第3話

 五月二十七日。月曜日。

 ひじりは朝の駅のホームでぼんやりと立っていた。

 未だに着慣れない制服はやっぱり気分が滅入ってくる。右手に下げている鞄は軽く、その中身は一通の手紙――。遺書しか入っていない。


「来週、登校してみないか」


 そう、金曜日の夜に担任から提案を受けた。

 金曜日の夕方、担任はまたひじりの家に顔を出し、母親と対話していた。

 父は仕事から帰っておらず、母しかいなかったものの、母は父親が居ないからこそ、厳格な態度でもって担任に向き合ったらしい。

 担任はこの数週間の中で、ひじりに何があったのかをクラスで聞き取りし、虐めの詳細を母に伝えて詫びを入れたのだそうだ。


 そうして、母親がひじりを呼び、母と担任を交えての三者面談が行われた。

 その場でひじりは、母親から学校で虐められていたのかと、改めて確認された。

 ひじりは、虐められていたとは返さず、自分の身に起こったことを、ありのまま伝えた。

 授業中に、声が変だと嗤われたこと。

 休み時間に、自分のことを物笑いの種にされていたこと。

 それがどんどんエスカレートしていったこと。

 教壇の前で歌えと囲まれたこと。


 息苦しくなったこと。

 誰も助けてくれなかったこと。


 その後も反省している人が誰も居なかったこと――。


 全てを伝えて、ひじりは言葉を待った。

 ひじりが倒れた日、そんなことがあったことを知らなかった母は、涙を溢れさせて担任に激昂していた。

 担任は、葬式に並ぶ参列者みたいに深刻な顔を作り上げて、「申し訳ありません」と謝るだけだった。


「クラスのみんなにはしっかりと注意をした。来週から、もう一度登校してみないか」


 担任は、ひじりにそう告げた。母親は、ひじりの意見を尊重すると言い、ひじりの回答を待った。

 ひじりは、その時、なんとなく考えていた。


 ――注意をした?

 それで解決になるのだろうか。月曜日に学校に行き、クラスメートがみんな自分に頭を下げて謝るのだろうか。


 そんなことが起こるはずがないのは明白だ。

 また、そんなことがあったとしてもその謝罪は心からのものではない。

 注意されたから、『謝る行為』を見せつけるだけなのだ。

 謝ったから、はい仲直り。そんなに簡単に話がまとまるわけがない。そういう社会をみんなで作ったのだ。学校はその色が克明に浮かび上がる場所だと思った。


「登校拒否は、時間が経てば経つほど、学校に行きにくくなるんだ。今ならまだ間に合う。やり直そう。先生も頑張るから」


 懸命な説得をする教師、という雰囲気が目一杯出して、担任はひじりを真っすぐに見据えた。

 その言葉が、真実かでまかせなのか、ひじりは判断できなかった。

 感じているのは、この人はまだ信用するに至らない、という気持ちだった。


 それに、担任の言葉の端々に、何か不誠実なものを感じていた。

 もう一度顔を出せ、と言うことをとにかく一番に伝えたいらしい。

 ひじりが最初に聞きたかった言葉は、そんなものじゃない。


 私の声、そんなに変ですか?


 虐めの原因になった声。

 その原因を知ったのなら、まず、そこをどう思っているのか、ひじりに伝えてほしかった。


 お前の声は、変じゃない。その一言が、この対話の中のどこかにでもあれば、ひじりは少しくらいはこの人の気持ちにも寄り添おうと思ったのだ。

 今回の件で、ひじりが何に傷ついたのかを理解してほしかった。

 しかし、担任は虐めの原因を掴んだものの、その原因は気にしておらず、虐めを行った生徒たちに注意をして、ひじりには早く学校に来いと告げるだけだった。

 早く学校に復帰させたいのは、不登校の生徒を出してしまう失敗に怯え、虐めの対処を素早く解決させたいからではないのだろうか。

 ひじりだってこの不登校の間、何もしなかったわけではない。ネットで色々なことを調べた。

 公務員は減点制で評価されるのだそうだ。

 失敗すると減点されて、経歴に傷を作る。今後の昇級などにも影響を与えるし、学校の評判も落ちてしまうから、学校側は虐めや不登校に対して非常に敏感なのだそうだ。

 中には、学校に通っていない生徒がいるのに、その事実を隠すために、不登校の生徒を出席扱いにするような学校もあると知っていた。


 教職員は聖職者などと言われているようだが、所詮は人間だ。

 人間は、間違うし、不完全な生き物だ。教師だってダメな人間はダメなものだし、いい人なら、自然に心を惹かれるはずだ。

 残念ながら、ひじりは自分の担任に対し、後者のような印象は持てなかった。


 傷ついているのはひじりのはずだ。その傷の原因を知った時、その痛みに対して寄り添ってくれることを求めていた。

 虐めの解決なんかはその後の話に過ぎない。

 結局、その日担任の口からは、ひじりの声に対する言葉は発せられることがなかった。


 本来なら、そんな担任の言葉に首を横に振って、不登校を宣言するものなのかもしれない。

 だが、ひじりはその瞬間に思った。


 決行しよう――、と。


 自殺をしようと常々考えていた。何かしらの一撃を与えないと、この社会は揺らがない。

 例え、この自殺がその内忘れ去られてしまうようなことになろうとも、一撃を与えなければ、この社会はどこまでも無感情に自分の気持ちを無視していくだろう。

 一瞬でも、自分に対して意識を向けさせたい。その方法が、ひじりにとって、自殺という方法に過ぎなかっただけだ。


「先生。私、月曜に学校へ行きます」


 そう答えた時の担任の顔は、失笑ものだった。

 担任は、野球中継を見ている観客が、ホームランに沸き立つみたいに表情を明るくさせて、「そうか! ありがとう!」と笑ったのだ。


(ありがとうじゃないでしょ)


 その言葉で、よく分かった。

 この男の本心が。


 自分の保身のために、ひじりを学校に通わせようとしているだけなのだ。

 仕事のために、業務をこなしているだけであって、傷ついた生徒を思いやる気持ちがないのだと、一瞬で察することができた。


 そうして――、月曜日の朝、駅のホームでひじりは待っていた。電車が来るのを。

 自分を轢き殺す電車がやってくるのを。


「まもなく、一番ホームに快速電車が通過します――」


 この駅では止まらない快速電車の通過を報せる、駅員の声に、ひじりは前に歩み出した。

 線路がゴウゴウと鳴り響くのを耳がしっかりと捕らえた。右を向くと、遠くから電車がスピードを落とさないままに走ってくるのが見える。


 よし、行こう。

 そのくらいの感覚だった。死ぬ前には色々と思うものがあったり、走馬燈が走るなんてことも聞くが、特に何も浮かばなかった。

 そのくらい、この世界に、社会に魅力を感じていなかった。

 面倒な宿題をほおりだすくらいの感覚しかなかった。


 足取りも軽く、白線の外側に足を踏み出したひじりは、そのまま前身をホームから投げ出そうと前のめりに倒れ――。


 ――ようとして、ぐい、と強い力で後ろに引かれた。

 突然のことに、何があったのか分からなかった。

 お腹の辺りに、ぐっと力強い重みを感じたかと思ったら、自分の意思の反対方向に引き込まれ、目を丸くする。


「やめてくれ」


 後ろから低く静かな声がした。

 大人の男性のものだと思った。驚く程静かに、それでいて低く重みのある声で、無感情なものだった。


 ふと確認すると、自分の腰に男性の腕が回されていた。

 背中には、硬い肉体の感触がある。飛び降りようとしたところを、後ろから抱きかかえるようにして引き戻されたらしいと分かった。


 ゆるりと顔を後ろに向けると、その男性の顔が確認できた。

 サラリーマンだろうか。スーツ姿で年のころは二十後半か、三十代といった印象だった。

 自殺をしようとしていたところを止められたのだと、その顔を見つめていて、今更ながらに気が付いた。


 しかし、どういうわけだろう。

 こういう場合、自殺を止める人というのは、慌てているものではないだろうか。

 自分も、もし目の前で人が飛び降りようとしていたら、流石にぎょっとするだろう。


 でも、この後ろから抱きしめる男性は、無表情に曇天のような眼を向けていた。


 男性は、腕をほどくと、ゆっくりと冷静な様子で一歩引いた。

 ガウンガウンと、けたたましい音が前方から聞こえる。快速電車が走り抜けていく。


「自殺するなら、こうしろ」


 ガウンガウンと、煩い電車の音の中、その男性の声だけは妙にはっきりと聞こえた気がした。

 男はそういうと、ポケットからなにやら手帳を手渡して来た。


 ひじりは、ほとんど反射的にそれを受け取った。

 その手帳には、このように書いてあった。


 消滅自殺計画表、と――。


 快速電車は走り抜け、ホームはまた僅かな停滞の空気に包まれた。

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