若者

湿原工房

若者

 彼は私とおなじ会社に勤める後輩だった。彼とは仕事のことでよく話をした。のきっかけも、そういう仕事の話から始まった。

「ドライブに行こう」と言うのである。仕事に追われていた私も、息抜きがしたいと思っていたところで、その提案にのることにした。話はずいぶん盛り上がり、話題を仕事のことに戻すのは野暮ったいように感じたが、ここで彼といるのは仕事の話をするためにいるのだと思うと、てごろな閑話休題を探したりした。私は共通の上司について悪口を言った。


 部屋のドアをくぐると、照明を点けて靴を脱いだ。肩にかけていた鞄を腕に落とす。毎日同じ順番でするひとりの時間に入った儀式。解放感。

 六畳1Kの部屋に入る。音楽の再生ボタンを押し、流れるように次の作業にとりかかる。スピーカーから流れてくる音楽。このところ同じCDをずっと回している、お気に入りの音楽。二十六になる年に上京するとき、必ず持っていこうと決めていたCD。あれから何年経ったか。あの頃の私はどんな人間だったかな。

 電話が鳴る。足もとに置いたものに気をつけて受話器を取った。

「はろー、げんきー?」

 誰だったか、一瞬考える。

「理生だよー」

 リオ……リオ……りお、理生。

「理生? 八坂理生?!」

「その反応、忘れてたでしょー」

 理生のニヤニヤした顔が目に浮かぶ。

「まさか、忘れないよ。親友でしょ」

「あはー! しらじらしー。もう七年も音信不通だった親友ね!」

「お互いにね、ふふ」

 なんだか、急に心が昔の自分になっていく。私はその私を快く受け入れた。

「それにしても、よく番号わかったね」

「かんたん、お母さまに聞いたのよ」

「理生、いま何してるの」

「ふっふっふ」

 理生は記号的に不敵に笑った。

「お茶汲み」

「ぜんぜん威張れないね」

「ってのはこれまで、それももうお・し・ま・い」

 受話器の向こうの高揚感が手に取るようにわかる。記号のちから。

「じつは~……」

 理生はまどろっこしいくらい焦らす、昔からの悪癖、変わらない。

「なんと! 結婚しまーす!」

 私は呆気にとられて阿呆面をしていた。無感動に頭の中を理生の声がぐるぐる回る。……結婚。

「って、ええェー!」

「やーいやーい、おっどろいたー」

 赤ん坊のようにきゃっきゃと笑う理生。

「理生が?!」

「ほかに誰がいんのよ」

「いるでしょ、ほんとに?! あの理生が?!」

 感嘆符と疑問符の共同作業が止まらない。

「あっははは。あんた変わらんね」

「えー! おめでとー。ねえねえ、どんな人?」

「ちょっと太ってるけど、身長は高めで…」

「外見じゃなくて」

「やさしくて、……ちょっと天然?」


昨夜はすっかり話し込んでしまった。朝は危うく寝過ごしそうになった。出社してみても、眠気は晴れない。

「おはよう」

「あ、おはよう」

「どうしたの、覇気ないね」

「ちょっときのう遅くなっちゃって」

 だらしのない自分に愛想をつかすように笑った。

「ねえ、ドライブの話だけど、今晩どうかな」

 いつでもいいとは言ったものの、ずいぶん性急なことだと驚いた。とはいえ、断る理由もないので了承した。

「じゃあ、家まで迎えに行くね」

「わかった、簡単な地図描いといてあげる」

 私は手元のメモ用紙にささっと最低限の情報を図にした。

「わかる?」

 それをちぎって彼に渡す。受け取った彼はしばらくじっと見て確認していた。私は道順をシミュレーションしているものだと思っていた。

「……へったくそだね」

 その頬に軽くこぶしを召し上がれ。


 空が朱に染まり、影が濃くなっていく。ビルとビルは割りばしのように、細い隙間を作って、そこから夕陽が差し込んでいる。美しく、気怠い時刻。一通りのことを済ませて、残りは私の自由時間。ふと、黄昏からあとにしか自由はないんだな、と思う。それは人生の比喩だったりもするのかな。だったら、そこを吹き抜ける風は何のたとえだろう。

 帰宅したときには、もう陽はすっかり落ちてしまったが、彼が来るまでには時間があった。いつもの手順で部屋に上がって、鏡の前に座った。

 思ってみれば、車に乗るのは何年ぶりだろう。自転車にはもっと乗っていない。もともと乗り物への関心は薄い私だった。移動の手段というきりだ。

 しかし、今日はそうではない。移動の必要なんて全くない。ただ楽しむために乗るのだった。

 約束の時間に少し遅れて彼がやってきた。軽いクラクションを鳴らして合図を送る。私も窓から顔を出して手を振って、部屋を出た。

 アパートのセキュリティドアを出ると「ちょっと遅くなっちゃった」と彼は言った。

「助手席どうぞ」

 そう言ってドアを開けてくれる。開けた拍子に音楽が外に漏れる。全然知らない洋楽。

「どこ行こうか」

 運転席に乗り込んだ彼が尋ねる。何も考えてなかった。提案したのは彼なのだし、彼が考えているものだと思っていたからだ。

「どこでもいいよ」

 と私は返答した。まもなく車は発進した。行き先は告げなかった。

「遅いからちょっと心配したじゃない」

 適当な話題がほしかった。沈黙は苦手だった。

「あの地図だからね」

 前方の景色を見たまま私はこぶしを上げる。

「あ、いや、ごめんごめん」

「高校の美術は五段階の五もらってたからね」

「それ何年前の話」

 振り上げたこぶしを開いて平手をくれてやる。彼はいつもこうやって私をからかう。彼は笑う。私も笑った。

「そのうちみんなに嫌われるんだ、憎まれ口ばかり言って」

「俺、世渡り上手でさ、相手を選んで言ってるんだ」

 もう一度殴ろうかと思ったがやめた。

「それに染みついちゃってるから、なかなか修正きかなくて」

 彼の運転は荒かった。カーブのたびに左右に吸い付けられる。スピードもちょっとした絶叫マシーンだ。

「すごい運転」

「そう? ありがと」

「いや、褒めてるんじゃなくて」

「そうなの? ありがとう」

「だーかーらー」

 ふたりで笑う。

 最近笑うときって、いつも彼といるときだ。昨夜は理生と話したか。でも電話越しじゃあね。いまは心置きなく楽しいかな。

 外を見る。明かりは少ない。街灯がぽつぽつと並んで、住宅のひかり。ほかにあるのは田んぼと畑ばかり。中心地を抜けると寂しい街だった。

 民家の灯はどこか温かい。街灯はオレンジ色でも、どこか寒々しかった。思わず自分の腕を抱え込んだ。

「ん、寒い?」

「あ、違うの」

「暖房にする?」

「ううん、いい」

 街灯もそのうち消えた。そこは山道のようだった。

 車の光だけが前方を照らしている。深い闇を勇敢に切り裂いていくようだ。それは、この運転手の若さの比喩だろうか。

 音楽がひとときとまる。次の曲が流れ始める。

「あ、この歌」

 思わず私は声をあげた。

「知ってる?」

 彼は嬉しそうな目をする。

「私この曲好きよ。優しくて、力強い」

 その曲は私がいつも部屋で聴いている曲だった。

「この人たちの歌いいよね」

 ふたりとも聴き惚れていた。

「今年いっぱいで解散だって。残念だな」

 私はそのことを知らなかった。曲が好きなのであって、バンドには興味をもったことがなかった。テレビや雑誌での露出にも無関心だった。

「え、そうなんだ」

 でも解散するということは、もう彼らは少なくとも「彼ら」で歌をつくらないということ。それはなんだか寂しく思う。

「そうなの」

 車が停まる。

「降りようか」

 シートベルトを外して外へ出ると、肌寒かった。

「なに縮こまってんの、こっち来てよ」

 彼は先に立って指をさす。

「人は寒さを感じる生き物なの」

 と言い返しながら彼のそばまで行く。

 眼下に夜景が広がっていた。山の上から見渡す町は、宝石のように光にあふれていた。中心に向かうほど、光の密度は高くなる。そこから離れるごとに、同心円状に光と光は離れてくる。最後にはただ街灯だけが寂しい一列になって延びていく。

 生命。ということを思った。

「きれいでしょ」

 彼の言葉に返事もしないでただ目を奪われていれば、それが返事だった。

「俺さ、ここ来てこれ見ると、元気でてくるの。あんなでっかい光のなかに、俺がいるんだな、俺たちが作った光なんだなって。その光がさ、宇宙からも見えて、存在を掲げているんだ、とか思ってさ。なんか胸がいっぱいになってくる」

 見ると彼の瞳は町の夜景を映じてキラキラ輝いていた。

 ふと、その時、私は彼に距離を感じた。この距離は何。私は視線を町に向けた。町がとたんに孤独と映る。あの、町という生命には、話し相手がいるだろうか。電話や手紙のように話し相手の顔を、町は見たことがないのかもしれない。

 いつか衰退した町の、最後の光を想像し、涙が流れそうになる。

「ねえ」

 独白を破って彼が話しかけた。

「なに?」

「あの」

 彼は町を見ずに顔をうつむけている。彼の口はなかなか声を出せずにいる。しばらくのあいだ、時間を知っているのは、冷たい風だけになった。

「なに、どうしたの」

 私は笑って言ってみた。

「俺と、付き合ってみない?」

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 予期しない言葉が彼の口を飛び出すと、私の思考はぴたりと止まった。それと同時に、彼が怖くなった。いや、彼のもつ何かが怖かった。

「あんたから見れば、俺なんかまだ全然ガキだろうけどさ。けど、止められないんだ」

 何て人なの……

「落ち着いて、落ち着こう?」

 それは自分自身にも言っていた。

「最初に返事からするね……ごめんなさい。それはできないわ」

 頭を下げて彼の顔を見ずに私は言った。目の前の沈黙が怖い。

「あなたにはもっといい人がいる、きっと。だから、私なんかを選択肢に入れちゃだめ。きっとあなたは自分の気持ちを勘違いしてしまっているの。ほら、うちって女性社員は少ないじゃない?」

 笑ってもらおうと思って言ったが失敗だった。まだ彼は沈黙している。下げた頭を上げられない。コートが擦れる音がして、やっと頭をあげると、うなだれた顔を腕で覆って肩をふるわせる彼がいた。


 思い返すと、気づける場面だろうと自分につっこみをいれたくなる。夜景なんてベタベタでしょ。私は家の近くで降ろしてもらった。

「ひとりで怖くない? まだけっこうあるでしょ」

 いまは家までの距離は問題ではなかった。ただ車中にいるのが嫌だった。そんなことはもちろん言わないけど。

「うん、心配ご無用」

 私は両腕を上げて力こぶのポーズをした。ふざけた空気にしようと必死だった。でも、空気は変わらなかったから、腕をおろして、調子を落ちつけて言う。

「きょうは、ありがとうね」

 目の置き所をさがして、ちらと私と視線が合ったり、ブレーキペダルを踏む足に落としたり前方を見やったりする彼。くやしさ、寂しさ、照れ、憤りのようなものがない交ぜになっている姿。

 私が手を振ると、彼も一瞥して手を振るとアクセルを踏んだ。車内からは、前方の闇を切り裂いていくように見えた彼の車のうしろ姿は、自らを包み込んで襲ってくる闇を、無我夢中で振り払う若者の姿のように思われた。


(2004年5月1日(18歳)執筆 2019年1月4日(33歳)一部修正)

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