生地に練り込んだ『ナッツパン』や、干し肉や茹でた卵などを挟んだ『サンドイッチ』、砂糖などの幾つかの調味料を混ぜて作った特別な生地でパン生地を包んで焼いた『メロンパン』など……他所ではお目にかけることのないであろう一品ばかり。その物珍しさが冒険者たちに馬鹿受けして、この工房で作られるパンが爆発的に売れるようになったのである。

 俺たちも、初めてこれらのパンの試作品を見た時は驚いた。試食もさせてもらったが、今までに一度も食べたことのないような魅惑の味わいだった。

 何でも……これらのパンは、今の工房経営者が故郷で慣れ親しんでいたパンを再現したものなのだとか。

 実は、現在の工房経営者も……元々は勇者としてこの世界に召喚された異世界人だったらしい。だが当人には勇者として魔物と戦う気など全くなかったそうで、むしろ商売をして世界一の店を経営することの方に興味があったから、商人に転職したのだという話を上司の誰かから聞いたことがある。

 勇者たちと同郷の出である元勇者が作った、彼らの世界では馴染みの存在だった味。それを売ってるともなれば、勇者たちが食いつくのもある意味当たり前だと言えよう。

 商売をして多大な利益を得るのが商人として相応しい生き方であり、最終目標だ。だから工房経営者の選択は正しかったのだろう。

 そういう人生を選ぶのはその人の自由だし、この工房が世界一の大店に成長したお陰で俺たち平民の働き口も増えたから、一見すると何も問題はないことのように思える。

 実際、問題はないのだ。この工房が国内一となり、多くの人を雇うことができる大店となったということに関しては。

 問題なのは……そう。俺にかかるこの負担をどうしてくれようかということなのである。

 俺も、他の連中同様にただ与えられたノルマをこなしているだけでいいのなら、特に文句は言わなかった。確かに仕事量は多いし働く時間も長いしきついことはきついのだが、楽をして稼げる仕事なんて存在しないことを俺はちゃんと理解しているから、それに関しては何も言わない。そこは別にいい。

 だが。雇用人としての仕事に加えて本来上司がすべきである細かい作業まで俺に押し付けられているこの現実を、俺はどう捉えるべきなのか。それが問題なのだ。

 文句を言う俺が間違っているのか? それとも俺に役目を押し付けて肝心な時に全く役に立たない上司たちが悪いのか?

 相談できる相手もおらず、悶々とした気持ちを抱え込んだまま……俺は今日も、工房の片隅で黙々とパンを作っていた。


 カチ、カチ、カチ、キリキリキリ……

 ずれていた歯車の位置を直してチェーンを張って、俺は装置の油で黒くなった指先を布で拭いながら立ち上がった。

「……ほら、修理終わったっスよ。これでちゃんと動くから」

「ありがとう!」

 装置が動かなくなったから直してくれと俺を此処に連れて来た同僚が、礼を言ってぱたぱたと駆けて行く。

 さてさっさと自分の作業場に戻るかと踵を返しかけた俺の肩を、横からぽんと叩いた手の存在があった。

 顔をそちらに向けると……そこには感心した面持ちで俺のことを見ている上司の姿があった。

「ジル君は本当に何でもできるんだなぁ……ジル君がいれば私たちも安心して此処を離れられるよ」

「……そりゃ、どうも」

 俺は控え目に頭を下げてさっさと自分の持ち場へと戻った。

 ……今のことだって、本来だったらあんたがやるべきことなんでしょうが。あんたがこの装置の直し方を知らないって言うから俺が代わりに直す羽目になったんだぞ、分かってるのかよその辺。

 言ってやりたいところだが、あんなのでも俺の上司だし、変に機嫌を損ねたらそこで俺の首は飛ぶことになる。無職になるのは流石に御免だ。

 本当に、使えない奴が自分の首を握ってるって、考えただけでも腹立たしいもんだ。

 はぁ、と溜め息をついたら、唾が変な風に気管に入ってしまったのか俺は派手に咳き込んでしまった。

 疲れてるせいもあって、なかなか咳が止まらない。乾いた喉を空気が擦っていく感覚が苦しい。

 息切れした呼吸を整えて深く息を吸う。

 その様子を横で見ていた同僚が、首をことりと傾けながら問うてきた。

「……大丈夫? 変な咳してたけど」

「……大丈夫っスよ。ちょっと苦しくなっただけだから」

「なら、いいけど……」

 それ以上は何も言うことなく黙って作業を続ける同僚の隣で、俺も自分の仕事を再開した。


 ──その日から、俺は時々変な咳が出るようになった。

 最初は軽く咳払いのような咳が出るだけだったのだが。次第にそれは途切れることなく続くようになり、終いには咳のしすぎで呼吸困難に陥るまでに悪化してしまった。

 家に帰ってからもそれは収まる気配を見せず。咳のし過ぎでろくに息が吸えなくて常に酸欠状態でふらふらするようになり……しかしそんな状態になっても仕事を休ませてはもらえず、俺は体を引き摺るようにして自宅から遠い場所にある工房へと通い、日々の仕事をこなした。

 一日の睡眠時間は長くて三時間足らず。下手をすれば寝られず徹夜を踏む日だってある。

 家事だってしなければならないし、食糧を買い足すために買い物にだって行かなければならない。仕事がない日も基本的に体を休める時間は取れないので、咳き込むようになってから、俺の体調はますます悪化していった。

 もちろん、自分の負担を減らす努力はしたよ。体調が悪くて倉庫に行けないから、リストに書いてあるものを代わりに運んできてほしいって同僚に頼んで。

 でも、そいつらは言うんだ。自分には何処にあるのか分からないって。

 その材料が今すぐ必要な連中は早く持ってきてくれと横で騒いでるし。

 場所の説明を始めると長くなるし、とてもそんな時間なんぞない。俺は基本的に面倒臭がりだから、じゃあもういいわ自分で行くって説明を放棄して結局自分で倉庫に行く羽目になった。

 流石に我慢できなくて去り際に一言「お前らも少しは自分らで仕事を覚える努力しろよ」って言ってやったけど、ありゃどう考えても聞いてないよなって感じはした。こっちのこと全然見てないどころか周りの連中とお喋りしてるんだもんな。

 全く、腹立たしい。

 もしも俺が上司で権限を持ってたらお前ら全員解雇してるところだからなって毒づきながら、イライラを腹の中に溜め込んで俺は仕事を続けた。


 でも、やっぱり俺もれっきとした人間だから。

 何事にも限度というものはあるし、どうにもならないことだって世の中には山のようにある。


 無茶をし続けて……遂に、俺は。

 作業中に発作を起こして呼吸困難で倒れて、そのまま医者のところへと担ぎ込まれる羽目になった。


 医者からの診断を受けた結果、俺は喘息という気管支系の病気に冒されていることが判明した。

 普通の風邪とは違っていつ治るか、そもそも完治するかどうかすら分からない病気だから、治療に長い時間を費やすことになるのは覚悟しておけと言われて発作を抑える薬を渡された。病気に効く薬というものは基本的に高価だから、俺のような裕福でも何でもない一平民が長期に渡って薬代を少ない収入の中から工面し続けるのは大変だ。少ない量の薬のために捻出する費用を確保するために、俺は食費の一部を切り詰めてそれを薬代に充てることになった。これからは夕飯のおかずを一品減らさなきゃいけないな。ああ、憂鬱だ。

 診療所から自宅へと向かう道は、工房へ行く道とほぼ同じだ。帰宅する途中で工房の前を通ることになるのだが、その正面玄関の前で、箒を片手に話をしている上司たちとばったり出くわした。

 彼らは俺の姿を見つけるなり、世間話(雰囲気的にそんな感じがした)を中断して俺に笑いかけてきた。

「やあ、ジル君。体調はどうなんだい」

「……御迷惑をおかけしました。すみません」

 俺は自分が喘息という病気に冒されてしまったことと、これからは定期的に診療所へと通い薬で病気の治療をすることになったことを伝えた。

 俺が重い病気になったことを知れば、上司たちも少しは俺にばかり集中している仕事の負担を減らしてくれることを期待したのだ。

 いくら普段役立たずの連中だって、それくらいを理解できる頭はあるだろう。それを信じたかった。

 上司たちは俺の話を聞き終えて、それは大変だったねと言った。

 そして、こう続けたのだった。

「まあ、すぐに命に係わるような病気じゃなくて良かったよ。これからも働けるんだよね? うちを辞めるわけじゃないよね?」

「……え……まあ、急に収入なくなるのはきついんで……すぐにやめはしないっスけど……」

「それならいいんだ。これから更に工房の規模を拡大するって上からのお達しでねぇ、今君に辞められたらすっごく困るんだよね。作業を上手く回せる人がいなくなっちゃうし、そうなったら我々が直接現場入りしなきゃならなくなるでしょ。我々にも仕事があるから、正直に言ってそこまで手は回らないんだよねぇ」

「……いや、その……俺は……」

「これからも頼りにしてるよ! 明日からまた宜しくね! ジル君」

「…………」

 上司たちは俺の主張になど全く聞く耳は持たず、一方的にこれまで通りの仕事をすることを言い渡して、工房の中へと戻って行った。

 一応俺のことを労わってくれたのか何なのか、持って帰って食べなさいと工房で作っているメロンパンを一個くれたが、その程度のことで俺の胸中に溜まったもやもやが晴れることはなかった。

 帰宅して、財布と薬の入った鞄を乱暴に寝床の上に投げつけて、その上にぼふっと倒れ込むように身を投げる俺。

「…………」

 泣きたいとも思っていないのに。そんな気なんて全然ないのに。

 勝手に涙が溢れてきて、毛布に小さなしみを作った。

「……何なんだよ……」

 誰に対して吐いたものなのかすら分からない呻きが、開いた唇から勝手に漏れ出て静寂の中に溶け込んでいく。

「……俺は、あんたらの都合のいい道具なのかよ……そりゃ俺は、雇用人だけどさ……下っ端だけどさ……俺だって人間なんだよ……嫌なものは嫌だし、辛いものは辛いんだよ、苦しいんだよ……どうして、少しは俺の主張を聞いてくれないんだよ……俺は……」

 ぐしゃりと毛布を握り潰して。

 全身を震わせて、嗚咽しながら、俺は、叫んだ。


「……俺は……勇者共の犠牲になるために生まれてきたわけじゃないんだよ……!」


 今まで耐えてきた分を全て吐き出し尽くそうとするかのように、俺は泣いた。

 誰にも聞かせることなく。見せることもなく。そんなことがあったことを、話すこともなく。

 ひたすら涙が枯れて出なくなるまで泣いて──泣き疲れたら、そのまま眠ってしまった。

 夢の中で、俺は考えていた。

 もしも、この世界に異世界から勇者を召喚する技術なんてなかったら。この世界に暮らしている人間だけで世の中を上手いこと回していけたなら。

 そうしたら……きっとあの工房は工房にはならず、今でも小さなごく普通のパン屋として小さな商売をしていて、俺もそこで働くパン職人の一人として今も暮らしていたに違いない。

 当然、その場合は今よりもずっと少ない収入で、今よりもずっと貧しい暮らしを送っていたんだろうけれど。

 病気になることもなく、こんな悩みを抱えることもなく、心は穏やかに暮らしていけていたんだろうな……と思っている。

 果たして、どちらが本当の意味での『俺にとっての幸せ』だったのだろうか。

 夜が明けて、夢から覚めても、その疑問は解消されないまま──

 俺は疲労困憊の体に鞭を打って、与えられた仕事をするために早朝から工房へと働きに出かけた。


 異世界からやって来た勇者たちよ。よく肝に銘じておくといい。

 この世界の人間全てが、お前たち勇者の存在を歓迎していると思うなよ。

 俺は、お前たちが嫌いだ。

 確かにお前たち異世界人は、俺たちやこの世界に対して色々な恩恵を齎してくれた。そこは事実だし、認めよう。

 お前たちがこの世界の住人になったことによって豊かになった国々はたくさんあるし、魔物に怯える機会も大分減った。

 でも。

 本来存在しているはずのないお前たちがこの世界に来たことによって……俺たちやこの世界に対して与えられた負担は、決して小さなものじゃない。

 お前たちは『勇者は世界を、人々をすべからく幸福にすべし』という信念を持って世界中を巡っているのだろうが。

 お前たちの存在が時に俺たちの生活を圧迫して苦しめている元凶にもなっていることを、知っておけ。

 もしも。いつか俺がこの工房の雇用人を辞めて自分の店を持った時。そこにお前たちが客として現れたら、その時は。

 笑顔でお前たちの前に立って、こう言ってやろう。


「俺はお前が勇者だからといって特別視する気はないからな。この世界の全ての人間が勇者の存在を歓迎しているわけじゃない。覚えておけ」


 とな。

 本当にそんな日が来るのかは分からない。だがいつか絶対に実現させてやる。

 そのために、さっさと次の仕事を探してこんな雇用人を使い潰す気満々の工房なんぞ一日も早く辞めてやる。そう心に誓いながら。

 俺は今日も、自発的に動かない同僚たちの尻を蹴飛ばしながら工房の片隅でパン作りに勤しむ日々を送っている。

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