紅姫の前に現れたのは精悍な顔つきの若者だった。

 黒々とした眼、きりりと凛々しい眉。赤を基調とした鎧兜は勇ましく、引き締まった逞しい若者の体躯に合っている。

 勇猛な兵たちを引き連れ、白刃の重そうな刀を携えた若者の姿に紅姫は自然とため息が出た。

 ふみで想像していた通りだ。


「お会いしとうございました」


 手甲や刀の鍔の硬質な音が鳴る中、純白の澄んだ衣擦れの音が緊迫した部屋を割いた。

 甲冑の一団からざわめきが起こる。

 無理もない。城はほぼ制圧している。

 敵は武器を手に襲い掛かって来るか、もしくは逃げ惑い泣き叫ぶはず。それが花嫁装束で三つ指をついているのだから。


「……これはまた、ご丁寧に。痛み入る」


 雪貞が口を開いた。

 呆れが混ざってはいたが、心地よい凛とした声音が紅姫の耳朶を打つ。身が焼けつくような熱を持ち、震えた。


「此度の婚儀は破談、と承知しているものと」


 雪貞が紅姫を一瞥し、嘲笑とも憐みとも取れる顔をした。


「存じております。しかし雪貞様がいらっしゃるのに、いても立ってもいられなかったのです」

「城など疾うにもぬけの殻だと思っていたが、まさか振った花嫁に出迎えられるとはな」

「この日のために、織彩しょくさいの国の極上の絹で仕立てた着物です。一目だけでもお見せしたくて。誰にも見られず処分されるのでは、あまりに悲しゅうございます」


 顔を上げ、淡雪の如き絹地がよく見えるよう袖を広げる。

 戦の最中とは思えない、ころころと鈴を転がしたような楽しげな笑い声が、部屋の中に響いた。

 しかし男たちにはその光景が奇異に見えたようで、白無垢姿の娘一人、老婆一人を囲み、一斉に刀を構えた。


「豪胆なのか、痴れ者なのか」

「貴方様に恋い焦がれた、ただの愚かな女でございます」

「ほお? 同盟の契りを反故にし、迎えの行列と偽って妻になったかもしれない女の国を攻め滅ぼそうとしている男に恋い焦がれた、と?」

「左様でございます」


 雪貞は合点がいかないというまなざしを花嫁に向けた。


「どこに恋しく思えるところがあるのか、俺にはさっぱり分からん」

「あら、私と雪貞様は幾度となく、文のやり取りをしたではございませんか」

「縁談の申し入れと承諾、夫婦となる挨拶、近況報告……そんなところだったか。たかがそれだけの文で惚れた? 一体何の罠だ?」

「十分でございましょう?」


 うっとりと、そして艶やかに笑う紅姫。

 たかが文。触れ合うことも出来なければ、反応が返ってくるのは三、四日先だ。

 それでも読み返せば読み返すほど、紅姫の中の雪貞は血肉を持ち、呼びかければ応えるようになった。

 朝に馬の早駆けをすると胸がすく、と書いてあれば、紅姫の眼前を朝露と金色に輝く陽光を浴びながら雪貞が馬で駆け抜ける。

 狩りで猪を捕ってその日は宴だった、と書いてあれば、飲めや歌えや大騒ぎの酒宴の渦中、豪快に笑う雪貞の傍らに紅姫もいた。


「日々、顔を合わせ言葉を交わしても、真意を会話に乗せず分かり合わない、分かり合おうとしない者たちなど沢山います」

「ははっ! あの文に俺の真意があると何故分かる」

「あら、それくらい分かりますわ。雪貞様は嘘のつけないお方です」

「お前を裏切った者が、嘘がつけない? 笑わせてくれる」

「ええ。本当に嘘をつき通そうとするなら、婚儀の場、お酒を酌み交わす時まで刃を抜かなければ良かったのです」

「ぐっ……」


 雪貞が言葉を詰まらせた。


「婚儀の場では親族しか立ち会わないのがつね。精鋭を数名だけ部屋の外に待機させ、頃合いを見計らってわが父を打てばそれで済んだはずです。それが出来なかったのは、雪貞様がそこまで嘘をつき通せなかった優しいお方だということ」

「物は言いようだな」


 そこで雪貞はあるものに気がついた。

 紅姫の腹のあたり、房飾りが揺れる。


「帯に挿してあるのは懐剣だな。くくくっ……これは騙されるところだった。恋い焦がれたなどと言い、こちらが油断した隙に一刺し、という魂胆か」

「ああ、これですか」


 確かに紅姫の帯には婚礼用の房飾りのついた懐剣が挿してあった。

 紅姫はそれを一撫でしてから鞘ごと引き抜いた。

 ただそれだけのことに鎧武者たちの間で緊張が走る。


「心外ですこと。私が貴方様に刃を抜くなんてとんでもない。この懐剣も嫁入り道具の一つ、飾りという意味以上のものはございません」


 おどけるように首を竦めた後、懐剣を縦に持った。

 柄を引き上げ、ほんの少しだけ刀の刃が見えたところで鞘に戻す。

 鍔と鯉口が擦れ合い、小気味良い音をたてる。


 その間、雪貞が従えた男たちの慌てふためく姿は見ものだった。皆ものすごい形相で紅姫を睨み付け、いつ切りかかっても可笑しくない様子だった。立派ななりの男たちが小娘一人に、だ。あまりに滑稽。


「フッ……生意気な真似を」


 そんな中、雪貞だけが紅姫の態度を受け入れたのか、悠然と構えながら紅姫を見ていた。

 紅姫もそれに気が付き、嬉しさを噛みしめる。


 雪貞様だけが私を理解してくれた。


 そこに、何か二人だけの見えない繋がりが出来たようで、気が狂いそうなほど胸が高鳴る。

 しかし、どうかすれば飛び出してしまいそうな心臓を抑え込み、紅姫は笑みをたたえたまま、懐剣を掲げるように差し出した。


「ご心配なら、これは雪貞様にお渡しします」


 会った時と同じように深々と頭を下げ、周りの男たちにも敵意がないことが分かるように示した。


 下を向いていたため定かではないが、雪貞が動いたような気配がした。と同時に取り巻きたちの困惑の声も上がる。


「若、おやめください。口ではああ申しておりますが、何を企んでおるか見当もつきませぬ」

「そのときはそれまでよ。愚かな男が打ち倒されるだけのこと。この戦乱の世ではよくある話だ」


 雪貞の手が懐剣に掛かり、握られる。

 手を伸ばせば届く距離。雪貞の息遣いが聞こえ、紅姫は恍惚にほうっ……と吐息をついた。


 この時を待っていた。


 雪貞の人となりは紅姫自身が言ったように、手紙を見ればそれなりに感じることはできる。

 とはいえ、会ったことがなければ雪貞の容姿は想像の域を出ず、紙面の上では言葉は語れど声は分からない。

 雪貞に会うためには、無謀でも城に残らなければならなかった。

 そして今、目の前、鼓動すら聞こえるほどの距離に会いたかった愛しい人がいる。


 二人が近づいたのはほんのひと時だった。

 懐剣を受け取るとすぐに雪貞は紅姫から離れて座す。

 血と鉄の匂いに混ざって、麝香じゃこうに似た香りが紅姫を撫でて、消えた。

 名残惜しさに泣きそうになるのを堪える。雪貞に泣き顔を見せるなんて醜態は晒せない。

 彼はもっと強い女性が好みだろうから。

 こんな場面でも凛として笑っていられるような女性。

 紅姫は口元に弧を描き、顔を上げた。


「こんな状況でも笑うか」

「ええ、愛しい人を目の前にしているのですもの。嬉しくて仕方がございません」

「後のことも考えているのか? 婚儀を破談にした、ということはお前の価値はすでにない」

「そうでしょうね」


 だから紅姫はここにいる。

 価値がないから。

 雪貞に会えるのは今、この城でしかないから。


「悠土の国が篠郷を攻めたということは、悠土が山辺の国側についたということ。案外、山辺の一族の娘との縁談がすでに出ているのでは?」

「血を繋げることが一番の同盟の契りだからな」


 苦笑い。


「…………当主の三番目の娘、まだ六つだそうだ」

「まぁ! 本当にいらしたの? 妬いてしまいますわ」

「まだわらべだぞ? こちらは何の手出しもできんのにか?」

「成長なんてすぐ。それに私がなりたくてやまない貴方様の妻の座を得るのですもの、妬いて当然です」


 雪貞が居心地悪そうに、胡坐をかいていた足を組みかえた。


「まだ見逃してやることはできる。この場に残ってもお前は見せしめに打ち首にされて終わりだ」

「私のことを心配してくださるのですね。嬉しいわ」


 紅姫の目が夢見るようにとろんと蕩けた。


「本当に己の立場が分かっているのか?」

「ええ、ええ。分かっておりますとも。分かっててこの場に残ったのです」

「何?」


 顔をしかめる雪貞に紅姫は、ふふっと笑った。


「始めに申し上げた通りにございます。私は貴方様にお会いしたかった」

「その命を賭してでも、か」

「ええ。そしてこの衣装はその覚悟の証。添い遂げることは叶わずとも、最期まで貴方のお傍にいたいという現れでございます」


 白を着る、ということは相手の色に染まることを意味する。覚悟とはすべてを投げうち、この身を捧げること。

 今の紅姫には雪貞を恋い慕うことがすべてだった。


「しかし俺の正妻はまだ乳離れも出来てない幼子と決まったぞ」

「残念なことです」


 残念、と言いつつ敢えて全然残念そうではない言い方をし、相手の様子を伺う。

 こちらに気を引くことも大事だ。それは恋の駆け引きであっても、そうでなくても。


 上手いこと雪貞はこちらに興味を持ったようで、探るように紅姫を見てきた。

 こちらの出方を量られているのが分かる。

 この身に被せた白雪の衣を一枚一枚、剥ぎ取られるような視線を感じる。


「フッ……傍にいると言うが、どうする? 色でも使って俺を惑わせ側室にでもなるか?」


 雪貞様の目に私はどう映っているのでしょう。


 袖から伸びた手。襟元から覗く首。

 ほんの少しでも女としての価値があるのなら、これほど嬉しいことはない。

 綺麗に重ねられた着物の合わせ目を暴き、陽の下に肌を曝け出す、そんな想像をしてもらえているのだろうか。


「惑うてくださいますか?」


 甘露を奥に潜ませて、花のように赤い唇を開く。


「どうだろうな」

「国の盛衰がどうなろうと構わなくなるほど私に溺れ、骨の髄まで融けるほど共に愛欲に身を投じてくださるのなら本望」


 滴る蜜で耽溺を誘い、しかし滅びという毒もまた密やかに吐いた。

 それに気がつかず飲み干してしまうなら僥倖。


「ですが、そうはならぬでしょう?」


 聡明な雪貞なら毒に口づけることすらしないだろう。

 紅姫を側室にすることの危うさに雪貞が気づかないはずがない。


「まぁな。お前を側室に迎え入れ、山辺の反感は買いたくないからな」

「ええ。それに私の他に正妻なんて居りましたら、気が気ではございません。嫉妬の嵐に狂ってしまいますわ」

「それは困るな。山辺の機嫌を損ねて殺されるか、お前の悋気に殺されるか。俺の気の休まる暇が無さそうだ」


 快活に雪貞が笑い、それに添うように紅姫も笑った。

 かかか、ふふふっと笑い合う声が戦場の一室にこだまする。


「で、お前は何がしたいのだ」


 笑い声の二重奏は唐突に終わった。

 もう少し二人で笑い合っていたかったのに、つれないお方。


「……一つだけ言っておく。お前の父は先ほど殺した。首級は庭の松に吊るしてある。誰でも見えるようにな」


 嗤うわけでも凄むわけでもなく、表情の読めない顔で淡々と父の行方を告げられた。


「後継ぎも、俺は会ってないが、時間の問題だろう。つまり俺は国を奪ったばかりではなく、お前の親の仇でもある。それでもまだ、惚れただのと戯言を言えるか?」


 本当につれないお方。そんな些末なこと、私と貴方様の間で無粋だわ。


「だからどうだと言うのです。父も兄も武力が、そして奸計を見極める力がなかっただけのこと」

「親不孝な娘だな」

「無闇に民を苦しめるよりはましでしょう」


 当主として国を守れないのなら強者にその座を早々に明け渡すべきだ。

 無駄に足掻き、戦いを長引かせれば長引かせるほど市井は荒み民は疲弊する。


「俺を恨まないのか?」

「恨む? 言ったではございませんか。私は雪貞様の文を通してそのお人柄、好むもの、すべてに惹かれ愛するようになったのです。愛しいと思いこそすれ恨むことなどございません」


 そこで雪貞が大きくため息をついた。


「ならばもう一度問おう。お前は何がしたいのだ」

「私は、殺されたいのです。貴方様に」


 また、周囲の空気がざわりと揺れた。

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