第5話
家に戻って来たひじりを見て、母親は「おかえり」とだけ言った。
そして、悲しげな顔でもなく、残念な顔でもなく、どこかほっとしたような安心した顔をひじりに見せた。
「やっぱり、いけない」
「いいんだよ、行かなくても」
「…………」
母親の返事に、ひじりは言葉を失っていた。
本当は、最初から学校に行くつもりなんかなかった。駅で死ぬつもりだったのだ。
そんな風には死んでも言えない。母親の顔は、ひじりの胸をどうしようもなく締め付けた。
――留守番するのは寂しいもんだぞ。
そんな言葉が脳裏に浮かんだ。駅のホームで出逢った稲葉の言葉だ。
もし、自殺を決行していたなら、この母の顔がどんなふうに崩れてしまっていたのだろうか――。
それは、ひじりが敢えて考えないようにしていたことだった。
家族は大好きだったから。
親より先に死ぬこと以上の親不孝はないだろう。
しかし、それでもひじりは、その考えを封じ込めてでも、この社会に嫌悪感しか持てなくなっていた。
だからこそ、親の愛情が、堪らない苦しみを与えた。
「ちょっと、休んでくる」
そう言って、母親から顔を背けて二階の自室に逃げ込んだ。
部屋に入ると、直ぐに来ていた制服を脱ぎ捨てた。ラフな部屋着に着替えたら、ベッドに腰かけて、脱力する。
はぁ、と重たい溜息が吐き出されて、ひじりは項垂れた。
(失敗した)
自分はまだこの地獄の現実に鎖でつながれたままだった。
遺書も破り捨てた。アレを書くのに随分手間暇をかけたはずだったのに、いともたやすく捨て去ってしまった。
部屋の隅にほおり投げた鞄をみやった。
あの中には、稲葉の『消滅自殺計画表』が入っている。
あんなものさえなければ、自分は立ち止まらずに今頃はズタズタの遺体になっていたはずだった。
(消滅自殺……)
まるで自分と正反対の考えを持っている稲葉のその計画表は、ひじりに強く興味を引かせた。
同じ自殺を考えている人間同士だが、その手法はまったくもって違うらしい。
それがなんだか、ひじりの気持ちをくすぐった。
ひじりは立ち上がり、鞄を開くと、中に放り込んでいた小さな手帳を取り出す。
それから、脱ぎ捨てた制服のポケットをまさぐった。
「あった」
スカートのポケットから出て来たのは、稲葉の名刺だ。
それをもう一度じっくりと見て、彼の顔を思い出す。
(稲葉……八尋。株式会社マルチドーム、経理……。電話番号と……メールアドレス……)
彼の情報が小さな紙きれに収まっている。連絡を取ろうと思えば今すぐにでも取れそうだった。
ひじりはノートパソコンを置いている机の椅子を引いて腰かけると、パソコンは開かずに、消滅自殺計画表を開いた。
自殺するにあたり、他者に己の死を気取られないことを目標にしているらしいと、最初の一ページ目を見て分かる。
ひじりが気になったのは、どうしてそんな考えに至ったのかだ。自殺をするのなら、この世に何か自分の生きていた跡を残したいと思うものではないのだろうか。
消え去り、人々に何とも思われないようにして死のうとするのは、どう考えても不自然だった。
(誰にも何とも思われず、自殺するなんて、そんなことできるのかな)
少し考えて、ひじりは先ほどの母親の顔が浮かび上がった。
自分が死ねば、必ず母親は悲しむことだろう。自殺したことが分からないように、行方不明になってしまっても、きっと両親はショックを受けて自分のことを捜索するに違いない。
誰にも気づかれずに消滅することなんて、不可能だと思えた。それをする動機もまた、まったく想像がつかない。
ひじりは、一ページずつ、消滅自殺計画表を捲り、内容を確認していった。
つらつらと記されているのは、稲葉の死ぬための準備の流れだった。
どうやら彼は、他者に対し、社会に対し、できる限り深くかかわらないように生きることを目的にしているらしい。
友人は作らず、同僚、仲間といったものからも距離を置く。勿論、恋愛は一切しないような心構えが記されていた。
できることなら、他人から名前を覚えられないことが望ましいらしく、表情は無表情ではなく、ほんのりと笑んでいるのが最も他者から顔を覚えられない条件だとメモが書いてあった。
(空っぽな顔をしてるって思った……。確かに無表情ではないけど、無感情な感じだと思ったし……)
つまり、つくり笑顔だ。つくり笑顔の表情こそ、最も人の記憶に残らない仮面なのだろう。
現代に生きる人々は、つくり笑顔を被せて会話をしている。それをしたことのない人間なんて、まずいないだろう。
ページを次々に捲っていくと、人の印象に残らない方法が色々と記載されてあった。
主語を遣わず会話をすることだとか、挨拶をするときは『どうも』と返事をすると、その会話内容も朧げになって記憶に残りにくくなるらしいことなどだ。
他人の記憶に残らない方法なんて、これまでまるで興味がなかった。だから、この手帳に書いている一文一文が、とても面白かった。
自分にない知識がそこには書き込まれていて、本当にこれを実践することで、他者からの印象を薄くすることができるように思えた。
何ページが捲っていくと、最も厄介なものという項目に行き着いた。
他人の記憶に残らないように生活をしていくうえで最も厄介なものというのはなんだろうと、ひじりはその頃には『消滅自殺計画表』に夢中になっていた。
『家族。血縁者だけは、関係性を曖昧にすることが困難になる』
そのように書いてあって、ひじりはまた両親の顔が脳裏に浮かんだ。
そして、書き込まれている手書きの文字に、小さく頷いた。
自殺をするにあたって、どうしても心にしこりを残すだろう存在。それは家族に他ならない。
こんな世界で生きていたくないと思うひじりも、親が悲しむことを考えると、自殺を踏みとどまってしまう。
(家族……あの人にもいるんだよね)
稲葉は三十くらいの大人に見えたが、まだあのくらいの年齢なら両親は他界してないだろう。それに兄弟なんかもいるかもしれない。そうしたら、彼が自殺した場合に、家族は何かしら思うところがあるだろう。
それは『消滅自殺』の失敗を意味するはずだ。『消滅自殺』は死んでしまった後、誰にもなんとも思われないことを目標にしているのだから。
一体どうやって、血縁の結びを解くというのだろう。彼の消滅自殺計画が気になって、ひじりはまた渇いたページをひとつ捲りあげた――。
「……白紙……?」
しかし、それに対する計画表は白紙になっていた。どのようにすればいいのか、記載されていないのだ。
ぱらぱらとその先を捲ってみても、白紙が続いていた。
どうやら、この計画表はまだ未完成の様子だった。
「……まだ、消滅の方法は発見されてないってことかな」
少しだけ、気持ちが覚めた。そして、机のわきに置いておいた稲葉の名刺を栞代わりにして、その空白のページに挟みこみ、『消滅自殺計画表』を閉じた。
ひじりは手帳を机の引き出しにしまい込み、ノートパソコンを立ち上げた。
ネットで、また自殺に関して調べてみようと思った。
ブラウザを開き、検索窓に自殺と打ち込み、エンターキーを叩くと、検索トップに今日のニュース記事が表示されていた。
「……自殺した高校生の両親が会見……?」
高校二年生の男子生徒が自殺したおととしの事件に関して、その両親が記者会見を行い学校が『転向した事にしないか』などと言った事柄を明らかにしたらしい。
その記事を読み、ひじりは吐き気を催した。
もし――。
今日、自分が自殺していた場合……。ひじりの学校もこんなことを両親に提案したなんて考えたらと思うと、堪えられない吐き気がこみ上げてきたのである。
「う、うぅっ」
たまらず、口を押え、部屋を飛び出して階段を下りていく途中で、耐えきれずに胃の中のものを吐き出してしまった。
「うぇっ、げほっ、うぇええ……」
酸っぱい物が溢れ、手で押さえていても止められない逆流が階段を汚した。
「ひじりっ!?」
物音に気が付いたのか、慌てた様子の母親がすぐにやってきた。
ひじりが階段の途中でくずおれて、吐しゃ物を手で押さえている姿を見て、母親は直ぐにひじりの身体に寄り添った。
「どうしたのっ!? 大丈夫!!」
母は、悲痛な声だった。ひじりは凄まじい嫌悪感で顔を上げられず、ただただえずいていた。
汚い吐しゃ物をまき散らして、綺麗な階段を汚してしまったことが、申し訳なくて、ひじりは涙をあふれさせた。
嫌な酸味のある臭いがして、顔をしかめてしまいたくなるのに、母親はそんなことも気にしないで、ひじりを抱きしめて無事を確認してくれた。
腹の中のものを一通り吐き出して、むせかえりながらも、吐き気が収まったので、ひじりは階段の途中でうずくまったまま、「ごめんなさい」と謝った。
「いいから! そのままでいなさい。とりあえず、タオルを持ってくるから……」
母親は階段を駆け下りて、洗面所からタオルを持ってきて、汚れたひじりの手と顔をそれで綺麗にすると、ひじりを起き上がらせた。
「立てる? 部屋で横になってなさい」
「うん……」
こんなにも、自分は親に迷惑をかけている。不安にさせている。
自殺ですらなく、嫌悪感で戻しただけ――。なのに、母親はこうも必死に自分を救おうと駆け付けてくれた。
本当に、今朝死んでしまっていたら――。そう考えると、また嫌悪感が膨れ上がって来た。
「うぅっ……」
「ひじりっ……! ごめんね……、ごめんね……!」
「おかあさん……、おかあさん……ごめんなさい」
あふれる涙が止まらなかった。母親が謝る理由などない。謝らなければならないのはひじりのほうだと思っていた。
だから、罪悪感が喉を締め上げて、ひじりは嗚咽する。
「学校……行きたくないよぉ……」
「いいのよ、行かなくていい。行かなくていいから……! ひじりはなんにも悪くない、間違ってないの」
二人して涙を零して抱き合った。久しぶりに母親に抱きしめてもらったような気がする。
その温もりが、ひじりの涙をもっともっと溢れさせて、子供のように泣きじゃくった。
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