第6話

 ひじりが登校拒否を行い始めて二週間が過ぎた。

 六月になっていて、梅雨の時期もあり雨が降り続く毎日だったが、ひじりは雨の日のほうが好きだった。

 雨音を聞いていると、気分がとても落ち着いたのだ。


 逆に人の声がとても嫌いになった。だからテレビは見なくなったし、時折外から聞こえてくる誰かの談笑などが耳障りに思えていた。

 担任の先生はあれから一度も家にやってこない。きっと、親が学校に連絡してくれているのだろう。

 ひじりは、外出することはせず、ずっと部屋で生活していた。これまでなら、ネットで虐めや自殺、登校拒否のことなんかを調べてみたりもしたのだが、階段で吐いたあの日から、そういった情報を見ないようにしていた。

 また、吐いてしまうような人間社会の醜さを目撃した時、不快感で苦しんでしまうだろうと思ったからだ。


 楽しい気持ちになれるものがないだろうかと、ゲームをすることにした。

 最近発売されたゲーム機は中学生になったお祝いに父親が買ってくれたものだ。

 ひじりが好んで遊んでいるのは、画面の上からブロックが落ちてきて、ラインを揃えると消える落ちものパズルゲームだ。

 それは、最近ゲーマーの中でも流行っていて、同時に九十九人対戦できるバトルロワイアルのような楽しみ方を加えた最新のものだった。

 操作は単純ながらに、特有のテクニックや対戦相手から身を守ったり、攻撃したりと作戦を切り替えて、ブロックを積み上げていくのは存外に面白く、ひじりは時間を忘れてプレイしていた。

 最初のころは、七十位とか、六十位とか、半分以下の成績でゲームオーバーになってしまうこともあったのだが、じっくりとプレイを重ねていくと、徐々にコツを掴んできて、ブロックを効率的に消す技術が上がっていった。

 五十位以上まで上がった時は、「やった!」と思ったし、十二位まで辿り着けたときは高揚感があった。

 それからは、一位を取りたいと思うようになって、ゲームを何度も繰り返しながら、どうして勝てないのか、どのように攻めれば上位に安定して残れるのかなんかを考えるようになった。


 ある程度は安定して上位に残ることができるようになりつつも、十位以上まで勝ち上がるのは至難の業だった。

 どうしてもあと一歩が足りない。

 ひじりは、そこまで来て、やめていたネットを解禁し、のめり込んでいるゲームの攻略情報なんかを検索したり、プレイ動画を見漁った。

 そうして、知識を得てからもう一度プレイに挑み、自分の弱点なんかを考え抜いて、もう一度情報を調べては実践するという、まさにゲーム修業に明け暮れた。


 六月も中旬を過ぎ、青い紫陽花が咲くころ、夜中にトイレにいくために一階に下りたら、リビングから両親の会話が聞こえて来た。

 父親と母親が、自分のことを話しているらしいと分かった。


「ひじりはどうなんだ」

「無理強いはダメよ」

「それは分かってるが、このままというわけにもいかんだろう」

「今はまだ、そっとしておいてあげて」

「別の学校に転校させるのはどうなんだ」

「……あの子、今の学校に不満がるだけじゃないみたいなの。『学校』という施設そのものが嫌みたいなの。だから、別の学校に行かせても、うまくやっていけないかも……」


 母親は、ひじりのことを庇ってくれているようだったが、父親はひじりをどうにかして学校に通わせようと考えているらしい。

 母親の言う通り、ひじりはもう今の学校が嫌というわけではなく、『学校』という存在そのものが嫌悪感に繋がっていた。

 ひじりが吐いてしまうほどの嫌悪感を抱かさせたのは、ひじりの通う学校ではない別の学校の話だ。

 他の学校も、悪魔の巣になっているのだと分かり、『学校』という施設そのものが汚らわしいと考えていた。


「しかし、毎日ゲームをしているだけなんじゃないのか。勉強はどうする。周りからどんどん置いていかれて、この先どうやって進学するんだ」


 父親の声が大きめになった。熱が上がっているのだろう。もしかするとお酒が回っているのかもしれない。

 父親のその声も、冷静に考えれば、ひじりのことを思ってのものだろうが、今のひじりには辛辣なものに聞こえた。

 学校そのものに嫌悪感を持っているのに、中学校を我慢して通い、卒業しても今度は高校生になってしまう。また三年間の地獄が始まるのだ。


 ひじりは両親の会話を耳にしたくなくて、二階に戻った。

 ベッドにもぐりこんで、瞼を固く瞑り、頭の中にぐちゃぐちゃと渦巻く黒い陰湿な感覚に悩まされた。


 ひじりだって、そんなことは理解している。

 学校に行かないと、周りと差が出来ていく。勉強が出来ないとテストに合格できない。合格できないと進めない。

 学校を卒業できていないと、仕事もできない。


 勉強をしなければならないのは分かる。

 自発的に教科書を開いて、勉強もしている。しかし、世間は『学校』に通っていないだけで『問題児』のレッテルを貼りつけてくる。

 自発的な勉強には何の意味もなく、『学校』に行って、『授業』を受けていることが『正しい』と判断されるのだ。


 その日の夜、ひじりは結局寝付けないままだった。

 ずっと、嫌な考えが頭の中で繰り返されて、重苦しいストレスが心臓を握りつぶして、息苦しくさせた。


 何かしないといけないような焦りが、ひじりを責め立ててくる。

 でも、どうしようもない状況でひじりは布団の中で丸くなるしかなかった。

 どうにかしないといけないのか――。


 ――やはり、この世の中で生きていくには、『当たり前』の生き方をしていかなくてはならないのか――。

 学校に行くのは、『当たり前』なのか。

 その当たり前ができない自分は、社会不適合者なのか。


 この世の中に相応しくない人物、それが私なのか。

 そんな風に考え始めると、また春のあの日のように、『死』を考え始めてしまう。


「自殺……」


 ぽつりと、自然に口が動いたみたいにひじりは呟き、自分の出した言葉に目を開いた。

 そして、布団から這い出て、机を見つめた。

 あの机の引き出しには、稲葉が残していった『消滅自殺計画表』が入ったままになっている。

 あれから見ることはなかったが、もう一度読みたくなってきた。


 時計を見ると、時刻は深夜なのか、早朝なのか分からない、四時二十分という時刻を指していた。

 暗い部屋に電気を付けて、机の引き出しから手帳を取り出し、無造作に開いた。


 すると、栞が挟んでいたページが最初に開かれた。何も記入されていない空白のページに稲葉の名刺が挟まっていた。


 ひじりは名刺を見つめた。

 稲葉八尋。


 なぜ、あの人は消滅を目指しているのだろう。

 なぜ、自殺しようと考えているのだろう。


 彼の自殺を考えた経緯がとても気になり始めた。

 彼は、普通のサラリーマンという雰囲気を持っていた。

 当たり前の生き方を出来ている人だ。そんな彼がどうして自殺をしたいと考えてしまうのだろうか。


(話したい……)


 ひじりは、自分の抱える問題を語り合える仲間が欲しいと思った。

 それは親にもできない相談だ。

 自殺しようと考えている人にだけできる相談だ。

 いや、相談までいかなくてもいい。自殺志望同士の『日常会話』をもう一度したいと思っていた。

 『おでかけ』の話をしている時、不思議な程気持ちがほだされたことを思い出した。素直になれていたと思えたのだ。


 誰にも『自殺してみたいと思っているんだけど』、なんて言えない。

 でも、彼だけはその話に耳を傾け、心配するようなことも、止めるようなことも、諭すようなことも言わないと思った。


(もう一度、話してみたい)


 ひじりは、稲葉の名刺に記載されているメールアドレスを見つめた。

 そして、ノートパソコンを開き、メールソフトを立ち上げていた。


 メールの新規作成をクリックし、あて先に稲葉のアドレスを打ち込む。


 文面は真っ白だった。

 なんと打ち込めばいいだろう?


 そもそも、あの日ひじりは自分の名前も相手に名乗らなかったような気がする。

 暫し悩んだ。

 本当にメールをしていいものか。

 一体、なんとメールを送ればいいのか。


 一時間は悩んだ。

 そうして悩んだ結果、ひじりはたった一行だけのメールをタイピングした。


「おでかけの計画は順調ですか」


 態々パソコンのメーリングソフトを使って送る文章にしては短すぎる。

 まるで、スマホのメッセージアプリで送るような短さの文章だ。

 しかし、ひじりはこれ以上の文章が打ち込めなかった。

 そして同時に、これに対する返事で、あの稲葉という男性の気配を察することも出来ると思えたのだ。


 送信のボタンをクリックするのもまた戸惑った。

 本当にこの文面でいいのだろうか。そもそも、このアドレスは本当にあの稲葉八尋のメールアドレスなのか。

 もしかすると、彼はもう自殺を決行してしまったかもしれない。このメールは届かないかもしれない……。


 届いたとして、このテキスト内容で、ひじりからのメールだと気が付いてくれるだろうか。

 そもそも、ひじりは彼にもう一度逢ってみても良いと思っているが、彼の方は違うかもしれない。


 色々と悩んでいると、なんだか初恋の人になんて声をかけて挨拶したらいいかを悩む少女漫画の主人公みたいだと客観的に考えられるくらいの余裕が生まれて来た。

 気が付くと、時刻が五時半になっていた。

 朝日が昇り、ひんやりとした早朝の空気が漂い始めるころだろう。

 彼はいつも、朝何時に起床するのだろう。このメールが朝起きて最初に目にするメールだったらどんな気持ちになるだろう。


 もしかしたら、あの日みたいに、駅のホームでこのメールを確認するのかもしれない。

 そうしたら、きっとこのメールの送り主が、ひじりだと思い出してもらえるかもしれない。


 カチ、と乾いたクリック音がした。

 マウスの感触は味気ないほどあっさりしていた。

 ひじりは、メールを送信した。


 妙に胸が高鳴っている。

 本当に、ラブレターでも送った様な気持ちになっていた。

 返事が楽しみだと思っている自分がいることに気が付いていた。


 ひじりはその日、朝の八時、彼と出会ったあの時刻まで、パソコンの前に腰かけてメールを待っていた。


 一睡もしていないのに、眠気なんて全く感じなかった。

 やがて、パソコンのメールアイコンに着信の報せが入った。

 時刻は八時十二分。

 やはり、あの日のあの時刻だった。


 ひじりはメールを開き、彼の返事に目を走らせた。


『久しぶり。計画は滞ってます。そっちは?』


 短いメールに、一気に全身の血が暖かくなったような気分になった。

 ひじりは、弾けたようにキーボードをたたいた。


『どこにおでかけしたいのか、わからなくなりました』


 今度のメールもとても短い。

 でも、なんだかこれでいいように思った。今度は一瞬の迷う時間もなく、送信ボタンをクリックした。

 暫し待つと、また返事がきた。

 まるで、あの駅のホームで会話したときのように、軽快なやりとりが繰り返されたみたいだった。


『行きたい場所が分からない?』

『行きたくない場所なら、分かってます』

『オレは君に会いたいよ』


 稲葉のメールに、ひじりは思わず指を止めた。

 一瞬ならば、呼吸も止まっていたかもしれない。


 そして、ひじりがメールを送る前に、もう一通、稲葉からメールが届いた。

 緊張しながらそれを開いて文面を確認すると、ひじりは思わず、くすりと笑ってしまった。


『計画表、返してもらいたいからね』


 ああ、やっぱりだ。

 ひじりはそんな風に思った。


(この人になら、話せる……)


『日曜日、同じ時間に駅のホームで』


 そう返した。

 ひじりは自室の窓にかかるカーテンを開き、そっと外を確認した。

 雨に濡れた露が、朝日を受けてキラキラとしていた。


 着信が来た。

 やっぱり、稲葉のメールも短い。


『了解』


 とだけ書いてあるメールが、ひじりの胸をいっぱいに満たした。

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女子中学生とおっさんが自殺する話 花井有人 @ALTO

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