白いポーチ

佐藤踵

白いポーチ



 自分でも驚くほど歩幅が大きくて、気を抜くとスキップをしてしまいそうなくらいにわくわくとしていた。それは梅雨が明けたからでもなく、お気に入りのスニーカーを履いているからってわけでもない。だけどいつもは憂鬱で、白い線を見つめて歩く大学までのこの道のりがまるで羽根でも生えたのかってくらい軽く、心地の良いものであることは確かだ。

「おーはよ! さすが、ご機嫌だねぇ」

 掴まれた両肩に少し驚くが、その甘いフローラルの香りとハツラツとした声色ですぐにわかった。

「……綾、おはよー」

「菊子もパンプス履けばいいのに! 後ろ姿は中学生だよ」

 つまんなさそうな顔をして、並んで歩き出す。さっきまでの足取りを見られていたと思うと、小っ恥ずかしかった。そわそわして、手持ち無沙汰の両手でショルダーバッグの肩紐を握ると、綾は言う。

「あ、今日四限終わったら、ジェリバ行くよ!」

 ジェリバは、全部のドリンクにありえないくらい砂糖が入っていて、苦手だった。だけど綾は、セールでゲットした花柄のシャツワンピの裾をルンルンと揺らす。揺れる裾を見て、ジェリバはやめようよ、とは言えなかった。

「ほんと、好きだね」

「いいじゃん! めでたい日だし、ご馳走するからさ!」

 わたしを追い越して、振り返る。ワンピースだけじゃない。トートバッグも、パンプスも、一緒に買い物に行った時に買ったものだ。そっか、綾とは高校から一緒だもんなぁ、なんてぼけーっと考えていた。

「じゃ! けってーい!」

 答えを返す間も無く腕を組み、綾のトートバッグがぎゅっと当たった。

 よく考えたら、わたしの履いているデニムも、ブラウスも、小さな鞄も、全部綾に選んでもらったものだったかもしれない。



 お日様は暖かく、久しぶりに風が爽やかに吹いていたのでテラス席を選んだ。だけどこれは建前だ。綾は声が大きく、テンションが上がるとびっくり顔で人目を気にせず声を上げるのだ。店内では小難しい顔でキーボードを叩く大人たちがそこかしこに散らばっていたので、騒ぐと白い目で見られそうだった。なのでテラス席を選んだ。

 もりもりと生クリームの乗ったココアを嬉しそうに眺める。綾はいつも好き好んで生クリームを追加しているのだ。見てるだけで甘ったるい。蟻でも寄ってくるんじゃないかと思ったが、友達だから言えなかった。

「もー、そんな目で見ないでよ!」

 唇を尖らせる。気遣いをしたつもりだが、目は口ほどに物を言っていたらしい。綾は尖らせた唇をそのままに、緑色のストローを咥える。

「おいしー」

 まるでチョコレートのように蕩けた笑顔だった。あぁ、人それぞれでいいのだ。と心底実感し、りんごジュースを啜る。これすらも少し甘く感じた。

「じゃあ、さっそく……」

 語尾がルンと上を向いた。綾は、右隣の椅子に置いたトートバッグを膝に乗せて、ガサガサと漁る。シラを切るのも違うと思ったし、わざとらしくリアクションなんてのも出来なくて、りんごジュースの水かさが徐々に減る。少しドキドキして、身体の内側からむず痒い。

「じゃーん!」

 トートバッグから覗いたのは、小さな紙袋。ピンク色に、ゴールドの文字でブランド名が書かれていた。紙袋の横から顔を出した綾は言う。

「菊子、お誕生日おめでとう!」

「ありがとう……」

 手提げの部分は持たず、両端から持った紙袋を手渡す。振ってみると、何か箱のようなものが揺れる感覚がした。

「なんだろう?」

 紙袋の口を開いて覗くと、やっぱり黒い正方形の箱が入っていた。テーブルを軽く手で払ってから、箱を置く。綾に目を合わせると、得意げな様子で微笑んだ。

「開けてみなよ!」

 言う通りに、ばってんに結われた赤いリボンを解く。蓋をゆっくりと上げる。

「ポーチだ」

 小さく、光沢のある革のポーチ。落ち着いた赤色が、陽の光でつやつやと光る。真ん中に型押しされたロゴには見覚えがあった。

「これ、よく一緒に行く……」

「そ! 一目惚れしてさ。菊子の使ってたポーチ、だいぶ年季入ってたし」

 鞄の外ポケットから使っていたそれを取り出して、赤いポーチの隣に置く。そのコントラストに二人で目を合わせて吹き出した。わたしの使っていたものは、くったりと萎びていて、ファスナーと布の境目が解れていた。いつ買ったかも覚えていない安い布のポーチ。どうせもう使わないからどうでも良いと思っていた。

 隣に並ぶと赤いポーチは、とっても輝いていた。

「すごく嬉しい……ありがとう」

「ううん。喜んでくれて良かった!」

 嬉しい、照れ臭い。りんごジュースが減っていく。綾もココアをかき混ぜた。

 良い友達を持った。それだけで自分を保っていた。



 年上の彼氏が付き合って半年の記念日をすっぽかしたこと、サークル内で二股をかけたやつがいてぎくしゃくしてること、高校の同級生がいつのまにか結婚したこと……

 どうでもいいことをジェリバで話し込んだ後、駅ビルを見て回った。綾が花柄のワンピースを試着して、買おうか悩むもんだから、同じようなのたくさん持ってるじゃん、と言うと我に帰ってカーテンを閉じる。ディスプレイを黙って通過することがなく、綾は何でも欲しがった。かわいいー、いいなー、欲しいなー、と。

 綾は一番最初に見たお店に戻ると言う。あの白いレースのブラウスを買うらしい。四階からエスカレーターを降りる。わたしはもう何もいらないので、綾の気が済むまで付き合おうと思った。

 ディスプレイ横から紙袋をぶら下げて、綾はほくほくと笑みを浮かべている。目尻が垂れて、幸せそうないつもの笑顔。

 自動ドアを通り過ぎると、改札口は帰路につく人で溢れていた。駅に出入りする人を避けるように、柱の前で立ち止まる。ロータリーの方へ向かう人混みの奥、覗く空は薄暗くなっていて、綾に気付かれないように溜め息を吐く。

 しまった。一瞬で後悔に変わったのは、綾が横目でじぃっとわたしを見つめていたから。溜め息は、雑踏に紛れて誰にも届かないうちに消えたはずなのに。綾はわたしの気持ちの変化に嫌に敏感で、わたしもまた、綾の気持ちに敏感だった。

 ショルダーバッグの肩紐を握る。あぁ、これもきっと見透かされている。慌てて手を離すが、宙ぶらりんの両腕は嫌に空気を感じて、心地の良いものではなかった。握りこぶしで体温を感じる。

「菊子、二十歳はたちだね」

 人の往来の中で、微かに聞こえる綾の声。

「うん」

 わたしも綾に合わせて、空気をたくさん含んだ返答をする。会話にはならず、二人で改札口から溢れる人の流れをぼうっと眺める。

「改札に入って別れたら、菊子、あんた消えちゃいそう」

 改札口を挟んで、手を振り合う学生たちがいた。また明日ね、と別々に歩き出す。

「わたしが、消える……」

 ゆっくりと、一文字づつ綾の言葉をなぞったのは、驚いたからではないし、体良くいいわけを考えるためでもない……困ったからだ。握りこぶしさえ落ち着かなくて、結局肩紐をぎゅっと握って落ち着く。何かに縋らないと、ぼろぼろと崩れてしまう気がする。

「綾、あの、あのね」

 みぞおちの辺りがぎゅっと締め付けられて、言葉が身体の中に留まる。唇の隙間からは息すら出てこない。諦めて俯く。

 灰色のタイルの上、綾の真っ赤なパンプスのつま先がこちらを向く。顎が鎖骨に埋まるくらい、さらに俯いた。

「あたし、菊子がいなくなったら、悲しいの」

 いつも人が振り返るくらいに大声で騒ぐ癖に、こんな時に限って通り過ぎる人たちに埋もれる、か弱い声で呟く。

 パンプス、裾、ベルト、毛先、襟、結んだ唇……。そして臆病に目を合わせると、潤んだ目はふっと伏した。今度はわたしが目を逸らさない。

「綾、わたしね。赤いポーチ、嬉しくて」

 切れ切れで不恰好でも、黙り込むよりはましだと思った。

「綾に出会えてよかった。でも、やっぱり、わたしは」

 勢いよく柱を伝わる振動に怯んで、またしても言葉が詰まる。ごぉーと単調な主旋律に、がたんごとんと時折合いの手が入る。快速電車が通ったのだろう。十五両編成、綾と横浜に行く時にも乗った。通り過ぎるのを黙って待つ。

 通り過ぎても、今度は綾がわたしのスニーカーを見つめている。少し派手な赤を勧められたけど、私は白を頑として譲らなかった。赤は主張が強くて苦手だった。

「綾とわたしは、違う」

 白いスニーカーに決めた時、綾は膨れた。わたしが紙袋をご機嫌に揺らしても、綾のヒールは尖った音を立てた。でも生クリームが乗ったココアを飲んだらすぐに蕩けた笑顔になる。

「わたしは綾みたいに、この世界を好きになれない」

 赤いポーチは、綾が選んでくれたのならそれだけで価値があった。買った後、綾の笑顔が蕩けていたならそれだけで嬉しい。

「綾のこと、大好き」

 やっと目が合うと、おさまりきらなかった涙が溢れて、頬を転がった。顎先まで転がって、落ちる。どこに落ちたのかは知らない。

「……それなら、これからも一緒にいようって!」

 薄く梳いた前髪から覗く眉間はシワが寄っていて、涙は両目とも同じ道すじを伝った。もうその雫は見えないから、転がるとは表現できない。冷静になったのは、綾がいつも通りの大きな声を出すから。その声にいつも引っ張られていたから。

「でも、わたしは、やっぱり自分のことが大嫌い」

 垢抜けない顔も、小さな背も、治らない内向的な性格も、何かにびくびくと怯えて過ごす日々も。一度、あの日に投げ出そうとしたけど、綾が大きな声で怒って、手を引いてくれた。それからずっと、綾に寄り掛かって生きてきた。それが良くないことだってわかっていたから、大人になる二十歳はたちの誕生日を選んだ。今日が来るのを待ち侘びていた。

「おねがい、綾。今度こそ、わがままを聞いて欲しい」

 あの日、わたしが右足を踏み出すよりも早く、左手を掴んで引っ張った。誰だか知らない、気の強そうな女の子にけちょんけちょんに怒鳴られた。あんた、馬鹿じゃないの! 死んじゃうよ! そこから先は、全てをひっくり返すくらいに甘く包む、フローラルの香りしか覚えていない。

「会えなくなるなんて、嫌だよ!」

「……ごめん、わたし行くね」

 走り出せずに面影を残して歩き出したのは、あの日のように、躊躇いなく手首を掴んで、身体がちぎれるくらい思い切り引っ張って欲しかったからかもしれない。

 綾もそれをわかっている。それをしてしまったらわたしが余計に苦しむこともわかっている。だからこそきっと、ちぎれそうな声で、わたしの名前を呼ぶだけに留めるのだ。

「菊子……」

 ほら、やっぱり。

 ……ありがとう、これで迷い無く走り出せる。


 赤いポーチに綾との四年間を詰め込んで、しっかりとファスナーを閉めよう。それだけでこの世界を好きなまま、思い出になれる気がした。



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