鮫枕

サメ映画ルーキー

鮫枕

 気がつくと私はゴウン、ゴウン…と、静かな空間に乾燥機の音だけが鳴り響くコインランドリーにいた。ぼうっとした頭をゆっくり横に振り、自分が何故こんな場所にいるのかを考え始めた。そうだった、私は洗濯をしにここに来て、乾燥を待っているうちに寝てしまったのだ。周りを見回すと、老婆や若い男が無言で乾燥しきった洗濯物を畳んでいる。

 私の住むマンションは、大規模改修工事が始まろうとしており、真夏だと言うのにベランダが使えないのだ。この先数ヶ月はコインランドリーを利用することになるだろう。家から歩いて数分の場所にあるこのコインランドリーは、小学校時代の同級生が経営しているフランチャイズ店舗だ。その同級生は、確か名前は大介だったはずだ。彼とは毎日のように遊んでいたが、中学校が離れてからは全く付き合いがなかった。そんな記憶を呼び起こしながら、私は辺りを眺めていた。

 乾燥機から電子音が聞こえた。どうやら終わったようだ。巨大な乾燥機から大量の洗濯物を取り出し、備え付けのテーブルの上にブチまけた。時間が遅いこともあって、もう私しか店にはいない。時々バチっと外から電気蚊取り機の音が響く。何もこんな真夏に工事をしなくたっていいのに。外に干せれば数時間で済む物を、わざわざ歩いて、しかも時間と金をかけるとは、なんて不経済なんだろう。私は頭の中で愚痴を呟き、カラカラに乾いた洗濯物を畳み始めた。

 コインランドリーは正面が全面ガラス張りになっていて、通りの向かいにある神社がよく見える。神社の敷地には巨大な神木があったが、あまりの大きさで管理が難しくなり、数年前に切り倒されてしまった。今では10人掛けのテーブルになりそうな切り株だけが残っている。

 タオル、シャツ、下着と順々に畳んで行き、靴下を丸めているところで片方しかないことに気がついた。どうやら取りこぼしがあったようだ。私は後ろを振り返り、乾燥機の中を探ろうとした。そこで、ある違和感に気づいた。ちょうど私が使っていたものの隣の乾燥機に、まだ洗濯物が残されていた。それもただの洗濯物ではない。巨大なぬいぐるみのようだ。コインランドリーはもう閉店間近で、店には私以外誰もいないし、誰かがやってきそうな気配もない。それに今日は平日のど真ん中、水曜日だ。いったい誰がぬいぐるみをわざわざこんな日に洗濯するんだ?しかも乾燥機まで使って。どうしても気になった私は、その乾燥機を開け、中の様子を見た。どうやらぬいぐるみは、サメのようだった。小学生ぐらいの大きさではあるが、可愛らしい見た目をしているので威圧感はない。どこかで見た事のある形だ。多分、北欧の家具を扱う量販店が最近売り出したぬいぐるみと同じものだろう。このまま中に入れっぱなしでは可哀想だ。私がサメのぬいぐるみに触れようとした瞬間、その巨体が動き出し、大きな口を開け私に飛び掛かって来た。そこで私の意識は無くなった。


 気がつくと、私はコインランドリーのベンチに座っていた。何が起きたかよく思い出せないが、頭の中には渦巻きのイメージだけがこびりついていた。まるで海にでも入ったかのように汗をびっしょりとかいている。帰ってシャワーでも浴びよう。そう思い、洗濯物をそそくさとまとめてカバンに入れ、タバコをふかしながら家路についた。

 コインランドリーから私の家までは、徒歩で数分もかからない。間に一本大きな道路を挟んでいるが、この時間であれば車の通りはほとんどない。歩いていると、向かいから軽トラックが走ってきた。特に見るでもなくトラックに顔を向けると、私は目を疑った。運転手がいないのだ。いや、正確に言うと、運転手はいるが、人ではない。どう見てもあれはサメだ。しかもぬいぐるみの。まさか。まだ寝ぼけているのだろうか。トラックは一瞬で通り過ぎたが、確かに運転手と目が合ったように思えた。よくは見えなかったが、彼(彼女?)は驚いているように感じた。

 私はさらにびっしょりと汗をかいた。ドラッグや大麻は日本に帰国してから何年もやっていない。そもそも海外でも幻覚が見えるほど吸ったことはない。とにかく帰ってシャワーを浴びよう。私は早歩きでマンションに向かった。


 昼前に目が覚めた。やはり昨日のことはあまり覚えていないが、何かとてつもなく不快なことが起こったことだけは覚えていた。私はラジオ代わりにテレビをつけ、窓から半身を乗り出しタバコに火をつけた。と同時に、口に咥えたタバコを落とした。サメのぬいぐるみだ。サメのぬいぐるみが道路を歩いている。器用に尾ビレを足のように使い、歩いている。その歩くサメを、ロードバイクに乗った別のぬいぐるみが追い越していった。通りを走り抜ける車も、サメのぬいぐるみが運転しているように見えた。私が目の前の現実を受け入れられないでいると、テレビから聞きなれない音がする。日本語であることに間違いはないが、何か妙な声色をしていた。私は部屋の中のテレビに目をやった。やはりそこにも目を疑う光景が広がっていた。サメのぬいぐるみがしゃべり、ニュースを解説しているようだ。スーツを着、ネクタイを締めたサメのぬいぐるみが、与党を舌鋒鋭く批判していた。度肝を抜かれた私は、チャンネルをザッピングした。しかし、どのチャンネルでもサメが喋り、サメが歌い、踊り、野球をし、サッカーをし、果てはソファに掛けてトーク番組に出演していた。私は…私はどうしてしまったんだ?確かにここ数ヶ月、まともに人とは話していない。鬱の傾向があるから病院にも通っている。明日の見えない研究生活にも嫌気がさしている。今年論文が出せなかったらもう死ぬしかないだろう。精神状態はギリギリだったが、私は狂ってなどいないはずだ。恐ろしくなった私は、テレビを消した。真っ暗な画面には私がぼんやりと写っていた。ハッと気づき、鏡の前に移動し、胸を撫で下ろした。私は人間のままだ。少なくとも外見は人間に見える。

 …いや、これはもしかしてとんでもなくマズいんじゃないか?いまこの世界で私だけが人間だとしたら私は…どうなる?


 私は身の回りにどんな変化が起きたのかを知る必要があった。自分の頭を疑うことも重要だが、そんなことを言っていられる余裕もない。私はスマホを開いた。メッセージアプリは正常に機能している。だが、友人や知り合いのアイコンが軒並みサメだらけだ。私は自分の子供時代の顔写真をアイコンにしていたが、それはそのままになっていた。すぐに私は写真を消去した。今日はまだ誰からもメッセージは来ていないから、気づかれているわけでもなさそうだ。実際、気づかれたらどうなるかは全く予想が付かない。もしかしたら案外何とも知れないし、やはりおかしいのは私の頭のほうなのかも知れない。

 頭の中をぐるぐるさせながら、気がつくと私は部屋の掃除をしていた。何か対処しきれない事態に直面すると、私は無意識のうちに掃除を始めるクセがあったのだ。掃除機をかける前に、床に無造作に積み上げられた映画のDVDを棚に仕舞おうと手にとったとき、また違和感が私を襲った。それはよく知られた映画のDVDだった。美女が海面を泳ぎ、その下から巨大なサメが口を開けた構図が酷く印象的ーーの、はずだった。だが決定的に私が知るものとは異なっていた。私の目に映ったのは、海面を泳ぐサメのぬいぐるみを眼下から付け狙う人間が描かれたパッケージだった。他の映画のパッケージを確認すると、どれも人間がサメのぬいぐるみに置き換わっている。ただ、ワニやヘビのような生き物はそのままのようだ。そうして、先程までの私の楽観的な予測は音を立てて崩れ去った。私はようやくこの世界がどういうものか、理解した。私はここでは海の頂点捕食者なのだーー。

 だが私は直ぐに気を奮い立たせ、まずは自分の映画の趣向を褒め称えた。巨大な生物が登場する映画だけに特化した私の趣味は友人の間では常に顰蹙を買っていたが、このDVDコレクションが無ければ未だに私はこの世界の法則に気付けていなかっただろう。そんなことに私は頭を巡らせながら、無心に掃除機をかけた。いつもの100倍は丁寧だ。リビングを掃除し終え、私はコーヒーを淹れようとキッチンに入った。雑然としたキッチンを見るや否や、私は猛烈にキッチンの掃除を始めた。本格的な大掃除となった。コーヒーを淹れ、一息つくころには、あたりはすっかり暗くなっていた。そしてもう一つ、私には確認しなければならないことがあった。

 私はそろりそろりと寝室のドアの前まで向かい、恐る恐るドアを少し開け、中の様子を伺った。ヤツ、というかフカちゃんはそこにいた。フカちゃんは巨大なサメの寝袋だ。私はそろそろ30歳を迎えようとしていたが、もう数年恋人がいなかった。ペットを飼おうとしたが友人達の猛反対にあい、妥協案としてサメの寝袋を購入したのだ。大きさはかなりのもので、大人ひとりがすっぽりと収まる。友人を家に招いた際に発見され本気の同情をひいてしまったが、何も後悔は無かった。ただ、友人達には私がフカちゃんを恋人のように扱っていると誤解されてしまったようで、精神科に通院を始めたと打ち明けたときも、病状が鬱で安心されたのは死ぬまで忘れないだろう。

 フカちゃんは私のベッドの上で、背を向けていた。背ビレの部分を指先で突いてみた。反応はない。どうやらフカちゃんはただのサメの寝袋のままでいてくれたようだ。フカちゃんの無事に安心していたところで、サイドテーブルに雑多に広がる本や論文が目に入ってしまい、またもや私は掃除を始めた。結局その日は一日中掃除をし、パスタを茹でて食べ、再びコーヒーを淹れ、睡眠に備え大量にタバコを吸った後で、フカちゃんに抱きつきながら眠りについた。

 翌日、一縷の望みをかけてテレビを付けたが、やはり状況は変わっていなかった。私は大きな決断に迫られていた。昨日掃除をした時に、家の中にある食料、コーヒー、そしてタバコの在庫を確認したのだ。食料はパスタがあと2kgある。私の主食はパスタなのだ。コーヒー豆は冷凍してストックされたものがある。問題はタバコだった。日に一箱は吸うヘビースモーカーだった私には、残されたタバコはあまりに少なかった。禁煙か死かを選ぶとしたら、私は間違いなく死を選ぶタイプの人間だったのだ。喫煙という緩やかな自殺は甘んじて受け入れよう。掃除をしながら例のパッケージがおかしな映画をBGM代わりに流していたのだが、予想通りこの世界では人間は海に棲む生き物として描かれていた。私がこの姿のまま外を出歩いたら、きっと大変なパニックになるだろう。

 このおかしな世界で生き抜く手段は一つしかなかった。私もサメになるのだ。物置部屋のドアを開け、裁縫箱を取り出した。そう、私はフカちゃんと一つになるしかない。断腸の想いでサメの寝袋の腹にハサミを入れ、中のワタを取り出し、ヒレの部分にそれぞれ手足が入るように細工をした。ちょうどサメの顎にあたる部分に小さな穴を開け、そこから前が見えるようにした。さっそくフカちゃんに入ってみた。鏡の前に立つと、あまりの完成度に我ながら驚いてしまった。確かに歩きづらいが、練習すればどうにかなるだろう。少なくとも玄関での応対ぐらいはできるはずだ。

 早速ネットでタバコを注文した。1日で届く速達便だ。ここでようやく世界が変わってしまってから初めての安心を感じた。それは、タバコの入手ルートが確立できたからだけではなかったように思う。サメの寝袋にすっぽり入り、着ぐるみとして過ごすことで感じる妙な居心地の良さーおそらく私の綿の取り方の上手さによるーによってもたらされたものでもあったのだ。その後しばらく歩行の練習をした。真夏に着ぐるみは応えたが、クーラーのある室内では問題ない。暑ければ温度を下げればいいし、何よりこの世界は私の世界ではなくヤツらの世界なのだから、環境への配慮など必要無かった。

 着ぐるみの細かな調整を終え、裁縫箱を物置に戻そうとしたところで、私は物置部屋のあまりの汚さに愕然とし、掃除を始めた。そんなことをしているうちにまた日が暮れた。私はパスタを茹で、コーヒーを淹れ、タバコを吸って眠りについた。その日はフカちゃんを着込んで眠った。

 翌日、玄関のチャイムの音で目が覚めた。前日の夜はクーラーを最低温度に設定したせいか、着ぐるみを着ていても肌寒かった。私は目を開け、辺りを見回し、この世界を再び受け入れる作業に入った。慣れるまではまだ時間がかかるだろう。玄関からはイライラしたようなチャイムが鳴り響き続けていた。私にとっての正念場がそこにあったのだ。今ここで、私がこの世界を生き抜けるか否かが決まる。前日練習したおかげで易々と玄関までたどり着き、私は息を飲みながらドアを開けた。

 そこにはよく知る宅配便のユニフォームを着込んだ人、というかサメの着ぐるみが立っていた。

「お届けものです。サインか判子をお願いします。」

 私は玄関口に用意していた判子を手に取った。このヒレの手ではまだ字は書けそうにないが、判子の練習は昨日散々繰り返したおかげですっかりマスターしたのだ。

「ありがとうございました。」

 難なく荷物を受け取り、封を開けた。そこには3カートンのタバコが詰まっていた。私はすぐさまコーヒーを淹れ、勝利の薫りを味わった。


 その日は世界がサメのぬいぐるみに変わってしまってからちょうど2ヶ月が過ぎようとした日だった。私はこの世界にすっかり慣れ親しんでいた。最初に食料が尽きた時はまたもや通販で済ませたが、元来料理が好きだった私は近所のスーパーへ足を運ぶようになっていた。血の滲むような努力の結果、私はサメのぬいぐるみ達に完全に同化することに成功したのだ。時折スーパーに人肉がサメの代わりとして並べられているのには辟易としたが、それ以外は至って普通だった。むしろ普通過ぎるぐらいだったのだ。ヤツらは人間を怖い怖いと言いながらも時には人肉を食べるし、人間が悪役の映画も大人気だった。私は電車に乗って都内にも出かけた。もちろん映画を観るためだ。この世界に慣れたとは言え、常に備えを欠かしてはならないから、人間が出演する映画は可能な限り鑑賞しに出かけた。ヤツらが人間をどう理解しているかを学ぶ格好の教材だからだ。

 コインランドリーも週に一度は訪れている。だが、あのサメのぬいぐるみが入っていた乾燥機はずっと故障中のままだ。恐らくこの乾燥機が鍵になっていることは承知していたが、次は何が起こるかわからない。しばらくは様子見だ。

 私は春から研究員の職に就いていたが、幸い出勤の義務は無かった。ただ研究をすれば良かったのだ。しかし、もはや私の研究は続行不可能だったことも事実だ。私は経済学を専攻していた。サメのぬいぐるみの経済行動は人間とほぼ同じだったが、歩んできた歴史が全く異なるのだ。そもそもこの世界ではサメのぬいぐるみと人間の戦争が長く続き、最終的に人類を海に追いやったのがおよそ2000年前。正確には2018年前で、西暦と一致している。奇妙な一致はあげたらキリがない。私の両親は(サメのぬいぐるみとして)健在だし、友人達も、直接会ってはいないが、メールでのやり取りから考えると私の知る人格と一致している。

 確かに、私はこちらの世界の暮らしに慣れるどころか満足し始めていた。不便なところはあるとは言え、ヤツら、つまりサメのぬいぐるみ達との生活も悪くはないのだ。何よりあの見た目は卑怯とさえ言える。ただただ可愛いのだ。さらにもはやフカちゃんと一体化している私自身も可愛いと考え始めている。

 私はまるで人間のようなぬいぐるみ達に囲まれた生活を送り、問題の決定的な解決を先送りにしつつも、元いた世界に戻る方法の調査は始めていた。コインランドリーを通じてこの世界に来たということは、鍵はあそこにあるのは間違いない筈だが、どう調べても手掛かりを掴む事は出来なかった。

 こちらの世界の情報収集の為に、SNS(flipperという短文投稿サービスだ)でアカウントを作成した。何の因果か、私はすぐさまアルファ・フリッパラー(フォロワー数が1万人以上)とカテゴライズされる程、ネットで有名人になってしまった。そのアカウントで私は「しゃべる人間」を演じて「人間映画」のレビューをしていた。どうやらそれがサメのぬいぐるみ達には新鮮らしかった。私の世界のそれと同じように、人間という怪物は映画では定番の悪役で、水棲生物のはずなのにどこにでも出現するのだ。私にとっては当たり前のことだが、サメのぬいぐるみ達にとってはそれが大いに面白おかしく捉えられているようだった。

 数日前からそのflipperで気になる情報を目にしていた。私の自宅の近くで失踪事件が相次いでいるというのだ。家族の証言によると、みな最後に訪れた場所はあのコインランドリーらしかった。もちろん私には何が起こっているか、わかっていた。

 その当時私が困っていたのは、フカちゃんについてだった。頻繁に外出するようになっていたせいで、少しボロくなってきていたのだ。通販サイトを巡り、似たようなサメの寝袋を探したが、無駄だった。何故かこの世界にはサメの寝袋は存在しないらしかった。私は仕方なく、フカちゃんを丁寧にブラッシングし、汚れを拭き取るなどして綿密にメンテナンスをしていた。

 その日はたまたまタバコを切らしていて、私はコンビニに向かっていた。深夜に目を覚ましてしまいもう眠ることが出来そうになかったので、散歩も兼ねていた。深夜のコンビニは店員以外誰もおらず、閑散としていた。コンビニの制服を着たサメのぬいぐるみが、品出しをしていた。レジの前に立つと、サメが小走りでやってきた。未だに彼らがどうやってあそこまで器用に歩行しているのかは謎だ。タバコの番号を伝え、私はクレジットカードを取り出した。この世界では紙幣はやはり微妙に異なっていて、サメの偉人の肖像が描かれていた。私がいくらATMから現金を引き下ろしても人間の紙幣しか出てこなかったので、もうしばらくカード払いしかしていない。店員にカードを渡そうと見上げると、甲高い叫び声が聞こえた。店員が私の下腹の辺りを指差して震えている。私もそこに目をやると、ピンク色の内臓らしきものがドス黒い血に塗れて飛び出していた。急に着ぐるみがずしっと重く感じられるようになり、私の鼻は腐臭で覆われた。危機を直感した私はすぐさまコンビニを出ようとしたが、私の身体から今や肉と化した着ぐるみがズルズルと滑り落ちていった。真っ赤に染まった人間が突如現れたことに店員は再び驚愕し、奥に逃げ去ってしまった。私は足に絡まった着ぐるみを振りほどき、全力で自宅まで走った。

 夜もかなりふけていたことが幸いし、私は誰にも見られずに逃げ帰ることが出来た。右手にはしっかりタバコが二箱握られていた。風呂に直行し、シャワーを浴びて血を念入りに洗い落とした。ただその時私は不快な気持ちを抱いてはいなかった。フカちゃんを喪った悲しみが全てを凌駕し、シャワーの雫と共に頬を涙が伝い落ちていった。ひとしきり体を流した後で、私は風呂場の大掃除を始めた。外から聞こえる救急車のサイレンが、私の手さばきを見事にしていった。

 掃除が終わった頃には、夜はすっかり明けていた。私はスマホを開き、テレビを付けた。予想した通りだった。テレビもネットもコンビニでサメのぬいぐるみが死亡し、陸を歩く人間が現れたという話題でもちきりだ。コメンテーターがまるで映画だと知った風な口をきいている。ネットは「新作人間映画だ」と茶化す俗悪なサメで溢れていた。この世界に長くいすぎたのだ。どうやら私がこの世界を何としてでも離れなければならない時期が来たようだった。

 私はコーヒーを淹れ、タバコをいつもより多めに吸った。記憶をめぐらし、自分があのコンビニでカードを使っていなかったことを確認した。私の居所はまだバレていないはずだ。だが、残された時間は少なかった。私はコインランドリーに、あの乾燥機に一か八か向かうしかないのだ。決行は深夜にしよう。そう決心した私は、今までで最高の手際で家中の大掃除を始めた。その後仮眠をとり、夜を迎えた。

 夜、目を覚ました私は全身に黒い服を纏い、スマホを開いた。騒ぎはまだ続いていた。不味いことに、あのコインランドリーとの関連に勘付いている連中もかなりいるらしかった。だが今更引き返すことは出来ない。最後のタバコを吸うと、私は夜の暗がりへ飛び出した。

 私はコインランドリーまで物陰に隠れながら移動した。コインランドリーの向かいにある神社に裏から入り、様子を伺った。悪い予感がまたもや的中した。野次馬らしきサメたちがすでに閉店したコインランドリーの前にたむろし、写真を撮っていた。彼らが退散しないかとしばらく待っていたとき、一匹のサメが無理やり入り口をこじ開け、数匹のサメを伴って侵入した。彼らはコインランドリーの中を物色すると、あの乾燥機に気がついたようだった。マズい、そう思った時には遅かった。数匹のサメ達はあの乾燥機を開け、そのまま中に消えてしまった。その後はパニックだった。店の前にたむろしていたサメ達は泣き叫び、逃げ惑い、どこかに電話をかけていた。今しかなかった。私は神社を飛び出し、コインランドリーに直進した。パニックはさらに過熱した。無理もない。彼らからしたら、怪物が突如目の前に現れたのだから。私はサメのぬいぐるみ達を横目にコインランドリーに突入し、あの乾燥機の前に立った。乾燥機の中には、よく出来た人間のぬいぐるみが入っていた。これまで何度もこの故障した乾燥機を見ていたが、こんなぬいぐるみは目にしたことがなかった。それに触れると、あのグルグルした感覚が私を襲い、意識を失った。

 目を覚ますと、私はコインランドリーのベンチに座っていた。辺りは妙に静かだった。店を飛び出すと、向かいの通りに人が立っていた。人間だ。私は帰ってきたのだ。帰還を果たし、感傷に浸りたかったが、その人間の足元から聞こえるキューキューともガオガオとも言える鳴き声らしき音が気になってしかたなかった。私はその人間のもとへ走り寄り、視線の先に目をやると、サメのぬいぐるみが血塗れで倒れていた。その身体は、前面がへこんだ軽トラックのライトで煌々と照らされていた。更に後ろから叫び声が聞こえた。振り返ると、サメのぬいぐるみが走り去って行った。私は躊躇なくサメの後を追った。私は人間よりも、彼らのことの方が心配だった。こちらの世界ではサメ達は歩き慣れていなかったらしく、すぐに追いついた。私はぬいぐるみを抱き上げ、他のサメ達を探した。

 散り散りになってはいたが、私は一匹見つけるたびにコインランドリーに戻り、ぬいぐるみを乾燥機に押し込め、元の世界へ返してやった。一通りサメ達を詰め込んだ後で、私は乾燥機を自宅から持ち出したダクトテープで完全に塞いだ。私の長い長い夜が終わった。


 私は完璧に元の生活に戻った。サメのぬいぐるみ事件は手の込んだイタズラとしてこちらのネットでは理解されているようだった。だが、私は常に備える人間だ。自宅にありとあらゆる種類の魚や哺乳類の巨大なぬいぐるみを用意し、またあの異世界の扉がいつ開いても対処できるようにしている。フカちゃんを喪った悲しみは癒えなかったが、2代目を迎えたことでかなり改善したように思う。今やぬいぐるみ達は寝室だけでなく書斎にも浸出してきている。そんなぬいぐるみ達に囲まれながら、私は相変わらずパスタを茹で、コーヒーを淹れ、タバコを吸い、論文執筆に勤しんでいた。



 気がつくと私はゴウン、ゴウン…と、静かな空間に乾燥機の音だけが鳴り響くコインランドリーにいた。ぼうっとした頭をゆっくり横に振り、自分が何故こんな場所にいるのかを考え始めた。そうだった、私は洗濯をしにここに来て、乾燥を待っているうちに寝てしまったのだ。周りを見回すと、老婆や若い男が無言で乾燥しきった洗濯物を畳んでいる。外には雪が降っていた。

 乾燥機から電子音が聞こえた。どうやら終わったようだ。巨大な乾燥機から大量の洗濯物を取り出し、備え付けのテーブルの上にブチまけた。時間が遅いこともあって、もう私しか店にはいない。タオル、シャツ、下着と順々に畳んで行き、靴下を丸めているところで片方しかないことに気がついた。どうやら取りこぼしがあったようだ。私は後ろを振り返り、乾燥機の中を探ろうとした。そこで、ある違和感に気づいた。私が入れたはずのない洗濯物が入っている。それもただの洗濯物ではない。

 しまった。カニのぬいぐるみはーー。

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