ビンビンが往く

肉之芽栗太郎

失くした春は何処へと 其の一

 雨は降れども雲はなし。月は見えども星はなし。小雨の降る、春にしては寒々しい夜のことであった。

 草木も眠る丑三つ時。普段は夜が更けても何処からかあふんあふんと艶声の聞こえてくる江戸の町であれども、今宵は雨音を除けば水音一つ聞こえてこない。沈黙する夜の江戸を、今ここに覚束ない足取りで歩く男が一人。

「これは、危うい気配がビンビンでござるな」

 雨に濡れた全身はとうに冷え切っているのは、前へ足を運ぶ姿は今にも倒れこんでしまいそうである。既に意識も朦朧としながら一夜の宿を探して彷徨う男の腰には一振りの刀。しかし今の男には、恐らくそれを鞘から抜き放つ力も残っていないであろう。

 案の定、男が足をもつらせ転倒する。受身を取る余裕も無く、ばちゃり、と水溜りに頭から突っ込んだ男はそのまま僅かばかりも動かない。男がその場で行き倒れとなるのがさも当然であると言うかのように、雨は一層激しく男へと降り注ぐ。

 だがしかし、幸運にも男を呼ぶ声があった。

「おい、あんた。大丈夫か?」

 人気の無い夜の通りに倒れている者を見るや否や、即座に駆け寄る男が一人。酒気を帯びて仄かに朱く染まった頬は、しかし緊張のせいか青くなりつつあるようにも見える。

「死んじゃあいねぇ、か」

 傘を閉じた男は、己が濡れ鼠にねる事も厭わずに倒れ伏す男を背負い、歩き出す。その歩みは背負う男の重みもあってか至極遅い物ではあったが、それでも衰弱した男の覚束ない足取りに比べれば格段に速い。

 夜は更けていく。遠ざかる足音とは裏腹に、雨音も次第に強さを増していく。


――――――――


 障子越しの朝の日差し、であった。男が布団の中で目を覚ました時に最初に感じた物である。

 仰向けになって布団を被ったまま、男はぎょろりとした眼をそこら中へさ迷わせた。頭上にあるのは木目、間違いなく何処かの誰かの家であった。はて、拙者は昨夜行き倒れた客であったが、しかしひとまずは命を取り留めているらしいぞ、と。混乱と安堵とか半々の男の思考は、しかし男の寝転がる部屋の襖が音を立てて開かれた事で途切れる事となった。

「おや、起きましたか。兄さーん、お侍様が目を覚ましたよー」

 横になって唖然とする男と目を合わせた若い男は、廊下の向こう側の兄を呼ぶや否や、すぐさま寝転がる男の傍へと歩み寄ってくる。

 快活そうな笑みを見せる、爽やかな男であった。手にする盆には急須と湯呑み、そして茶碗に山盛りの白米と漬物。男が唾を飲み込みながら言う。

「お主は……? 確か拙者は昨夜……」

「ああ、まだ起きたばかりなんですから。僕は穴次郎、しがない商人です。あなたをここまで運んできたのは私の兄ですよ」

 そういうと穴次郎は穏やかに微笑む。端正な顔立ちが一際際立つ、裏表の無い気持ちのいい顔である。

「で、その兄ってのが俺だ。名前は穴太郎」

 男に対して自己紹介を済ませた穴次郎の後ろ、開け放った障子に寄りかかるようにして、いつの間にか穴太郎が立っていた。穴次郎が小さく、兄さんは少しぶっきらぼうで……と呟きながら苦笑いを漏らす。

 対し、恥ずかしそうに頭を掻きながら頭を垂れる男。

「穴太郎殿、穴次郎殿、かたじけない。恥ずかしながら拙者、長旅の疲れと空腹とで目が回ってしまったのでござるよ」

「別に良いってことよ。酒飲んで帰る途中だったからよ」

 すっかり酔いは醒めたけどな、と穴太郎が笑うのと同じくして、布団に隠された男の腹がぐうと鳴った。意識を失うほどの空腹、男の言う長旅とやらも相当な物であったのだろうと二人は推測する。すかさず穴次郎が朝食を盆ごと男へと押しやった。

「きっとお腹が空いてるだろうと思って、多めに米を炊いたのです。是非召し上がってください」

「誠にかたじけない。見ず知らずの方にこうも良くして貰うとは……いただきます」

 布団を跳ね除け、凄まじい勢いで男は白米を掻き込み始める。喉に米を詰まらせたかと思えば湯呑みの茶を一気飲みし、漬物を少々はしたない位に音を立てて咀嚼し飲み込んでいく。

 ものの数分と経たぬうちに茶碗は空となり、浅漬けの汁まで男が飲み干すのを見届けてから、穴太郎が口を開いた。

「それでよ。お侍さん、あんたの名前はなんて言うんだい」

「おかわり。あ、拙者の名前でござるか。これは失礼仕った」

 穴次郎へと差し出した空の茶碗を盆へと戻し、男は胡坐から正座へと足を組み直す。ぴんと背筋を伸ばして座るその様は、先刻までとは打って変わって威風堂々、質実剛健といった風格を醸し出している。そのまま男は両の拳を腿へと置き、朗々とした曇りの無い声で名乗りを上げた。

「拙者、乳首ビンビン丸と申す」

 雨は降れども雲はなし。月は見えども星はなし。小雨の降る、春にしては寒々しい夜のことであった。

 草木も眠る丑三つ時。普段は夜が更けても何処からかあふんあふんと艶声の聞こえてくる江戸の町であれども、今宵は雨音を除けば水音一つ聞こえてこない。沈黙する夜の江戸を、今ここに覚束ない足取りで歩く男が一人。

「これは、危うい気配がビンビンでござるな」

 雨に濡れた全身はとうに冷え切っているのは、前へ足を運ぶ姿は今にも倒れこんでしまいそうである。既に意識も朦朧としながら一夜の宿を探して彷徨う男の腰には一振りの刀。しかし今の男には、恐らくそれを鞘から抜き放つ力も残っていないであろう。

 案の定、男が足をもつらせ転倒する。受身を取る余裕も無く、ばちゃり、と水溜りに頭から突っ込んだ男はそのまま僅かばかりも動かない。男がその場で行き倒れとなるのがさも当然であると言うかのように、雨は一層激しく男へと降り注ぐ。

 だがしかし、幸運にも男を呼ぶ声があった。

「おい、あんた。大丈夫か?」

 人気の無い夜の通りに倒れている者を見るや否や、即座に駆け寄る男が一人。酒気を帯びて仄かに朱く染まった頬は、しかし緊張のせいか青くなりつつあるようにも見える。

「死んじゃあいねぇ、か」

 傘を閉じた男は、己が濡れ鼠にねる事も厭わずに倒れ伏す男を背負い、歩き出す。その歩みは背負う男の重みもあってか至極遅い物ではあったが、それでも衰弱した男の覚束ない足取りに比べれば格段に速い。

 夜は更けていく。遠ざかる足音とは裏腹に、雨音も次第に強さを増していく。


――――――――


 障子越しの朝の日差し、であった。男が布団の中で目を覚ました時に最初に感じた物である。

 仰向けになって布団を被ったまま、男はぎょろりとした眼をそこら中へさ迷わせた。頭上にあるのは木目、間違いなく何処かの誰かの家であった。はて、拙者は昨夜行き倒れた客であったが、しかしひとまずは命を取り留めているらしいぞ、と。混乱と安堵とか半々の男の思考は、しかし男の寝転がる部屋の襖が音を立てて開かれた事で途切れる事となった。

「おや、起きましたか。兄さーん、お侍様が目を覚ましたよー」

 横になって唖然とする男と目を合わせた若い男は、廊下の向こう側の兄を呼ぶや否や、すぐさま寝転がる男の傍へと歩み寄ってくる。

 快活そうな笑みを見せる、爽やかな男であった。手にする盆には急須と湯呑み、そして茶碗に山盛りの白米と漬物。男が唾を飲み込みながら言う。

「お主は……? 確か拙者は昨夜……」

「ああ、まだ起きたばかりなんですから。僕は穴次郎、しがない商人です。あなたをここまで運んできたのは私の兄ですよ」

 そういうと穴次郎は穏やかに微笑む。端正な顔立ちが一際際立つ、裏表の無い気持ちのいい顔である。

「で、その兄ってのが俺だ。名前は穴太郎」

 男に対して自己紹介を済ませた穴次郎の後ろ、開け放った障子に寄りかかるようにして、いつの間にか穴太郎が立っていた。穴次郎が小さく、兄さんは少しぶっきらぼうで……と呟きながら苦笑いを漏らす。

 対し、恥ずかしそうに頭を掻きながら頭を垂れる男。

「穴太郎殿、穴次郎殿、かたじけない。恥ずかしながら拙者、長旅の疲れと空腹とで目が回ってしまったのでござるよ」

「別に良いってことよ。酒飲んで帰る途中だったからよ」

 すっかり酔いは醒めたけどな、と穴太郎が笑うのと同じくして、布団に隠された男の腹がぐうと鳴った。意識を失うほどの空腹、男の言う長旅とやらも相当な物であったのだろうと二人は推測する。すかさず穴次郎が朝食を盆ごと男へと押しやった。

「きっとお腹が空いてるだろうと思って、多めに米を炊いたのです。是非召し上がってください」

「誠にかたじけない。見ず知らずの方にこうも良くして貰うとは……いただきます」

 布団を跳ね除け、凄まじい勢いで男は白米を掻き込み始める。喉に米を詰まらせたかと思えば湯呑みの茶を一気飲みし、漬物を少々はしたない位に音を立てて咀嚼し飲み込んでいく。

 ものの数分と経たぬうちに茶碗は空となり、浅漬けの汁まで男が飲み干すのを見届けてから、穴太郎が口を開いた。

「それでよ。お侍さん、あんたの名前はなんて言うんだい」

「おかわり。あ、拙者の名前でござるか。これは失礼仕った」

 穴次郎へと差し出した空の茶碗を盆へと戻し、男は胡坐から正座へと足を組み直す。ぴんと背筋を伸ばして座るその様は、先刻までとは打って変わって威風堂々、質実剛健といった風格を醸し出している。そのまま男は両の拳を腿へと置き、朗々とした曇りの無い声で名乗りを上げた。

「拙者、乳首ビンビン丸と申す」

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