めい
亜峰ヒロ
めい
めい
空を見上げ、私は弱々しく目をみはった。
私には現実の目などないというのにその少女を視認していた。
無意識のうちに駆け出していた。夕陽がわずかに残された晩秋の夜空を掻き分けて、地面には決して足を着けず、筋肉を疲弊させることも肺から息を絞り出すこともせずに、私は飛ぶように駆けた。
胸の内でせめぎ合うのは、ようやく見つけたという達成感と、ようやく見つかったという安堵感と、それとは裏腹に見つけてしまったことへの不安だった。
少女へと辿り着く。声をかけようとして、私には現実の喉がないことを思い出し、少女の肩に触れようとして私には現実の手がないことに気付いた。ようやく出会えたのに言葉も交わせないとは、何というもどかしさなのか。
けれど、少女はくるりと振り向き、小さな双眸で私を見つめた。そして少女は開口する。あの夜と同じように素顔を隠し、あの夜と同じ言葉を言った。
「こんばんは。私はめいだ。私はめいという」
銀糸を鳴らすような声で、少女は名乗り上げた。少女は太陽の輝きにも増して真っ白なワンピースに矮躯を包み、乳白色の肢体を可愛らしく覗かせていた。されど、可憐な印象を笑い飛ばすかのように、異質なもので素顔を隠していた。粘土と油脂を混ぜ合わせ、ぐちゃぐちゃに押し固めたような、落ち葉型の仮面。それは、少女の雰囲気を一転して不気味なものへと貶めていた。
少女は何かを言うでもなく、床に伏した私を見下ろしていた。その姿はいっそのこと神々しくもあり、私はあの時、死の直面にあったからこそ、
「あなたは神様ですか?」
そう訊ねたのだ。
「それとも悪魔ですか?」
「私はめいだ。悪魔でも、ましてや神でもない」
「そうですか。どちらにせよ、人間以外の存在が現れたということは、きっと潮時なのでしょうね」
医学の進歩とは凄まじいものだ、生物として明らかな欠陥を抱えた私を、こんなにも永らえさせてくれたのだから。騙しだましとはいえ、私の体はよく働いてくれたし、私もよく生きた。
「未練も思い残したこともないと言えば嘘になりますが、まあ、それなりによい人生でした」
そうやって、勝手に終わった気になっていた私に向けて、少女は静かに切り出した。
「不老と不死、与えられるとすれば、あなたはどちらが欲しい?」
少女の真意は分からなかったが、言わんとしていることだけは理解した。永遠に朽ちることのない肉体と、永遠に途絶えることのない命、どちらかを選べと命じたのだ。
「ふたつはあげられない。欲張らないで」
「それは、死後の在り方を選べということでしょうか?」
「それは内緒だ。自分で確かめる他にない」
「神様の戯れ、なのでしょうか。だとしたら随分と趣味が悪いですね」
「えぇ。だから悪魔が唆しているのかもしれない」
私は失笑した。神様にせよ悪魔にせよ、随分と酷なことをする。これから死ぬ人間に「生」をちらつかせるなんて。
「不死をください。永遠の命とは、愉快なものです」
半ば自暴自棄に、私は告げた。
「そうか、不死が欲しいか」
少女は愉快そうに呟き、私の胸に手のひらをあてがった。
刹那、儚くさえずるばかりだった心臓が大きく波打ち、暴れ出した。あまりにも熱く、あまりにも激しく、胸が裂けてしまいそうだった。
「おまけだ。少しだけ体をいじってやった」
胸を鷲掴みにして喘ぐ私に、病が取り払われた私に少女は訊ねた。
「気分はどうだ?」
同じように少女は訊ねた。あの夜、私は滂沱の涙を流しながら「最高です」と答えた。今はどうだろうか? いいや、悩む必要などない。心はとうに決まっている。
「最低です」
意外そうに目を細めることも、気色に驚きを滲ませることも少女はしなかった。そんなことは最初から分かっていたと言わんばかりに、少女は黙ったままで私を見つめていた。
「私はあなたから不死をもらい、新しい命を手に入れ、同時に全てを失くしたのです」
不死をもらい、病から解放された。
友人ができて、恋人ができて、家族ができた。幸福の絶頂が永遠に続くように思われた。
「けれど、不死なのに終わりは訪れました」
不死となっても私の体は老いた。周りの人がそうであるように私も老いた。外見は普通に生を過ごしているようで、それでも私は周りの誰とも異なっていた。
七十年後、私の肉体は活動を終えた。ひっそりと終わり、どれだけ念じたところで指ひとつ動かすことはできない。けれど、私の意識は続いていた。
体を動かすことはできないのに意識だけは確かに生きていて、意識があるままに体は焼かれた。苦痛はなかった。それさえも感じられない。
そして私は搾りかすとなった。肉を持たない意識だけの存在、不死の成れの果て。
「あなたは不幸だったのか?」
「幸せでした。それでも不幸せでした」
「今がどうであれ幸せだったならいいじゃないか。あなたには悠久の時間があるんだ。次の幸せを探せばいいだけのことだろう?」
「確かに……確かにそうですが」
私はもう嫌だ。もう疲れた。一人でいることに、一人で生きることにもう堪えられない。
「私はもう死にたい! もう生きたくない!」
突然の叫びに気圧されたのか、少女の肩が震えた。
「誰にも触れられない! 誰とも話せない!」
温もりも悲しみも、今の私にはない。笑うことも泣くこともできない。この叫びさえも少女以外には聞こえない。声であって声ではない。
「たった一人、ぽつりと彷徨う。そこに存在するだけなんて、生きているとは言えない」
意識として泣くことはできる。先程から涙を流している感覚はある。
それでも、現実には何もないのだ。
「私は生きているけれど、もう死んでいるのです。ねえ、めいさん」
少女は呼びかけに応え、私を見つめた。
「私に終わりをください」
幼子に対して何ということを頼むのだろう。自嘲に耽る私に、少女はただ静かに言った。
「もしも肉体があれば、あなたは生きるのか?」
生きると言えばくれるのだろう。それはとても魅力的で、魅惑的だ。それでも、
「いいえ、ヒトは永遠になど生きられないのです。限られているからこそ人生は美しく、人間は人間としていられるのです」
「そうか」
少女は大きく頭を振った。その拍子に、頭の後ろで結わえていた紐がほどけ、仮面が大地に落ちた。その下から現れた少女の貌は、爛々とした瞳から一筋の涙をこぼしていた。
物憂げに、それが正解だと告げるように。
「随分とつまらない答えを選んだな」
「私は人間ですから、神様にはなれません。そうでしょう、めいさん?」
めい 亜峰ヒロ @amine_novel_pr
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