第2話 時が、止まる(こちら側の視点から)。

 文化祭。私が嫌いなものの一つだ。学校の行事は全部嫌いだし、学校自体も嫌いだ。


 中学生の頃いじめに遭っていた私は、初めて「死にたい」と考えた。それまで生に縋り付いていたのが信じられなかった。生きるために食べる。生きるために寝る。生きるために起きる。生きるために息をする。生きるために心臓が動く。私は今、息をしている。この呼吸を止められたら。息を止めてみても、苦しさが勝り反射的に呼吸してしまう。その呼吸音が恨めしく、そんなときは部屋中に心臓音が鳴り響いているようだった。


 幸い勉強はできる方だった。ガリ勉だと馬鹿にされたけど、進学校に行けば状況は変わるかもしれないと希望を持った。そこには私と同じようにつらい気持ちになっている人がたくさんいて、共感したり、それを一緒に乗り越えたりできるのだと希望を持った。


 いざ学校に通うようになると、その希望は幻想だったのだと気づいた。中学校にいた生徒たちよりは100倍優しいように思うけど、どうしても溶け込めない。私はクラスから浮いていると感じた。


「史乃!何ぼーっとしてるの!」

「え、ああ、ゴメン」

「あのさ、聞いてよ。昨日から真琴君がライン返してくれないの!既読スルーしてるのに、亜海ちゃんのインスタにはコメントしてて。私、嫌われちゃったのかなぁ。前のデートからなんか変なんだよね。大丈夫かなぁ」

「うーん、でも付き合って…」

「2ヶ月!」

「2ヶ月か。まださ、照れちゃってるのかもよ。結衣菜は可愛いから」

「またー、そうやって流すんだから」

「流してないよー。結衣菜はホントに可愛い。照れちゃうの、分かる気がするもん」

「えー、ホント?」

「うん、そこはホント。でも私、彼氏できたことないから。そもそも男友達もいなくって。知らないことだらけでごめんね」

「史乃、どうして彼氏できないんだろうね?それすっぴん?すっぴんでも可愛いし…メイクも映えそう!今度メイクさせて!」

「いや、メイクは自分でもやってみたんだけど、似合わないみたい」

「うーん。メイクが下手なだけなんじゃ…。そういえばさ、河中君って格好良いと思わない?」

「ダメだよ結衣菜、愛する真琴君を裏切っちゃ。そんなに可愛くてもフラれちゃうよ」

「裏切らないよ!もー、史乃ってば…」


 私はこの席になったことを少し、いや、大いに恨んでいる。陽キャが集まるすぐ後ろの席なのだ。私はいつも他人の恋バナを聞きながら、聞かないフリをする。

 目の前の席の高畑史乃は、愛されキャラだ。素朴で飾らないところがウケているんだろう。彼女の周りには、いつも派手めな女子が集まっている。高畑史乃には彼氏がいないようだが、恋バナが絶えない。私はこういう高校生活を望んでいた。どうして私は、どこに行っても独りなのだろう。毎日誰かにビクビクする生活よりは断然マシなのだけど。私は分不相応なものを望みすぎなのか。


 掃除の時間を知らせるチャイムが鳴る。ロッカーから箒を出して、独りで掃いていた。

「あれ、高畑さん、教室当番?」

 河中君だ。高畑史乃は気づいていないようだけど、河中君は彼女のことを好きなのだと思う。私は河中君が好きだ。ほとんど喋ったことがないから、ファンみたいなものだけど。でも、恋愛感情としての好きという気持ちを確実に持っている。彼と近づけるならと何度妄想したことか。だけど、それもきっと分不相応な夢だ。

「うん。河中君、私は真部さんの手伝いするから。雑巾お願いしても良い?真部さーん、ありがとう、私も箒持ってくるね」

 高畑史乃はこちらに微笑みかけた。河中君が嘆息するのを、私は見逃さなかった。私は高畑史乃に向かって頷いて、再び箒を動かす。そこにはゴミがあるのかどうか分からないけれど、淡々と掃くフリをしていた。


 掃除が終わった後の授業は文化祭準備に充てられた。私はこの時間が苦痛でならなかった。何をして良いか分からず下を向いていると怒られる。何かをしようとすると「今それは必要じゃない」と怒られる。何をしたら良いのかと聞くと「とりあえず待ってて」と不機嫌に言われる。結局手持ち無沙汰になって、怒られたら謝る。それの繰り返しだ。文化祭が楽しい人たちにとって、私は不必要な存在なのだろう。

 ”冬のお化け屋敷”と書かれた看板が出来上がっていくのを、ただ眺めているだけだ。すぐ横では、ちょっとポップなお化けのお面が作られている。こうして楽しむのが、私の望んだ高校生活だった。

 自然と河中君に目を向けてしまう自分に気づく。河中君はいつも笑顔で、クラスを引っ張っている。彼は決して目立ちたがらないけれど、心強い存在だとみんなに慕われている。河中君が切なそうな目で高畑史乃を見るとき、胸の奥が締め付けられるようだった。私にも、その視線を向けてくれたなら。


 文化祭当日、私はチラシを配った。いや、厳密には、配ろうとした。数十枚のチラシを手渡され、途方に暮れた。私からチラシを受け取ってくれる人なんて、いない。すごすごとチラシを差し出しても、みんな私が見えないかのように通り過ぎていく。教室の方からは、たまに悲鳴が聞こえた。ポップなお化けも、怖がる人は怖がるんだと思った。

 文化祭が終わる放送が聞こえ、私は学校裏のゴミ捨て場へ行った。そこにチラシを入れた。”寒い冬に、もっと寒さを”。カラフルに書かれたキャッチコピーを一瞥して、教室に戻った。


 文化祭は大盛況だったらしい。クラスの様子は普段より和気あいあいとしていて、私の居心地の悪さは酷く増した。

 終わった後、打ち上げという単語が聞こえてきた。みんなはこれから打ち上げに行くのだろう。どこの店に行くのかは分からない。中学生の頃も打ち上げに誘われなかったことを思い出す。あのときは、高校で打ち上げに行くのを夢見ていた。


 ドッと疲れが出た私は、そのまま家に帰った。学校の行事がなくなれば、もう少し高校生活が楽になるかもしれない。春にある球技大会を想像すると、吐き気を催してくる。

 ベッドに横になり、河中君の笑顔を思い浮かべた。屈託のない笑顔が可愛くて、それなのに頼りになって。少女漫画のような奇跡が起きて、私に振り向いてくれたら良いのにと妄想した。

 そのまま眠っていたらしく、起きたら部屋が真っ暗になっていた。河中君が笑顔で話しかけてくれる様子が微かに残っている。河中君が夢に出てくるだけで、私は幸せなのかもしれない。「駿河なるー…」。伊勢物語の和歌を思い浮かべ、ちょっとだけ笑った。


 翌日学校に行って目を疑った。河中君と高畑史乃が楽しそうに話している。男子はそれをからかい、女子は高畑史乃を庇っていた。

「昨日あの後何やったんだよ」

「何もやってないって。ね、高畑さん」

「…うん」

「史乃はピュアなんだから、そういうこと言わないでくれる?」

「それでも付き合ってんだろ?河中、良かったなぁ。前から高畑さんのことばっか話してたもんな」

 2人は恥ずかしそうに俯いた。

「だーかーらー、史乃には耐性がないんだから、そういうのやめてよね!」


 私はこの席になったことを改めて恨んだ。分かっていたけれど、目の前でこういう光景を見たくなかった。少女漫画のような展開は、現実には起こり得ない。だけど、一縷の希望を捨てていない自分がいることにも気づいた。どこかで、何かのきっかけで。

 それも分不相応な願いなのだ。彼らの会話は聞こえていない。そんなフリをしながら、机に突っ伏した。締め付けられそうな心臓は、バクバクと私の中で響いた。「夢と知りせば覚めざらましを」。小野小町の和歌を思い浮かべた。私は昨夜、目覚めなければ幸せだったのかもしれない。




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・駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり(『伊勢物語 東下り』/在原業平)

・思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを(『古今和歌集』/小野小町)

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時が、止まる(こちら側の視点と、あちら側の視点から)。 西田彩花 @abcdefg0000000

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