第4話

「来るな!」


 兄の声を搔き消して耳に轟く雷鳴と、足元に走った雷光に俺は呆然として固まった。暗闇を塗り去った閃光のせいで視界は真っ白に焼けてしまっている。


「お前は、来るな」


 怒ったような声を出す兄が、どんな顔をしているのか見えなかった。


「なんで……兄ちゃん、逃げよう?」

「俺は逃げない。すぐに村中の人間が集まってくる、お前は村を出るんだ!」


 切羽詰まった兄の声が、それでも噛み砕くようにゆっくりと俺に話しかける。とにかく兄の無事を確かめたくて、俺は声を頼りに手を伸ばした。


「お前は逃げろ!」


 濡れた地面を踏む足音が近付いて来たと思えば、俺の肩に大きな手が置かれた。雨に打たれた俺の服よりも冷たい兄の手だった。


「逃げてくれ」


 掠れた声と同時に抱きしめられて、俺の頰に熱い液体が触れて流れた。

 俺はがむしゃらに首を振ると兄の手を掴んでその体を引っ張った。


「兄ちゃんも行こう! 一緒に逃げようよっ、死んじゃうのは兄ちゃんだよ!」


 動こうとしない兄の体を何とか引き寄せようと俺が全力で体重をかけている時、戻り始めた視界に村長の家から出て来る男が映った。松明を手にしたこの村の村長だった。

 俺の体を隠すように、兄は俺の前に立った。


「どちらが逃げることも許さん。弟の方は5年後に備えてもらう」


 雨の勢いにも負けず、火の粉を散らして灯る松明は、村長の顔の皺をより濃い影で縁取っていた。


「待てよ村長。弟が死ぬ必要はない、俺が『ユキル』としての全力であの川をぶち壊してやる」


「出来るのならそれでいい。お前の力の強さは知っている。だが何百年もの間、どの『ユキル』にもあの川を壊す事は出来なかった。弟の方は保険として預からせてもらう」


 人質の間違いだろう、と吐き捨てるように言う兄の声音は初めて聞くものだった。

 俺を守るように背後に抱きしめる手は氷のように冷たくて、今すぐにでも兄が死んでしまうのではないかと怖くなった。俺は、俺の命を分けるつもりで兄の手を両手で握った。


 ぐっと強い力で握り返された手に安堵を感じて、俺は兄の顔を見上げた。


「俺が川に向かったら、お前はこの村を出ろ。お前の力量があれば軍に育ててもらえる。俺たち黒翼グルー種はバルナント軍に敵視されてるから、反乱軍の方が居心地がいいだろうな」

「嫌だ……」


 一人で逃げるのは嫌だった。逃げるのならば兄も一緒でなければ、それに家にいる両親と妹も、仲のいい友達もーー


 次々と浮かんでくる大切な人たちの顔で頭の中がいっぱいになっていく。ついには脳内に入りきらずに、村の人達の顔と名前が俺の存在からはみ出していく。

 俺の体じゃ足りない、俺一人の存在じゃ村人全員とは吊り合わない。

 膨大な圧力と恐怖が背中に伸し掛かっているようだった。


『ユキルが仕事をしなくちゃ村人皆の命が危ないんだよ。お前は村の人みんなに死ねって言うのかい?』


 母の言葉が耳の奥で繰り返される。仕事をしなくちゃみんなが死ぬ。みんな死ぬ。父も母も妹も兄も、おじさんもおばさんも友達もみんな。


「嫌だけど、みんなが死んじゃうんだ」


 自分の所在を失った俺が震えているのを感じたのか、兄の手がより強く俺の手を握りしめた。


「聞け。1000年以上も二つに分かれて戦争を続けてる世の中だ、どっちの軍に入っても仕事には事欠かない。命を奪い合う不条理な世界だけどな、俺はお前に生きて欲しいと思う。罰当たりかもしれないが、俺は村人全員よりお前の命の方がずっと大事だ」


 体に宿る雷の気から、空に雷雲が集まっているのが分かった。雨脚が強まるほど、遠いはずの川の音が響いてくるように聞こえる。

 川の水嵩は増し、清流は濁流へと変わっていることだろう。

 村長が急かすように松明を揺らして兄を呼んだ。


「『ユキル』、行くぞ。川に雷を呼ぶんだ」


 兄は振り返り俺の頭を軽く叩くと、手の中に何かをねじ込んだ。丸い石のような硬い感触。


「いいか、お前は


 そう言って笑むと、兄は村長の方へと歩き出した。

 行っちゃだめだ、叫びたいのに口が動かなかった。俺の体はまだカタカタと震えている。

 村人の命の重圧が、子供の知恵しか持たない俺の精神を押し潰していた。


「いか、ないで、兄ちゃ……」


 もつれる舌を懸命に動かして、遠ざかる兄の背を引き止めようとした。

 けれども俺の声は虚しく雨音に消され、兄は村長の後を追うようにして川の方向に歩いて行った。


 暗闇になった世界で、俺は手の中を見た。兄に握らされた物を確認するためだ。無力で震えるしかない弟に、兄は何を渡したのか。

 希望にすがる気持ちで自分の手を見て、俺はーー絶望に突き落とされた。

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雷鳴の操者〜ユキル、生贄の名を継ぐ者〜 千夜 @senyanii

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