紅姫の言葉に、座敷内がまた騒がしくなった。

 大いに騒げば良い。騒げば騒ぐほどそれは蠱毒の呪のように力を増し、紅姫の願いはより成就に近づく。

 雪貞の妻になれぬ今、紅姫には雪貞に会う他に目的があった。

 それが先ほどの言葉。


『私を殺してください』


 しかし、これには雪貞も今まで以上に眉をしかめ、紅姫を伺った。


「何? 聞き間違いか? 俺に殺されたいだと?」

「ええ、そうです。私を殺してくださいませ。ああ、ともの方では駄目ですよ? 雪貞様、貴方様の手でなくては」


 どよめきが大きくなる。「狂っている」という声や「鬼女め」という揶揄の声が聞こえてくる。


「別に私は、私の声に同意を求めているわけではございません。理解しなくとも結構。ですがこれだけは、戯言と判断してもお聞きくださいませ」


 雪貞だけを見つめ、嫣然と微笑む。

 瞳は逸らさない。雪貞だけに己の姿を見て欲しく、雪貞だけに聞いて欲しいことだから。


「私は雪貞様を愛しました。故に雪貞様自らの手で殺されたい」

「何を申すかと思えば……正気か?」

「ええ、正気ですとも。至って私は病んでなどおりません。この世に生を受けてから今日ほど愉快で歓喜に満ちた日はございませんわ」


 生まれ育った国が滅びようとしているその日に、嬉々として喜びを叫ぶのは自身でも不謹慎だとは思う。だが、紅姫の気持ちに嘘偽りはなかった。


「もし此度こたびの裏切りがなく婚儀が執り行われ、私が雪貞様の正室になれたところで、行く末まで雪貞様の妻が一人だけということはないでしょう。私が先に死に後妻を娶ることもあれば、子が出来ず他の娘を迎え入れるかもしれません。戦を忌避するため同盟の証、もしくは人質として側室を数名設ける可能性だってありましょう」


 これは考えたくはないことだが


「私が雪貞様に嫁ごうが嫁ぐまいが、私以外に雪貞様を愛する者が現れ、雪貞様にも私の他に愛する者が現れるかもしれません」


 考えただけで苦渋で醜く顔が引きつれるのが分かる。


「そうなれば私は嫉妬の波に呑まれたことでしょう。自らの命を絶つか、雪貞様の周りにいる羽虫を殺すか……そうですね、先ほど雪貞様がおっしゃったように雪貞様をあやめてしまうことだってありますわね」

「恐ろしいことだな」

「ふふっ……雪貞様を殺めてしまうのは少し魅かれますが、でも、それでは駄目なのです」


 口元を隠し、頬を染めて恥らう。


「雪貞様が死んでしまっては、雪貞様が私を想う機会も永遠に失われてしまう」


 そして紅姫はぽつぽつと語り出した。発する言葉一つ一つが大切な宝物であるかのように愛おしげに。


 私の望みは雪貞様に想われること。それが愛情でも憎悪でも良いのです。しかし『こんな女がいた』というだけでは駄目なのです。

 どんな感情でも良いけれど雪貞様の中で一番でなければならないのです。

 私を常に寝ても覚めても思い出し、忘れることなんて出来ない感情でなければ。


 私自身が自害するのも良いでしょう。

 でも、ただ自害するだけでは不安なのです。

 だって昔から事実にしろ物語にしろ、女が愛で死ぬなんてよくある話じゃございませんか? 

『貴方様を愛した妻たちの中のひとり』として埋もれてしまうのでは? と不安になるのです。


 そこで私は考えました。貴方様の心に、刃の如く私の愛を突き刺すためにはどうしたら良いのか。


 答えは簡単でしたわ。


「貴方様に直接殺されれば良いのです」


 紅姫の想いが言葉となり音となり、空を震わす。


「貴方様を愛する女も、貴方様が殺める女も幾人もいることでしょう。されど貴方様を愛し、自ら進んで命を差し出す女は私ただ一人」


 殺伐としたうつろの中にそれは色づくように、香るように。


「私のこの胸に貴方様の刃が突き刺さる時、私の愛もまた貴方様に突き刺さるのです」


 言い放ったその声は大きいものではなかった。

 しかし、周りを囲んだ兵たちのどの刀よりも鋭利に、その場のすべてを支配した。


「私を殺してください、貴方様の刃で。その刃が私の肉に沈む感触で、吹き出す血の暖かさで、私を感じてください。それは私の愛。すべて。貴方様しか愛さず、貴方様のことしか考えない愚かな肉と心。貴方様に捧げられた命」


 誰もが固唾を呑み、得体の知れない妖にでも遭遇したかのような目で白無垢姿の花嫁を見た。


「さあ、私のすべてを奪ってください」


 呪いのような静寂にとらわれる。

 それを破ったのは天にも届くかという高らかな一笑。雪貞だった。


「くくくくく、あははははははっ!」

「わ、若……」


 それは、破魔の如くこだまする。

 困惑する家臣たちをよそに雪貞は一頻ひとしきり笑った。


「面白い考えだ。未来永劫、好いた相手と添い遂げようとするのが女だと思っていたが、お前は違うのだな」

「違うことこそが私の愛の証なのです」

「何をもってしてでも俺の愛を勝ち取り、生きてそばにいようとは思わなかったのか」

「それは……」


 紅姫はほんの束の間、瞳を閉じた。

 瞼の裏に数刻前の光景が浮ぶ。

 気弱な侍女と生真面目な若武者。

 二人は今、どこを駆けているだろうか。

 間も無く夕刻。

 夜闇に紛れ獣道を行くのは危険も多い。

 しかし耐えればまた新たな朝日は二人を迎え入れてくれるはずだ。


 二人に。いや、己の望みは託すまい。


 紅姫は吐息をひとつ、


「ふふ……雪貞様は私の話をただの強がりだと思いまして?」


 そして面白がるように明るい声音で言った。


「ふむ」


 雪貞は紅姫の胸中を察したのか、そうではないのか何か考え込んだあと家臣を呼んだ。


さかずきをここに」

「若! まさかこのものと杯を交わすおつもりかっ!」

「何か問題でも? むしろこのままにしておく方が鬼や魍魎の類にでもなって取り殺されそうではないか。ならば悔いなきよう計らい、収まるところに収めてしまった方が利というもの」


 紅姫も家臣ほどではないが、目を見開く。


「杯……それならば今日、使うはずだったものがございます。それでよろしいですか?」


 恐る恐る申し出てみると、力強く頷かれた。


「ああ、良い」


 慌てて乳母のタツに言いつけて宴の支度をしていた部屋へと取りに行かせた。


「あの、本当によろしいのでしょうか」

「ははっ!先ほどの威勢はどうした?何、わらべの正妻の前にほんの僅かな間、肝の据わった妙な正妻がいても良かろう。生涯正妻を二人持ってはならぬということもあるまい。しかし」

「ええ、わかっております。同時に正妻は二人も必要ない、ですわね」


 それでも紅姫の胸は震え、感極まり目尻を濡らした。

 杯を交わす。それは雪貞と紅姫の間で何事もなく交わされるはずだった行為、結婚の儀の一つだった。


 本来結婚には三日間かかる。

 一日目、花嫁は生家で家長と素焼きの杯で一度酒を交わし、生まれた家と決別をする。

 二日目、婿側の向かえの輿に乗り相手の家へとたどり着く。

 三日目、やっと花婿と顔合わせだ。朱塗りの杯で花嫁と花婿が三三九度を交わし、宴会が催される。

 そしてその夜に「床入り」となり夫婦の契りを交わすのだ。


 紅姫も前日、父と素焼きの杯で酒を交わしていた。

 その時はまだ、悠土の国の花嫁になるのだ、雪貞と生涯を共にするのだと思っていた。


 生きるとは何とも分からぬものだ。

 実を言うと素焼きの杯を交わした今、紅姫は綾平家でも紫雨家でもない。

 綾平堂阿の娘では確かにあるが、綾平家をすでに離れた者なのだ。

 ただの何の変哲もない娘。ただの紅姫なのである。

 だから、こんな馬鹿げたことも出来たのかもしれない。

 何者でもない、何のしがらみもない者だから己の命だけを掛けて、愛しい人を選べたのだ。


 その何者でもない娘のまま、生を閉じるのだと紅姫は覚悟を決めていたのだが、ここへきての雪貞の申し出。さすがに床入りは出来ないだろうが杯を交わしてくれるという。

 一時でも紅姫に紫雨家の家系に加えてもらえ、紫雨雪貞の嫁として名乗らせてもらえるのだ。

 こんなに嬉しいことはない。


 しばらくするとタツが朱塗りの大中小に重ねられた杯と酒を持ってきた。

 一枚の杯に交互に三回、三枚の杯を二人で合わせて九回酌み交わすのが婚礼のしきたりだ。


 雪貞と紅姫の間に杯が置かれる。

 赤い漆を塗られた杯は一番大きな物でも両の手にすっぽりと収まる大きさで、戦の喧騒を微塵にも感じない、曇り一つない鮮やかな色合いだった。


「赤いな」


 ふと、雪貞がそうつぶやいた。


「ええ、命の色でございます」


 赤は血の色。生命の色。

 今日、多く流れた血の色。

 今日、多く消えていった生命の色。


 重ねられた盃の赤はこれまで脈々と受け継がれてきた血筋を誇り、これからの繁栄を願っているようで、紅姫は少しいたたまれなくなった。


 小さな一の杯に酒が注がれ、赤色に透明な影が差す。

 雪貞が躊躇いもなくそれを口にし、紅姫もそれに続く。


「赤は椿の色でもありましたわね。覚えておいでですか、雪貞様」


 盃を返しながら紅姫は雪貞に話しかけた。これが最初で最後の夫婦の会話かもしれない。少なすぎる二人の思い出を探し出す。


「紅の散らずに落つる花音は、誰ぞ気づかん白雪の上で」

「急になんだ?」

「貴方様が文ふみでくださった歌です」

「そうだったか?」


 雪貞が決まり悪そうに返された酒を煽るので、微笑ましい気分になる。


「あの時の文には椿の最期が潔くで好きだ、とありましたが歌には全く触れてませんでしたわね」


 大勢の兵たちが雪貞と紅姫を囲んでいるのに、二人だけしかいないかのように静かだった。

 真ん中に重ねられた二の杯に注がれる酒のとくとくという音だけがする。


「あの歌を見た時、私は愛しさと同時に椿に嫉妬しました」


 紅姫の前に杯が置かれ、今度は紅姫の方から酒に口づける。


「花にまで妬くのか」

「だって、花を気にかける思いの余地すら私に向けて欲しいと思ってしまったのですもの」


 杯にのびる雪貞の手が止まった。


「あら、鬼女になりそうな恐ろしい妻を娶るのはお止めになられますか」

「いや、男に二言はない」


 杯を握りしめ、ぐいっと一気に飲み、突き返される。

 残った酒は僅かで紅姫の唇を濡らす程度だった。


 三杯目。

 雪貞、紅姫、雪貞の順で酒を交わせば晴れて二人は夫婦だ。

 そして、別れの時が来る。


「椿の最期は潔くて好きだが、誰にも知られず逝くのは少々寂しくもある」


 杯に手をかける間際、雪貞がぼそりと言った。


「この乱世、命の炎は一瞬にして数十と消える。戦に出れば昨日別れた友と亡骸で再会するなんて良い方だ。だいたいが生死不明のまま、別れたままだ」


 杯を弧を描くように回して、酒が揺れるのを見つめる雪貞。紅姫もそれを見つめた。

 酒はされるがまま、杯の上で荒波を作る。


「己の命を守るので精一杯、やっとのことで帰ってきても疫病や飢饉で死に、別れすら言えぬ者も何人かいた」


 雪貞の気持ちは紅姫も分かるような気がした。紅姫にも弟と妹がいたが流行病で三人死んでいた。

 この時代、命は呆気なく散る。


「俺は別れが苦手なのかもな。俺の知らぬ間にいなくなる奴がいることに虚しさを感じるのだ。救えなかったことに、じゃない。独りで逝かせてしまったことに」

「救いたいと思ったことは?」

「人に救える命なぞあるものか。人はいずれ死ぬ。そいつが逃げずに命を賭して戦ったのなら、それは天命だ。俺にはどうにもできん」


 武骨なようでいて、雪貞は繊細なようだ。

 それは冷たく突き放しているようでいて、優しく、嘆いているようにも聞こえた。


「存外、寂しがりだったのですね」

「…………そうだな」

「意外だわ。お認めになられるのですね」

「寂しがり、と男らしくないことを言われ、俺が怒ると思ったか?」


 それはちょっと図星。

 話せば話すほど、知らない雪貞が姿を見せ、さらにもっと知りたくなる。

 しかし、時はそれを許してはくれなかった。

 その宣告をもたらす者が愛しい人であることは幸なのか不幸なのか。


 紅姫は雪貞から最後の杯を渡された。


「雪貞様、ご安心くださいませ」


 この酒を飲めばお別れだ。


「この紅姫、椿と違うのは貴方様の手で落とされるということ。寂しがりの貴方様に、乱世の嵐の前では儚い私の命を捧げます。それが私の命の使い方です」


 紅姫は右手で雪貞の胸に触れた。

 厚く引き締まった胸に命の脈動を感じる。


「この命、落ちても私はここで貴方様を見ております」

「本当にそれでいいのか」


 雪貞の胸を撫ぜる。

 触れた手からも己の熱と想いが伝われば良いのに、そう思いながら。


「私は雪貞様に出会いこんなにも嬉しい。貴方様が常に思ってくださるのなら、この命は貴方様のもの。それに」


 紅姫は雪貞にすり寄り、頬を彼の胸に当てた。

 雪貞の命がそこにあるのを感じる。

 この鼓動はどのくらいの大切な者の命を見てきたのだろう。


「それに、貴方様もとうに狂っていなさるわ」

「……ほう?」

「ふふ、否定しないのですね」


 雪貞が紅姫の身体を抱き寄せた。

 その低い声で、まるで睦言でも紡ぐかのように囁かれる。


「……何故そう思うのか申してみよ」


 耳に掛かる吐息がくすぐったい。


「貴方様はとうに人の死に麻痺してしまわれている。だから死人に会えぬと泣くのではなく、素通りする命に虚しいと思うのでしょう? 貴方様など関係ないというように滑り落ちる椿に怒りを覚えるのでしょう?」

「……本当にお前は、聡く、面白い女だな」

「正解かしら? 嬉しいわ。ならばなおのこと私の命は捧げますわ。私は殺されることで愛を証明したく、貴方様は殺すことで己を無視する命を永遠に所有したい、そうではなくて?」


 ふふふ、と紅姫が笑った。

 雪貞はそんな紅姫の声を聴き入るように目を閉じていた。


「今の会話でそこまで読み取ったのか……もっと早くにお前に会っておくべきだったな」

「でもそれ故の今でございますわ」

「そうだな」


 早くに会っていたとして、今のような心境になったとは思えない。

 わずか一刻しか顔を合わせてないのに雪貞と紅姫は奇妙な心の繋がりを持った。

 しかしそれは一刻だったからこそ心を通いあわせることができたことでもあるのだ。

 巡る運命がこの一刻を選んだのだ。


 雪貞が紅姫を抱いていた手を緩めた。

 紅姫も頬を雪貞の胸から離し、置いてあった杯を両手で持つ。

 杯を傾け酒をこくりとひと息に飲み下し、雪貞に杯を渡す。


「ほんの瞬きの間でも、雪貞様の妻にしていただきありがとございました」


 紅姫が首を差し出すが如く、座礼した。


「そうか……」


 時が動き出す。


「今をもってこの者、紅姫を俺の妻とする。すべてを受け入れ、命が続く限りお前を想い続けよう」


 雪貞が立ち上がり、抜き身だった刀を一度鞘に戻した。

 鞘のまま、正面で縦に構え、わずかに刀身を引く。

 刃が姿を覗き、そして鋼の澄んだ音を響かせ閉じられる。

 それは紅姫が懐剣を差し出した際に行った行為と全く同じ。

 武士の誓いの印であるその仕草に紅姫は笑った。


「それが俺がお前にしてやれる唯一の約束だ」

「それで充分でございます」


 再び、今度はゆっくりと刀が鞘から引き抜かれる。

 よく見れば白刃はところどころ刃こぼれがあり、刀に現れるべき刃紋は黒ずんで濁っていた。城主の部屋である此処に来る前に何人切ったのだろうか。


「名のある刀匠の刀だったんだがな、悪いがこの刃では苦しめることになるかもしれん」

「ではその苦しむ姿も覚えておいてくださいませ」

「最後まで豪胆な女だな……悪くない」

「ありがとうございます」


 雪貞の持つ刀が紅姫に向けられる。


「さぁ、わが花嫁よ。覚悟は良いか」

「覚悟は出来ております、旦那様」


 花婿にためらいはなかった。

 まるで早く我が物にしたいと急ぎ、掻き抱くように花嫁へと迫る。

 違うのは花嫁と花婿の間を繋ぐのが熱い口づけではなく、一振りの刀であるということ。

 二人の距離が縮まるほど、刀は花嫁の胸へと深々と突き刺さる。

 純白の花嫁衣裳が赤く染まり、花嫁がこぽりと血を吐いた。


「苦しいか」


 花婿の囁き。

 花嫁は歓喜に言葉を紡ごうとするが、上手く舌が動かない。代わりに笑みを形作る。


「痛みで俺が憎くはならないか」


 言いながら、極上の絹でも触るかのように髪を、天上の白磁でも愛でるようにうなじを、撫でる。

 応えたのは慈しむような眼差しと、弱々しく持ち上げられた手。


 震えた赤い、花嫁の手は花婿の頰に優しく添えられる。


「そうか…………紅姫、お前は俺のために生まれてきたのだな」


 手に手を重ね、そして雪貞は紅姫の椿のような唇に口づけた。

 硬質な刀で兵を屠り、荒々しく敵陣へ切り込む若武者がしているとは思えない、壊れ物でも触るかのように恭うやうやしい口づけ。


 まるで椿の歌が書かれたふみのようね。


 紅姫は霞んできた意識の中、そう思った。

 慣れないはずのくしゃくしゃになりそうな精緻な紙に書かれた荒い筆致。

 精一杯の誠意はあの時と同じだ。

 紅姫が愛したままの雪貞だ。

 やさしい口づけに、貫かれた刀に。

 注がれる激情の熱が、紅姫の身体を裂きながら、満たしていく。


 そう、私は雪貞様のため、この時のために生まれてきたのね。


 たとえこれで終わりでも、雪貞の命と寄り添う魂になるのなら、敵に追われ獣道を彷徨さまよい孤独に死ぬよりも遥かに極上な死のような気がした。

 冷たい夜に殺されるのではなく、熱い想いに殺されるのだ。

 雪貞だけを見つめ見つめられ、すべてを一身に受け。


「わ、若……か、介錯を………」


 紅姫と雪貞の蜜な間に不意に雑音が入った。


「誰も、触るな……俺のものだ」


 しかしすぐに雪貞が雑音を消してくれる。

 ああ、なんて嬉しい言葉だろう。

 雪貞様が私を求め、己のものだと宣言してくれている。

 もうその言葉だけで充分だ。

 文だけで想像した愛しい面影よりも確かな形だ。


 霞む視界、冷たくなる身体、触れている皮膚の感覚も鈍くなる。

 しかし紅姫の重くなっていく身体を支える雪貞の腕の力強さは変わらなかった。


 紅姫は安堵した。

 深く深く吐息をつく。

 今は灼けるように熱く、意識すら切断するような痛みすら愛おしい。


 これで私は雪貞さまのもの。


 恍惚に溺れる。

 寒いのに熱い。

 真っ白く明るくなったと思ったら、何も見えない暗闇に囚われる。

 けれどどちらも雪貞からもたらされたもので……。


 紅姫はもう一度だけ雪貞を見ようと目を凝らした。

 見えたものは眩しいくらいの光だった。

 やがて胸を突き刺していた刀がごりごりと肋骨を削りながらゆっくりと引き抜かれる。

 朱塗りの盃よりも鮮やかな赤が溢れだす。

 そして、己が首に重い鉄塊の一打が打ち込まれ、紅姫の意識が揺らいだ。

 急に平衡を失い、軽くなる。


 ああ、雪貞さま……わたくしの命の音は聞こえまして?


 飴色に磨かれた床に、女の頭がごとりと落ちた。

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椿の花が落ちる音 紀舟 @highrat01

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