最終話 この素晴らしき世界
エルセス・ハークビューザーは定期船から港へ降り立った。
そして、その足で真っ直ぐに馴染みの『将軍亭』を目指す。
「帰ったよ、リスティ、おじいちゃん!」
扉を開け、店の中に呼びかける。
店の奥で一人茶を飲んでいた老人が彼女を見て相好を崩す。よっこいしょ、と立ち上がり、エルセスに歩み寄った。
「よく無事で帰って来たな、エルセス」
「うん、ありがとう。でも今回は結構危なかったよ。だって…」
「エリィ! もう、もっと早く連絡してくれたらご馳走を用意してたのに」
厨房から彼女と同年代の若い女の子が飛び出してきた。
しっかりと彼女を抱きしめる。
うん? エルセスは気付いた。
「リスティ、なんだか太った?」
「えへへ、そうかもしれない」
リスティは照れくさそうに笑う。厨房を振り返る彼女の視線を追ったエルセスは、そこに白いエプロンを掛け、包丁を手にした男の姿を見た。
エルセスもよく知るその男。
「あれ。バード・ボウレイン隊長じゃないですか。『史上最強の男』がこんなところで何をやってるんです」
バードは包丁を手の中で器用に回しながらニヤリと笑った。
「ああ。俺は新しい才能に目覚めたんだ。つまりは料理と、女を悦ばせる手……ぐわっ」
リスティが放り投げた椅子に顔面を直撃され、バードはのけぞった。
「え、まさか、リスティ。この男と?」
彼女は真っ赤な顔で頷いた。
「いつの間に、こんな事になっていたとは」
エルセスは呻いた。
「ま、いいや。おめでとうリスティ。で、……ちょっと、隊長」
その鋭い目付きにバードは思わず後ずさった。
「これから大きく時代が変わっていくと思う。だから、ちゃんとリスティを守ってあげてね。……わたしは隊長のことを信頼してるんだから」
「今まで俺がエルセスからの信頼を裏切ったことがあるか?」
エルセスは少し首をかしげたが、すぐに優しく微笑んだ。
「そうだね。無かったと、この場では言っておこうか」
☆
セドニア海戦において皇帝は死に、そして新たにその后が女帝として即位した。
この女帝は東征の意志を露骨に示し、軍備増強に力を入れている。だが一方、国内においては永世宰相の意見を容れ、善政に務めている。前の皇帝による暗黒の帝政は過去のものとなったように思われていた。
「だが、いずれまた大きな戦争が起きる。この平和は一時のものに過ぎない」
エルセスと、元帝国の大将軍を務めた老人の意見は一致した。
女帝は、ロスターナと漣国(セレン)の海軍を手中にし、生まれ故郷である東の大陸を目指す事になるのだろう。
あの海戦において、二大海軍国は大きな痛手を受けた。だがそれが、かえって二国を近づける結果になっていた。
どうやら互いに特使を派遣し、セドニア内海における利権の線引きが内密に行われたようである。
さらにロスターナは帝国から離反することも辞さない構えを見せている。
ゼフュロスやゴスメルといった周辺諸国の動向もいまだ不明なままだ。
北方に目をやれば、
ここに至り、帝国は決定的な分裂の刻を迎え、セドニア内海を囲む諸国の歴史は、また新しいページを重ねる。それは人が生きた証でもある。
「だからこそ、この世界は記録する価値がある」
そしてまた、最後のクロニクル、エルセス・ハークビューザーは戦場へと旅立っていく。
この愚かしくも素晴らしき世界のことを、後の世代に遺すために。
END
紅い瞳のクロニクル 杉浦ヒナタ @gallia-3
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