第9話『さまよえるイェータランド人』

 

そこで、仰せられた。「あなたはいったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地から叫んでいる。

今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、弟の血を受けた。

それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

カインは主に申し上げた。「私の咎は大きすぎて、にないきれません。

ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしをくださった。

それで、カインは主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。


――創世記 第4章 第10節から第16節より


わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。


——マルコの福音書 第15章 第34節より


 イェータランド、そこはスカンディナヴィア半島の南。その名はゴート人の土地を意味している。荒々しい海に囲まれ、数多くの勇猛な戦士を生んだ国。今では10の領土に分けられ、そこには10の紋章が描かれし旗がはためく。

 

 死んだような静けさのオーク、難攻不落のボフス要塞、谷間の牡牛、ゴスの牡羊、暗き島の鷲獅子グリフォン、小さな土地のいしゆみを携えた赤獅子、新たなる神を呼び込んだ黄と黒の獅子、太陽と風の島の牡鹿、竜の翼を持った鷲獅子、デネ族からやって来た白獅子。


 それらはスヴェアランドとノーランドと統一され、ベルナドッテ王朝による一つの国家となり、さらに革命により立憲民主制へ変わっていた


 しかし、これはそれよりもはるか昔、まだ王は1人ではなく、剣によって血が流され、槍が命を奪っていた時代の物語。それも嘘かまことかわからない、人喰い鬼オーグル小鬼ゴブリン巨人トロールにその母の海の女怪、海獣、姿なき恐怖の神、そしてが人々を脅かしていた時代の物語。


 それらは1人の英雄の手によって滅ぼされ、すべては終わり、平穏な世が訪れると信じられていた。ただ1人を除いては。


 そうしてやって来る。紙を焼き、新たなる神とその契約が。この時代にも、この物語にも。


 風が唸り声を上げて吹き込む海辺の洞窟。その潮風は、べったりと肌にまとわりつき、まるで生者を憎み、嫉妬し、その腕をつかむ死霊どもの指先のような不穏さと不快感があった。そして、入り口から光もわずかにしか差し込まないそこは、まるで冥府の入り口、永遠の闇を思わせた。


 海藻が腐ったような、喉を涸らし、鼻につく潮風の香りと雨上がりに似た泥のぬめった臭いのほかに、もう一つ嫌な匂いがした。それは肉が朽ちたような嫌に甘く、粘り気があり、一度でも鼻に染み付けば、それは記憶に強烈に焼き付く臭いであった。


 潮風と泥と血と腐臭の香りが生み出す邪悪な気配の嵐の中に身を晒しながら、その奥、くねった隧道トンネルを歩くと、そこには奇妙なものがあった。内側に向かって湾曲し、くすんだ大理石のような灰色の柱が十数本、対になって並んでいる。死に神の宮殿を思わせるそれは紛れもなく、骨――それも肋骨――であった。その骨に沿って、目を上にやると、そこには連なった葡萄酒ワインの樽のような脊椎が連なった背骨が横に伸びている。その生物の巨大さ、そして雄大さは、誰の心にも畏怖の念を与えた。


 肉や内臓は腐り落ちて消え失せているものの、それを覆っていた強靭な皮膚は今もわずかに残っていた。そこには深碧の巨大な甲殻の鎧と、象牙色の滑らかな鱗の帷子が纏われている。伸びた背骨の先の尾の、さらにその先の終点には「明けの明星モーニングスター」を思わせる様な刺があり、その反対には長い頸椎が伸び、そして堅牢な頭骨があった。


 やじりの形を思わせるそれには、人間がうずくまれるほどの眼窩があり、すでにその眼は溶けて姿を消していた。本来、炯々としていたはずの瞳があるべきところに広がる虚無の闇は、恐怖心をかきたたせ、死して尚、その生物が自然の頂点にいることを暗示していた。


 そして、肋骨の横には琥珀色の爪を残した頑強な足と、長く発達した手骨、その間に張られていたはずの帆のような翼膜が垂れていた。


 剣のような牙、槍のような爪、その巨躯に刺々しい尾、雄大な翼。その亡骸が何ものであったかは誰の目から見ても明らかだ。


 火竜かりゅうだ。海辺の洞窟の、強大な戦士の家系の最後の一人が隠した財宝を偏愛し、それを盗んだ農奴を追って村々に災いをもたらした怪物けもの。そして、偉大なる英雄にして王であった老爺に討たれた怪物。常世とこよの去り際に、その英雄の命も持ち去っていった怪物。その亡骸が残されていたのだ。


 このような潮騒の中、辺境の洞窟の中に残された火竜の肉体は、その巨大さと恐ろしさから、弔われることもなくそのままにされていた。その血は大地に流れ、水銀かのように染み込むこともなく、岩肌を真っ赤に塗りつぶしていた。


 赤黒い血の上に砕けた刃が地に散らばり、わずかな光に眩く銀の輝きを放つ。それはまるで夕暮れの赤い空で輝き始める銀の星々のようで、それは天蝎宮の心臓、赤星アンタレスのような、偉大な英雄の燃える魂を示していた。その星屑を拾うものがいる。一つ一つ、小さなかけらも見逃すことなく、落穂拾いのように丁寧に集めていく。血が糊のように固まり、持ち上げるたびに糸を引いている。だが、それによって手が汚れることを気にする様子はなかった。


 最後に、そこに残ったのは南十字座、いや、それは戦士の神髄、半分残った刃と鍔、そこから伸びた柄を持った剣であった。それを拾い上げると、まるでいとしい赤子を抱くようにまざまざと見つめ、そのものは小さく呟いた。


「わが主よ、この日に至るまで、この場にあなたの魂を置き去りにしたことをお許しください」

 

 洞窟から何里か離れた村。地面にはまだらに雪が残り、わずかに溶けてぬかるんだ泥となっている。そこにまばらに茅葺屋根の家が立ち、その中の一つの石造りのそれから煙が上がっていた。扉には飾り看板が掲げられており、赤地に黄色の王冠を冠した蛇と槌、そして奴床が描かれている。それは誰の目にも、そこが鍛冶屋であることが理解できるものだった。


 煌々と燃える炎、木がはじける音が響く。それは鍛冶屋の静寂を際立たせていた。職人はかけらを集めていた男の従者から、さきほどの剣を預かると鉄床の上に置き、刃を弟子に抑えさせた。そして鍔を槌で力強く打った。

 

 それを従者はじっと見つめていたが、なつかしさのある揺れる煙の香りと、石炭か何かの燃料が燃えることで発せられる刺激臭、そして職人が垂らす汗と垢のじめっとした臭いに、何度かむせ返っている。


 すると、鍔と柄は緩み、人の手で取ることができるようになる。そうして、なかごがあらわになり、剣身のみになった剣が石を削って作った鋳方の溝に並べられる。そして、集められたと合わせて、炎の中に捧げられた。


 鍛冶職人の弟子たちはふいごを動かし、炎が機嫌を損ねぬように、風を送り続ける。それは扱いが難しい。奴らは私たちと同じで呼吸をし、それができなければ死んでしまう。そのため、常に誰かが、息ができるようにさせておかなければならない。


 火の明かりによって赤々と輝いていたくろがねが、自ら真っ赤に光りはじめる。その色はより鮮明になっていき、黄色、そして真っ白へと変わっていく。そうなると、その姿はぼやけ始める。そして、姿を完全に失うと、炉から取り出され、新たな姿となるべく別の鋳型いかたに注がれるのであった。

 

 火の子を上げながら、その粘った血のような鉄は流れ、鋳型を埋め尽くす。そして、その熱意が落ち着くと、それは砕かれ、新たな姿になった剣が現れるのである。


 それを男たちが叩き、形を整えていく。一撃ごとに魂を込めて叩く。それは職人の誇りだけではなく、この剣の以前の持ち主――人々の長、人々の黄金をなす友、指環の主、指環の破壊者、資産の分配者――つまり、彼らの主である王への忠誠心と敬意が込められていたものであった。


 剣は炎と――それと比べればだが――冷たい液体を往復し、叩き上げられ、それによって鉄から鋼へと姿を変えていく。

 

 しかし、ここで用いられるのは水でも油でもない。それは王の命を奪った仇の血、地に染みることもない怪物けものの血、竜の血であった。皮の手袋グローブをした職人が赤々とした鉄剣を奴床やっとこで持ち上げ、血の海へと沈めていく。そうすると血は沸々と大きな泡をつくって沸き、再び取り出されたそれは、黒々とした鋼の姿を取っている。それをくり返して、剣は炎と、それを父祖に持つ悪魔の血潮によって鍛えられていく。


 創り上げられた剣身に鍔と握り、柄頭が付けられる。まことの名剣に華美な装飾はいらない。その毒枝に似た焼き入れ模様を持ったその刃は、雄弁な吟遊詩人よりも多くを語るものだ。

 

 つけられた鍔は黄金色の横に伸びたもので、握りには銀の麻縄が巻かれ、その先には格子状の紋様が刻まれた分厚い貨幣コインに似た丸い柄頭があった。


 最後に、立つのもやっとな老齢の職人たちの長が部屋の奥の暗闇から立ち上がる。彼は王の戦いの相棒を見ると涙をこぼした。


「おお、我が主よ。ようやく戻られましたか。あなたが、わたくしめにあの夜、鉄で大楯をつくれとお命じになられてから、数えきれないほど夏と冬が過ぎ去りました。そのなかでも、一度でもあなたのことを忘れたことはありません」


 その弟子の弟子、職人の頭の孫弟子が彼にたがねと槌を手渡す。組合ギルドの長として、職人たちの代表者、代理人として務めを果たすようになってから、もうずいぶんと道具を手にしていない。彼の手が細かく震える。その齢から、これが最後の仕事になるだろう。最後の最後まで、誇りをもって働く姿に、弟子たちの中には涙ぐむものもいた。


 しかし、鏨が剣に当たると、その手は石像のように動かなくなる。そして、聖なる鐘でも打つように、思いを込めるように、槌を叩きつけた。それによって、その血溝に文字が刻まれる。それは矢印に似た形をしており、の名であった。

 

 文字を刻むのには魔術的、もしくは呪術的な意味合いがあった。神々の名を刻み、その恩恵に授かる。もう、この伝統とわざを継ぐ者も少なくなってきた。南から来た新しい神のせいだ。その神はを名乗りながらも、そこに住むものたちのを略奪していった。それは金銀財宝といった形あるものではなく、歴史、そして伝統という心の中にある財宝、つまりは名誉であった。


 多くの民衆がその神にすがり、過去の遺産や先祖の誇りを捨て始めても尚、この剣を鍛えしものたちは、古き神々に祈り、彼らの力を欲した。


 そうして、その剣が完成したとき、それは――刃をあつめ、剣を鍛え直せしものである――ものへと手渡された。その名はウィーイラーフ。主の縁者、主の愛された家臣、主は恵み深いと知るもの、主が火竜と戦いし時に最後まで共にいたもの、戦に生き残りしもの、主の最期を看取ったもの、主を荼毘に付したもの、そしてウェーイムンドの氏族の比類なき戦士である。


 鍛冶職人たちがこの剣を鍛えたのは、主への哀愁などという後ろ向きのものではない。ウィーイラーフには偉大なる計画があった。


「鞘はつくらずともよろしかったのですか」


職人が尋ねる。それもそのはず、剣と鞘は人間にとって夫と妻のようなもの、金貨の裏と表、王と民、どちらが欠けても意味をなさなくなるものとして考えられていた。


「いや、いい。この剣にそのようなものはいらぬ」


ウィーイラーフはそう言うと、剣を優しく、白い布で覆った。そして、小さく、祈るようにつぶやいた。


「王よ、あなたの意思は私が継ぎます」


 そこに、若い従者が一人やって来た。その者はウィーイラーフの横に行き、耳元でささやいた。


「ウィーイラーフ様、くだんのものを捕らえました。北の山間に隠れていたところを農民が捕え、殺そうとしていたところで金子きんすを払い、連れてまいりました」


「ああ、わかった」


 彼は鍛冶屋を出て、滑らかな毛並みの牝馬にまたがると、剣を抱えて、村を出た。


「すべてはそろった」


そう一言呟いて。


 東の空が紫色に染まり、西の空は赤々と燃えている。陽が落ち、もう少しで月が上がり、夜がやって来る。


 そうして、鍛冶屋から馬の蹄で泥を掻き上げながら、いくらか走った先にある北の荒れ地。その周りは純白の衣に包まれた山脈に囲まれて、大自然が生み出した砦と化している。木々は枯れ、老婆の指のような痩せた枝を風に揺らす。それは、この土地がすでに人の手を離れ、不毛の地と化していることを意味していた。


 その中に、開けた場が一つあり、そこにはかしわの木が孤独な姿で枝を伸ばしていた。その葉は枯れ落ち、根と枝がひっくり返ったようにも思える。その樹木の亡骸の前で、一人の男が跪いている。いや、跪かされているというべきか。

 

 彼は両手を麻縄で縛られ、何度ももがいたのか、手首から血が流れていた。そして顔には麻袋が被せられている。そこにはわずかに血が滲み、その口元は荒い息で湿っていた。彼のすり切れて薄くなった服は、汚泥にまみれて本来がどのような姿だったのかもわからない。


 男を取り押さえたのはその周りの者たちだろう。そこには10人の戦士がおり、皆、きめ細かい鎖帷子を身に纏っていた。そして、腰には剣を佩き、長い槍を携え、鉄で縁取られた科の木の丸楯を構えている。その楯には各々の家の紋章が鮮やかな色で描かれ、それは彼らがただの戦士ではなく、その中から選び抜かれた名家の、それもその家名を背負うにふさわしい精鋭であることを意味していた。


 そこから少し離れたところには彼らが乗ってきたであろう、艶のある毛並みの馬たちが痩せた木に繋がれている。それらは、これから起きることを暗示するかのように、鼻息荒く騒いでおり、戦士たちが共に引き連れてきた従者たちが何とかなだめている。


「この男は殺すべきだ」


海を表す群青色の下地に、皹の入った帆立の貝殻の紋章を持った男が言う。その紋章をよく見ると、それは割れているのではなく、雷が貝殻の上に描かれていることがわかる。


 彼は荒々しい口調で、縛られた男を罵る。語気強く話すたびに唾が飛び、口元の灰色の髭が揺れる。


 縛った側の男が殺せ、殺せと叫ぶと——当たり前のことだが——縛られた側の男は怯えて、小さく跳ねた。その体は寒さか、それとも恐怖か、細かく震え、麻袋からは息だけではなく嗚咽がわずかに聞こえた。

 

 仕方がないことだが、誰でも死ぬのは怖い。この男がいかなる罪を犯したのかはわからないが、たとえ、自責の念を持っていようが、贖罪をしようと考えていようが、そのために死ねと言われて躊躇い無く死ねる人間などいない。いたとすれば、それは狂人のたぐいの人々だろう。


 他の戦士たちもそれに追従し、皆、口々に男を罵る。その熱気はみるみるうちに高まり、いつ、男を私刑にかしてもおかしくなかった。


「やめぬか」


 そこに颯爽と栗毛色の牝馬の上から諫める者がいる。ウィーイラーフだ。その姿は他のものと同じように、鮭の鱗を思わせるきめ細やかな鎖帷子を纏い、腰には先ほどの剣が佩かれていた。そして、牝馬の横っ腹につけられた丸楯には、草原のような緑の下地に雷と鷲が色鮮やかに描かれている。


「我が兄弟はらから鉄の踵のアイアン・ヒールヤーコプよ。貴様にこの男を責める資格があるのか。貴様は威勢のいいことを言って主に忠誠を誓いながら、最も助けを必要としていたとき、まるでどぶ鼠かのように逃げて姿を隠したではないか。私はあの日ほど、貴様と同じ血が流れていることを恥じたことはない」


 先ほどまで一番に殺せと叫んでいたはずのヤーコプは一気に押し黙り、うつむいて唇を噛んだ。その姿を見ると、先ほどまで騒いでいたものたちも皆押し黙ってしまった。


「ここにいるもので、誰か一人でも奴を責めることができる者がおるのか」


 ウィーイラーフの心からのその叫びに、返すものは誰一人いなかった。


「ペーター、貴様はどうだ。最初に主に仕え、その危機では真っ先に剣を抜き、戦った。しかし、お前は火竜に立ち向かう主の願いを三度も否認しよった。主は貴様を信じ、大岩の上に築きし館の番人として鍵すら任せておったというのに、その報いがこれなのか」


 高貴な紫色の下地に大岩の描かれた紋章を持つペーターは、何かを言い返そうと口を動かしたが、そこから言葉が発せられることはなかった。


「その弟のアンドレアスはどうだ。貴様ら二人は主によって漁師をしていたところを見初められ、領土の一部を与えられ、地主騎士セインにまでしていただいたにもかかわらず、その恩義はどうしたというのだ。その上、兄が家督を継ぐことになったとき、主は新たな紋章を与え、別の地位を与えて下さったではないか。そして、その地位すらも捨てて火竜から逃げ去った」


 アンドレアスは、楯に描かれた海をあらわす青地に、漁師の網を表現した白いX字をまじまじと見つめた。そして黙って一歩下がるのであった。


「フィルもおったな。お前は主に友であるバルトロメウスとともに召し抱えられ、異邦人でありながら、地主騎士として叙任までされた。我らが主は寛大なお方であった。生まれも、故郷も、姿も、そして男女の区別なく、優れたものには名誉をくださった。しかし、フィル。貴様はその名誉すらも捨て去ったのだ」


 フィルが顔を上げることはなかった。彼はウィーイラーフの顔すら見ることができなかった。それは恥か、それとも恐怖かわからない。だが、ただの一度として顔を上げることはなかった。


「バルトロメウス、貴様はその紋章をよく掲げることができたな。そこに描かれる皮を剥がれた男は、いかなる責め苦にあっても忠誠心を持ち続ける証ではなかったのか。その行いは誇り高き父、タルマイから継いだ家紋に貴様は泥を塗ったと知れ」


 彼は静かに楯を裏返す。そしてフィルと同じように顔を上げずにいた。


「マルティン。一度は敵方についた貴様を主はお許しになり、そして家臣にまでしていただいたのにもかかわらず、貴様は逃げ去ったのだ。主は最後まで貴様を信じていたが、その裏切り者の性根は変わることはなかったようだな」


 丸楯に描かれた楯の乙女ヴァルキュリアに露が付き、それが涙のように垂れた。それは赤い下地の染料とともに流れ、血の涙を思わせた。


「トーマス、主は貴様の洞察力を頼りにしていた。しかし、実際はただの疑り深いだけの臆病者だったようだな」


 トーマスは静かに、喉の奥で唸った。そして拳を強く握りしめる。


「我が従兄弟、クレオパの子ヤーコプよ。貴様も我が兄と同じく逃げ去ったようだな。貴様の母が主の幽世かくりよでの武運を祈っているとき、主の御身体を船でへと送り出したとき、貴様はどこにいた」


 もう一人のヤーコプは、ウィーイラーフの兄のヤーコプを見た。しかし、彼はうつむくばかりで何も語らなかった。


「貴様の兄は何も語らぬようだが、お前はどう思うタダイ」


 語りかけられたタダイは、小さく声にならない声を上げて、また黙った。


「熱心なるシメオンよ。貴様が主へ向けていた情熱は一体いつ冷めたというのだ」


 シメオンは目頭を熱くした。今までは恥を怒りで誤魔化していたが、突きつけられた現実を前に、涙を堪えられなかったのだ。


「貴様らは揃いも揃って、恥知らずの裏切り者だ。誰一人として、この男を責めることなどできぬ。主の最後、火竜との戦いのときにそのもとへ向かったのは、この私ただ一人だ。これほどまでの戦士たちが、地主騎士たちが、民の守護者を名乗る領主たちがおりながらたった一人しか向かわなかったのだ」


 説教に皆、押し黙り、うつむくばかりであった。何人かは禿げ上がった頭を持ち、豊かな顎の森を蓄えた歴戦の戦士たちである。自らの領土に戻れば、民からは守護者だといわれ、尊敬されるものたちだ。しかし、こればかりは何も言えず、ただ恥を耐えしのぐしかなかった。


 ウィーイラーフは彼らの主が最後に連れていった地主騎士の中で、最も幼かったため、その髪はまだ黒く、羽二重肌はぶたえに青い糸を薄っすらと浮かべていた。自らよりも若く、その上、馬上から下りることなく説教されるのはかなりの屈辱であっただろう。しかし、彼らは主との忠誠の誓いを破ったという恥がそれを上回っていた。


 それから全体を見渡すと、打って変わって落ち着いた声で話し始めた。


「だが、私はこれ以上責めぬ。誰の首もとらぬ。主がそうしたように、私も貴様らを許そう。主がこの男を放免したように、私もこやつに贖罪の機会をやろう」


 そう言うと男の麻袋を外すように命じた。暴れぬように3人がかりで押さえながら、その顔があらわになると、取り押さえたときのものか、私怨かわからぬが、その顔は殴られて腫れ上がり、鼻や口からは血が垂れていた。


「哀れな農奴、主を裏切ったものよ。貴様が火竜の宝から黄金で彩られた角杯を盗み出したことで、蛇どもの支配者たる火竜は怒り、ここはその荒らし場となった。多くのものが死に絶え、家を失い、さまよう流浪の民となった。そして、その罪は我らが偉大な主、勇猛なる狼、王の犠牲によって償われた」


 その農奴はそう話している隙を見て、立ち上がり、腕を縛られたままに走り出した。彼は咄嗟に考えたのだ。口では何とでも言える。だが、自分はきっと首を刎ねられ、そしてその肉体は辱められることだろう。嫌だ、死にたくない。その思いだけが彼の頭を満たした。


 他の戦士たちは先ほどまで、恥と後悔の海に沈んでいたためにすぐさま動くことができず、少し遅れてから取り押さえようと慌てふためいている。しかし、ウィーイラーフは動じることなく、腰の剣を抜き、馬上から思い切り投げつけた。


 その刃は農奴の顔をかすめ、槲の幹に深く突き刺さった。農奴はたじろいで転んでしまい、戦士たちに取り押さえられた。そして何度か殴られ、蹴られ、反抗しなくなり、丸まって服従の姿勢を取るようになると、再びウィーイラーフの下へ連れていかれた。その顔は泥と血にまみれ、腫れ上がっていることもあってか、その表情を読み取ることは難しい。恐怖で涙を流しているのか、絶望の末に何も考えられていないのか、戦士やその従者たちは知る由もなかった。彼は動くことなく引きずられ、その足が擦れて地面に二筋の線を残していった。


「勘違いするな。貴様には贖罪の機会を与えてやる」


ウィーイラーフはそういうと槲に刺さった剣を指さした。夕日の鋭い光にあてられて、その刃は眩く光り、まるで朝日が昇るかのような輝きを放った。


「火竜の血がこの地の奥底から叫んでいるのが聞こえぬのか。我らが主の犠牲によって罪は償われた。しかし、荒らし場となった地は穢れ、不毛の土地となった。この地を耕しても作物は実ることはない。そして、火竜の怒りが鎮まることもない。やつは必ずふたたびあらわれる」


馬上から傷ついた農奴を睨みつける。許すとは言ったが、その心の中にあった、軽蔑と怒りが消え去ったわけではない。


「だから貴様と、その血族は皆、この地でさまよい、新たなる救い主が訪れるのを、再臨するのを待つのだ。そして、救い主があの王の剣を振るい、それによって、まことの意味で火竜が斃されたとき、貴様たちは幽世へ、我らが主のもとへと旅立つことができるであろう」


「ま、待って、待ってくだせ――」


ひん死になりながらも農奴は口を動かし、何かを伝えようとしていた。それを他の戦士は口ごたえするなと殴りつけようとしたが、ウィーイラーフはそれを止め、話を聞こうとした。下々の話を聞くその姿には、彼の主が持っていた王の風格があった。


「――私のせいで、この土地が穢れたと知られれば、私も、その血族も皆殺されてしまいます。先ほども、土地を失い、流浪の民となったものに殺されそうになりました」


 ウィーイラーフは顎に手を当て、考える仕草をした。そうして、兄であり、火起こし名人であるヤーコプに焚き火をつけるように言った。この時代に火起こしの技能があるのは誇らしいことで、彼らの主もよくそれを褒めていた。彼は石をぶつけ合わせ、すぐさま火の用意をする。その最中、彼は主への想いと自らの恥で涙を流した。その涙は、原因である農奴への怒りでもあった


「たしかにそれもそうだ。だからこそ、貴様にをやろう。それを見たものは、貴様を殺すことができず、貴様を殺したものにはわざわいが訪れるだ」


ウィーイラーフは腰帯ベルトに差していた短刀ナイフを抜いた。そこにはまじないルーン文字が刻まれており、ただの短刀でないことを意味していた。


 そして、火が起こされたことを知ると、それをバルトロメウスに渡し、火に晒すように言った。炎に照らされた切っ先は赤々としており、それを見るとウィーイラーフは農奴が暴れぬように抑えるようにとも言った。それに不穏な空気を感じ、農奴は一層暴れたが、頑強な戦士に3人がかりで押さえられては逃げることはできない。


「お許しください。おやめください」


「安心しろ。これは全知全能の神、万物の神アルフォズル戦死者の父ヴァルファズルと同じだ」


ゆっくりと燃える切っ先が農奴に近づいていく。その瞳には眼前まで迫る短刀の姿が映し出され、そして突き立てられた。


 彼は言葉にならない悲鳴を上げ、息を荒げている。戦士たちに抑え込まれているせいで、のたうち回り、痛みを紛らわすこともできない。


「貴様はここで待ち続けるのだ。新たなる救い主を、世の終わりまで」


 呪いの言葉を吐くと、ウィーイラーフは彼を捨てて、戦士たちとともに自らの領土へと帰っていった。その後、彼らの多くが戦争の末に幽世へと旅立っていった。中には悲惨な最期を迎えるものもいた。棍棒で打たれるもの、槍で刺されるもの、鋸で切られたもの、皮を剥がれたもの。皆、主から逃げ去ったことを償うように、苦しみの中で死んでいった。その寿命を全うすることができたのは、毒をもられるなど命を狙われながらも生き抜いたウィーイラーフただ1人であった。


 しかし、そのように生きて、目覚めることのない永遠の眠りにつき、そして主のもとへ向かえたものたちは幸せだったのかもしれぬ。


 いずれ、彼らの神々は忘れ去られていく。無情だが、それは仕方のないことだった。時の流れとともに、その土地のものたちも慈悲なる神との新たなる契約に心奪われた。


 国が、世界が変わりゆく中で、いくつもの冬と夏をすごし、その間も農奴とその血族は救い主を待って実ることのない麦を育て続けた。誰もが農奴の罪を忘れ、彼らが誓わされた契約を忘れても——そうして、今も彼らは待ち続けている。救い主の到来を、自らが死の眠りにつけることを。

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パルプ神話群 鯨ヶ岬勇士 @Beowulf_Gotaland

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