第8話『今宵も虫は鳴く』

 この世に兄と呼ばれる人間はたくさんいるが、菰田羊こもだよう少年にとって、彼の兄ほどはいない。彼の兄はどんなに忙しくとも、妻と子どもへの家族サービスを怠らない父親の鑑だったし、年の離れた弟である羊を我が子のように可愛がり、出張のたびにお土産を買ってきてくれる。その日も、アメリカ出張のお土産を抱えて実家に帰ってきた。


「何これ。見た感じだと、古くさいマッチ箱って感じだけど」


 それは、いつものお土産とは何となく毛色が違った。いつものお土産と言えば安っぽくけばけばしいTシャツや、どこの誰だかわからない首振り人形に、甘すぎてまったく口に合わないお菓子など、早い話が悪趣味だ。


 それにもかかわらず、今回のお土産は黄ばんだ箱に赤いインクで、『|Screech Beetle of 112 Ocean Avenu《オーシャン・アベニュー112番地のキーキー虫》』と印刷された小さな箱であった。何だか肩透かしだ。そうして、肩を落とす僕を見て兄は笑う。


「おいおい、俺がただのスナックのマッチをお土産にするわけないだろう。これはな、 で獲れた虫が入っているんだ。ためしに振ってごらん」


 言われた通りに軽く振ってみると、手のひらに収まりそうな箱から発せられたとは思えないほどの絶叫が響き渡る。耳をつんざくようなその声は間違いなく虫――たぶんキリギリスか何か――のものであった。


 その甲高い金切り声に、羊も、そして振ってみるように勧めてきた兄でさえも顔を歪めている。それから数秒して音が止むと、2人で目を合わせて笑った。母は台所からその様子を覗き、近所迷惑だからやめてとぼやく。


 兄はそれから嬉々として、この虫の出自に関して話し始めた。それは血なまぐさい殺人事件の話をたっぷりと含んでおり、母はそれを聞いて顔をしかめたが、羊はその話をまるで冒険物語でも聞くのかのように楽しんでいた。


 オーシャン・アベニュー112番地――またの名をは何の変哲もない20世紀初頭を思わせるおしゃれな家だった。6つのベッドルームに青々とした芝を持つそこは、アメリカ人が考える理想的な住居で、そこに住む家族もアメリカ人の考える幸せな一家だった。裕福な父親に世話焼きな母親、そして5人の子どもたちはまさしくアメリカンドリームそのものだ。


 しかし、そこで事件は起きた。長男が父親、母親、そして4人の兄弟姉妹を猟銃で撃ち殺したのだ。彼は言った――頭の中で悪魔が囁いたんだ、皆殺しにしろと。その事件以降、オーシャン・アベニュー112番地では怪奇現象が後を絶たなくなったらしい。そこのくだりをおどろおどろしく兄は語り、羊はそれを固唾をのんで聞いていた。


 それから、あっけからんと態度を変えて兄は言った。


「この事件には実は裏があってね。この家の父親は何かにつけて家族を殴るひどい暴力男だったんだ。母親はそれにびくびくしているし、子どもたちは父親の帰宅に震え上がる始末さ。それに耐えかねて長男がしたんじゃないかって言われているんだぜ。まあ、本は表紙で判断するな、人間見た目じゃわからないこともあるってこったな」


 そういって、あまりにも話の雰囲気を変えるものだから、ついつい羊は笑ってしまう。それにつられて兄も笑いだし、それから二人はそれでひとしきり笑い合うと、箱をまた振ってみて遊んだ。最高の時間だ。


「それにしてもすごい鳴き声だね。最初に聞いたときは、心臓が止まるかと思ったよ」


「ただうるさいだけじゃないぞ。こいつはな、幽霊や悪魔なんかが近くにいるとキーキーと鳴いて喚き散らすんだ。まるで怪奇現象オカルト探知機さ」


 兄は自慢げに語る。そのように言われると、羊は何故だかその中身が気になり始めた。一度そうなると気になってたまらなくなり、彼は箱を開けようとする。


 中にはどんな虫が入っているのだろうか。悪魔の棲む家の虫なのだから、ドクロ模様なんかがあるのだろうか。それとも角のような刺が全身から生えていたりするのかもしれない。


 しかし、兄がそれを止める。そして、優しく笑みを浮かべた。


「駄目だよ、中身を覗こうなんて無粋なことをしたら。魔法が解けちゃうよ。中身がわからないから、魔法にかかることができるんだから」


 もしかしたら兄は、箱を開けてしまって、中から悪魔の棲む家で獲れた虫ではなく、子ども騙しでキーキーうるさいだけのおもちゃが出てくることを恐れたのかもしれない。そのようなものが出てきたら本当に魔法は解けて、楽しく不思議に満ちた夢から覚めてしまう。兄はロマンチストだったから、そんな終わり方はつまらないと思ったのかもしれない。


 しかし、今となってはその真偽を確かめるすべはない。何故ならば、兄は――菰田みのるはその日を最後に消えてしまったのだ。妻と子と、羊を残して。


***


 それから7年近い歳月が流れ、羊は気が付くと大学生になっていた。その月日は口にすると軽いが、残された家族には重たくのしかかり、彼を含めたすべての人の人生に陰を落としている。


 麦の妻であるはるは、子育てをしながらスーパーマーケットのパートタイマーとして忙しく働いている。もちろん、それはキャリアウーマンといったポジティブな意味合いではなく、家計を支えるために必死だということだ。


 悲しいことだが、麦の実家である菰田家は羊を大学に通わせるだけがやっとで、誰かを支援をするほどの余裕がなかった。そのせいか、羊は美と会うたびにひどい罪悪感にかられるようになり、いつしか会うことすらなくなってしまった。仲の良かった家族の姿はもうそこにはない。


 7年が経ってしまえば、兄は――菰田麦は死亡宣告を受けることになる。本当はそのときに葬儀の一つでもあげてやりたいところだが、遺体のない葬儀というのも何だか変だし、それ以上に我が家にそんな余裕はなかった。


 最初こそ、兄の生存を信じていた羊だったが、1年経ち、2年経ちといくつもの春と冬を経験していくにつれて、その心に諦めが生まれていったのだった。


 兄は家族を捨てるような人間じゃない。きっとどこかで生きている――まわりが諦めても一人信じ続けていたその思いは、いつしか兄は不慮の事故に巻き込まれて亡くなったのだというものに変わった。


「お前が俺を呼んだんだろ。なのにむすっと黙りきってどうしたんだよ」


「ああ、ちょっとな」


 兄の死を受け容れなければならない――そんな重たい空気に耐えかねて、家を飛び出してたどりついた酒場で、羊は友人の瀬人せとを呼びつけた。


 瀬人という男は宗教学や民俗学を学ぶ同い年の大学生で、彼とは高校時代からの付き合いだ。瀬人はこのご時世に手巻きたばこをふかし、その煙を羊の顔に吹きかける。それにむせる様子を見て、まだ生きているなと言い、彼は笑った。


「今、お前が何を考えているのかは何となくわかるよ。確かに俺はお前みたいに家族を失った経験はないが、張り詰めた空気に耐えられないことぐらい想像できる。だけど、それは家族も一緒だと思うぜ。今こそ、家族で支え合うときじゃないのか」


 気の抜けたビールに映る自分の顔が、少しずつ兄に似てきていると羊は思った。その姿はゆらゆらと不安定で、生気なく黄色く歪んでいる。そして、その所々が白い泡で欠けていた。どんなに似ていても、自分は兄ではない――兄という自分の欠けている部分は、永遠に欠けたままなのだ。


 わかっている。わかっているんだ。そのぐらいわかっている。何度も自分に言い聞かせても、まだ自分の気持ちを整理できない。自分の年齢が少しずつ兄に追いつき、そして追い抜きそうなのが耐えられなかった。まるで、そのまま思い出すべてを置き去りにしてしまうようで――兄を捨てるようで――耐えることができなかったのだ。


「もう時間も遅いし、今日はお開きにしよう。話ならいつでも聞くからさ、今日はゆっくり休め。酒は問題を隠してはくれるが、無くしてはくれないぞ」


「うん、ありがとうな」


 今日ぐらい俺に払わせろと言い、瀬人は飲み代を肩代わりしてくれた。その優しさがつらくて、苦しくて、羊はろくにお礼も言わずに立ち去った。それを瀬人は責めず、その肩が内へと巻き、心まで内へと潜っていく友人にかけてあげる言葉を見つけれずにいることを悔やんだ。


 電車に乗っている間も、歩いている間も、ずっと耳にイヤホンをさして音楽を聴いた。そうしていれば自分だけの世界に入れるし、音楽で頭の中をいっぱいにしておけば不要なことを考えなくて済む。だから耳が痛くなるほど大きな音で音楽を聴いていた。


 その曲のタイトルは――思い出せない。結局、音楽で頭を満たしても、兄のことを一瞬たりとも忘れることはできない。


 鍵の音が響かぬようにゆっくりとドアを開け、そのまま自室に滑り込んだ。それは家族がもう寝ていたらという配慮であると同時に、誰にも話しかけられたくないという、自分の世界を壊される恐怖によるものだった。


 部屋に入ると、遠くから何かが呼ぶ声がする。正確に言えば遠くから聴こえたわけでも、羊のことを呼ぶ声でもない。その音はイヤホンが耳の中で鳴り響いているにも関わらず、その隙間を滑り込むように甲高い音で鼓膜を震わす。それは間違いなく聞き覚えのある音――いや鳴き声――だった。

 

 ゆっくり、イヤホンを外すと、砂利が擦れるような音漏れをかき消して、キーキーという鳴き声と、カタカタと箱の揺れる音がしていた。


 それはあの悲しみと共に棚の奥に押し込んだはずの悪魔の棲む家の虫であり、机の上で羊の帰りを待っていたかのように細かく震えている。


「――悪魔の棲む家の虫は、幽霊が近づくと鳴き声を上げる怪奇現象探知機」


 キーキー、キーキーと虫は鳴き続けていた。


***


「これだよ、見てくれ瀬人」


 翌朝、まだ空が赤紫色のグロテスクな模様をしていた頃、瀬人は羊によって呼び出された。


 家に帰って眠りについたばかりだったのにもかかわらず、夢の世界の入り口で現実に引き戻されたのだから、彼は不機嫌極まりない。それでも、そのような彼に電話口で羊はひたすらに熱弁を続け、瀬人は根負けして始発の電車に飛び乗ることとなった。


 電車に揺られている間も瀬人の頭の中では、羊がとうとうのではないかという不安が沸々と湧き、それによって目はどんどん冴えていく。そのせいか、彼はぎりぎりまでその家の扉を開くべきか迷ったほどだ。


 しかし、その不安を払拭するようにその顔に笑みと黒々とした隈を浮かべて、彼は瀬人を部屋に案内した。それを見るに、彼は眠っていないのだろう。その上、彼の案内はとても強引で、玄関から部屋に行くまでの短い道のりの中で、一瞬の隙間から頭を抱える彼の家族が見える。やはり彼はもう――


「これだよ瀬人、兄さんが帰って来たんだ」


 そういって羊は机の上にちょこんと置かれた古ぼけたマッチ箱を見せる。無理やりスペースをつくったのか、その周りは山脈が連なるかのように雑誌や筆記用具がこんもりと積みあがっており、いくつかは無雑作に床に落ちていた。


 その様子はまるで空き巣にでも荒らされたかのように、ぐちゃぐちゃとかき乱されている。その前の状態を詳しく知らないので何とも言えないが、その荒れっぷりは彼の心を表わしているようだった。


 瀬人には羊が小汚い箱を嬉々として見せてくることが理解ができず、ただただ笑みを浮かべてその場を取り繕うしかなかった。


 その時、急に箱が揺れる。そしてキーキーとキリギリスの断末魔のような大絶叫が部屋を満たした。瀬人は思わず耳を塞いだが、その様子を羊は嬉しそうに見ていた。こんなもの、はっきり言って異常だ――そんな言葉が喉元まで上がってくる。


「ああ、兄さん。彼がさっき話した瀬人だよ。瀬人、兄さんだ」


「この虫がお前の兄さんなのか」


「違うよ、これは兄さんが近くにいるとキーキー鳴くんだ」


 その屈託ない笑みが恐怖と不安、そして哀しさを感じさせる。それから羊は意気揚々と悪魔の棲む家で捕まえた昆虫について、兄のものまねをするかのように説明する。それから、箱の中の虫が鳴くたびにそれに話しかけ続けていた。


 その話を聞いている間、瀬人は彼の家族のことを考えていた。長男を失い、次男までに行ってしまったとしたら、自分だったら耐えられないだろう。今自分にできるのは、彼を支えることぐらいか。そんな思いだけが頭の中を駆け巡り、虫の説明など話半分にしか聞いていなかった。

 

「その箱の中身を見てもいいかな」


 瀬人は幽霊探知機の虫を信じてなどいない。たぶん、これはアメリカの片田舎のお土産品で、そんな不思議な力は微塵もない。きっと、何かの拍子に切れていた電源が入ったのだ。そうでなければ7年以上も一度も開いていない箱の中で、こんなに元気に虫が生き続けられるわけがない。


 このを解消し、彼の抱える認知の歪みを正すためには箱を開けるしかない――瀬人はそう考えていた。


 しかし、それを聞いた瞬間、羊の顔から笑顔が消える。そして、まるで瞬間湯沸かし器のように、一気に顔を真っ赤にし、口の端に泡を沸かせてまで叫んだ。


「そんなことしたら、魔法が切れちゃうだろ」


 今にも殴りかからんばかりの彼をなだめ、瀬人がすまなかったと謝ると、その顔に再び笑顔が戻った。


 この不安定さが不気味だ。まるでいつ暴発するかわからない拳銃を相手にしているような、そんな不安がつきまとう。


「瀬人には、交霊術とかそういうことを調べて欲しいんだ。お前、宗教学とか民俗学を勉強しているからそういうこと得意だろう。友達のよしみで頼むよ」


 その言葉に瀬人の顔は曇っていく。晴れやかな羊とは対照的――というよりも、そこに精気を奪われているかのようだ。彼は重たい口を開き、諭すように静かに言った。


「羊、悪いことは言わない。だから、交霊術探しなんてやめろ、死者に会おうとするのもやめるんだ。言っておくが、まず、俺のやってる学問はそんな魔法学校で習うようなものじゃない――」


 瀬人も次第に語気に熱を帯びていき、羊の肩を強くつかんで叫ぶ。彼の目をじっと見て、真剣に伝えた。


「――だけど、死者に会おうとして身を滅ぼした人間は何人も知っている。みんな、寂しさに付け込まれてカルトやセクトに取り込まれていってしまったんだぞ。それに、かの大奇術師フーディーニですら、その一生をかけても交霊術は見つからなかったんだ。だからもう過去に執着せずに前に進むんだ」


 しかし、その言葉が彼の心に響くことはなかった。その目は眩い希望の輝きで閉じ、真実を見ることができなくなっていたのだ。可能性の賛美歌にかき消されて、現実の声は耳までたどり着かない。彼は希望に病んでしまっていたのだった。


 瀬人の腕を振り払い、羊は鬼の形相で叫ぶ。もうそこに瀬人の知る彼の姿はない。そこにいるのは希望の狂信者、過去の崇拝者だ。


「こういうときに助けてくれるのが、友達なんじゃないのかよ」


 それは誰もが困窮したときに語るような、そんな手垢のべったりとついた言葉だ。いつもだったら瀬人はそれをはねのけることができただろう。だが、羊の持つ何一つ疑うことのない純粋な眼差しへの恐怖と、変わり果てた友人への哀しみが、彼をその言葉に屈させた。


 もしかしたら、本当に彼を助けることができるかもしれない。だけど、本当は彼はもう――何度も喉元まで上がり、あと少しで吐き出しそうになったその言葉を、瀬人は一人で胸にしまった。


***


 図書館で気だるげにページをめくりながら、瀬人はこれからのことについて考えていた。羊は勘違いしているが、彼の専攻分野は共食――つまりは人間が一緒になって会食することについて論じるものだ。


 宗教学や民俗学を学ぶものが皆、呪いや妖怪に精通しているわけではない。それどころか、宗教学者の中でもそのような呪術信仰について研究しているものはそう多くない。多くはもっと身近な生活に関するものを研究する人間がほとんどだ。


 そのため、瀬人にとって呪いは専門分野どころか、不得意な分野だった。正直、呪術信仰に関する本など初めて手に取ったぐらいだ。講義で基礎的なことは何度か聞いたが、何度読んでもさっぱり意味が解らない。それに虫にまつわる呪いなど、それこそ虫が湧くように調べれば調べるほど出てくる。


 調べないといけないのはそれだけではない。その虫の生息地であるオーシャン・アベニュー112番地についても調べないと、呪いの実態は見えてこない。アメリカは人種のるつぼ――呪いは移民が持ち込んだ多種多様なものに加えて、先住民の持つ伝統的なものもある。人の数だけ答えがあるのがアメリカだ。そんな自由の国らしさをこんなところで知る羽目になるなんて。瀬人は今日だけはアメリカの自由と無秩序さを恨んだ。


 どの本を開いても、呪術の構造を解説する本はあれど、その方法を説明する学術書など一冊もない。


 それもそのはず、魔法や呪いの源流である呪術信仰とは神に水門の開閉を頼み、それによって自分の田んぼに水を引き込んだり、嫌な奴の家を水浸しにするようなものである。


 そのお礼として供犠を捧げるその様子は、まさしく信仰そのものであり、呪術よりも宗教的な役割が大きいのだ。つまり、呪術を成功させるには信心深さが必要となる。それは外野には道具がいくらあってもできないことだ。その上、前述の通り宗教学は呪いや妖怪の学問ではなく、その構造を研究する学問だ。信心深さとは対極に位置するような、疑問をよしとする学問なのだから、なおのことできるはずがない。


 とうとう、瀬人は行き詰まってしまった。呪いの方法が書いてある本といえば、眉唾もののオカルト雑誌ぐらいで信憑性が低い。何度も、何故自分がこんなことをしているのかと考えたが、そのたびに羊とその家族の顔が浮かぶ。


 これ以上、彼を追い詰めるべきではない。素人考えかもしれないが、何か彼にはすがるものが必要だ。病院に連れて行くのは安定してからでいい。


 それに瀬人自身も、あの一人でに鳴き続ける奇妙な虫に違和感を覚えていた。本当のことを言えば、あれを観たとき、彼も一瞬だけ霊の存在を信じかけたのは事実だ。だからこそ、あんな不気味なものを友人のそばに置いておくのは嫌だった。


「お前、専攻テーマ変えたのか」


 突如としてかけられた声に、思わず本を閉じて振り向く。そこには同じゼミの同級生が、何冊かを小脇に抱えて立っていた。向こうからしたら何気ない疑問だが、咄嗟に瀬人は取り繕い、友人の手伝いをしていると言った。確かに間違ってはいない。だが、思わず羊のことを隠そうとした自分に嫌悪感と罪悪感を抱いた。


 彼は瀬人の読んでいた本を一冊、手にとり、その表紙をまじまじと見た。そのタイトルはアメリカ怪奇現象ファイル――三流のオカルト雑誌だ。


「へえ、こんなの興味あるんだ」


 そうだ、こいつに聞いてみよう。確か彼はホラー映画好きで、よくホラー映画をお勧めしてきていた。それが高じて研究テーマもアジアの呪術信仰だったはずだ。アメリカのこととは言え、多少のことはわかるかもしれない。


「なあ、オーシャン・アベニュー112番地って知ってるか」


「もちろん知ってるよ。懐かしいなあ、昔よく映画を見たよ」


「映画ってなんだよ」


 彼がきょとんと――まるで知らない方がおかしいと言わんばかりに――目を丸くしている。それから少し笑って話し始めた。それは途中までは、羊の語っていたことと同じだった。途中までは――


「『悪魔の棲む家』ってタイトルで映画化されてさ。『エクソシスト』がつくったオカルトブームに乗っかって大ヒットしたんだよ。そしたら観光客がどっと来ちゃって、地元住民からの苦情で建て替えられちゃったんだよな」


 聞いていた話と違うぞ。羊の話では、あの箱は7年前に兄がアメリカの観光地で買ってきた品のはずだぞ。それなのに、そんな観光地が苦情で取り壊されるなんてあり得るのだろうか。瀬人の心に形容し難い不安が積もっていく。

 

「建て替えられたって、いつごろの話かわからないか」


「もうかなり前だぜ。10年以上経ってるんじゃないかな。地元住民からしたら肝試しに若者がひっきりなし来るもんだから、ほとんど観光地とか観光資源にならなかったらしいぞ。本当にもったいないよな」


 そうだとしたら、あのお土産は一体――瀬人は本を閉じて、同級生にお礼を言うと、そのまま図書館を出た。後ろで本を元の場所に戻していけと叫ぶ声が聞こえたが、彼はそれどころではなかった。


 彼は携帯電話を取り出し、急いでにかけた。


***


 仄暗い部屋の窓から、じめっとした西陽が差し込む。部屋は生ぬるく、不快で、そして懐かしさを感じさせる空気を持っていた。


 部屋が真っ赤に染まる頃、机の上に置かれた小箱の影はどこまでも伸びていく。それは中から壁を爪で掻く音をさせた後、かたかたと乾いた音を立てて震えた。それから、壊れかけのバイオリンのような、もしくは黒板に爪を立てるような不快極まりない声を上げる。


 部屋の外からは家族――たぶん母親――のすすり泣く声が聴こえたが、そのようなことは気にも留めない。羊は部屋の中で一人、箱が震えたり、鳴いたりするのを優しい笑みを浮かべて見つめていた。


「兄さん、今日はどこまで話したっけ。そうだ、僕が高校に入学するあたりか。そこで瀬人とあったんだよ。あいつ、あの頃は目が怖くってね」


 彼の声に応えるように、箱が揺れてから硝子が擦れるような叫びをあげる。それを聞くと、羊はそうかと相槌を打ち、それから一しきり笑っていた。


 兄さんは本当に変わらないなと言っては笑い、虫が鳴き声を出すたびに、まるでくすぐられているのか、それとも冗談でも言われているかのように大きく笑う。家の中には彼の笑い声と、女性が静かに泣く声、そして虫の鳴く声だけが響きわたる。


 小さな箱が震える音がする。それは虫の入った箱ではなく、電子部品の詰まった箱――携帯電話だった。その液晶画面には瀬人の名前が映し出されており、それをゆっくりと取る。


「やあ、瀬人。早かったね。調べ物は終わったかい」


「羊、もう1週間経ってるんだ」


「そうなのか。悪いね。兄さんとのひさしぶりの会話に花が咲いてね」


 瀬人の声はどこか寂し気であったが、それも仕方あるまい。彼の言い分によれば、1週間近く会えていないことになる。彼には悪いが、親友に会えないことよりも、長年会えなかった兄との再会の方が羊にとって大事だったのだ。


 7年――口に出せば軽いが、日にすれば長い。尊敬する兄、最高の兄を7年間も失っていたのだ。一分一秒たりとも無駄にしたくない。今まで欠けていたものを取り戻したいのだ。


 この7年間、誰といても、どこにいても孤独だった。長い孤独は人を腐らせる。周りから見れば明るい少年だったかもしれないが、ずっと心に孤独を抱えた卑屈な少年時代だった。その過去を書き換えることができるのならば人は何だってする。誰だってそうだろう。


「なあ、羊」


「なんだ」


 瀬人は暗い口調で話す。だが、それに対して羊は不眠不休であったため疲れているものの、内に明るさを灯していた。


「兄さんと話せて楽しいか」


「ああ、最高だよ。そうだ、さっき兄さんに瀬人のことを話したんだ。嬉しそうに返事をしていたよ。キー、キーってね」


「そうか」


 少し何かを言いたげな、そんな口ぶりで瀬人は返すと、それをかき消すように良かったなと言った。その程度のことは気にも留めず、羊の静かな笑いが電波を伝って向こうへ届いた。


 それから、最後の最後まで何かを口ごもったまま、瀬人は電話を切る。少し、疑念こそ抱けど、羊の心はすぐさま兄との会話へ引き戻された。そして、ふたたび笑みを浮かべる。


「ごめんね、兄さん。どこまで話しったっけ」


***


 電話を切り、その黒くなって消えた液晶画面に映る自分を、瀬人は静かに見つめた。自然に指に力が入り、後もう一歩で携帯電話を壊してしまいそうな、そんな思いを抱えて彼は路地裏へと歩く。


 そこには薄いジャケットを羽織った男が一人、無精ひげを生やした口角を上げて笑う。それからその手にまとめられたプリントの束を手渡した。瀬人はそれにざっと目を通し、それから一言だけ――わかったと――返す。


「見つけるのに、ちょっと手間取りましたけど、糸口さえ見つければあっという間でしたよ」


 この薄汚い男――興信所の三流の探偵は瀬人を路地裏の奥に導き、その角でダンゴムシのように丸まって震える浮浪者を顎で指す。その目は怯え、顔は伸びきった髪と髭で覆い隠されているせいか恐怖以外の感情を読み取ることはできない。彼は垢でくすんだ服を何枚も着込み、汗をかいてもその汚れた十二単じゅうにひとえを決して脱ぐことはなかった。


 昔、どこかで浮浪者の精神疾患有病率についての論文を読んだことがある。確か、その割合は約6割であり、それが路上生活からの脱却をより困難なものにしているらしい。この男を見るとよくわかる。ごみや衣服を捨てることはできず、大粒の汗をかいても、そのどれか一つでも身から離せば奪われるのではないかという恐怖心に苛まれている。


「彼、家族の間では死んだことになっているんでしたっけ。そうしたくなる気持ちもわかりますよ。会社の金を横領して、外に女と借金をつくって逃げ去った奴なんて――」


「もういい、もう何も聞きたくない」


 探偵の話を遮り、瀬人はその浮浪者を睨むように見つめ続けた。この男は、会社では経理を担当し、出張とは無縁の立場にあった。そして、その立場を利用して帳簿を細工し、少しずつ、砂山の足元をゆっくりと崩すように自らの懐を潤した。人間という生き物は奇妙なもので、身の丈に合わない金を手に入れるとあっという間に身を崩す。ギャンブルに酒、不倫と花火のような激しく燃える人生を選び、この男は妻子が待つ家には寄り付かなくなっていった。


 そして、砂山が崩れるとき、その罪も明らかになって、この男は完全に身も心も崩した。家から追い出され、警察に追われ、長年孤独という毒に身を浸し続けた結果、彼は完全にあっちに行って戻ってこれなくなってしまった。そう、この男は、この男の名は――


「菰田麦さん、ですよね」


 瀬人の問いに男は――菰田麦は何も返さなかった。ただ、虫の羽音のような、ぶつぶつという小さな呟きを洩らすだけ。もう、彼は会話をすることができなくなっていた。


 その時、瀬人の頭の中にあった疑念は不安や恐怖の姿を取って喉元まで上がり、そして口からこぼれ落ちた。


「羊は、いったい何と話しているんだ」


 薄暗くなる部屋の中、机の上で今宵も虫は鳴く。


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