いつも返す言葉は決まっているから
小紫-こむらさきー
「大丈夫、気にしないでいいよ」
間接照明が薄暗い部屋をわずかに照らしている。
木目調の磨かれた壁に囲まれたモダンな雰囲気を感じさせる室内には加湿器とクーラーの音と共に、控えめな音量でスピーカーからクラシックが流れていた。
部屋の大部分を占めるような大きさのキングサイズのベッドの上には昨夜の情事の痕跡が残っている。
ふかふかとした手触りのソファーにお互いに寄り添うように座りながら、俺の肩に頭を乗せている彼女の様子を伺う。
ふと、視線が合ったかと思うと彼女の睫毛が白い頰に影を落とので心臓がザワっとしてしまう。
こうなった時、君は決まって俺に言うんだ。不安そうな声で。
「勘違いかもしれないけど、最近つらそうな顔してる気がするの」
俺は君の言葉を遮るように、決まってこう返すんだ。
「大丈夫、気にしないでいいよ」
目をちゃんと合わせて、彼女の頬を両手で挟んで笑ってみせる。
彼女は、心配そうな顔のまま「そっか」とだけ言うと、画面を下にして置いていたスマホに手を伸ばした。
わかってるから。君には本当はふさわしい相手がいて、俺はきっと便利なゴミ箱だとか、暇つぶしの相手でしかないって。
君は誰にでも優しくて、一生懸命だから、あの日の過ちを気にして俺のことを無下に出来ないだけなんだって。
わかってるから、大丈夫。
そういう気持ちを込めて、なるべく笑いながら言葉を吐き出すんだ。
彼女が、スマホを再び置いたのを確認してから肩を抱き寄せる。
抱きよせた彼女の柔らかい髪から、仄かに漂う俺のものでも彼女のでもない香水の香り。
彼女に、別の
胸の痛みに顔を歪めていることを気付かれたくなくて、猫っ毛気味の明るくて艶やかな茶色い彼女の髪にキスを落とす。
二人だけの時間が終わる間際を惜しむように、俺は目を閉じて、再び彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
※※※
友人以上恋人未満というありきたりな関係性に落ち着いてしまった気もするけど、それ以上になるつもりはない。
求めたところで彼女との関係性が破綻するのならこのまま騙されていたほうがマシだ。そう思った。
だから、彼女が俺に隠してることに関して詮索するつもりもない。
そんなことを考えながら玄関で出勤のための準備をしていると、急に手を強く引かれて我に返る。
「ねー
俺を見送るために、わざわざ玄関にまで来てくれた天使の顔を腰を屈めて視線を合わせながらしっかりと見つめる。
「んー……大丈夫。仕事だけど夕方には終わるから……こっちに帰ってくるよ」
俺の首元に手を絡めて抱きつきながら愛くるしく笑う
「帰って来たらいっぱいぎゅーしてよね」
「はいはい愛華ちゃんの仰る通りにしますよ。じゃあ、ちゃんといい子にしてるんだぞ」
「もう!愛華ちゃんじゃないもん!お姫様だもん」
「かしこまりました。お姫様」
愛華の額にかかっている柔らかな髪を指で避けてキスをすると、彼女は満足したらしくパタパタと足音を立てて部屋の奥へと走っていく。
そんな愛華の背中を見送ってから、俺はゆっくりとドアノブに手をかけて外へと出た。
慣れない朝の日差しが眩しくて、目に刺さる光の痛さに耐えられずに胸ポケットに忍ばせていたサングラスですぐに目を覆った。
愛華から「真咲は夜に動くし肌も白いしバンパイアの王子様みたい」と言われたことを思い出して、思わず口元が緩ませながら駅への道のりを歩いていく。
愛華に話した予定は半分本当で半分嘘だ。今日は店のマスターに頼まれた仕事もあるけど、午後は杏奈との約束がある。
辺りを無遠慮に照らし出す爽やかな日差しをもう一度見て、俺は小さくため息をついた後、スーツに身を包んだサラリーマンと共に電車に揺られて朝の
ピコン
改札から出ると同時にポケットの中から振動と通知音が響いた。連絡してくる相手は多分この人だろうと鼻歌でも歌ってしまいそうな気持ちになりながら画面を確認する。
予想通り、杏奈からだ。
彼女の名前が表示されたバナーをタップしてすぐにメッセージアプリを開く。
なにかあったかな?とメッセージが表示されるまでの一瞬だけ心配になったけれど、内容は今日の予定の確認だった。胸をなでおろした俺は、一度壁際に向かってから立ち止まり、彼女に返信のメッセージを打つ。
『ごめん。返信忘れてた。昼すぎくらいに東口の喫煙所近くに待ち合わせで』
昨日メッセージを返信し忘れていたことを詫びてそれだけ返すと、すぐに既読マークが付いてペンギンが踊る可愛らしいスタンプが返ってくる。
後は仕事をさっさと済ますだけだ。スマホをポケットへしまい込んで、閑散としている街並みを抜けて雑居ビルへ入った。目指すは8Fにある黒い扉の店だ。
―
自分が3年間ほぼ毎日通っている職場で間違えるはずはないけれど、黒い背景に浮かぶ月を模した金色の輪の中央部に書いてある店名を確認して一呼吸置く。
そして、内ポケットに入れた黒いレザーのキーケースから鍵を取り出して、黒く塗られた扉をノックする。特に反応はないから中でまだ誰か飲んでいるとか、誰かがそういうお楽しみはしていないと思うけど、一応出来るだけゆっくり鍵を回して扉を開く。
「今日は一人っすか。珍しいですね」
「あー……真咲か。」
入り口に脱ぎ捨てられた白いYシャツを跨ぎながら店内に入ると、カウンターから一番離れた客席でもある真紅のスエードソファーが目に入る。
ソファーの横から覗いていた金髪のパーマがかった短髪が、眠そうな声を出してもぞもぞと動きだす。
そんなマスターのイ、ベントの翌日恒例の姿からカウンター内の惨状を予測できて苦笑いが浮かんでくる。
毛布から顔を出したマスターは、俺の姿を確認すると、安心したような表情を浮かべて目元に手を当てながら仰向けに寝転がり直した。
「今日はこのまま店泊です?」
俺は脱いだコートをマスターの横に放ってカウンターの中へと向かう。
シンクの中は予想通りグラスと空き瓶でぐちゃぐちゃだ。
「そ。真咲こそオフなのに悪いねー」
「この後予定あるし、別にいいっすよ」
黒いレザーのクッションを抱きしめながら少しだけ申し訳無さそうな声を出すマスターだったが、俺に予定があることを聞くや否やマスターは目を輝かせながら身を乗り出してくるのが見えた。
正直に今日の予定を答えてしまったことを少し後悔する。
「あー。杏奈ちゃん?なになに?デート?」
「……」
やっぱりこうなるか……と溜息をつく。が、それくらいじゃマスターは引き下がらない。
「ねーねー、やっちゃった?告白した?」
「もうガキじゃないんすから……」
この前酔っ払った拍子に話したりするんじゃなかった…という思いを込めて露骨に嫌そうな顔をしてみるけれど、マスターは気にすることもなくさっきのダルそうな様子が半減したかのようににこやかな笑顔を向けてくる。
「こういう仕事してると、お客さんのこと好きになった時にやたら疑われるのがつらいところだよなー変な勘違いしたりされたりするし」
「マスターは大体の誤解も勘違いも自業自得じゃないっすか」
「はは……真咲も言うようになったねー。そのとおりだから何も言い返せないけども!」
マスターは参ったなーとでも言う代わりに自分の額を手でパチンと音をさせながら叩くと、小さな犬歯を見せて笑った。
そのままマスターはソファーの上に仰向けになって倒れこむ。
すらっとした長い手足に、細い体躯を無防備に晒しながら子供のように笑うマスターの、こういう憎めないところや色気が、20代で冠木町に小さいとはいえ店を構えて、色々な人から慕われている理由なんだろうなと思う。
「もう一眠りするから、片付けだけよろしくね。あ、今日の手当そこに置いとくから忘れないで」
「了解っす」
俺からなんの話もこれ以上聞き出せないと思ったのか、単純に眠くなったのかはわからないが、マスターは大きなあくびをすると、頭から毛布を被って丸くなった。
ソファーの上で大型犬のように丸まっているマスターの背中に返事をして、俺は黙々と荒れ果てたシンクの片づけをこなしていく。
洗い物を終わらせ、グラスを磨いて発注が済んだころ、やっと時計に目を向けると、時計の針は12時を指していた。
「ちょうどいい時間だな」
寝息を立ててぐっすりと眠り込んでいるマスターを起こさないように店を出て待ち合わせ場所へ向かう。
去年の冬に一緒に見に行ったコートはずっと気に入ってくれているようで年が明けても愛用してくれるのは嬉しく思う。
待たせてはいけない。そう思って彼女に近付くけれど、違和感に気がついて足を止めた。
「今日の夜でしょ?結婚記念日は忘れてないってば!
ああ…。タイミングが悪いな…と彼女の肩に伸ばしかけた手を引っ込めた。
誰かと電話で話す彼女に気付かれないように注意しながら、少し離れた場所に隠れるように立つ。
電話が終わったのか、スマホを鞄にしまった彼女が腕時計を確認してキョロキョロしているのを見て、俺は再び杏奈の方へと足を運んだ。
「遅れてごめん、待った?」
「真咲!よかったー。時間、まちがえたのかと思った。……ってあれ?どうしたの?」
花を咲かせたような笑顔になって近付いてきた杏奈は、俺の顔を見上げながら首を傾げて眉尻を下げた。
「ん?なにが?」
「なんか、元気なさそうだし、疲れてる?」
「大丈夫、気にしないでいいよ。行こう」
うまく笑えていなくて心配させてしまったことをごまかすように、俺は杏奈の小さな手を取って歩き始める。
「……そっか。それならいいんだけど」
誰かとこんな曖昧な関係になったり、誰かを見て嫉妬心と不安で内心がぐちゃぐちゃに掻き乱されることになるなんて事態に自分が陥るなんて思ってなかった。
ただ、杏奈とは映画の趣味が合うよねって話になって、たまたまオフの日に二人で映画を見に行くことが増えて…気がついたら段々と好きになっていった。
でも、杏奈と過ごす時間が増えると、違和感が徐々に増えていって、なんとなく彼女に他の人がいるかもしれないってことに勘付いてしまう。
それでも、杏奈が俺に何も言わないのをいいことに何も知らないふりをしてた。
いい友人でいられればいいって自分に言い聞かせて、自分の気持をごまかして、それでも優しい彼女の態度に甘えて「彼女も気分転換くらいしたいだろうし、恋人がいても異性の友達と遊ぶくらいかまわないだろう。嫌なら断るはずだから」都合よくそう捉えて彼女の自由な時間に俺との予定を入れていった。ただ、映画を見たり食事をするだけ…それで満足してるつもりだった。
ただあの日、珍しく杏奈が酔っ払って、大雨で電車も止まってしまった夜のこと。
愛華とした約束が叶えられないと、断りの電話をしている俺を見ていた杏奈は、急に俺に抱きついてきた。
酔っている姿は店でもプライベートでも何度か見ていたけど、そんなことをされたのは初めてで、戸惑って少し潤んだ彼女の瞳を覗き込む。
「真咲、あのね……今夜だけでも私だけ見てて…おねがい」
そう言って泣き出した彼女を拒むだけの理性が保てなかった俺は、そのままの勢いで彼女と体を重ねた。
罪悪感と優越感、それに押さえつけていたせいで溢れ出して止まらない気持ちが混ぜこぜになった行為をして、泥のように眠り込んでいたところでけたたましくなる電話の音で目を開く。
枕元にある杏奈のスマホに表示された「山城 愁哉」という名前。
彼女と同じ名字の男の存在と、今までに感じていた幾つかの違和感…たまに香るメンズの香水、帰る前にチラッと見えた帰宅することを伝えるメッセージ…それらが一つの確信に変わった。
起きる気配のない杏奈の肩を揺らして起こし、スマホの画面を見せる。
ハッとしたように目を丸くして俺の顔を見た彼女は「ごめん、ありがと」とだけ言って俺の手からスマホを奪うように取った。そのままトイレへ駆け込む彼女の背中を見送って手持ち無沙汰になった俺は脱ぎ捨てた服を拾ってベッドに置き、自分の身支度を整えた。
彼女の服を綺麗に畳んで自分の横に置きながら、これで終わりかもな…そんなことが頭に浮かんでくる。
彼女が相手の本命に怪しまれて不都合を被ったりしないだろうか…心配と後悔と嫉妬が胸の中に渦巻いている。
自分には何も出来ない……そんな無力さに打ちひしがれた俺は、その場で仰向けになって天井を見上げながら彼女の通話が終わるのを待った。
それからの記憶は少し曖昧で、確か二人で一緒にホテルをチェックアウトしたあと「今日はごめんね。またね」といいながらそそくさと帰った杏奈の言葉を信じられずに、重い足を引きずるようにして家に帰った気がする。
勢いに流されてしまったことに後悔をしながら仕事をして、彼女も店に顔を出してもなんとなくぎこちなくて、それでもしばらくして何もなかったみたいに『ご飯に行こう』って杏奈からメッセージが来てうれしかったのを覚えてる。
うれしかったけど、あの時彼女のスマホに表示されていた名前が脳をちらついてその度に「俺は都合のいい存在なんだから調子に乗りすぎるな」と体を重ねたり、彼女の笑顔を見るたびに自戒を繰り返す。
「やっぱ…調子悪い?さっきからずっと険しい顔してる」
後ろを歩く杏奈に腕をひっぱられて我に返る。
なるべく居心地が良い相手でいよう。そう思ってたのにな……。立ち止まって軽く頭を左右に振ってから、彼女の顔を見つめる。
沈んだ声が出ないように小さく息を吸って、いつもどおり「大丈夫」そう言おうとした。
「わたしになにか嫌なところがあるなら言って。ちゃんと直すし、負担になりたくないの」
「え」
「一番になれないなんてわかってるし、ワガママもいわないから……都合がいい存在でいいって決めたから……だから真咲の負担になってるところがあるならそこを直したくて」
「は?」
予想をしていなかった言葉に思考も表情も固まる。
捨てられた子犬みたいに潤んだ瞳をしながら目を伏せる杏奈の両肩に手を置いて彼女と視線を合わせるように屈み込んだ。
「いや……都合がいい相手ってなに?一番じゃなくていいって?それは俺のセリフじゃない?」
「どういうこと?」
「気とか使わなくていいから。全部わかってるし、旦那が杏奈にいたとしても俺は別にいいって言ってんだよ。それに俺はお前のこと都合がいい女って思ってないよ」
きょとんとして首を傾げながら、配偶者の存在を隠し通そうとする杏奈に少し苛ついて、我慢していたはずの言葉がつい口をついて出る。
かっこ悪い。そう思ったけど一度溢れ出した気持ちと言葉は止まらない。
「……は?っていうか真咲こそ本命いるのにそういうこというのやめなよ。色営じゃなくてもわたしは店に行くってば」
「そんなんじゃねぇよ」
なんでそんなに頑ななんだよ。俺は気にしないって言ってるのに…。
ついキツい口調になって、彼女の瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。しまったと我に返って瞬間、俺のスマホが陽気なメロディを奏で出す。
最悪なタイミングだ。無視しようと杏奈に視線を戻すと、彼女は不満そうに唇を前に突き出しながら無言で俺のポケットに手を入れてきた。
少し乱暴に取り出したスマホの画面を杏奈に突きつけられて仕方なく、表示されている名前も碌に見ないまま応答ボタンをスライドさせて耳に当てる。
『真咲ー!あのね、愛華言い忘れたことあったから電話しちゃった』
「は?え?愛華ちゃん?なんで」
『ママねースマホ置きっぱなしでね、電話のマーク押すと真咲とお話できるから愛華電話できたんだよそれでねそれでね』
唐突に聞こえてきた愛華の声に動揺して視線を泳がせる。それと同時に俺に背を向けて走り出す杏奈が見えて慌てて腕をつかもうとしたけれど、俺の指先は彼女のふわふわしたコートの裾を掠って空振りをした。
「愛華!またかけ直す。お兄ちゃん大切な人とお話してたんだ。いい子で待てるかな?」
『えー?いいけどぉ。約束だよ?』
「うん、約束な」
電話を切って雑踏の中を駆け出した杏奈を追いかける。
すぐに追いついて、今度こそ彼女の細い手首をしっかりと握りしめて捕まえた。
「急にどうしたんだよ」
「電話……愛華さんって人だってわかったら、真咲が急に優しい声と顔になって……わたしといるときはいつもつらそうだったから…愛華さんって人に勝てないなって思って……そしたらなんかわけわからなくなっちゃって」
「勝ち負けとか意味わかんねーし……姪っ子と話してるときに走り出される俺の気持ちにもなって。怒ってもいいけど…ムカついたことも嫌なこともちゃんと話してくれよ……どうにか出来ることならちゃんとやめるから」
「姪?愛華……ちゃんって子供なの?」
「え?うん。この前5歳になったばかりだけど……それがどうかした?」
「よかったぁ」
張り詰めていた緊張が急に解けたのか、へらっと笑顔になりつつも、大粒の涙を両目からポロポロと流して泣き始めた杏里をとりあえず抱きしめる。
子供を落ち着かせるときのように彼女の背中をトントンと軽く叩きながら辺りを見回すと、目の前にちょうど席が空いているカフェが目に入った。
一緒に見ようとしていた映画の開始時間はとっくに過ぎてるし…とりあえずカフェにでも入って温かいものでも飲もうと、鼻をぐずぐずさせてハンカチで目元を抑えている杏奈の手を引いて歩き出す。
「愛華ちゃんって子が、真咲の本当の彼女だと思って嫉妬しちゃってたの。迷惑かけてごめんね」
「大丈夫、全然気にしなくていいよ」
「でもほらその顔、真咲が大丈夫っていうときのすごい悲しそうに笑うから…なにか事情があるのかなって……」
「それは……」
さっきは勢いで言えたことが喉の奥で詰まって言えなくなる。
君には本当はふさわしい相手がいて、俺はきっと便利なゴミ箱とか暇つぶしの相手だってわかってるから、俺の悲しそうな顔も嫉妬も君が心配しなくていいんだって…。
「あれ?なにしてんだよこんなところで」
「は?愁哉?なんでここにいるの?」
カフェの入り口近くで立ち止まっていると、知り合いに声をかけられたらしい杏奈が声がした辺りを見て大きく手を振る。
彼女が少し慌てた声で呼んだ愁哉という名前にギクリとして思わず彼女の視線の先を見ると、背が高い筋肉質の男が人をかき分けながらこちらにズンズンと近付いてきた。
目の前まで来た男に親しげに近付いた杏奈は、彼のはだけたダウンジャケットから覗く厚い胸板に手を添えて「どうしたの?」と首を傾げて男の顔を見上げた。
「母さんたちが、ホテルの場所わからないらしくて案内させられてた」
「は?お母さんたちいるの?あ。ホントだ……わー……」
レザーがあしらわれた黒いキャップをかぶり直しながら男が顎で軽く指した方向を背伸びをして見た杏奈は、眉間に皺を寄せる。
それを見て溜め息をついた男が、杏奈のポケットを指差して呆れた顔をした。
「父さん、姉貴に電話つながらねーって文句言ってたぞ。適当に誤魔化しておいたから、後でなんか奢れよな」
「姉貴……?え?彼、弟?」
思わず口にした声に杏奈が振り向くと、男は俺に気がついたのかキャップを無造作に取って頭をペコリと下げた。それに釣られて俺も男に向かってお辞儀を返す。
「あ、うん……」
「……結婚記念日は?」
「お父さんとお母さんの……」
「あー!なんだ。そういうことか」
今まで目に張り付いていた青っぽいフィルムが剥がれてパっと世界が明るくなった気がした。
彼女の弟が目の前にいるということも忘れて、俺の顔を不思議そうに見ている杏奈を思い切り抱きしめる。
「そんな顔で笑うの久しぶりに見た。どうしたの?」
「大丈夫、気にしないでいいよ」
彼女の肩に顔を埋めた俺は、彼女の笑いを含んだ嬉しそうな声に泣きそうになりながらそう返した。
―Fin―
いつも返す言葉は決まっているから 小紫-こむらさきー @violetsnake206
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