手を繋ぐということについて。
優秀であれと、声無く求められてきたように思う。
兄姉は揃って優等生で、けれどそれなりに自らの道というものを極め、認められてきた。
金も地位もある家庭だ、すなわち安心と余裕があり、子供が育つには好条件。
「お前は恵まれている」と言われ、その言葉に世の中の道理を自然学んだ。
ここは教室、目の前には、言っちゃなんだが僕より少しばかり要領の悪いクラスメイト。
「がり勉眼鏡」と影で称される彼女は、そのままの容姿に性質を合わせ持つ、黒ぶち眼鏡に凡庸な顔立ちの、少し気の強い女の子だった。
二人きりの教室には、秋のひんやりした空気と窓の外のカエデの紅葉がうかがえ、僕が手を置く机の表面は少し冷たく、平熱が並より少し低い僕の熱を奪う。
年頃の男女二人、無人の教室に向かい合っているのだが、甘いものは一切含まれてはいなかった。
むしろ殺伐とすらしていて、僕は情けなくも目尻を下げることしか出来ない。
向かい合う彼女は目一杯の涙を蓄え、僕を気丈に睨みつけていた。
さて、なぜこうなったかと言うと、僕が放課後に無人の教室で、机の足の下に挟まっていた一枚のプリントを拾ったことから始まる。
それはテスト返却前に配られる、全部のテストの点を記入し、平均点を明確にさせる四角の並んだあのプリントだった。
それによると、彼女はがり勉と称されるにはそれなりの成績なのだが、どうも数学が致命的に苦手らしい。
それは平均点を著しく下げ、それを補うのに他の教科を満点近い点数でカバーしているのだという。
それを忘れ物を取りに来ただけの僕が拾ったのは本当の本当に偶然で、(何せ僕の机の下にあったのだから)まさかその瞬間に髪を振り乱した必死の形相の彼女が私服で飛び込んでくるなんて、そのあと悔しそうに涙を流すなんて、まったく思いもしなかったのだ。
「どうせ見下してるんでしょ!」
彼女は言う。
「君は勉強でもなんだって出来るんだもんね!家も金持ちで、カッコイイ兄さん姉さんもいて、両親仲良くて、『いいお家』の『良い子』だもんね!」
彼女はぽろぽろ涙を零し、ぐしゃぐしゃに砂埃にまみれたプリントを握りしめている。
一度家に帰り、プリントに気付いて取りに来たのだろう。見たことのないパーカーとミニスカートの私服姿に、「意外にお洒落なんだなぁ」などと現実逃避をしていた。
「わ……、わたしだって、努力してんだ!あんたんちみたいに裕福じゃないから、公立校に行かなきゃいけないし、家のことだってやんなきゃいけないのに勉強して、がんばって、」
末っ子の自分は、正直兄姉よりも不出来だと思う。
今自分に与えられた日々をこなすだけで、自己が無いのだと教師に言われた。
「見下してるんでしょう!?馬鹿にしてるんでしょ!?」
僕は冷めている。
僕の本質は、冷めている。
クラスで誰それが喧嘩したとか、好き合ってるとか、そんなのはどうだっていいし、やることなんて学校に来るくらしか無くて、勉強にしか能がない、冷たい奴だと自分で思う。
『良い子』なんて、そんなわけないじゃないか。
非行に走らないだけで、『良い子』の生き物になっているだけで、学生のうちは勉強が仕事だって大人が言うから。だから、仕事をしているだけなんだ。
僕はみんなと別の生き物なんじゃないかとたまに思う。
別に、数学なんてコンピューターだって出来るんだ。人間じゃなくたって出来る。僕じゃなくたって、君じゃなくたって、機械にだってできるんだ。
今、僕が優等生だとして、何があろうか?
中途半端だ。勉強が出来たって、何ができる。何に生かす。ほらな何にも出来ないだろ、と言う自分がいた。
見下しているのかもしれない。馬鹿にしていたのかもしれない。
「自分が偉いと思ってるんでしょう!」
泣いている彼女にそう言われ、僕は必死に両手に爪を突き立てている自分に気付いた。
教室は少し寒い。窓の外は暗くなってきた。カエデが木枯らしにびゅうびゅう揺れている。目の前で、クラスメイトが泣いている。嫌いだと言われている。
気付けば机にうつ伏せになって震えていた。いつのまにか彼女は何も言わなくなっていた。
「…………」
彼女が口を閉じれば、今度は次に口を開くときどんな酷いことを言われるのかと恐ろしくなる。
彼女が言うことは全部正しい。言葉が頭の中をめぐり、叩き、何事か叫んでいる。
机に水たまりがいくつも出来ていた。なさけない。
「……君は正しい」
涙声で僕はそういった。
「……正しいんだよ」
怒られるかもしれない。けれどそう思った。
僕は恵まれている。最高の環境が与えられているのだから不平不満は言うべきではないし、与えられた仕事はこなすべきだ。悪いことをするのは身分不相応で、誰かに迷惑がかかる。
『良い子』の生き物になるのが僕の仕事だ。仕事を完璧にこなしていることに僕は驕っていた。それでいいだろうと思っていた。
僕は冷めている。諦めている。どうしようもなく無気力な人間だ。
必死に両手にそれぞれ爪を立てたけれど、短い爪は皮膚を破ることはなかった。血の一つでも流れればいいものを、両手は冷えていくばかりで、苦しいばかりで、何にもならない。
もう一度言う。
僕は恵まれている。最高の環境が与えられているのだから不平不満は言うべきではないし、与えられた仕事はこなすべきだ。悪いことをするのは身分不相応で、誰かに迷惑がかかる。
『良い子』でいるのが僕の仕事で、兄姉より劣る僕は、兄姉の様にさらに自分の好きなことを見つけることが出来ない。生きがいというものがない。
兄姉より馬鹿なのだから、より『良い子』でいなくてはならない。
僕は恵まれているのだ。
世の中ご飯も食べられない人だっているのだから、僕はがんばらなきゃいけない。
その時、ふっと肌に何かが触れた。握りしめて冷たくしびれた両手に、生温かいものが触れる。
そっと前を覗き見ると、なんとも切ない顔をしたクラスメイトの彼女がまた涙をこらえて、僕の手を上から握りしめていた。
僕はがんばらなきゃいけない。なんていったって、恵まれているのだから。
彼女の手は少し汗ばんでいて暖かく、僕の手はどこまでも冷え切っていた。
しばらく僕らは握った掌越しに額を突き合わせ、静かに泣いたのだった。
主従関係考察/手を繋ぐということについて。 陸一 じゅん @rikuiti-june
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