猫・1

 服を着替えようとしていると、今日は休みだぞ、と相方に声をかけられた。

 振り返る。同じ部屋にいる彼は、洗濯物をたたんでいた。正座をし、バスタオルを両腕に広げてぴたりとあてては、半分に折り込む。タオルは山のようにあって、なぜか彼はずっとそれをたたんでいるのであった。

 おれはしばらくぼんやりとその様子を眺めていたが、ふと脱ごうとして手をかけていた襟元に目を移した。何の変哲もない灰色のスウェットは、少し首のあたりが伸びかけている。休み。そうだったっけ。まあ、休みだっていうんなら、まあいいか。

 タオルをたたみ続けている男に、おれは声をかけた。

「理人」

「ん」

 名前は覚えているようだった。

 覚えているようだった、というのは、今現在、おれがなんの記憶も持っていないということを、認識したために出てきた言葉であった。

 記憶がない。服を着替えようとしたところより前のことが、何も思い出せない。

 たとえば、目の前のこの男についても、自分にとってなんなのか、誰なのか、苗字はなんなのか、記憶も情報もない。わかるのは、バカみたいに積み上がったタオルを、バカみたいに丁寧にたたんでいることだけである。それと、今日が休みであるということを教えてくれたということは、特に嫌われているわけでもないんだろう。

 けれどそこに違和感がない。今この瞬間から自分がここに存在しているということが、当たり前であるかのようだった。

 色の名前はわかる。灰色。タオルは、薄い水色と、黄緑。それをたたむ男の服の色は、自分のものよりもっと薄い灰色。床はフローリング。ものの名前もわかる。箪笥、ドア、カーペット、ベッド、窓、カーテン。男の下の名前も知っていたようだ。理人。自分の名前はわからない。

 おれはもう一度、自分の服に目を落とした。それから、男の服を確認した。スポーツブランドのジャージを着ているようだった。テニスウェアから始まったそのスポーツブランドのことも、覚えていた。

 休みだというけれど、とりあえずまともな服を着よう。意味がわからないし。おれは目の前のタンスを開けた。ひょっとして、今すぐここから走って逃げろ、という状況にもなるのかもしれない。その時、首ののびかけたスウェットを着ていたなんて、ちょっとあんまりじゃないか。

 適当なシャツとパンツを選んだ。着替える時、スウェットのズボンの縫い目から、小さな糸が飛び出しているのを見つけた。やはり着替えることにして正解だった、と思った。


 おれが着替え終わっても、目の前の男、理人はまだタオルをたたんでいた。一体何枚あるんだろうか。

 窓の外に目をやった。ベランダにつながっているらしい大きな窓の向こうは、ただ薄ぼんやりとした青があるだけだった。ここは、それなりの上の階の、マンションの一室のように思えた。それがわかったところで、山のようにタオルがある意味はまるでわからなかったし、箪笥とベッドがあるだけの、まるで生活感のない部屋で、とりあえず知ってはいるらしい他人がそれらをたたんでいる状況も、さっぱり理解できなかった。

 おれはベッドのふちに腰掛けて、少しの間足を揺らした。ふと思い立って、理人の横を通り過ぎ、ベランダの窓を開ける。若干ぬるい風が吹き込んできた。長袖のシャツを着ていてちょうどいいぐらいの、過ごしやすい気候。

 時間や日付を確かめようと思って部屋の中を見渡したが、時計もカレンダーもなかった。

 ないならしょうがない。勝手に仮定しておこう。5月。5月半ばの週の、午後1時。うん、そんな感じだ。

 またベッドに腰掛けた。

 積み上げたタオルを軽く手で叩く音と、時折、理人が鼻をすする音がした。鼻炎なのだろうか。あるいは、5月ならまだ花粉の時期か。後ろに倒れ、ベッドに軽く体を預けてみる。いつのまにかうたた寝をしてしまいそうな、心地よい気温だった。

 静かだけれど、穏やかな午後の匂いがする。上の階の住人なのだろうか、わずかに駆け回るような足音が聞こえる。わずらわしいほどではないが、とんとんというその音が、余計に眠気を誘った。いかんいかん。他人に家事をやらせておいて、自分が眠るわけにはいかない。そもそもここが自分の家なのかもわからないし、彼がどれほどの他人なのかもわからないし、山タオル(面倒なのでそう呼ぶことにした)をたたむ作業が、家事であるのかもわからないが。

 ああ、家事といえば、洗い物をしなきゃな。溜めておくのは嫌いなんだった。昼下がり一番にすることといったら、それが日課だったはずだ。こんな姿勢からは起き上がって、さっさと片付けてしまおう。そういえば、スプレータイプの洗剤を切らしていたような気がする。あれ、あると便利なのにな。

 おれは体を起こし、目の前の男に声をかけた。

「なあ、理人」

「ん」理人は手を休めず、喉の奥で返事をした。

「これは夢なんだろうか」

 彼は返事をする代わりに、何やら唸りながら首をかしげた。なんだその反応は、と思っていると、どうやらそれは返答ではなく、彼はタオルの間にはさまったなにかが気になっているようだった。その指先が細いものをつまみ上げて、横に放られる。

 おい、糸くずをそのへんに捨てるなよ。わかったってば。そんな小言を挟んだのち、おれはもう一度問いかけをしてみることにした。

「今日は何日だ」

「忘れた」

「今は何時だ」

「さあ。昼過ぎじゃないのか」

「ここはどこだ」

「マンション。階は7階」

「おまえは何してる?」

「タオルをたたんでる」

「おれの好物を知ってるか」

「ボロネーゼとりんご」

「……なんかその好物、気取ってて嫌だな」

「だろ。俺もずっとそう思ってた。いつか言ってやろうと思ってたけど、本人に先を越されちゃったな」

「なんで今まで言わなかったんだ」

「人の好物に文句はつけられないだろ」

 おれは眉を寄せた。今の会話で、少なくとも得られた情報はあった。ただ、自分の好物だけは解せなかった。ボロネーゼとりんごが好きで、だるだるのスウェットを着てるなんて、なんか落ち着かないじゃないか。やっぱり着替えてよかった。

 わかったことがある。「わからないことが多い」ということが、少なくともわかった。

 すう、と息を吸う。

「おまえは誰なんだ」

「さっきから名前を呼んでるじゃないか」

 理人は肩をすくめた。

「そうだけど、そうじゃなくて」

「よくわからないことを聞くな」

「これだけわけのわからないことが多いと、夢かなって思うんだよ。現実でさ、自分の名前も覚えてないなんてこと、あるか? 山タオルの名前は知ってるのに?」

「お前、自分の名前忘れてたのか。あと山タオルってなんだ」

「そうだよ、忘れてたんだ。おまえに呼ばれて思い出したんだよ。山タオルは、見たまんまの状況」

「ふうん」

 山タオルって、なんか芸人の名前みたいだな。相方は谷ブラシかな。浮かんだ余計な案を手を振って払い、おれは片足を持ち上げて膝の上に載せた。

「おまえは、都合のいいことしか言わないじゃないか」

 時間のことはわからない。場所は曖昧。おれがわかるだいたいのことしか、彼も言わない。まあ、好物は知らなかったけれど。つまるところ、どうでもいい情報にしか、真摯に対応してくれないのだ。

 糸くずをそのへんに捨てようとしたり、気取った好物に心の中で文句をついていたり、あまりにも当たり前で、自然で、それが自分にとっても当たり前なのが、何より変な感覚だ。

 息を吸う音が聞こえた。

「じゃあ、話をしよう」

 そこではじめて、理人が手を止めた。こちらを見て、その手つきと同じように、丁寧に言う。

「これが夢で、俺がお前にとって都合のいい俺なら、別にいいだろう。急いで目を覚まさなくちゃいけないわけでもないし」

「そう、なのか」

「そうだよ」

 彼は、よし、と言ってたたみ終わったタオルの山を叩いた。知らぬ間に、全ての布が、山からタワーに姿を変えていた。

「話そう、准」

 呼ばれてはじめて、自分がそんな名前だったことも思い出した。

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