第25話校長室

 どうやら、俺は、倒れたらしい。

 開かずの部屋からどうやって出たのかの記憶がまるでない。

 目が覚めたときには病院のベッドの上で、点滴のチューブが腕につながれていた。

 枕元には照れくさくなるほど可愛らしい熊のぬいぐるみが置いてあり、どうやら山本さんたちがお見舞いに来てくれたようだった。

 結局、病院でみんなと顔を合わすまでもなく、俺は今、教室で犬飼先生の視線に晒されている。


「佐伯、設問4」

「…無事です、と主人公が…」

「ならいい」


 くるりと背を向けて、先生が黒板に板書をする。外見に似合わず、文字は繊細で綺麗に整っている。


「ならいい、ってなんだよ、正解なのかよ、違ってるのかよ。しかも、解答の途中じゃんかよ」

「何か言ったか、坂本」

「何でもないです!」

「ならいい」

「はい!」


 お前のせいで怒られた、と坂本が俺を振り返ってぼやく。濡れ衣だ。

 俺の入院は、たった2日で終了した。いわゆる検査入院というやつで、散々検査をしたのだが、身体中の打ち身と耳の噛み傷以外に、つまりは犬飼先生に付けられた傷以外には、異常は何も見当たらなかった。

 全身の打撲痕と耳の傷については、犬飼先生と紅緒さんが何か証言したようで、特に問いただされもせず、あっという間に家に戻され、支障もなく過ごしている。

 

「さてと。授業はここまで。昨日も話したが、明日から俺の代わりの先生がいらっしゃる。お前ら迷惑かけるなよ」

「え!?」


 思わず上げた声に、犬飼先生がじろりと視線を投げてくる。

 開きかけた口を塞ぐように、先生が目を眇めた。


「佐伯は放課後、職員室」

「…はい、でも」

「いいから来いよ、話は後だ。じゃあ、終了」


 素っ気なく言った先生の声はチャイムに掻き消され、問いただそうとした俺は、先生を囲む女子たちに阻まれた。



◆◆◆



 放課後、とぼとぼと、俺は薄暗い廊下を歩く。

 この廊下を曲がった先にあるのは、開かずの部屋。つい数日前のことなのに、記憶はもう、手が届かないほど遠く曖昧に溶けている。

 梶原さんから、生まれ落ちた悪意。

 『けたけた』は、赤黒い、臍の緒にも似た髪の束で、梶原さんの欲望を吸い上げていたのだろう。まるで、母体から養分を吸い上げるみたいに。

 だけどそれが、他の誰からも産み落とされないだなんて、どうして言えるだろう。

 不安を抱える、今の俺でも。すべてを拒む、先輩の目の奥からも。

 重苦しい気持ちに塞がれて、職員室の前に立ち尽くす。

 犬飼先生が、いなくなる。

 きっと、それは、勝手に梶原さんを追い詰めた、俺と先輩のせいだ。

 のろのろと、職員室の引き戸を開ける。


「1年の佐伯。校長室に来るようにとの伝言だ」


 待ち構えていたのか、仁王立ちで、柳川が俺を睥睨する。

 奥歯で歯切りして、踵を返す。

 職員室が連なる廊下の曲がり角の手前に、飾り気のない木製の扉が一枚あって、一度も開けたことのないそこが校長室だ。

 軽くノックをすると、すぐに応えが返り、俺はドアノブを回す。


「やあ、佐伯君、だね」


 渋みのある枯れた声が、軽やかに俺を呼ぶ。

 飴色に磨き上げられた大きな机の向こうで、にこにこと笑う華奢な校長の壮年の姿に、俺は背筋を伸ばした。


「入りなさい」


 扉を閉めて横を見ると、犬飼先生が天井を見上げて、だらけた休めの姿勢で手を後ろに組んで立っている。


「犬飼先生…」

「おう、佐伯」


 げんなりとした眼差しで、先生が俺を見る。

 その隣で、項垂れた姿がちらりと顔を向けた。


「井上先輩、どうして」

「全員揃わないと、意味がないのでね。ちょうど、お説教が終わったところです」


 目を細めて、校長が2人を見やった。

 犬飼先生が盛大に溜息を漏らす。


「この度は、本当に申し訳なかったね、佐伯君。改めて、お詫びを申し上げる」


 立ち上がって、深々と、校長が頭を下げる。


「校長先生…そんな…あの、犬飼先生は…いなくなっちゃうんですか」

「だと良いんだけどな…」


 犬飼先生がそう呟いて、身動ぎをした。


「え?」

「判っていますよ、佐伯君。心配しなくても大丈夫。研修です、犬飼君は」


 校長の視線に、先生がばりばりと顎を掻いた。


「まあ、名目上は謹慎処分ですけどね。仮にも君は怪我をして運ばれたんだし」

「で、でも、だったらなおさら」

「犬飼先生は『オカルトごっこ』で自己催眠にかかった生徒から君を守って、階段から一緒に落ちて負傷したんです。おまけに、彼女が校内に引き入れていた野犬に君は噛みつかれ、耳を損傷した。たまたま用事があって来校していた井上君の助力も空しく、残念ながら、犬は逃がしてしまった」


 校長がにっこりと微笑む。


「どこか間違っているところはあるかい?」

「…い、いえ…」

「だろう。で、犬飼君は、生徒を守り切れなかったということで、減俸の上、一ヶ月の謹慎処分。こちらは対外的にと言うよりは、むしろ、契約違反のペナルティ、でしょう、犬飼君?」

「…仰るとおりで」


 ネクタイの結び目に指を突っ込み、だらしなく解きながら、犬飼先生が天井を見上げる。


「その間に、再訓練と昇進試験を受けてもらうからね」

「昇進は望まないって、お伝えしたんですがね」

「犬飼君、あなたは守備以外のスキルの強化が必要だと思うのですよ」

「ええと、校長。初期契約だと、俺は守りで呼ばれたはずなんですけどね」

「守れてないよね、佐伯君、怪我したよね。女子生徒が一人、転校だよね」


 ちろりと視線が俺に集まる。

 校長が笑っていない目を細めて、にっこりと唇を形作る。


「攻撃は最大の防御でしょう」

「…参ったな…」


 横目で先生が俺を気遣わしげに眺めた。


「それからね、井上君、君ね」


 井上先輩が、項垂れていた首が落ちそうなほど、さらに俯く。


「君は犬飼君に着いて、研修してもらいます」

「校長!」


 弾かれたように顔を上げた先輩の隣で、犬飼先生が声を荒げた。


「佐伯があんなことになった以上、井上は外します」

「外さないよ、あんなことはあったけど、元気じゃないの佐伯君。ねえ?」

「え…まあ、はい」

「病院にも確認とったし、ご両親にも話はお伺いしたよ。現に、犬飼君がお見舞いに行くまもなく退院してきたじゃない」

「ですが、校長…」

「私が見ても、問題ないよ。犬飼君にだって、分かるだろう」

「…佐伯、お前…本当に、あんな物を身体に呑み込んで、どこも何ともないのか…?」


 犬飼先生が改めて俺を見て、ぽかんとした顔をした。


「どこもって、先生のせいで痣だらけで、耳とかちょこっとちぎれてますけど。…他は特に何とも」


 答えた俺の腕を掴んで、犬飼先生が全身を探るように眺め回す。腕と背中を掌でなぞり、ぐるりと周囲を回って、散々確認して納得したのか、安心したように大きく息を吐いた。

 それから、くるりと、井上先輩を振り返る。先輩が、身を強張らせて、一歩退く。


「物の見事に何ともねえよ、安心しろ、井上。お前、見舞いにも行けずに悶々としてたんだろ」


 井上先輩がおずおずと俺に腕を伸ばして、顔を覗き込んでくる。


「大丈夫ですよ、先輩。噛まれた耳だけ、すっげえ痛いけど」


 俺を掴んだ先輩の指先は、驚くほど冷たく凍えている。


「本当に? よかった、無事で」


 俺の腕を摩りながら大きな溜息と共に言葉を吐き出して、くずおれるようにこちらの肩に頭を埋める。


「どうなってんだ、お前の身体は一体」


 犬飼先生が呆れ顔で俺を眺めてぼやいた。


「みちる君、君の中にいるのは何?」

「え?」

「君の意識がフィルムから戻った後で、何かが首の後ろから出て『けたけた』の侵入を防いでた。たぶん、いままでもあいつらが君の中に入れなかったのは、そいつのおかげだ。リクドウが入ったことで、何かが強まって、僕のカメラでも見えるようになったのかも」


 俺は首の後ろをそっと手で探る。首の付け根の骨の出ているあたり、確かに『けたけた』がそこに触れたときに、静電気が起きていた。でも、俺の中に、何かがいる?


「痣があるけど、前からか?」


 犬飼先生の指が俺の首筋をつうっとなぞって、思わず背筋がぞわつく。


「な、な、なんすか。首の後ろなんて見えないから知らないですよ」

「ここだな」

「本当だ」

「どれ、私にも見せてください。…ああ」

「何ですか! みんなして!」

「見たい、みちる君?」


 かしゃりと井上先輩がスマホのカメラで写真を撮って、俺の目の前に差し出す。


「気持ち悪いな、佐伯、これ」

「犬飼先生、ひどい」

「スマホで撮るとこうなるんだな」


 犬飼先生がしげしげと井上先輩の掌の中のスマホ画面を覗き込む。

 俺の首筋を撮したデジタル画像は、先生たちの言う痣があると覚しき辺りが、ぐにゃりと蒼く歪んでいる。


「お前にもこう見えてるのか」

「ファインダーを覗いていた時は、もっと手の形をしていた気がするんですけど。スマホ画面だと、こんな感じです」

「へえ」

「これ、ここに焼き付けられちゃった俺は、どうなるんですか」

「うーん。消去するから、どうなるのかな」

「どうなるのかなって」

「考えてなかった」

「ちょっと、先生! この人懲りてないんですけど!」

「仕方がないな、井上だから」


 くっと睨み付けた俺を、犬飼先生が苦笑いで見返した。


「大体、何ですか、その色眼鏡!」


 詰め寄った俺に、井上先輩が眉尻を下げて唇を噛んだ。


「こうすれば…目の色が、見えにくいかと思って。変かな」

「なんで隠すんですか」

「だって…」

「気にしてるんですか、嫉妬の色だって言われたこと」


 困った顔で、先輩が首を傾げる。


「勿体ないですよ、せっかく綺麗なのに。先輩って、九州出身なんですか?」

「え? 違うよ、なんで突然」

「だって、その目、ヘーゼルですよね。緑が混じった茶の色って、アジア圏には珍しいけど、九州地方では時々見られるって」

「え? 本当?」

「ネットの情報が嘘じゃないなら」

「調べたの?」

「違いますよ。どうして俺が先輩の目のことでそこまでしなきゃならないんですか。前にシェイクスピア読んだときに緑の目がどんなのかって、気になって」

「佐伯、お前、シェイクスピアなんて読むのか」

「犬飼先生、俺にどんな偏見が?」


 俺の腕を掴んだままの井上先輩が、小刻みに震えている。


「ど、どうしたんですか、先輩」

「…ふふ、みちる君、君って子は、本当に、もう」


 先輩が俺の頭を無理矢理抱きしめて、ぐりぐりと撫で回す。なんなのだ。

 助けを求めて犬飼先生を見れば、横を向いて、静かに笑っていた。


「よかったな、井上」

「うふふ」

「全然、よくないんですけど?」

「よかったんですよ、佐伯君。さて、じゃあ、今日はこの辺で。ああ、佐伯君、君ね」


 校長に呼ばれて、俺は井上先輩に抱きつかれたまま、真面目な顔で直立する。


「犬飼君が復帰したら、またここに来なさい。その時に、君の処分を決めるから」

「…はい」


 そうか。俺だけ、なんのお咎めもないはずがない。犬飼先生だって、俺が暴れたり蹴りつけたりしたせいで怪我をしたはずなのだ。

 そもそも、先生の昇進試験だの、井上先輩の研修だの、なんだかよく分からないことだらけだ。

 校長の顔を見返したが、俺の疑問を見透かした上で、校長は肩をすくめてにっこりと笑った。


「解散」


 両手を広げてにこやかに言い放つ校長は、限りなく、胡散臭かった。

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