two
ソウ
two
ぶーんと車を走らせている。薄緑の矢印がたまにかわいく瞬きをして、角を曲がったりする。その度に体は小さく揺られ、シートベルトに重みがかかる。車に乗るたび、運転手はうるさく、シートベルトをしろと言う。これだけ言われては、もう自然と座った瞬間に肩の上に手が伸びるというのに。それでも言う。シートベルト、してね。後部座席の安心感に身をゆだねながらも、わたしは念のため、黒い帯がしっかりと固定されていることを確認した。
冬の――大晦日の夜は、静かなものだった。行けども行けども、どんな車ともすれ違うことがない。ここが田舎だから?
みんなどこへ行ったのだろう。自分にはまるで見当もつかなかった。ひょっとしたら、と考えてみる。みんなどこかに秘密の場所を持っていて、今日はそこへ行くと決めている。だから日付が変わった瞬間に、そこへ一目散に隠れてしまった。現に今日は、何かの「中」にいるひとは見れど、外を歩いている人影はほとんど見ていない。みんな、今日のための、大事な時のための、秘密の場所があるのだ。わたしにとっての、この車内のように。
運転手は、黙ってハンドルを操作している。彼は運転が上手い。ほとんど指先と手のひらだけで、この小さな箱を操ってしまう。その両手と手のひらだけで、どこへでもこの箱を導いてくれる。わたしにはそんな魔法の手、ありはしないのに。
「君の作るポトフはすきだよ」
思ったことが口に出ていたのか、運転手がそう喋りかけてきた。片手の人差し指をハンドルの下に、片手の平をハンドルの上にあてながら、「あの日のねえ」と語りだす。
「ソーセージは切ってない。キャベツはざく切りにもほどがあって、一口で食べられるものと食べられないものがある。にんじんは、日によってサイズが違うよね。小さいと、今日はそういう気分なんだなとか、ごろごろしてると、ああ今日はそういう気分ねとか」
「それはどういう気分で、どういう気分なの?」
「説明するのがむずかしい」
でもすきだよ、君のポトフ。ご機嫌にそう言って、鼻歌まで歌いだす。曲はジングル・ベルだ。もうそんな日は、5日ほど前に終わったというのに。
雑多なものであふれていた部屋からわたしを連れ出してくれたのは、彼だった。飲み物、着るもの、読み物、書くもの、死なないように食べる物、武装するためのもの。「すきなもの」なんて、一つも部屋には置いていなかった。ただ自分が生きていくためだけのものが、そこには敷き詰められたり転がっていたりしていた。きっと、普通の部屋。でも彼は、そうは思わなかった。
買い出しに行こう。ほんとはかっこよくドライブにでも誘えればよかったんだけれど、お腹がすいちゃった。でも金欠だし、外食はあんまりすきじゃない。だから材料の買い出しに行こう。ポトフが食べたい。君、ポトフぐらいなら作れるよね?
いきなり部屋に入ってきて、いきなりそんな勝手なことを述べた後、いきなり手を引っ張られた。クッションと毛布の間で、変に体を折り曲げて寝転がっていたわたしに、抵抗する力はなかった。そのまま近くのスーパーへ行き、ソーセージと、キャベツと、にんじんを買って、またこの部屋へと戻ってきた(たまねぎは嫌いだからと、彼が入れさせなかった)。
けれど帰ってきてみたらコンソメがなく、塩コショウと、少しだけ残っていたチューブの生姜で味付けをした。ずいぶん舌に痺れ、そっけない味になってしまったけれど、彼はおいしいおいしいと言い、一人でほとんど鍋を空にしてしまった。わたしはスプーンをくわえるばかりでなかなか食が進まなかったのだけれど、「食べないなら、ちょうだい?」と、彼は強欲にもわたしの皿まで奪い取った。金欠だったからごはんをたかりに来たのかな、と思っていたが、ごちそうさまでしたとぱちんと合わせた手で、彼は魔法を使ってくれた。
「今度こそ『外』に行こう。ドライブをしよう」
彼の運転する車は、それだけで、「魔法」だった。
どこへ行ったかも覚えていない。そもそも、一度も車から降りたりなどしなかったのかも。高速を走ったこともあるし、山道を走ったこともある。話してくれたことはだいたい覚えている。星の話、大学の話、虫の話、花の話、ポテトチップスの話。ビュッフェで見るようなチョコレートの噴水を家でもやりたくて、適当にそれっぽく皿でタワーを作ってみたら、大惨事になった話とか。けれどどこへ行ったかは、まるで覚えていなかった。でも、それもそうかと思う。彼の言うのは「ドライブ」であって、「目的地のある走行」ではない。
思えば、あやふやなことが多すぎた。彼とどこで知り合ったのか、何で知り合ったのか、おそらく大学でなのだろうけれど、そこで会ったような記憶はまるでない。わたしの部屋の玄関と車中以外の場所で会うこともあったはずだけれど、彼の記憶はいつも「運転席に座る後ろ姿と話し声」だった。彼はわたしを助手席に乗せることはなかった。運転に自信はあるけれど、万が一事故にあってしまった時、一番助けてあげられないのが助手席だからねと、絶対にわたしを後ろに乗せた。
「僕は不思議に思う、なぜクリスマスには明るい音楽が流れなければならないのか」
さっきまで定番のクリスマスソングを歌っていたはずの運転手が、そんなことを言い出した。
「なぜというか、その質問自体が破綻しているというか……」
「どうして?」
「だってクリスマスだから明るい音楽を流しているわけじゃないし、仮にそうだったとしても『しなければならない』みたいなルールになっているわけでもないだろうし、そもそもあの曲たちを明るいととるか暗いととるか、それだって人によってちがうと思うよ」
「うーん。それもそうか」
運転しながらジュークボックスの役割も果たす彼に、試しにきよしこの夜をリクエストしてみたが、「あの曲はだめ、暗いし眠たくなるから」と却下された。コインを入れなくても曲は流してくれるが、選曲はさせてくれない。それではジュークボックスではなくただのCDではないかと、わたしは脳内で表現を改めた。
夜の道は、誰もいなかった。
先ほど洗車に寄った。ガソリンスタンドでさえ、ひとはすべて事務所の「中」にいた。
洗車によってついた水滴がまだ乾いておらず、夜の外灯に照らされる一瞬だけ、フロントガラスがどんな夜景よりも綺麗な光の空に変わった。オレンジ色、水色、白色の、満点の光の粒。その一瞬だけ、わたしは息をとめてその光景を見守った。夜景を綺麗だと思ったことはないけれど、まるで夜景のようだと思ったし、言葉を閉じてしまいたくなるほど、逃したくない瞬間だった。
そんな道さえもなくなってきてしまうと、自然と口が開いた。
「もうこれで、お別れなんだね」
彼は何も言わなかったけれど、バックミラーを通して見るその表情は穏やかで、薄く微笑んでいるように見えた。
わたしは続く言葉につまった。頭の中に浮かぶどの言葉も、すべて正確ではなくて嫌気が差した。すべて放り投げ出したいと思い、しょうがなくお道具箱をひっくり返して、底を覗き込んでみると、ひとつの言葉が張り付いていた。それさえも、正直今のこの場にはふさわしくない気もしたが、他の物よりはマシだと判断した。その言葉をゆっくりとお道具箱の底から引き剥がし、少しだけおそるおそる、彼の前に置いてみた。
「ありがとうね」
「いえいえ」
ぐっと、喉を飲み込んだ。
『いえいえ』
その言葉がすべてだと思った。連れ出してくれた。笑わせてくれた。笑ってくれた。くだらない話を聞かせてくれた。なぜ今日が終わりなのかもわからない。明日から、一体何が始まるのかも。でも、今日で『彼』とは終わりなんだと、はっきりそう感じた。
もし明日があるとして、もし明日もわたしも彼も元気に生きているとして、でもそれは、もうきっと出逢うことのないわたしと彼だ。
すれ違っても、きっと言葉は交わさない。目ぐらいは合わせるかもしれない。でも、お互いを『知らない』。この魔法のような時間は、ここにとどめて置いておく。なぜそうしなければならないのか、いっそわたし達が世に言う「恋人」であればよかったのか、互いの手のひらの温かさを知っていればよかったのか、あるいは、この気持ちが「好き」という二文字の、凡庸な言葉に、変換することができればよかったのか。おそらくどれもちがう。けれど、魔法は今日までで、『彼』は今日までで、そんな彼の魔法にかかる『わたし』も、きっと今日までだった。それでも、その魔法を知ったわたしは明日からも生きていかねばならない。彼も、その両手の魔法を隠して――あるいはまた誰かを救って――何事もない世界を、生きていかねばならない。ここにあった魔法は、この先に続くことはないし、宝物ののようにしまわれることもない。ただ、わたしや、ひょっとしたら彼も、覚えているだけだ。
ウインカーの音に安心する。まだもう少し、時間がある。
一緒にいたいとも、手をつなぎたいともちがう、一番正確に、言葉という無理矢理なものに翻訳するのであれば、それはただ、離れたところで願うという、「互いがしあわせであることを切に願う」関係に、神様がわかりやすい名前をつけてくれなかったことを、一生恨むのかもしれない。本来ならば交わることがなかった流れ星が、たまたま何かの、そうたとえば神様のくしゃみかなんかで衝突してしまって、出会ってしまって、魔法が生まれてしまって、だとしたらわたしはそのくしゃみを永遠に恨む。恨むけれど、悔しくて、どうしようもなくて、最終的には言葉を持った人間としてしか生まれてこられなかったことを、後悔するかもしれない。このわからない、わたしが抱えた感情に――もしかしたら彼もが抱えた感情に――名前さえあれば、魔法は今日までではなかったのかもしれないのに、と。
それゆえわたしは、返す言葉を持っていない。「ありがとう」も「だいすき」も、この感情を表すには全くちがう、寒気がするほどにちがう。やっぱり自分のお道具箱の中に入っていたものなんて、大したものはなかった。ありがとう、は車を開発してくれた人に言うべき言葉だし、わたしが一番すきなのは熱帯魚だ。彼なんかよりずっと、熱帯魚がすきだし、星空がすきだし、ちゃんとコンソメの入ったポトフがすきだ。
だから彼が代わりに言ってくれた、「いえいえ」。その言葉を飲み込むことだけが、わたしの気持ちも、今までの感謝も、彼に伝えられるたったひとつのすべだった。なにかわかりやすい反応でもって応えられないというのは、確かに心残りになりそうだけれど。
運転手がまた、歌い始めた。切ない曲はやめてくれ。この期に及んで、泣きたくなってしまうではないか。なぜ今日までなの、なぜ出会ってしまったの、なぜこんなにも苦しいのにあなたの幸せを願いたくなってしまうの、なぜあの日のポトフにコンソメが入れられなかったの。恨むべきことは、いくつでもある。わたしの馬鹿。彼も馬鹿だ。だからきっと、これが最後の歌。最後の、彼の魔法とドライブ。
わたしも口ずさみ始めた。彼の歌う曲とは別の、世界的民謡だ。だんだん、互いの声に負けじと、二つの異なる歌声が大きくなって、車内はたいへんな不協和音になる。それでもやめない。それがいい。『いえいえ』。そう最後に言ってくれた彼に、優しい歌は似合わない。
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