ただの……
「そんな風に始まったのだったな。私たちの暮らしは」
「そうだね。僕は外に出てから雨が好きになったよ」
あれからどれだけの月日が経ったのか、誰に縛られる訳でもない私たちは日付を数えなくなった。ただ花の咲くので季節を知り、嵐を数えて冬に備える暮らし。
箱はまだ落ちていない。軋んでは首の皮一枚で繋がり、また修復されては不安定な有り様だ。いっそ落ちてしまえたらと思わずにはいられない。だから私は嵐の夜には、箱を壊せと祈る。キリは人間たちに外の世界を蹂躙されるのを恐れているようだけれど、それも愚かな話だ。外にはあんなに大きな彼らがいるというのに。それを見て知っているというのに。
「さぁ、次は龍に会いに行った時の話を書くぞ」
「まだ書くの? もう疲れたよ」
「さっさと書け。言葉がすり抜けてしまわぬうちに。私たちは翼人の村を出て大鷲に乗り、白く染まる氷の山の、雲の生まれる場所に降りた」
キリは渋々と筆を走らせる。愛らしい手足を持って生まれてしまった私の代わりに。
私たちが降りると大鷲は翼をべたりと広げて跪いた。
「なんだ。今日は人間を連れているのか」
様々な青色をした龍たちが山間から顔を出す。その声は風が谷を吹き抜けるような、あるいは地鳴りのようだった。
「私は神獣のナリ。こっちは人間のキリ。それから水人間のアリです。箱から出たのは初めてでして、これから外で暮らすのでご挨拶に伺いました」
「水人間とは懐かしい種族だな。前に会ったのは軽く二百年は前だったか」
龍たちは人の言葉を話し、人間を懐かしがった。なんとも理解しがたいが、龍たちは人間が好きなのだと言うのだ。
「あれらはいつも斬り合い、血を流しては涙に咽び、我らに手を合わせる。なんとも愚かで愛おしいではないか。酷く臆病で、傲慢なくせに信心深くてなぁ」
私は龍たちの寿命を知らないが、人間が外で暮らしていた時代を知るような口ぶりだ。
灰青色の龍は目を細めて箱の方角を見やる。
「人間がお好きなら、何故このような場所に居られるのですか?」
「人間たちは酷く臆病なのだ。なぁ、キリ? だから我らは姿を見せない事に決めたのだ。まったく人間は想像力が豊かで困る。我らはこんなに……いや。とにかく、あのような場所に閉じ籠る原因をつくったのは我らなのだ。もしも人間が今日のように外へ出て来る事があったなら、我らの姿を見ずに済むように。存在を知らずに済むようにと思ってな」
「甘やかさないで頂きたい」
大きな体でうじうじと、まるで思春期のように思い悩む龍に思わず苛立った。
龍が大きな目をさらに見開いているが、気にせずに続ける。
「人間は甘やかせばその分だけ甘えます。厳しくすれば流れに任せてそれに続きます。甘やかすと彼らの為になりませんよ。いっそあんな箱、蓋を開けてしまえばいいのです。そうすれば仕方なしに出てくるでしょう。そうしてあなた方の話を聞きます。今度こそ、人間は間違えない」
私はキリを龍の足元まで引きずった。龍は嬉しそうに、強張るキリの頭を撫でる。それを心配して見に来たあの翼人の青年に見られ、私たちは龍に説教をした神獣と龍の寵愛を受ける人間と呼ばれた。さらにアリの立っていた場所が問題だ。アリは濃い藍色の龍の鼻頭に立っていた。キラキラと、まだ陽の光を体に宿し。
話は広がりあれやこれやと尾ひれを付けて泳ぎ回り、私たちは今、ドワーフの子供たちの世話をしている。もちろん外でだ。ドワーフは王様に内緒で、ある程度の歳になった子供たちを外に出していたそうだ。
龍の話によればドワーフは土を豊かにするのにとても大切な役割を担っているらしく、閉じ籠っている訳にはいかないのだそうだ。
「鋤を振るんだよ!」「土を掘るんだよ!」「遊んで来いって!」
そんな風に口々に言う子供たちの傍に、アリはいない。
アリはあれから数日かけてどんどんと水っぽくなり、とうとう分裂した。
七つくらいに見える女の子らしい子と赤子の二人に分裂したのだ。大きい方は私の説教を受けて山から下りてきた龍を玩具にして遊び、赤子はただ甘える。そのため龍はほぼ入り浸っている状態だ。外の世界に暮らす者たちはここを、国土なき国と呼ぶ。
おかげで臆病も、震えずに龍と話せるくらいにまで治った。
ブリキの階段上る僕たちは歯車だった。広大な自然に包まれ、与えられる愛さえ知らない僕らは今ただの命だ。
「余計なことまで書いてないよな?」
「書いてないよ。聞いた言葉だけ」
「私は字が読めないんだから信じるしかないんだぞ? 本当だな?」
「本当だよ。ナリ」
この先もただの水溜りでありたい。ただの穴でありたい。そういう、ただ命でありたいと僕は外を知って初めて思ったんだ。
コルトクネの機械箱 小林秀観 @k-hidemi
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