第4話
地味なスーツを着込んだその男性は、稲葉と名乗った。サラリーマンらしく、名刺まで手渡して来た。フルネームで、稲葉八尋と書いてある。会社の名前と電話番号、メールアドレスまできちんと書いてあった。
自殺を止められて、ひじりは自分がどのように行動するべきなのか、咄嗟に判断ができなかったこともあるのだが、何よりも自分の手に持たされた小さな手帳が気になっていた。だから、ひじりは、奇妙なことだと自覚しながらも、稲葉と共にホームの椅子に腰かけていた。
塗装の剥げかかった色あせた椅子は頼りなく、そしてひんやりとしていて、自分の居場所に似合っているようにも思えた。
「あの……」
と、口を開いたものの、隣に腰かけるサラリーマン風の稲葉にどのような言葉を投げかけるのが適当なのか分からない。
助けてくれてありがとう、だろうか。いや、自分の計画を止められてしまったのだから、『ありがとう』ではない。
ならば、余計なことをしてくれたなと怒りを向けるべきだろうか。それも何かピンとこなかった。
もし、この稲葉という男性が「命を粗末にするな」などと注意をして来たなら、ひじりは大声で怒鳴りつけたことだろう。
しかし、稲葉はまるで予想外の行動をして来たのだ。
手元にある小さな手帳。その手帳には『消滅自殺計画表』と手書きの文字で書いてある。
「読んでみて」
稲葉は、灰色の目を向けてちょいちょいと節くれだった指を動かし、ひじりにその手帳を読むように促す。
――自殺するなら、こうしろ――。
彼はそう言ってひじりを助けた。
その短い一言が、稲葉に対して怒りを向けることを止めさせた。
好奇心……。好奇心だとひじりは思った。
稲葉は、ひじりの自殺を止めたのではない。下手糞だから、やり方を教えてやるという感覚で声をかけた。そんな風に感じ取れた。
なによりも、この手帳の中身が気になってもいた。
(消滅自殺――?)
聞いたことのない言葉だった。首つり自殺とか、飛び降り自殺とかそういうのは知っていたが、『消滅自殺』と言うのは、ひじりの知らない言葉だった。
ちらりと稲葉の様子を窺った。
本当に読んでしまっていいのか、と確認をするように。
改めて隣に座るスーツの稲葉を覗き込んでみても、なんとも印象が薄い。どこにでもいるサラリーマン。一般人。通行人。モブ。そんな代名詞がぴったりくるような男性だと思った。
窺うように目を向けたひじりに、稲葉はこくりと小さく頷いた。
ひじりは『消滅自殺計画表』を開いた。
小さな手帳はメモ帖のようで、まず最初のページにこれも手書きのボールペンの字が書き込まれてある。
『自殺するにあたり、何よりも重視すること。――それは己の死を、他者に気が付かせないことである』
そのようなことが、最初のページに記載してあった。
「なにこれ」
「自殺の流儀だ」
「流儀?」
「そう、オレの流儀。オレの自殺の計画表」
飄々した声で、稲葉は言った。
ひじりは、表情を変えず、稲葉に訊ねた。
「自殺の計画を立てているんですか?」
「そう。自殺する予定だから」
「……」
ひじりは、変なヤツだと思った。しかし、自殺を考えるような人間はすべからく『変人』なのかもしれない。
自分だってさっきまで死ぬ予定で動いていた。『声』が『変』な自分は、周囲から『異常』だとレッテルを貼られている。
そして、そんな自分だからこそ、この稲葉のことを『変人』なんて呼べる資格はないと自然に思った。
「自殺をするのに……」
「ちょっと待った。あんまり自殺自殺言ってると、周りから注目を浴びる」
「はあ?」
「『自殺』のことは、『おでかけ』って言うようにしよう」
「……『おでかけ』するのに、こんな計画表を作ったんですか?」
「ああ、『でかける』時は、大抵計画を練るものじゃないか? それとも無計画でぶらぶらとするタイプか?」
「だって『でかけた』ら、もうそれでオシマイだし」
「天国とか信じない?」
「信じないですね」
淡々とした会話が、小気味よく続いた。
なんだか、不思議と口が自然に動いてくれる。初対面のはずではあるが、稲葉という男性に、ひじりは話しやすいという印象を持っていた。
きっと、この『消滅自殺』というもののことを早く知りたいからかもしれない。
「じゃあ、君がでかけた後は、この世界はどうなっていくと思う」
「……」
それはひじりも考えていたことだ。
ほんの僅かでも、この世の中に対して、自分が居たという痕跡を、傷跡を、刻み込むために『おでかけ』をするのが目的だったから。
理不尽で偽物ばかりの、嘘っぱちな世の中に、一瞬でも『真実』で殴りつけて青あざでも作ってやりたい。その青あざがいつか癒され消えてしまうとしても、痛みを与えて苦悶させられるのなら、十分だと思っていた。
「帰ってこない君を、両親が捜して回るよ」
「……」
聞きたくない話になっていきそうだと、胸の奥に重たいものが生まれたようだった。
自殺をすれば両親が悲しむ。そんなことはひじりだって分かっている。
母親も父親も、自分のために怒り、涙を零してくれた。愛情をもって育ててくれたと知っている。きっと自分が自殺をしたら、悲しむだろう。だが、それを考えていたら、この穢れ切った世界でいつまでも過ごしていかなくてはならない。
両親だって、こんなに汚れた社会だと知っていたのなら、どうして子供を作ろうなんて考えたのだろう。
地獄を愛する子供に味わわせるために、産み落としたのだろうか。ひじりはそれが理解できなかった。
分かっているのは、この世界で生きていても、辛いことしかないということだけだ。
人はいつか死ぬから、それを少し早めにするだけだ。ひじりは自分の考えを合理的なものだと信じていた。
「親が悲しむから、『おでかけ』を辞めろって言いたいの?」
「君、留守番させられたことはあるか? あれはそうとう寂しいもんだぜ」
「……」
ひじりは、手帳を稲葉に押し付けるようにして返した。そして、すぐに立ち上がった。
もう話していたくないと思ったのだ。自殺するな、そう言っているのだと感じ取った。それは今ひじりが一番聞きたくない言葉だった。
「私の寂しさは……出かけないと、消えない」
ぐう、と喉の奥が苦しくなって、呼吸が詰まりそうになる。堪らない感情が溢れてしまいそうだった。怒りや悔しさ、悲しみと寂しさ。欲しくない感覚が胃の中で生まれて、食道を逆流して吐しゃ物みたいに出てきそうになるのを抑え込む。
感情が溢れて涙が出そうになったが、ここで泣いたら、何かに敗北したような感じがして、ひじりはギリと奥歯を噛みしめて表情を固めた。
「出かけるなとは言ってない。君が出かけるつもりがあるんだったら、オレは手を貸したい」
「……え?」
「ただ、そのままお出かけするのは、準備不足だって言ってるんだ。計画を立てようぜ」
「……消滅の?」
「そう」
どこまでいっても、稲葉の態度は淡々としていた。正義感や同情、道徳からひじりの自殺を止めようとしているのではない。
数学の教師が、公式を教える時みたいに、『やり方』を伝えているような声に近い。
「それはあなたの流儀でしょ。私のは違う」
教師のようだと思った時に、稲葉に対しての嫌悪感が少し色濃くなったと自覚した。
ひじりは、教師という人種にすでに軽蔑していたためだろう。稲葉の言う『消滅自殺』。彼の流儀は、死ぬのなら誰にも気取られずに死ぬべきだという考えに基づいている。
あの『計画表』の一ページ目にそのように書いていた。
「私は、真っ黒な跡を……染み込ませたいの」
駅のホームはまだ多くの人が電車を待っている。
二人は壁際に備え付けられた椅子に腰かけているが、ホームの人々はみんな電車を待って立ち並んでいた。周りの人の顔を見もせず、取りつかれたみたいにスマホの画面を見つめている人々ばかりだ。
ひじりと稲葉が多少揉めているような状況さえ、徹底して無関心なのだ。そんな社会が、ひじりは気持ち悪くてたまらない。
この駅に居る人々をみんな、自分に注目させたい。
そして、自分が電車に轢かれてグチャグチャの肉ミンチになる場面をしっかりと見せつけてやりたい。
今後、ハンバーグを食べられなくなるような、モツ鍋を食べられなくなるような、そんな自分の姿を刻みつけてやりたいと思ってしまう。
ひじりは、もう、学校の生徒だとか、教師だとかに対して怒りを持っているだけではないと分かった。
この世の全てが憎らしいと思ってしまっていた。
そんな世界で、息をしていたくないのだ。
「さっきの話に戻るけどさ。そのまま君が出かけたとして、この世界はどうなると思う」
「……」
「黒い染みを遺せるか?」
一瞬だけでもいいから、この世界に傷あとを――。
この世に住まう悪魔たちに、一撃を――。
しかし、それでどうなるというのだろう。世界は変わるのか?
いいや、変わらない。世界はもう、変わりっこない。時間が腐っていくだけだ。
ひじりが付けた傷は、かさぶたを作って、また元に戻る。
かさぶたがあるうちは、その跡を見て世界は顔をしかめるかもしれないが、傷跡が完治してしまえば、どこに傷があったのかも忘れてしまうだろう。
それはこれまで、自殺をしてきた人々が証明している。何百人という自殺者がいるのに、世界は一人目の自殺者が出た時から、そんなに変わっていないのだから。
「まもなく、一番ホームに電車が参ります」
駅員の放送が響いた。遠くからガタンガタンと線路を揺らす音がする。電車が来るのだ。
「社会は腐ってる。社会人のオレが言うから間違いない」
「じゃあ……なんでみんな生きてるの?」
「生きてんじゃないよ。死ぬのが嫌なだけ」
「情けない」
吐き捨てるようにひじりは言った。自分はそんな風になりたくないと思ったが、きっと自分もそうなるのだ。
この世界で生きていくということはそういうことだ。
「じゃ、オレ遅刻するから行くわ」
電車が止まる。稲葉はなだれ込む様に電車に吸い込まれていく人々の中に溶け込む様に消えていった。
ひじりはその電車には乗らなかった。
その電車に乗り、学校まで行くのが通学路だ。
しかしひじりは、学校に行く気なんてもう微塵も沸いてこなかった。
もとより、駅のホームで死ぬつもりだったから、学校まで行くつもりもない。
「ドアが閉まります」
覇気のない、耳に残る駅員の声が響いた。
あれだけいたホームの人々は、すっかり数を減らしていた。
ひじりはふと後ろを振り向いた。先ほど、男と一緒に腰かけていた椅子に、小さな手帳が置いたままになっていた。
ひじりはその手帳を拾い上げ、駅から出た。
帰宅する途中で、鞄を開き、中に入れていた遺書を破り捨てた。
代わりに、『消滅自殺計画表』を鞄に忍ばせ、春の風を受けて歩いた。
ふわりとスカートを撫でていったその風は、どういうわけだか気持ちいいと思えた――。
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