第24話秘密を開ける

「終わったんですか、先生。これで、全部」


 犬飼先生が、無言で梶原さんに首を向ける。

 薄闇の中で、膝を抱えて背を丸めて、梶原さんは泣いていた。声もなく、ただ時折、堪えきれずに漏れた嗚咽が、静かに空気を震わせる。

 先生が広げた掌の窪みで、髪が絡みついた銀色のネックレスが、鈍色に光を撥ねた。

 鎖を巻き付けた左腕が、静かに上がる。真っ直ぐに壁を示した指先に、犬たちがぴんと耳を立てて先生を見上げる。


「戻れ」


 声と共に、犬たちは壁に踊り上がって、貼り付けられた札の中に吸い込まれるように溶けて消えた。

 井上先輩が、ゆっくりと梶原さんに近づいて、屈み込む。

 躊躇いがちに伸ばされた指が肩に触れると、梶原さんはびくりと身体を縮ませた。


「大丈夫だよ」


 柔らかな月明かりの声で、梶原さんの背中を摩る。

 いつの間にか、窓の向こうは、真っ暗に沈んでいた。


「もう、いいんだ。大丈夫だから」


 のんびりとさえ聞こえる声音が、囁く。

 梶原さんの堅く詰めていた息が溶け、ぶるりと背中が震える。ゆるゆるとした緩慢な動きで、梶原さんが顔を上げた。

 先輩を見上げる青白い横顔には、涙で髪が張り付いている。


「…私…」

「うん」

「ごめんなさい」

「うん」


 薄っらと微笑みを浮かべた先輩の指先が、頬に張り付いた髪を掬って剥がす。


「あれを開けてもいいかな?」


 先輩が犬飼先生を振り返る。

 無言で井上先輩に手渡された銀色の塊を、梶原さんは壊れそうな眼差しで追っている。


「大丈夫、もう怖くないから」


 ね、と梶原さんの顔を覗き込み、緑の目を和らげる。

 梶原さんが、上目に先輩と視線を合わせ、躊躇った後で頷いた。


「私、その中に隠したの」

「うん。大切だと思ったからだ」

「…でも、間違っていたのかもしれない…途中から、判らなくなって、何が正しいのか」

「不安だったんでしょ? よくあることだ」

「誰も、傷つけるつもりじゃなかった」

「本当に?」


 責めるでもなく、穏やかな口調のまま、先輩が真っ直ぐに瞳を向ける。

 たじろいだ梶原さんの唇が、僅かに戦慄いて、きゅっと結ばれる。じっと首を傾げていたが、大きく瞬くと、やがて静かに頭を振った。


「ううん。本当は、誰を傷つけても、誰が壊れてもいいと、思ってた。それでも、私は」

「うん」


 先輩は、ひとつひとつ泡のように丁寧に、相づちを打つ。梶原さんは、背中を押されるみたいに途切れ途切れに、言葉を紡いだ。


「湯澤君の隣にいたいと、思ったの」


 白い指が、先輩の掌の、銀色のネックレスに触れた。


「一度でいいから、一緒に座ってみたかったの。ただ、私のことを、知ってほしかった」


 ぎゅっと、ネックレスを包み込む。


「こんなものがなくても、何の共通点がなくたって、本当はよかったはずなのに」


 くるりと上を向いたまつげに、涙が留まる。次々と雫は溢れて、頬を伝い、顎の先から床に落ちた。


「どこで、間違ったの…」

「間違ってなんかないよ。ただ、頼りすぎただけだ。だからもう、終わりにしよう」


 こくりと梶原さんが頷く。

 細く華奢な指でネックレスを掴み、爪の先でぱちりと蓋を開いた。

 ざらりと、髪が零れる。その隙間から、小さく畳まれた破れた札が覗いた。

 井上先輩がするりと札を摘まみ上げて、犬飼先生に差し出す。


「まだ、秘密が入っているんだろう」


 先輩が、梶原さんの両手の中に包まれたネックレスを指さした。

 目を伏せたまま、梶原さんが俯く。ぎゅっと胸の前に握りしめたネックレスを、息を吐くように開いた。

 裏返しに隠した、小さな写真。

 何かの写真を切り取ったのだろう、カメラに目を向けていない、自然に笑う湯澤さんの小さな姿。


「こんな風に、笑ってほしかった」

「そうだね」


 先輩がネックレスと写真を取り上げる。梶原さんの指が一瞬追いすがって伸ばされて、躊躇い、止まり、空で結ばれた。

 先輩は掌で丁寧に、ネックレスに絡みついた髪を取り除き、小さな写真を表向きにして、ネックレスに納める。


「ネックレスは一度、磨きに出せば綺麗になるよ。湯澤君からもらったんでしょ」


 服の裾で小さな鳥かごの汚れを拭うと、そっと梶原さんの掌に戻した。

 梶原さんは目を見開いて、先輩を見上げていた。


「もう大丈夫だよ、そうだろう?」


 泣き出しそうな梶原さんの頭を、幼子をあやすように先輩が撫でる。

 ぎゅっとネックレスを握って、梶原さんは背を丸めて、祈るみたいに泣いた。


「紅緒さん、梶原さんをお願いできるかな」


 先輩が紅緒さんを振り返る。紅緒さんはちらりと犬飼先生を見て、それから梶原さんの背中にそっと手を置いた。

 ゆるゆると、抱きかかえられて梶原さんが立ち上がる。


「先生?」

「一度、保健室に連れて行け。俺が病院に連れて行く」

「わかりました。さ、行こう、梶原さん」


 紅緒さんが扉に手を伸ばすより先に、遠慮がちに扉がそっと開かれた。

 全員が、棒立ちになって一斉に扉を注視する。

 緊張に漲る空気の中に割り込んできたのは、恐る恐るながらも目を輝かせた湯澤さんだ。隠しきれぬ好奇心に瞳を煌めかせて、室内に首を突っ込む。


「何が、あったんですか? …あれ、さっきの美少年は?」


 先生が面倒臭えな、と小さく呟いてくるりと背を向けた。


「あれ、どうしたの、佐伯君。キミ、血まみれじゃないか」

「え…っと、ああと、うん」


 俺は慌てて耳を手で覆う。乾きかけてはいるが、先生に咬み破られた耳朶は血塗れに違いない。


「先生が手篭めにしようとしていた生徒は、誰ですか?」

「手篭めって、湯澤、お前…」

「誤魔化そうったって、駄目ですよ」


 湯澤さんがにんまりと笑って望遠レンズの着いたカメラをちらつかせた。

 犬に呑まれた俺と犬飼先生が、廊下にもつれて飛び出したときに響いたシャッター音、あれは井上先輩じゃなくて、湯澤さんか…。

 ゆらりと犬飼先生が音もなく、湯澤さんの肩を掴む。

 ひっ、と息を呑んで、湯澤さんがカメラを死守しようと抱え込んだ。


「あ…れ、梶原さん?」


 先生から逃れようと身体を捩った湯澤さんが、紅緒さんに抱えられて縮こまっている梶原さんを呼ぶ。紅緒さんの腕の中で、梶原さんはさらに小さく、身を竦ませた。


「梶原さん、大丈夫? どこか、怪我でもしてるのか?」


 梶原さんが驚いて、顔を上げた。湯澤さんは無邪気な顔で、心配そうに眉を寄せて、梶原さんに手を伸ばす。


「大丈夫、ほんの少し、気分が悪くなっただけだから」


 紅緒さんが真っ直ぐに湯澤さんを見返して、代わりに答える。


「でも…」

「大体、何で湯澤がここにいるんだよ」


 犬飼先生に半眼で見下ろされた湯澤さんは、面白くなさそうに唇を尖らせた。


「何でって、退屈だったんですよ。犬飼先生を探しに来たのに、見つからないし、職員室で戻るのを待ってたら散々、柳川に厭味言われ続けるし。それで、逃げ出して廊下をぷらぷらしてたら、鈴原さんが血相変えて開かずの部屋に走って行くのが見えて、何かあったなって」


 俺と職員室で別れた時は、あんなに怯えた子鹿みたいだったのに…こいつ…。


「犬飼先生の心配してたんじゃないのかよ」

「してたよ、してたけど、扉から出てきたら、美少年追いかけてるから大丈夫だなって。でしょ、先生?」


 湯澤さんの肩を掴む先生の手の指に、悪意ある力が籠もって、湯澤さんが悲鳴を上げた。


「それにしても、先生も、なんでそんなにぼろぼろなんですか?」


 上から下まで先生を視線で嘗め回して、湯澤さんが顔を顰めた。

 それから室内を見回し、俺たちを順番に眺めて、ようやく深刻な目をして梶原さんに向き直る。


「梶原さん、キミなのか」


 びくりと、華奢な肩が撥ねる。紅緒さんの胸に顔を埋めて、梶原さんが背を震わせる。


「梶原さん」


 尚も呼ぶ湯澤さんを、紅緒さんが睨み付けた。

 先生に掴まれた肩を揺さぶって、湯澤さんが腕を伸ばす。指先は、梶原さんまで、遠い。


「ごめん、梶原さん」


 ひどく真剣な声に、梶原さんの髪が揺れた。井上先輩が、静かに湯澤さんを見た。


「ごめんな」


 湯澤さんは謝罪の意味を話さなかったが、きっと誰にも、どこで何を間違ったのかなんて、わかりはしない。

 梶原さんは、顔を伏せたまま、何度も小さく首を振っていた。


「帰るぞ」


 長い静寂と大きな溜息の後で、犬飼先生が気怠い声で終わりを告げた。

 湯澤さんが躊躇いがちに梶原さんを支えるのを、紅緒さんは止めなかった。

 井上先輩が、その後を、のんびりと着いていく。その横顔は、足取りとは裏腹に、物憂げで儚い。


「井上先輩」


 咄嗟に呼びかけた俺の声に、ゆるゆると、井上先輩が振り返る。

 その緑の目が、滲むように揺らいで、薄く微笑む。


「どうしたの、みちる君」

「あの、ありがとうございます」

「僕は何もできなかったよ」


 にっこりと笑った先輩の眼差しは、いつものように、鉄壁に俺を拒んで優しげだった。


「おい、井上」


 犬飼先生の鋭い声に、井上先輩の微笑みが剥がれて落ちる。

 先生の唇から、唸り声のように言葉が漏れる。


「お前、次に同じことをしたら、ただじゃおかねえぞ」

「犬飼先生、俺、何ともなかったんだし、井上先輩がああしてなかったら…」

「何ともない? 巫山戯るな、2度と戻ってこられなかったかもしれないんだぞ!」


 胸ぐらを掴みあげられ、ようやく俺は、自分たちが取り返しが付かないことをしたのだと思い知る。頭が恐怖を認識した途端に、身体が弛緩して、膝が震えた。

 でも、それでも。ちらりと見た先輩は、凍り付いた表情で犬飼先生に向いている。


「でも、先生、先輩はきっと判っていて…。知ってたんじゃないんですか、井上先輩。俺があれを入れても平気だって。だって、そうじゃなきゃ…」


 そうでないなら、先輩はあんな方法をとったはずがない。

 けれど、先輩の瞳は揺らいで、色の薄い睫を伏せた。


「違うんだ、みちる君。僕の失敗だよ。君があんなに、空っぽになるなんて、思ってもみなくて」


 淡く微笑んで、先輩がくるりと踵を返した。

 残された俺と犬飼先生の前で、開かずの間の扉が、ぱたりと閉じる。

 犬飼先生が俺の肩に、溜息と共に掌を置いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る