第3話 失恋保険(前編)

 小藤健太郎ことうけんたろうはその日、職場のデスクで「はあ」とため息をついた。


 あまりに聞こえよがしなその様子に見かねた同僚の田中は気遣うように声をかける。


「小藤さん。何かあったんですか?」

「……また振られたんだ」

「そうですか。それはお辛いですねえ」


 健太郎は女性に対して誠実な男だった。理不尽なわがままにも常に紳士的に対応し、デートをするときにも懸命に下調べをして家までの送り迎えもきちんと行い、記念日には贈り物をすることも忘れない。


 だが、不思議なもので誠実に尽くせば尽くすほど相手からは逃げられるのであった。


「みんな決まって別れるときは僕にこういうんだ。『いい人なんだからきっとすぐに相手が見つかりますよ』ってさ。気を遣っているつもりなんだろうけど、女性が男性を評価する時の『いい人』ってのは『どうでもいい人』なんじゃないかという気がしてな」

「まあ、女の人ってのはそういうところドライだったりしますからね。不思議なもので真面目に一人の女性に一途な男よりも、色んな相手と付き合っていて女を軽く扱っている男の方が魅力的に見えるんでしょうね」

「それもあるかもしれんが、やはり見た目なんだよ。……自分でもわかっちゃいるんだ。女性から見て僕のルックスがさえないってことくらいは」


 健太郎は背が小さく、しかも小太りで眼鏡をかけている。顔も二十代にしては老けていて、信楽焼のタヌキのような風情である。


「一度で良い。たった一人でもいいからさ。女の人に『あなたって素敵な人だわ』なんて言われてみたいなあ」

「まあ、気持ちはわかりますが」

「ああ。誕生日に向けてプレゼントまで用意していたっていうのになあ。無駄になっちまった」

「はあ、そうですか。……あ、でもそれでしたら失恋保険が適用できるんじゃないですか?」

「失恋保険?」


 田中の説明によると、こうだった。


 失恋保険は政府が最近になって始めた生活保障制度なのだという。人によっては失恋は激しいストレスと苦しみを抱え、仕事などのモチベーションが著しく下がり、日常生活が困難な状況になる。そこで失恋した人間に対し一定の期間の保障を行うという制度で区役所に行けば申し込みができるそうだ。


「へえ、そんな制度ができたのか」


 国も意外とやるものだ、そういう事なら自分も利用してみよう。健太郎はそう考えた。




 

 数日後、有給休暇を取得して健太郎は近くの役所を訪れた。案内所で窓口を紹介してもらい、さっそく目的のフロアへ向かう。


「すみません。失恋保険の申請をしたいのですが」


 健太郎が声をかけると若い職員が「はい」とカウンターの向こうから現れた。


 鈴木と名札を付けたその職員は健太郎の応対を始める。


「それで、小藤さんはいつ、誰と付き合っていらしたんです? 失恋した時期についても教えていただけますか」

「はあ」


 話すことに抵抗がないと言えば嘘になるが、正直に言わなければ保険適用を受けられないのだろう。健太郎は三か月前から付き合っていた相手からつい先週別れを切り出されたことを説明した。


「なるほど。そういう事でしたら自己都合ではなく、相手の都合ということでしょうし、小藤さんに落ち度があったということでもないでしょうから、最大四か月は給付の対象になります。……ただ念のため、その方が実在しているかどうか。またその方と交際した事実があったのかどうかを、こちらで確認させていただいて問題なければ適用されます」

「そうですか。因みにいくらくらいの保障がされるんですか?」


 以前付き合っていた相手のために買ったプレゼント代くらいはもらえると良いのだが、と心中で呟きながら健太郎は尋ねる。


「何のことです?」

「え?」

「あのう。失恋保険はお金が支払われる制度ではありませんよ?」

「ええ? それじゃあ、保障というのは何が保障されるんです?」

「心のケアです」

「心のケア?」

「はい。申請された方に失われたパートナーの代わりになってくれる相手を派遣して、恋人代わりになってもらえるという訳ですね。」

「え。でも四ヶ月だけなんですよね」

「まあ。そうなりますが。その間に居なくなった相手のことを忘れて前向きな気持ちになれるように、一緒にデートをしたり話し相手になる人間を派遣するということです」


 要はいずれ居なくなる相手と数か月付き合えるだけではないか。思っていたのとは少し違うし、これならばわざわざ仕事を休んでくるのではなかった。


 健太郎は内心落胆する。


「いかがしますか?」

「いえ。……それじゃあお願いします」


 折角来たのだから、と気休めのつもりで適用は受けることにした健太郎であった。






 そして数日後、役所の担当である鈴木から連絡があり、健太郎は代わりのパートナーに引き合わせてもらえることとなった。


 健太郎は再度、区役所を訪ねると前と同じカウンターで鈴木に声をかけた。


「すみません。この間、失恋保険の手続きをした者ですが」

「ああ。小藤さん。どうも」

「はい。それで、私のパートナー代わりになってくれる方というのは」

「その件でしたね。もう来ていますよ。……小春こはるちゃん!」

「はーい」


 ちゃん付けで呼ばれて現れたのは一人の女性である。


 黒いつややかな髪を後ろで結い上げていて、目は大きめだ。キュロットスカートの下から健康的な膝を覗かせ、上には薄手のカッターシャツを羽織っている。容姿は整っている方だろう。


 だが一つ、健太郎には気になる点があった。


「鈴木さん?」

「何ですか?」

「なぜ、彼女はランドセルを背負っているんでしょうか」

「それは勿論」


 鈴木は笑顔で答える。


「彼女、小学生ですから」

「うん、そうだよね。僕も見た目からそうじゃないかと思っていたんだ。……って、ふざけないでくださいよ」


 そう。健太郎のパートナー代わりとして呼ばれた小春はどう見ても十歳かそこらの女子小学生だったのだ。


「もう少しこう、若くて綺麗な女性ではなかったんですか?」

「えっ! 若いし綺麗じゃないですか」

「そうだけど、そうじゃなくて!」


 いくら何でも若すぎるだろ、と健太郎は心中で突っ込む。


「僕はてっきり、同年代か二十歳以上の女性が来るものと思っていたんですよ?」

「落ち着いてください。……よく考えてみてくださいよ。小藤さんが前付き合っていた女性の年齢はいくつでした?」

「……二十四ですが」

「そうでしょう? 失業保険だって、勤務していた時の全額の給料が支給されるわけではありません。賃金日額の四十五パーセントが相場です。つまり二十四歳の女性と付き合っていたのでしたら、保障としてはこれくらいの年齢の子がくるのも仕方ないかと」


 そうだろうか?


 健太郎は思わず首をかしげて考える。


「いや、しかし。僕なんかが女子小学生と一緒に歩き回っていたら、誘拐か何かと間違われませんかね。警察から職質されませんか?」

「そこは彼女に失恋保険の保障として一緒にいることを説明してもらえれば大丈夫ですよ。……それに小藤さんは『老け顔』だから親子だと思われますよ、はっはっは」

「……こんな大きい子供がいる年齢じゃないですけどねえ」


 こいつ、殴りたい。


 真剣にそんな思いがよぎる健太郎であった。


「あの、おじさん。こんな私じゃダメですか」


 子供なりにもめている雰囲気を感じ取ったのだろう。小春はつぶらな瞳に憂いをにじませながら上目遣いに健太郎をみつめる。


「うっ」


 流石にいたいけな小学生の女の子に悲しい顔をさせるのは気が引けるものがあった。そこに付け込むように田中が口を挟む。


「ほらほら。可哀そうじゃあないですか。小藤さんのために来てくれたんだから」

「……わかりました。それじゃあ、行こうか。小春ちゃん」

「うん!」


 小春は嬉しそうに笑って健太郎の隣を歩き出した。





 とりあえず健太郎は小春と近くの喫茶店に入ることにした。


 コーヒーと小春のためにフルーツパフェを注文する。


「しかし、何をすればいいんだろう」

「え? 何って、私はおじさんを元気づけるためにいるんだから、おじさんのしたいことをすればいいんだよ?」

「あーっと。そのおじさんって止めてくれるかな。まだ二十代なんだ」

「……何て呼んだらいいの?」

「僕は小藤健太郎。小藤さん、とでも呼んでくれ」

「オトーさん?」

 どうやら舌足らずで上手く言えないらしい。

「違う。こ・と・う」

「ホトーさん?」

「いや。小藤」

「オトウさん」

「……もう、それでいい」


 健太郎は訂正を諦めた。


「うん。それでオトウさん。私と何がしたいの?」

「……そうだなぁ」


 休日を過ごす相手がいなくなり、さりとて大した趣味があるでもない自分。心の中に隙間風が吹いているような気持ちになっていたのは確かであった。


「オトウさん。カノジョがいなくなっちゃったんだよね」

「まあ。そうだけど」

「それじゃあ。私がその人の代わりにデートの相手になってあげるっていうのはどう?」

「デート、ね。まあせっかく一緒にいるんだからどこか出かけようか」


 どちらかというとデートではなく子守をさせられている風情に思えた。しかし、それでも一人でいるよりはましかもしれない。それに小学生とは言え女は女。女性との付き合い方を学ぶ機会もあるのではないか。


 そう考えた健太郎は、鼻の頭にパフェのクリームをつけてニコニコしている小春を見て「いや。それはないな」と思い浮かんだ発想を取り消した。





「わあ、オトウさん。見て! ペンギンが歩いてる!」

「そうだな。ああやって見るとタキシードでも着ているみたいだ」


 健太郎が小春と過ごすようになって何か月かが過ぎた。


 小春のリクエストに応えて、都内の動物園や遊園地、自然公園などに週末に一緒に出掛け、同じものを見て同じものを食べる。

 

 健太郎はそんな日々を続けていた。


 そして今日は水族館を観光していたのである。


 健太郎はなんだかんだ言ってこの日常に慣れつつあった。最初は周りの目が気になったものの小春が自分のことを「オトウさん、オトウさん」と呼ぶので、イントネーションはズレているものの「お父さん」と呼びながら一緒に歩く娘と親のように見られているようだ。


 とはいえ女性と長く続いたことのない健太郎にとってナチュラルに子供がいるように思われているのは色々複雑な心境でもあった。


 二人は何トンもの水が入った巨大な水槽を泳ぐ回遊魚や、小さな水槽のなかで上品に佇む熱帯魚を見てまわり、その後イルカのショーやアザラシを間近で鑑賞する。


 そのたびに、小春は「きゃあきゃあ」と楽しそうにはしゃぐのであった。


 その日の夕暮れ、水族館を出たところで公園を散歩していると小春が急に健太郎の顔を真面目な表情で見上げる。


「……どうかしたか」

「オトウさん。もしかしてあまり楽しくない?」

「え?」


 連れまわされて疲れているのを子供なりに察したのだろうか。


 楽しくないか、と言われればそう感じたこともあったのかもしれない。そもそも最初、健太郎は付き合っていた女性に費やしたお金を補償してもらえるものと思っていたし、その次は若い女性のカウンセラーでも現れて傷心を癒してくれるのではないかと期待していたのだ。


 しかし実際に現れたのは見かけが可愛らしいとはいえ十歳の女の子である。もう十年あとに出会うのなら話も違うかもしれないが、これで胸をときめかせて喜べるほど自分の性癖は倒錯していない、と健太郎は心のどこかで思っていた。


 けれども。


「……いや。そうでもない。自宅に閉じこもって一人でいるよりは小春ちゃんと居た方が楽しいさ」


 そう。小春と過ごしていると健太郎は胸にじんわりと暖かいものを感じることがあったのだ。それが何なのか、健太郎は気が付いていた。


 健太郎は今まで、女性とデートをするときに懸命に下見をして、会話のシミュレーションを重ね、何とか相手を楽しませようとしてきた。


 しかし実際には付き合ってきた女性たちが見せたのはそっけない無表情か、ぎこちない愛想笑いがせいぜいだった。心から笑ったところなど見たことがない。あるとすれば自分と別れた時に見せた「こんな冴えない男と別れられてよかった」という微かな安堵の笑みくらいだ。


 けれども小春はどこに連れて行っても心の底から楽しそうに喜んでくれるのだ。


 男はそばにいる女性を楽しませることができたと感じた時に自分のことを誇らしく思えるのかもしれない。一緒にいる相手を笑顔にできた時に自信を持てるのかもしれない。


 女の子を笑顔にできたのなら一人前の男だ、なんて言葉をどこかで聞いた気がするが一理あるのだろう、と健太郎は思った。


 勿論、小春が喜んでくれるのは彼女が感受性豊かな小学生だからだ。大人の女性が市立の動物園や水族館で心から喜んでくれることなどあるまい。小春だって、二十歳を過ぎる頃にはきっと世間ずれして高級ブランドショップやきらびやかなクラブに行くことを好むのだろう。


 そう考えたところで、健太郎は一抹の寂しさと小学生を楽しませることで自尊心を保とうとする自分に自己嫌悪を感じて、軽く首を振った。


 一方で小春は健太郎の言葉を強がりと解釈したらしい。


「そうだよねえ。やっぱり大人の男の人だもんねえ。一緒にいるだけじゃ満足できないよねえ」と妙に背伸びをするようなことを言いだした。


「じゃあ、キスしてあげようか?」

「……その台詞は本当に好きな人ができた時のために取っておきなさい」


 健太郎は顔をしかめた。時々とんでもないことを言いだす娘だ。大の男である自分が小学生女子とそんなことをしたなんてことが世間に知られた日にはそれこそ犯罪者扱いだろう。小春の父親に知られようものなら、何を言われるかわからない。


 とその時、健太郎は疑問を感じた。


「そういえば小春ちゃん。……小春ちゃんのお父さんは失恋保険の保障担当をしていることを知っているのか?」


 冷静に考えれば、毎週のように出かけて大人の男と遊んでいるなど、まともな親なら気が気ではないはずだ。それとも役所の仕事を手伝うことで子供に社会勉強をさせる、という趣旨なのだろうか。


 しかし、小春は困ったような顔をして目を背ける。


「知っているけど、気にしないと思う」


 その態度にさとい方ではない健太郎でも何かしらの嘘を感じ取った。


 そこではっと思い当たる。


 彼女の父親はとても厳格なのではないだろうか。昨今は子供に中学受験をさせる親も多いと聞く。普段は勉強に集中させていて、碌に遊びにも行かせてもらえないのかもしれない。


 いくら小学生とは言え最近の子供が、動物園や水族館などであんなにも喜ぶのは不自然だ。彼女は普段から抑圧されていてそれを開放するために親に秘密でこんなことをしているのではないか。


「まあ。……子供だって悩みや苦労はあるものなあ。でも流石に動物園とかばかりじゃ飽きてきただろ」

「そんなことないけど」

「でも、他に行きたいところとか、付き合ってほしいところとかないのかい?」


 小春はそこで黙り込んでから「それじゃあ」とおずおずと口を開く。


「あのね。来月、ね。……私の学校で運動会があるの。そこに一緒に来てほしいんだけど」

「え? でも家族でもないのに、参加できるの?」

「うん。親戚だって言えば大丈夫だと思う」


 今までも一緒に公共の場に出掛けてきたのだし、それくらいは大丈夫だろうか。もし小春の家族に知られたら、彼女の口から弁解してもらう必要はありそうだが。


 健太郎は彼女の願いを承諾することにした。

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