第2話 老人法

 黒田武雄くろだたけおはとにかく子供のころから粗暴な少年だった。


 元々、体格が大きく同世代の周りの子供で彼に敵うものはいない。学校の同じクラスの生徒たちと遊んでいても、気に入らないことがあれば「へえ、俺に文句があるのか」と腕っぷしにものを言わせて腕をひねりあげ、有無を言わさず殴り、自分の主張ばかり通そうとする。


 そんな有様なので、当然学校の教師に呼び出されて説教をされることもしばしばだった。


 だが、それ以降も「ばれない様にやればいいんだ」とばかりに人目につかないところで暴力をふるうのであった。




 

 それはある日の学校の帰り道のこと。


 武雄は非常に機嫌が悪かった。学校の小テストでいい点が取れず、居残りで再テストを受けることになったのである。


 しかもその日は前から欲しいと思っていたゲームソフトの発売日である。再テストが終わるやいなや彼は急ぎ足で学校近くのデパートのゲーム売り場に駆け付けたが、目当ての品はすでに売り切れていたのだ。


 彼は舌打ちをしながらデパートを出る。


 よりにもよって、今日この日に帰りが遅くなるとは思っていなかった。そうとわかっていれば予約をしたものを。


 苛立ちながら大通りに出ると、武雄はふと見知った顔が歩いているのに気が付いた。


 同じクラスの氷川正彦ひかわまさひこが向こう側の通りを歩いていたのだ。そして手には見覚えのあるゲームショップの袋を持っている。


「よお。正彦」

「……武雄くん」


 正彦はビクッとして振り返る。正彦は日頃から武雄に暴力を振るわれ、気に入らないことがあれば憂さ晴らしと言わんばかりに殴られていた。金を借りるという名目で、小遣いを巻き上げられたこともある。


「その手に持っているやつ。今日発売のゲームソフトか?」

「え? そうだけど」

「ああ、よかった。俺、手に入らなくてさあ。それ、貸してくれよ」

「ええっ! いやだよ。大体、君にものを貸して返ってきたことなんてないじゃないか」

「へえ。そういう態度を取るのか。……あまり、手間かけさせないでほしいんだがなあ」


 武雄の目つきが嗜虐的な、ねばつくようなものに変わる。


 それを見た正彦は身の危険を感じてそのまま全速力で駆けだした。


「あ。待ちやがれ。この野郎!」


 武雄は正彦をすぐさま追いかける。正彦も捕まるまいと走り続けた。


 正彦にとって不運だったのは帰りに駅とは反対方面にある本屋にも立ち寄ろうとしていたことである。そのため、武雄から逃げ出すために彼が走り出した方向は結果的に帰り道から遠ざかる方向であり、人気が少ない地域だったのだ。


 これでは人ごみに紛れることも助けを求めることもできない。焦る正彦は商店街と住宅街の境目にある立体駐車場に逃げ込むことにした。


「どこに行きやがった?」


 武雄も立体駐車場の中に入り、正彦を探し回っていたがその姿は見当たらない。正彦は何台もある駐車されていた乗用車のうち一台の陰に身をひそめていたのだ。何分かが過ぎ、やがて諦めたように武雄の気配が遠ざかっていくのが正彦にはわかった。


 安堵のため息をついた正彦は立ち上がって、駐車場の裏口からそっと帰ろうとする。


 だがその時、背後からにゅっと手が伸びてきて、正彦はコンクリートの床の上に引き倒された。


 武雄がにやにやと笑って正彦を見下ろしていた。


「つまらないことしやがって。これはお仕置きが必要だよなあ」


 人通りの少ない夜の駐車場。助けを呼んだとて誰も来ないように思われた。


 だが、武雄が正彦の腹に鋭く蹴りを入れようとしたその時。


「何やっているの?」とか細い声が街角に響く。


 そこに立っていたのはほっそりとした愛らしい雰囲気の少女だった。


理紗りさ!」と正彦が驚いて声をあげる。

「お兄ちゃん! 大丈夫?」


 どうやら、理紗という少女は正彦の妹らしい。大通りを正彦が走っているのを見て心配してここまできたようだ。武雄は内心面倒なことになったと少し焦る。


 ここで騒がれたらことが大きくなるかもしれない。それなら、こいつにも物事の道理をわきまえさせてやらないといけないだろう。


「なに、俺は正彦の友達でなあ。ちょっと頼みごとがあっただけなんだ」

「友達? 嘘でしょう」


 理紗は武雄の言葉を瞬時に偽りだと看破する。


「あなたが日頃からお兄ちゃんをイジメている人ね。今日も何か取りあげようとしていたんだわ」

「おい。そりゃあ誤解だ」

「無理やり人を横倒しにして蹴ろうとしていたじゃない。何が誤解なの。警察に連絡するから」


 言い終わる前に、理紗は携帯電話を取り出した。


「あ、おい! ふざけんな!」


 武雄は理紗から携帯電話をひったくって、投げ捨てる。そしてそのまま細い腕をつかんで、ビルの壁に叩きつけた。


「あっ……」


 痛みと恐怖で、怯えたように少女は武雄を見上げる。間近で見ると理紗の顔立ちは整っていた。そして彼女が着用していた夏用セーラー服は薄地で、かすかに下着の色が透けて見えていたのだ。


 それは武雄の中のドロドロとした欲望を触発するのに十分だった。


「正彦の妹にしちゃあ、可愛い顔じゃねえか。じゃあ、お兄ちゃんに迷惑かけられた責任、妹のお前に取ってもらうかなあ?」

「理紗!」


 正彦は悲鳴をあげるが、コンクリートの上に叩きつけられた痛みでその体はまだ思うようには動かない。


 一方、武雄は頭の中で計算する。


 服を脱がせてヌード写真でも撮影して脅迫すれば、この少女も逆らえなくなるだろう。そうすれば警察に連絡することもできない。自分の肉欲も満たせるではないか。


 武雄は理紗の胸元に手を伸ばそうとした。


 しかし「放して!」と渾身の力で少女は抵抗し、その爪で目いっぱい武雄の顔をひっかいた。鋭い痛みが武雄の目と頬に走る。


「こいつ! なめたことしやがって」


 逆上した武雄は理紗の小さな体をアスファルトの上に叩きつけた。だが不幸にもその先にはコンクリートのブロックが置かれていたのだ。


「あっ」と少女の声は途切れてそれきり何も言わなくなる。


 理紗の後頭部は不自然に陥没して、赤い血がアスファルトを染めていた。


「ああっ。畜生、こいつ……」


「理紗?」と正彦は何が起きたのか把握できずにいぶかし気に武雄を見る。


「くそ。死にやがった」


 武雄は気づかなかったが、少女は携帯電話を投げ捨てる前に一度だけ一一〇番にコールすることに成功していた。それは直後に通話が途切れてはいたが、何らかの異常を察知した警察は位置情報から現場を把握していたのである。


 そして武雄が呆然としているうちに、パトカーのサイレンの音が急速に近づいてきた。




 当然のことながら、武雄はその後警察に逮捕されることとなり、取り調べを受け裁判にかけられることとなった。しかしこの時の武雄は一五歳であり、未成年として扱われるため彼は家庭裁判所にて裁かれることとなる。


 家庭裁判所で武雄は涙ながらに訴えた。


 自分は人を殺すつもりなんてなかった。


 友達とふざけていただけなのに警察に連絡する、と言いだしてびっくりして止めようとしたら顔を引っ掻かれたのだ。


 驚いて、突き飛ばしたら死んでしまった。


 今では自分の軽率な行為を深く反省している。


 全ては自分の身を守るための演技であった。


 また親が大金をはたいて依頼した弁護士も、報酬に見合った働きをしてみせる。


「彼はまだとっさに適正な判断をするには未熟な少年です。決して故意の殺人ではなく、事故だと言えます。更生の余地も十分あるものと考えます」


 一方で現場を目撃していた正彦は証人として裁判所の証言台に立ち、命を奪われた妹に報いるべく必死に訴えた。


 自分は日頃から武雄から暴力を受けていた。


 ふざけあっていたのではなく身の危険を感じていたし、妹はそんな自分を助けようとしたために、自分の立場を守ろうとした武雄から身勝手な暴力を振るわれて死に至ったのだ。


 だが、弁護士が「それは君の主観的な意見なんじゃないかな」「黒田くんもいじめるつもりなんてなかった。借りた物やお金も返すつもりだったと言っているよ」「そもそも彼の日頃の行いと今回の事件は直接関係ないよね」と正彦の証言をことごとく否定してしまう。


 そして裁判所の下した判決は今回の事件は刑事処分には当たらないこととし、武雄は更生のために少年院に数年間入るというものだった。少年法においては未成年者には成人同様の『刑事処分』を下すのではなく、原則として『保護更生』のための処置を下すことを規定しているからである。


「そんな……。そんな馬鹿な! 人を殺して何故! どうして数年間で出てくることが許されるんだよ! 妹はもう二度と帰ってこないのに」


 正彦は判決を聞いてその場で泣き崩れた。


 武雄は内心で舌を出してほくそ笑む。


 正彦の隣を通り過ぎるときに武雄は勝ち誇ったように呟いた。


「少年法が俺を守ってくれたわけだ。悪いな。これが今の法律ってやつなんだよ」


 その声を聞いた正彦は血走った目で武雄を睨みつけた。







 その数年後、少年院を出た武雄は親のコネで地元の運送会社に就職する。流石に自分でも少々やんちゃが過ぎたと感じていた武雄は今までの素行が嘘のように周りに柔らかく当たるようになった。


 上司には敬語を使い、後輩にはきちんと指導し、同僚が失敗した時にはフォローも忘れない。そんな彼を周囲も評価するようになり、やがて上司の紹介で結婚し、三十で子供に恵まれた。いわゆる順風満帆の人生を歩み続けたのである。


 だが、転機は武雄が六十を過ぎた時に訪れた。


 武雄の子供が交通事故を起こしてしまったのだ。


 しかもよそ見をしていて赤信号を無視したために歩行者に突っ込むという悪質なもので、被害者は幸い死亡することはなかったものの、治療費と慰謝料で大金を支払うことになってしまった。


「ふう。参ったものだ。まさか、こういった形で老後のたくわえがなくなるとはなあ」


 すっかり白くなった頭髪を撫でながら武雄は自宅で頭を悩ませていた。


 年金だけで生活するには、今の生活レベルを落とさなくてはならない。妻は生活に負担がかかるからと実家に帰っている状況だ。


 武雄は新築マンションから古くて安いアパートに引っ越して生活することを思うと、若干憂鬱になる。


 何とかならないものか、と考えているときだった。武雄の目に新聞の「老人法が成立。来年度にも施行」「高齢化社会の刑事罰に新しい見方」という見出しが書かれているのが飛び込んでくる。


「老人法だって?」


 なるほど、と武雄は納得する。


 刑法で何十年も服役させるにしても、老人では寿命で死んでしまう。八十歳の人間に懲役十五年を科したところであまり意味がない。つまり老い先短い社会的弱者の高齢者に対する保護の観点から作られた法律なのだろう、と武雄は考えた。


 つまり、老人であれば多少の罪を犯しても刑罰が軽くなるのだ。


 ふと、昔の自分が『若気の至り』でしたことを思い出す。あの時も刑事罰はつかなかった。


「今度は老人法が俺を守ってくれるわけだ」


 武雄はしわだらけの顔をニヤリとほころばせた。





 とはいえ武雄は強盗や空き巣のような真似をしようとは思わなかった。年老いた体にそんな負担のかかる犯罪は向いていない。要は暮らしていければいいのだ。


 そう、家賃や光熱水量だけを年金から払い食費や生活雑貨などは万引きしてしまえばいいと武雄は考えていた。万が一捕まっても反省して謝ってみせればすぐ釈放されるだろう。


 武雄は早速近くのスーパーに入ると品物を物色した。


 とりあえず今夜の夕食を何にしようか、とあちこちに目を向ける。


 武雄の目を引いたのは高級すしパックだった。彼はさりげなく、すしパックをスーパーの買い物かごに入れる。そして警備員の隙をついて用意していたカバンにしまい込んだ。


 しかしそのまま出口に来たところで「ちょっと! そこのじいさん」と鋭い声が横からかけられる。制服を射た警備員が近づいてきた。


 どうやら監視カメラで武雄の行動は見られていたらしい。


「カバンの中を見せろ」と壮年の警備員が言う。


 観念した武雄は素直に従った。


「お前が盗んだんだな」

「ええ。その通りです」


 たかが万引きに物々しい言い草だ、と心の中で毒づく。


「こいつ、開き直りやがって。今すぐ警察を呼んでやる」


 勝手にすればいい。どうせすぐ釈放されるはずだ、と武雄は高をくくっていた。


 しかし、事態は思わぬ方向へと進んでいった。


 ただの万引きだというのに警察からは厳しく取り調べを受け、いつまでたっても釈放されるような雰囲気にはならない。それどころか送検され最後には検察から起訴されることになった。


 これはどういう事なのか、と疑問に思いながらも武雄はまだ楽観的に考えていた。老人法が適用されるから手続きが少し大げさになっているだけだろう。最終的には釈放されるはずだ。


 しかし、裁判所で受けた判決を聞いて武雄は耳を疑うことになる。


 裁判官は「今回の事件においては長く人生の経験を積んできた、社会の先達として見本になるべき立場にも関わらず、社会の秩序を乱す許しがたい行為を犯したものである。犯行後の被告人の行動や態度、被告人の犯罪性向の根深さや反規範的人格態度などを総合考慮すると、犯情は極めて悪質であり、被告人の刑事責任は誠に重大である」と長々と理由を説明し始める。


 ずいぶん長い前置きだ、と苛立つ武雄にようやく結果が言い渡される。


「……よって被告人に対し、極刑をもって臨むことはやむを得ない」


「極刑? それはつまり? どういうことです」と武雄は驚いて裁判官を見る。


「死刑に処するということです」

「そんな馬鹿な! 俺はただ、すしのパックを一つ盗んだだけだ。死刑になるようなことはしていない! 老人法はどうなっている?」


 ここでその場にいた人間たちが憐れむように武雄を見た。


 検察官の一人が武雄に説明する。


「あなた勘違いしていませんか? 老人法は罪を犯した老人の刑罰を軽くするものではありません。その逆なんですよ」

「逆だって?」

「はい。『少年法』は精神的に未熟で、改心の可能性がある未熟な年齢の子供には、罪を科さずに更生の機会を与えようというものでした。『老人法』はそれに対し、人生を長く歩んできてそれなりの分別を持つ年齢であるにもかかわらず罪を犯した人間には、通常よりも重い刑罰を科すべきだという考えに則っているんです」

「……そうだったのか」


 新聞記事の内容を最後まで読むべきだったと、武雄は後悔した。


 とその時、武雄は目の前の裁判官の顔に見覚えがあることに気が付いた。


「お、お前、もしかして正彦か?」

「……ああ」


 何十年も過ぎてその風貌は変わっていたが、中学生の頃の面影は残っていた。


 正彦はあれからどういう心境からか、猛勉強して裁判官になっていたのだ。


「助けてくれ。裁判をやり直してくれ! 俺はただ食べ物を盗んだだけで、死刑になるようなことなんてしていないんだよ!」


 だが、目の前の男の悲痛な叫びに冷たく乾いた表情で正彦はこう答える。


「悪いな。これが今の法律ってやつなんだ」

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