第3話 失恋保険(後編)
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
健太郎は「はいはい」と小さく呟きながら玄関に向かう。
小春と水族館に出かけた次の週の日曜日のことである。
健太郎はいつものように小春が自分を迎えに来たのだろうと思いながらドアを開ける。しかしそこにいたのは白髪が少し混じったスーツ姿の壮年の男であった。
見覚えのない相手である。
「……どちら様で?」
「私、区役所の失恋保険の担当課長をしております
「はあ」
「この度はご迷惑をおかけしたことをお詫びに参りました」
よく見ると、後ろに役所のカウンターで応対した鈴木もいるではないか。前とはうってかわって、青ざめた硬い表情だ。
「何のことです?」
丹波と名乗った区役所の男性職員は鈴木とともに健太郎の自宅に上がり込んで説明を始めた。
そもそも失恋保険は失恋で精神的なストレスを感じた人間を癒すためのものだが、同時に男女のマッチングも目的としていた。つまり「成人以上」の一般人に向けて保障担当を募集する。彼らは失恋保険の申請者のプロフィールを確認し、付き合ってもいいと考えた場合には派遣されて試しに三か月の間交際する。そして二人が意気投合するようであれば正式交際もできるというものだったのだ。
しかしあの小春という少女はネット上の失恋保険の派遣募集に応募する際に年齢を「二十歳以上」と偽って登録した。本来であれば住民基本台帳と照合されてはじかれるはずが、偶然にも同姓同名の成人女性が存在したため手違いで登録されてしまった。
更に「派遣募集の担当者」と「制度に不慣れだった窓口担当者」つまり鈴木との間で情報が共有されていなかった。そのため明らかに女子小学生の小春が来たにもかかわらず「募集の担当が通しているのだから良いのだろう」と考え、健太郎に引き合わせるときにも理由をこじつけて話を進めてしまったのだという。
なるほど確かに少し、いや大分話が違うじゃないかと健太郎は鈴木を睨んだ。一方鈴木はしょげた顔でうつむいている。上司が一緒に謝罪に出向いてくるくらいである。相当しぼられたのだろう。敢えてこれ以上は自分からは責めるまい、と健太郎は思った。
「あの小春という女の子に関しましては、私の方から保護者の方にもう変な悪戯はしないようにさせる旨を厳しく伝えておきましたので」
「え。あの、それじゃあ小春ちゃんは」
「はい。もうこれ以上あなたに付きまとうことはありません。急に小学生の女の子と付き合うことになって戸惑われたでしょう。埋め合わせと言ってはなんですが、代わりに今後三か月間で付き合っていただける成人女性を改めてご紹介いたしますので……」
もう、彼女は自分の前に現れないのか。別れの挨拶すらしていないのに。
あまりに唐突な別離に健太郎は呆然として、そこから先の話は上の空になってしまったのだった。
それから二週間ほどが過ぎた。
健太郎は一応、失恋保険の適用を改めて受けなおすことにしたものの心の片隅ではどうにも小春のことが気にかかっていた。
しかしトラブルを避けるためなのか、小春がパートナーとして紹介されたとき健太郎には一切彼女の連絡先は知らされなかったのだ。
仕事の外出勤務で自宅周辺を歩いていた健太郎は「もうあの子と会うことはないのだろうか」とぼんやり考えこんでいた。
しかしそんな健太郎の目にふと、車道を挟んだ向こう側に見知った少女が歩いているのが飛び込んできたのである。
「……小春ちゃん!」
この辺りは近くの小学校の通学路でもある。
考えてみれば、小学生の小春が公共交通機関を使って健太郎の家に行き来できるほどの経済力を持っているとは思えない。彼女は歩いてこられる範囲の学区内の小学校に通っていたのだ。
思わず近づこうとしたが、ふと健太郎は彼女の様子がおかしいことに気が付く。あの眩しい笑顔を見せていた小春が人形のように暗い顔でうつむいていた。
そして彼女の周りには同級生らしい子供たちが何人かいたのだが、彼らは小春をはやし立て嘲笑しているではないか。
「うっそつき、うっそつき、嘘つき! 小春!」
「おまえ、いつも親来ないじゃん。親子リレーなんか参加してどうすんですかあ?」
彼らは小春を笑うばかりか、とうとう体を小突くような真似を始める。
健太郎は流石に黙っていられなくなった。
「おい! やめないか! 小春から離れろ!」
急に知らない大人が近づいて怒鳴ってきたので、動揺したのであろう。小春をからかっていた子供たちは「わっ!」と小さく悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出した。
一方、陰鬱な表情をしていた小春も健太郎の顔を見るなり「ひっ」と怯えたような顔になって走って行ってしまった。
「あ、待ってくれ」
怒鳴ったからびっくりしたのか。それとも見られたくないところを目撃された気分だったのだろうか。もう少し他の対応があったかもしれない。
内心反省しながら、健太郎は彼女を追いかける。
しかしどこかに隠れてしまったのだろうか。角を曲がったところで小春の姿は影も形もなくなっていた。
健太郎は諦めて踵を返す。
と、その時。通りの角で一人の女性が健太郎を凝視しているのに気が付いた。十五、六といった年齢だろうか。制服からして女子高生のようだ。
小学生にちょっかいを出す不審者と思われたかもしれない。健太郎は急ぎ足でその場を立ち去ろうとした。しかしその少女は健太郎を「待って」と呼び止める。
「あなた。小春の名前を呼びましたよね。……知り合い? どういう関係ですか?」
「えっ? ええと。あなたは」
「私は
小春の姉? 確かに彼女の容姿には小春と同じ雰囲気がある。
「学校帰りに馬鹿ガキどもにいじめられているのを見かけたから。どうしてやろうかと思っていたところに、あなたが出てきて。一応お礼は言いますけれど。……事情を説明してもらえませんか?」
健太郎は近くにあった公園のベンチに腰かけていた。夏希も同じベンチの少し離れたところに足を組んで座る。あれから健太郎は夏希にこれまでの事情を手短に語った。
「なるほどねえ。そっか。……小春が失恋保険で相手をしていた人というのはあなただったんですか」
「ええ。まあ。……あの、気になっていたんですが、小春ちゃんは何で年齢を偽って失恋保険の保障担当にエントリーなんてしたんですか?」
夏希は遠い目をして「私にも、よくは」と首を横に振って呟いた。
「ただ。もしかしたら一年前の事故が関係しているのかも」
「事故?」
夏希の話によると、昨年の春に家族で外に遊びに行った帰りに道路を歩いていると、ハンドルを切り損ねた車が突っ込んでくる事故が起こったのだという。そしてその時、小春の父はとっさに前にいた小春をかばおうと飛び出し、車にはねられて亡くなった。
決して小春が悪いわけではないのだが、小春本人は自分に責任を感じたのかそれ以来明るい表情をみせなくなってしまったのだ。
「でも、ね。数か月前からあの子、急にまた笑顔を見せるようになったんです。何があったのか知らないけど休みの日に出かけるようになって、私てっきりボーイフレンドでもできたのかと思ったけど」
ここで夏希は健太郎を見て苦笑いを浮かべる。
「……父さんは生きていた時に、よく小春の学校行事に参加してくれたんです。今は母さんは仕事が忙しいし、あたしも家計に負担かけたくなくてバイトしているから誰も行けなくて。他の子が家族と過ごしているようなときもあの子だけ一人になっちゃって。きっと小春は淋しかったんだと思うんです」
夏希は携帯電話を操作して一枚の写真を見せた。そこには健太郎と少し雰囲気が似ている小太りで眼鏡の男性が体操着姿の小春を抱きかかえているのが映っていた。
その写真を見て、健太郎は小春が「運動会に来てほしい」と自分に頼んだことを思い出す。
「だから、きっと父がいない淋しさを紛らわせたくてあんなことをしたのかもしれません。うちの母さんにも『人様に迷惑をかけるんじゃありません』って叱られていましたし、もう怒らないであげてくれませんか」
健太郎はあの無邪気な少女が抱えていた苦しみを知って、ただ無言で頷くことしかできなかった。
それから数日後の良く晴れた土曜日。
健太郎は近隣のとある小学校を訪ねた。
その日は校内で運動会が開催されていて、すでにいくつかの種目が始まっているらしく音楽やわいわいがやがやとした喧騒が校外まで聞こえてくる。
校庭の片隅で健太郎は学校の教師に声をかけた。
「すみません。保護者の応援はどちらですか」
ジャージ姿の中年女性が笑顔で応対する。
「ああ。それでしたら、あちらの観覧席になります。……あ。失礼ですが、どなたの親御さんでいらっしゃいますか?」
クラス名などは夏希から聞き出していた。
「四年一組の佐々木小春です」
「え。親戚の方ですか」
「……ええ、まあ」
そんなようなものです、と健太郎はこっそりと付け加える。
「そうでしたか。小春ちゃん、いつも保護者の方は見えられないもので。喜ぶと思います」
「ところで親子リレーはこれからですか?」
「はい。……参加されるんですね? 小春ちゃん。最初は参加するつもりでいたけれど、急にできなくなったとかで落ち込んでいたから。良かったわ」
そう言って女性教師はにっこり笑う。
健太郎が保護者観覧席でしばらく待っていると、やがて運動会の運営本部からスピーカーで放送が流される。
『次は親子リレーです。四年生の選手が走って途中で待っているお父さんやお母さんにおんぶしてもらってゴールまで競争します。みなさん、頑張るお父さんお母さんたちを応援してあげてくださいね』
リレーが始まる前に、子供たちのもとにそれぞれの親が声をかけに行くようだ。だが、他の子どもたちが親に声をかけてもらう中で小春は一人ぽつんと座り込んでいた。健太郎は彼女にそっと近づいた。
「小春ちゃん」
「オトウさん。どうして来てくれたの?」
「だって約束したじゃないか」
「……私のこと怒っていないの? 私、嘘をついてオトウさんにいろいろ連れて行ってもらったり、ご飯食べさせてもらったり」
小春にとっては周りの大人に怒られたこともあって、自分が悪いことをしていたという認識だったのだろう。だから、健太郎と再会した時も気まずくて逃げ出したのかもしれない。
「怒るもんか。だって、小春ちゃんはパートナー代わりになって僕を元気づけてくれるために来たんだろ。その役目はちゃんと果たしたんだ。だから今日はそのお礼をするために来た」
校庭のトラックの白線が引かれたところに立っている教師が大声で呼びかける。
「親子リレーに参加する保護者の方はこちらへお集りくださーい!」
健太郎は小春の手を取って立ち上がる。
「行こうか」
「うん」
その後、順番に六人ずつ走者の子供たちがスタートラインに立って、それぞれの保護者も途中地点で待機した。そして何人もの親子が健太郎の目の前で合流しゴールに向かって走っていった。
やがて健太郎の番がくる。
スターターピストルの音がパンと鳴り、選手の子供たちが必死になって駆けてくる。その中で小さいながら一生懸命にそれでも嬉しそうに走ってくる少女。
小春は中間地点で待っていた健太郎の背中に飛びついた。健太郎も小春の頑張りを無駄にするまいと全力で駆けだす。
小春が健太郎の背中でそっと囁いた。
「コトウさん」
「え?」
「コトウさんって、素敵な人だね」
それは、見かけと気弱な性格でいつも周りから軽んじられ、馬鹿にされることが多かった健太郎にとって、「一度でも良いから聞きたい」と願い続けていた言葉であり同時に人生で初めて聞く言葉だった。
だが、健太郎はその言葉を心の中で否定する。
違うよ、小春ちゃん。本当に素敵な人というのは命を懸けて家族を守った君のお父さんのような人のことだ。
でも、頑張っていつかきっと君がくれた言葉に見合うような人間になるから。
健太郎はそう心の中で呟いて、背中に少女の体温を感じながらゴールに向かって走っていった。
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