第26話うちの部員を紹介します
犬飼先生が謹慎処分でいなくなった。
現国の授業はどことなくうら寂しげな雰囲気をまとって進む。臨時の現国教諭は眼鏡をかけた大人しげな若い男性で、言葉遣いも美しく丁寧で、いかにも国語の教師にふさわしい。
チャイムと共に、きっちりと授業を締めて、新しい先生が教室を出て行く。
「犬飼先生じゃないと、淋しいよね」
「山本さん」
「もう身体は大丈夫?」
「うん、ありがとう」
知らずに触れた耳朶は、ピアスホールに似た微妙な跡を残して塞がりつつあった。
「いっそ、それ、開けちゃえば」
小野さんがピアッサーを打ち込む仕草でにやりと笑う。
俺は両手で耳をかばって、ふるふると必死で首を振った。あんなに痛いのなんて、もう厭に決まっている。
「やまは開けたよね」
「うん、みんなが着けてるピアスが羨ましくって。願い事が叶うんだって」
ぎくりとした俺にほらほら、と髪をかき上げて見せてくれたのは、夜の色をした石の付いたピアスだ。
「お兄ちゃんには内緒にしてね」
怒られちゃうから、と山本さんが笑う。
「でもさあ、やまも、おまじないの類いには本当に気をつけてよ。転校した先輩、集団ヒステリーだったんだよね」
首を傾げて小野さんが俺を振り返った。
そうなのだ。
あの日、校長室で語られた用意された真相が、学校側の正式発表として公表された。
今回の、俺と犬飼先生が負傷し、梶原さんが一端となったとして転校した、その原因。
校内で繰り返し『おまじないごっこ』をした結果、強い自己催眠にかかった女子生徒が一時的に前後不覚に陥り暴れ、取り押さえようとした生徒が負傷、さらに生徒を助けようとかばった教諭と共に階段から落ちた。
今回の一件で『おまじないごっこ』を行った女子生徒一名が自主退学、及び、共同で遊びに加わった男子生徒一名が停学処分。女子生徒に関しては、怪我をした生徒、教諭の双方が、階段から転落したのは不慮の事故だと強く嘆願した結果、他校への編入手続きが採られることとなった。
女子生徒が密かに『おまじないごっこ』を行い、学校に隠れて野良犬に餌付けをしていた、開かずの間と呼ばれていた立ち入り禁止の倉庫室は、教諭の目が届かないという元々の理由で再閉鎖。
そして。
限りなく緩い我が校の校則に、異例ともいえる新たな校則が加わった。
曰く「怪異を語るを禁ずる」。
ぽかんとした俺の目の前で、校長は、楽しげに喉を鳴らして笑ったのだ。
「禁ずれば、賑やかになるものだよ」
その校長の思惑通り、噂は収まるどころか加速度的に増殖を続けて、もはや元の話がなんだったのか分からず、すでに真偽の境目が溶け出している。
「そう、みたいだな。俺もよく知らないんだけど」
「集団ヒステリーて、すっごく昔に流行った『こっくりさん』が禁止されたのと同じ理由だよね」
「だな」
「でも、佐伯を助けたのに、犬飼先生が謹慎処分だなんて不公平だよねえ」
「ね、ね、犬飼先生、やっぱりかっこよかった?」
喜々として山本さんが聞いてくるが、かっこいいわけがない。だんまりと半眼になった俺に、何を思ったのか、山本さんが嬉しそうに、うふふと笑う。
「犬飼先生と言えばねっ」
満面の笑みで山本さんが身を乗り出す。
「あ! 知ってる! 新しいウワサがあるんでしょ?」
「なになに」
「えー、知らないの!」
通りすがった女子生徒のグループが、きゃっきゃと楽しげに割り込んできて、俺を突き飛ばした。
「やだ。みんなもう知ってるの?」
「知ってるよ-!」
「佐伯くんは?」
くるりと女子が期待の籠もった眼差しで俺を責め立てる。
「し、知りません。すみません」
「さすが! 佐伯くん!」
「あたしも知らなーい」
「あの開かずの部屋ね」
山本さんが声を潜めて、みんながぐっと顔を寄せる。
「…美少年の亡霊が出るらしいの」
「えー! 何それ!」
「だから再閉鎖されたんだって、ただの倉庫室なのに」
「うそー、やだ、美少年?」
「犬飼先生ね、本当はその少年を追っていて怪我をしたって」
「何それ、何それ!」
「だって、偶然、佐伯くんが襲われた場所に居合わすなんて、おかしいでしょ」
「うんうん、私もそれ、思った!」
ぐん、と誰かの肘が俺を輪から押し出す。
「でも、美少年て、誰それ」
「写真があるらしいじゃん」
「うそ、見たい!」
「オカ研がさ、持ってるって」
「えー!」
「センセが美少年を羽交い締めにしてるらしいよ!」
「やだー! 見たーい!」
盛り上がる女子生徒の中から、すっと山本さんが抜け出て、俺の隣に立つ。
「ねえ、佐伯くん?」
顔も見ずに、山本さんが尋ねる。
「な、何でしょうか」
「…その美少年て、佐伯くんじゃないの…?」
「…えっ? や、ちが…」
「ふーん?」
ぐりん、と俺を振り仰いで、山本さんがにっこりと笑った。
「写真が出回ってるなら、当分、前髪は切れないよね」
「…う」
「美少年は私だけの秘密だね」
言い残して、山本さんは輪の中に戻っていく。
「オカ研新聞、もらいに行こーよ!」
女子たちが、まるで夢の国にでも行くかのようなはしゃぎ声を上げて、教室から躍り出ていった。
よろめいた俺を、坂本が受け止めて、ぽんと肩に手を置いて首を振った。
◆◆◆
もう、限界だ。
何も見えない。こんなにも、世界は暗く、閉ざされているのか。
「なにしみったれた顔してるの、佐伯」
前髪を引っ張って口を歪めていた俺を、小野さんが小突く。
「や、もう、本当に前髪が」
「…見る? 佐伯くん、オカ研新聞最新号」
学校中の女子の三分の一の関心をかっさらったオカ研の新たなる噂。
『犬飼先生と美少年霊。犬飼先生は凄腕の霊媒師?』が学校を席巻してはやひと月。
写真があるとはいうものの、焦らしに焦らしてなかなか実物が出てこない。その間にも、どこかから噂にまことしやかな追加情報が加わる。誰かが嘘だと言い始めた辺りで、開かずの間の灰色の扉に消えていく犬飼先生と男子生徒の、粗悪な画素数の写真がどこからともなく出回った。
扉の隙間は闇に覆われ、人影が二つあるものの、どちらも顔は判然としない。それでも、尋常ではない掴み合った写真に、校内は色めき立った。
そうして、噂は大きく育つ。
ひっそりと学校を去った梶原さんのことは、噂に呑まれて記憶から薄らぎ、犬飼先生と階段からもつれて落ちたのは、美少年霊に取り憑かれた某生徒、ということになっていた。
「いい。見たくない。そんなことより、切りたい、前髪を切りたいんだ」
「…いいの、佐伯くん?」
「そうだよ、佐伯」
すでに何かを感づいた山本さんと小野さんが、俺をじっと見つめてくる。
分かっている、今、俺が髪を切ったら噂の美少年が俺だと言うことが、校内に知られてしまう。
そしてなによりも恐ろしいのが、オカ研の、いや湯澤さんの持っている例の写真がどこまで鮮明なのか、まるで分からないことだ。
あれから、手を変え品を変え湯澤さんを追いかけているのだが、まるで捕まらない。
そもそも、停学処分中だというのに、どうやって校内に噂を流しているのだ。
「大体、本当のところはどうなのよ。なんだか、すっごく怪しんだけど」
小野さんが、半眼でこちらをじろりと見やる。
「本当って、学校から説明があっただろ」
「この間のことだけじゃなくて、ねえ、やま」
「うんうん」
「やけに、佐伯、犬飼先生と親しくない?」
「そ、そそそそんなことないよ」
「ふうん」
「本当のこと、話しちゃえよ、佐伯」
「や、あの」
「これ見たら、言い訳なんて無意味だってわかるよ」
小野さんが俺の手に、オカ研新聞最新号を押しつけてくる。俺はそれを邪険に押しやるが、尻ポケットにねじ込まれて諦めた。
「佐伯君!」
ぶすっとして新聞を受け取った俺を、教室の戸口から誰かが呼んだ。
慌てて振り返ると、戸口に立っているのは、赤いフレームの眼鏡をかけた小柄な女子生徒だ。
「…誰、あれ?」
「あ! 紅緒先輩!」
逃げ口実が現れて、つい喜びに満ちあふれた声が漏れてしまう。
その俺の袖口を、山本さんが引っ張った。
「ねえ、佐伯くん、すごく嬉しそうだけど、あの人、誰…? ひょっとして、前に言っていた彼女って、あの人なの?」
「ち、違、山本さん!」
「お邪魔だった?」
紅緒さんがつかつかと歩み寄ってきて、座っている俺を見下ろした。
「や、お邪魔じゃないけど…はい…」
「佐伯くん、紹介してくれないの?」
「ああっと、山本さん、ごめん、後で」
俺は不穏な目つきの山本さんから遠離ろうと、紅緒さんの腕を掴んで慌てて教室から出た。持っていた新聞を捨てるわけにもいかず、尻のポケットにねじ込み直す。
「いいの?」
紅緒さんが教室を振り返って小首を傾げた。黒髪がさらりと肩から流れ落ちる。
「よくないですけど…うん」
「何よ」
「何でもないです」
「犬飼先生が呼んでるの」
「え、先生が」
「うん。もうひと月経つでしょ。謹慎明けたの」
俺より半歩先を、髪をなびかせて紅緒さんが歩く。とことこと、足音がする。
「ずいぶんと綺麗に噂が広まったね」
肩越しに俺を仰ぎ見て、眼鏡の奥の目がきゅっと細く笑った。
「開かずの間は、開かずの間に元通り。面白半分に見に来ていた生徒も、すっかり減ったみたい」
「美少年の霊が出るなんて、逆に増えそうなもんだけど」
「嘘だって、分かってるからでしょ。面白がってるだけよ、みんな」
「そんなもんですか」
「そんなもんです」
ふふん、と指先で赤いフレームをあげて、紅緒さんが前を向く。
職員室が並ぶ廊下を過ぎ、曲がり角の手前の、木製の簡素な扉。
「あれ、集合場所は校長室じゃないんですか?」
「違うわよ」
紅緒さんが含み笑いで答えた。
そうして、角を曲がる。
廊下の先は、暗く闇に沈み、しんと静まりかえっている。
その奥の、突き当たり。ぐるりと周回するはずの廊下を、灰色の扉が行く手を阻む。
扉の取っ手には、重たい鎖が、巻き付いていたはずだ。
今はもう、その鎖も取り外されて『立入禁止』のプレートが穿たれている。
紅緒さんが、銀の取っ手を掴んで回す。
ぎいぃ
奇妙に歪んだ軋みを立てて、扉がゆっくりと開いていく。
その向こう。
まばらに蛍光灯が点る室内に。
犬飼先生が、鎖を左腕に巻き付けてこちらを振り向く。
壁にはぐるりと、真新しい犬の札。
「おう、佐伯、久しぶりだな」
相変わらずの無精ひげに、緩く巻いたネクタイで、先生が手を上げる。
その隣で、井上先輩がひらひらと手を振った。
「犬飼先生…相変わらず、なんていうか、不健康そうですね」
井上先輩に手を振り返しながら、俺は笑う。
下唇を突き出して、犬飼先生が頭を掻く。
「みちる君、元気だった? ていうか、鬱陶しさが増したね…」
「前髪、切れないんですよ。何か、校内に変な噂が蔓延してて」
「そのおかげで、うやむやになってるでしょ」
俺の前髪を持ち上げて、井上先輩がにこりと覗き込んでくる。
そのにこにことした整った顔を見ているうちに、俺は厭なことに思い当たった。
「ひょっとして、先輩ですか、この噂を流させたの?!」
「さあ、覚えがないなあ。僕はちょっと湯澤君に言っただけだよ。この騒動の火種を巻き散らかしたのは、どこの誰かなあ、って。あの子、ああ見えて、義理堅いところがあるから」
「俺の処にも来たな。『始末は俺が請け負います。責任くらい取らせてください』とか言って、真面目くさった顔して。始末って、何だ」
学校からしばらく離れていたせいで、校内のことにすっかり疎くなっている犬飼先生が顎を擦りながら首を傾げる。
「そもそも、湯澤はどこまでこの件を認識してるんだ。何度か話をしたんだが、どうも噛み合わなくてな」
「湯澤君てオカルト好きなくせに、すっごく現実主義者なんですよ」
井上先輩が犬飼先生に満面の笑みを向ける。
「先生は、湯澤君が怪異を怪異として認識してると思って話してたでしょう。彼、呪い、心霊の類いは実は全く信じていない。あればいいなあ、と強烈に憧れてはいるんです。でも、こっくりさん的なモノなんて、理解の範疇外。だから今回の『けたけた』から始まる一連の出来事だって、理性的に理解しようとしてる。つまりは、全てが、梶原さんの自己暗示、自分の体調不良、見間違い」
両手を広げて、あーあ、と先輩は首を振る。せっかく求めていたモノが目の前に飛び込んできたって言うのに、もったいない、と。
俺は恐る恐る、手を上げる。
はい、みちる君。井上先輩が人差し指を突きつけて、発言許可を下す。
「じゃあ、俺と犬飼先生が開かずの間から出てきたのを、彼はどのように認識して…」
「よい質問です。彼はあれを純粋に、梶原さん絡みの、君と犬飼先生の間のトラブルだと理解することにした。だから、堂々と写真を利用することにしたんだよ。見た?」
「何を」
「オカ研新聞最新号」
微笑む先輩の目の奥は、硝子玉のごとくに凍り付いている。
俺は慌てて、尻ポケットにねじ込んだままのオカ研新聞をひっつかんで広げた。犬飼先生が、先輩を押し退けて新聞の端を掴んで覗き込んでくる。
『犬飼先生がついにサバトを開催。降霊した美少年は悪魔か、それとも開かずの間に現れる霊か?!』
太ゴシックの見出しが一面に打ち出され、その下には美少年の首にかけたドッグタグを引っ張りながら、背後から羽交い締めにしている犬飼先生の姿が鮮明なモノクロ写真で載っている。
申し訳程度に目元にぼかしが入っているが、まるで何の役にも立っていない。
つらつらと相変わらずに胡散臭い文章が続き、その後に、目立つように囲まれた広告が続いていた。それを目で追った犬飼先生の指先が、ぐしゃりと新聞の端を握り潰す。
『この記事を読んだ方だけに特報。当記事に掲載された写真のカラー版をご希望の方は、オカルト研究会まで』
「ね、なかなか貪欲でしょ。たぶん、ただただ純粋に、梶原さんの事件を煙に巻こうとして煽ったたんだと思うけど。そのついでに、部費稼ぎ、かな」
「…売るつもりか、これを」
「売るなんて、紙面にはどこにも書いてない。見せるだけかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。それに、よく見て」
先輩が指さした写真の顔は、よく見れば俺とは微妙に違う。制服も、どことなく、うちの学校のデザインではない。どこかで見た、知らない誰か。
「僕とね、みちる君の顔を混ぜてある。それに、湯澤君も入ってるのかな」
「制服は、うちのだが、古いデザインのだな」
犬飼先生がふうん、と鼻を鳴らした。
「どこにもいない、知っている顔」
先輩がすっと目元を細めて、唇に指を当てた。
『けたけた』と同じ、知っているはずの、知らない誰か。
「でも、先輩、パソコンは使えないって言ってたじゃないですか」
「僕じゃないよ。湯澤君、器用なんだよね、こういうの作るの。写真部だった頃に、僕の撮った写真を見てさ、おんなじモノを作るんだってかなり勉強していたよ」
「お前の写真は無修正なのにな」
犬飼先生が面白そうに唇を歪めて、それから目元を険しくする。
「それにしたって、俺の顔はまんまじゃないか」
「そもそも名前が出ちゃってるんだから、顔変える意味ないでしょ」
「いやいやいや、こんなの柳川に見られたら、なんて言い訳すりゃいいんだ」
「湯澤君が遊びで作ったコラージュ写真だと言われたら、誰も否定はできない。だって、犬飼先生が捕まえている生徒は、どこにもいないんだから。どうせ、柳川先生だって、本気にするわけないし。まあ『生徒に舐められてるからこんな悪戯されるんだ』って絡まれそうだけど」
「万が一、本気にしたら、号外で柳川バージョン作るって、すっごく嬉しそうに言ってましたよ、湯澤君」
ひょっこりと顔を突っ込んで、紅緒さんがにやりと笑った。
それはそれで、非常に見てみたい。と見返せば、黒髪を揺らして、こっくりと深く頷き返す。
「あれ、でも、そうしたら、俺が前髪切ったとしても、何の問題もないんじゃあ」
「ああ、だが、似てはいるな」
「うん、似てはいる。だって、8割みちる君だもん」
「だったら、やっぱり、切ったら騒ぎになるんじゃない。似てる子を見たことがあるから、写真は本物かもしれないって誰かが言い出したら」
紅緒さんが言葉を切ってちらりと犬飼先生を盗み見た。
井上先輩がにこにこと無邪気な顔で笑った。
「困るのは、俺じゃなくて…」
「佐伯、駄目だ。何があってもその前髪、切るんじゃねえぞ」
犬飼先生が俺の両肩に手をかけて、真剣な顔で首を振った。
「噂は、真実が溶けて崩れて流れ出すまで、学校に広まるよ。何が本当で、どれが嘘か、誰も分からず呑まれて溺れる」
上目にそっと、先輩が囁く。
「それが湯澤君の、梶原さんへの罪滅ぼしだ」
先輩の淡い茶色の瞳が光を撥ねて、縁が緑に煌めく。
梶原さんは、元気だろうか。ぼんやりと思うものの、それを確かめても、俺にはどうすることもできない。
先輩のまぶたが、そっと閉じて、また開く。
「そろそろ、校長が来る頃だ」
犬飼先生が、背後の扉を振り返る。
待ち構えていたように、ぎいぃ、と軋んで開かずの間の入り口が開く。
廊下の薄暗がりを背に、校長がにこやかな笑顔で立っていた。
その優しげで穏やかな眼差しは、どことなく、胡散臭い。
「みんな揃っているね」
細身の姿は足音もなく部屋に入ると、後ろ手に、かちりと鍵をかけた。
「さて、犬飼君。よろしく頼むよ」
犬飼先生が、小さく顎の先で頷く。
その左隣に、紅緒さん、逆側に井上先輩、そして校長が並ぶ。
何ともいえない威圧感あるメンバーに対峙されて、知らずに一歩後ずさる。
「ようこそ、佐伯君」
校長が両手を広げて、目を糸のように細くして笑った。その隙間から、視線が俺を射貫く。
助けを求めて犬飼先生に顔を向ければ、にたりと牙を剥き出した不敵な笑みが、俺をたじろがせる。
「あんまり脅かさないであげてよ」
井上先輩が肩を竦める横で、紅緒さんはくすくすと髪を揺らして笑っていた。
なんなのだ、一体。
犬飼先生が、ふっと息を吐いて、背筋を伸ばした。
「さて、佐伯。うちの部員を紹介しよう」
「え? 部員?」
「そう、学校専属『怪異対策本部』。部長は俺で、顧問は校長、メンバーは井上と鈴原、それに、お前だ、佐伯」
「え、ええええ?」
「言っただろ、井上がお前を推薦してるって」
「え、あれって、写真部のことじゃなくて?」
「だって、お前、井上に撮った写真を見せたことなんてないじゃないか」
「そりゃ、そうですけど」
「それに」
犬飼先生が大股で一歩踏み出し、俺の肩をぐいと抱いて顔を寄せる。
「今更、逃げられるとでも思ってるのかよ」
横目で盗み見た先生の口元が、にたりと三日月の形に割けて、犬歯が覗く。
くわっとそれが開いて、がちんと鳴った。
「い、いえ、思いません…?」
「正解だ」
「さ、最初っからそのつもりで、俺をやたらに!?」
思えば端からおかしいのだ。担任でもない犬飼先生が、俺の部活を気にかけたり、やたらに俺に相談を持ちかけてきたり、頼ってきたり、呼び出したり、あれやこれや。
始めから、断るタイミングは何度だってあったのだ。それを、むざむざ俺は。
「いつからですか!」
「んー、いつからだっけなあ」
「まさか! あの自転車置き場の事故も!?」
「あれは、違うよ。ほら」
井上先輩がオカ研新聞を広げて、手の甲で紙面を叩いた。
みんなで額を寄せてみれば、最終ページの小さな写真付きの記事を先輩の指先がなぞる。
『学校の新たな怪異?自転車置き場の手の怪』と見出しの付いた、遠慮がちな文体。それまでの煽り、騙りは鳴りを潜めて、淡々とした簡潔な文章が、まるで植物の観察記録かのように綴られている。
それによれば、オカ研部員が学校内の自転車置き場にて、たまたま写真撮影をしたところ(おそらく『けたけた』の総括でもしようと、目撃証言のあった自転車置き場を写したのだろう)偶然、手のような形をした物体が写り込んでいたのだという。
撮影をした生徒はその後2週間に渡り、繰り返し、時間、角度、日照条件等を記録しながら撮影に挑んだが、同じモノが撮れることは二度となかった。
載せられた写真は自転車置き場の手前、砂利の敷かれた道に、にょきりと突き出た白い腕。
空を掴むように指を曲げて、手首から上が生えている。まるでその下に、死体でも埋まっているのではないかという生々しさだ。
「これって」
「みちる君、君、これに行き遭ったんだよ。突然、タイヤが回らなくなったって言ってただろう」
「はい、何かにぐっと掴まれたみたいに」
「みたいじゃなくて、掴まれてた」
「これに?」
うん、と嬉しげにくしゃりと顔を歪めて、先輩が微笑む。
「よし、じゃあ、決まりだな」
「ですねえ」
犬飼先生と校長が、目配せをして頷き合う。
なんだ、なんなのだ。
「行くぞ、佐伯、井上」
「え?」
「いってらっしゃい、佐伯君。初任務」
「ええ?」
「上手くいけば、校長からお駄賃もらえるから」
「どこに、っていうか何しに?!」
「またまた、とぼけちゃって、分かってるくせに」
井上先輩が俺を抱き寄せぐりぐりと頭を撫で回してくる。
「決まってるじゃないか。化け物退治、だよ」
耳元で優しげな声が囁いて、身体を離した先輩が、ぱちりと片目を閉じてみせた。
「ほら、ぼさっとしてんなよ。また誰か怪我する前に片付けるぞ」
犬飼先生が、じゃらりと鎖を鳴らして扉を開ける。
床に放り投げてあった鞄からカメラを引っ張り出して、先輩がフィルムを装填した。
ぎいぃと、開かずの間の灰色の扉が開く。
廊下に出たところで、曲がり角から人影が飛び出してきた。
「あ! やっぱりここにいた!」
駆け寄ってくるのは湯澤さんだ。停学中のくせに、どうやって忍び込んだのだ。
たかたかと近づいて、ふと俺の手のオカ研新聞に目を留める。
「読んだの、それ? なかなかいいできだっただろ?」
にんまりと笑った湯澤さんの肩に、犬飼先生がそっと手を置いた。
「オカ研…マジで覚えてろよ…」
「ひ、ひぃ」
「ねえ、湯澤君、君さ。この写真」
先輩が自転車置き場の手の写真を指さした。
きょとんと首を傾げた後で、湯澤さんは途端に真面目な顔つきで、悔しげに眉をしかめた。
「それ…。梶原さんと一緒に撮ったんですよ。転校する前に、何があったのか記録を取っておこうと思って、ふたりで学校中で噂のあった場所を回って。それで、梶原さんがカメラを貸してって言うから、一枚だけ撮ってもらったんです。そこに、そんなモノが。俺、何にも加工してないんですよ。でも、誰も信じてくれなくて。こんな記事つまらないって。この記事だけは全部、本当なのに」
唇を噛んでじっと写真を睨んだ。
「何度も試したんです。同じモノが写らないかって。でも駄目で。梶原さんもなんでこんなのが撮れたのかわからないっていうし…」
「そっかあ」
「あ、これ、渡そうと思って探してたんです。梶原さんから、皆さんにって」
湯澤さんが、封がされた白くて小さな封筒を差し出す。
可愛らしく丁寧な文字が、宛名を記していた。
犬飼先生がそれを受け取り、少し眺めた後で封を切る。
封筒と同じ白い便箋に目を走らせて、先生がうっすらと微笑んだ。井上先輩と俺も、頭を寄せて、先生の手の上に屈み込む。
『湯澤さんに、いい記事を書かせてあげたいと思って、写真を一枚撮ってみました。私ではどうにもできないので、後の始末をお願いします。あの時のネックレスのおかげで、願い事が叶ったみたいです』
「あながち、あの中途半端なまじないも、無駄じゃなかったってことか」
「なんて書いてあったんですか」
湯澤さんが覗き込もうとするのを、井上先輩の掌が押し返す。そうして、うふふ、と笑いながら、湯澤さんを廊下の壁際に追い詰めていく。
「なんだよ、水くさいなあ。湯澤君、梶原さんとお付き合いするんだって?」
「な! ど、どうしてそれを!」
「書いてあるよ、手紙に。君と上手くいきそうですって」
「ななな、ちょ、待って!」
湯澤さんが真っ赤な顔をして両手で顔を覆った。先輩はその脇腹を指先で突き回している。
「おい、あんまり騒ぐと職員室まで聞こえるぞ」
犬飼先生が2人を諫めて、廊下の向こうを気にした。
「それは、マズい」
停学処分中の湯澤さんと、部外者の井上先輩は顔を見合わせて、お互いの口を掌で塞ぐ。
しんとした廊下に、どこか遠くから、賑やかな笑い声が響いてくる。
ばたん。と背後で開かずの間の扉が閉まった。
「え? 何で、今、音がしたんですか? 誰か、いるんですか」
湯澤さんが振り返る。
じっと、閉ざされて沈黙に包まれている扉を見つめる。
入り口には『立入禁止』のプレート。
「誰も、いないよ。だって、そこは、開かずの間だもの」
井上先輩が壁に両手をついて、湯澤さんの顔を間近で覗き込む。
しんとした先輩の声が廊下の空気をかすかに震わせる。
「で、でも、だって、今」
「何か、聞こえたかい? 僕には、何も。ねえ?」
井上先輩が、俺と犬飼先生を肩越しに見やる。
「鍵はかかったままのはずだが?」
犬飼先生が、銀色のドアノブを捻って引くが、がちゃりと音がするばかりで扉は開かない。
「そんなはず、ない」
「どうしたんですか、湯澤さん」
俺も真面目な顔で湯澤さんに、そう言った。
「え、だって、ほら」
先輩の腕の間で、湯澤さんが壁に背をつけてぶるりと身体を震わせる。
『くす、くすくすくすくすくす』
仄かな暗がりの中、鉄の扉の向こうから、少女のあえかな笑い声が溢れて流れる。
「ほ、ほら、聞こえるじゃないですか!」
湯澤さんが先輩の肩越しに腕を突き出して、扉を指さす。
「聞こえないよ、何が?」
「あ、湯澤さん、あれじゃないですか。『曰く、開かずの間から少女の嗤い声がする』っていう噂」
俺は思い出すような素振りで、天井に視線を向けながら、人差し指をくるりと回す。
「嘘だ、だって、そんなはず…」
「どうした、湯澤。顔色がよくないぞ」
「う…うわ…わあ!」
先輩を突き飛ばして、湯澤さんが廊下を駆けて逃げていく。
ばたばたと響く足音に、廊下を曲がった向こう側で何やら騒がしい音がして、柳川の怒鳴り声が響いた。
犬飼先生と井上先輩が、同時に吹き出す。ひどい、この人たち。
俺は遠い目をして、遠離る怒鳴り声を見送った。
ぎぃい
灰色の扉が開いて、紅緒さんがくすくすと顔を出す。
その後ろから、校長が、溜息混じりに苦笑を浮かべて歩み出る。
「怪異を語るを禁ずるって、校則にしたんだけどね」
「だから、語らずにいたんですよ」
井上先輩が両手を広げて嘯いた。
校長は、先輩の悪戯に満ちた目を見返して、肩を竦めて心地よい声で笑った。
「まあ、仕方がないねえ。本当に、賑やかになりそうですよ、また新しい噂で」
「ほら、いつまでも遊んでねえで、行くぞ」
犬飼先生がじゃらりと鎖を鳴らして、俺たちを振り返る。
「ゴモク、探せ」
鎖を廊下に打ち付けると、開かずの間から犬が一頭滑り出て、犬飼先生の隣に並んだ。
すん、と鼻先が空気を嗅ぐ。
ぱたりと尾を振って、犬が走る。
蒼く光る犬を追って、犬飼先生が歩き出す。
その後ろを、俺と井上先輩は顔を見合わせて、着いていく。
真っ直ぐに前を向いた井上先輩の淡い茶色の目が、光を受けて、緑に濡れた。
何もかもを包み込むような、木の枝に芽吹く柔らかな新緑の色で。
うちの部員を紹介します 中村ハル @halnakamura
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