第5話 婿入り

 菊乃が鹿南道場にもどってきて一月ほどたったある夜、新之助は折入って話があるという左源太に呼び出され、彼の屋敷に向かった。庭に密生して紫の小さな花をつけていた紫蘇の葉もいつのまにやら茶色く立ち枯れて、初冬の夜風が身に染みる時節である。

 もとは隣同士の家であるが、こうして見上げてみると佐橋家ほどではないにしろ、犬丸の屋敷もかなり豪奢な造りではあった。敷地だけでも松波の二倍の大きさはあろう。

 新之助は半ばため息をつきながら玄関に続く犬丸家の庭先を歩いた。左源太の話の内容はおおかた想像がつく。

 数日前から、左源太が佐橋家に婿入りするという噂が道場内を駆けめぐっていた。

 左源太の兄達の中には西国の小藩に将来の藩主として乞われて養子に入った者もある。犬丸家にしてみると同じ旗本同志の縁組であればかえって相手がどれほどの禄高であろうとそれほど驚くには値しないのかもしれない。早速、佐橋の家の者が正式に犬丸家に遣いを出して、その結果左源太から話を聞きながらも驚愕しつつ父が二つ返事でこの話を歓迎したという事実もある。

 もとはこれが純粋な愛情からとはいえ、羨んだり妬んだりする者もなかったとはいえない。しかし何よりも門下が第一に心配したのは左源太という存在が道場から消える恐れがあることだった。大旗本の当主ともなればもはや鹿南道場の塾頭として門下の指導にあたることは出来ない。七十余名の家臣をかかえる身だ。町道場の経営などしている暇はない。

(残された道場主の新之助だけでは今一歩頼りない、というわけだ)

 新之助は寒さにかじかんだ手を擦り合わせながら呟いた。そんなことは人に言われる前に自分が一番よく知っている。左源太なき後、自分一人でやっていけるのか、江戸にも数有る町道場として確固たる体面が保てるのか、第一に門下がついてくるのか。


「新之助もすでに聞き及んでいるとは思うが‥‥‥」

 と左源太はいつになく神妙な顔つきで話を切り出した。

 最近流行りの丈の長い縮緬の打裂羽織をさりげなく着こなしている左源太は男の目にも大層粋に見える。昔からこの男には何につけて今一つ自分はおよばないと思ってきた新之助は襟をただして言った。

「おめでとうと言わせてもらうよ、左源太」

「ありがとう、しかし‥‥‥」

「心残りがあると言うのだろう、その点については」

 大丈夫、と言おうとして口籠もった。全くもって自分はこの件に関しては自信の一つもありはしない。虚勢をはっていいかげんな軽口をたたくわけにはいかない。 新之助は語るべき言葉に詰まり、つい黙ってしまった。

 左源太はすぐにそれを察したのだろう。手を取らんばかりに新之助ににじり寄ってきて

「鹿南道場は俺たちが作った道場だ。中途で抜けるのは不本意だがこれも俺のわがまま、いたしかたない。それならと鹿南道場自体を佐橋家お抱えの剣術指南所とすることも考えた。文右衛門殿も反対はしないと思う。がそれでは身分・年齢を問わずという道場設立当初の目的と違ってきてしまう」

 なァ新之助、よく聞いてくれ、と左源太はうつむいている新之助に顔を上げるよう促した。

「実のところ、俺はおまえが一人で道場をやっていくことについては全く心配していないのだ。新之助、いいことを教えてやろう。おまえは俺がいなけりゃだめだと決めつけていないか? そんなことはない。おまえには俺には無い才が一つある。俺も言われるまで気づかなかった。そう、菊乃さんに言われるまで」

 微笑している。憎らしいほど爽やかな笑顔で、半ば泣きそうな新之助に向かってなおも続けた。

「思い出してみろ、菊乃さんはおまえをあの寛永寺の交流試合で見初めた。多勢の男たちの中でただ一人おまえを支持したのだ。多士済々の強者たちの中で何故おまえが選ばれたのだと思う? しかも優勝者の俺をさしおいてだ」

「菊乃さんはこう言っていた。新之助様の実力は竹刀ではわからない。真剣であればあの御人達の中にはそうそう敵う者はなかったはずですと。つまりおまえの剣は実戦にこそ威力が発揮されるのだ。菊乃さんはそれを、おまえの中のその力を見抜いたのだ」

「俺も最初は疑った。実戦向きの剣などというものはそれなりの場数を踏んでこそ語れるものだ、喧嘩と同じでな。俺の記憶ではおまえにそんな切った張ったの経験などありはしない。それでも尚、これがこの道の奥深いところで、必ずしもそうとばかりは言えないらしい。確かに剣術は本人の努力である程度まではいく。実戦も時には必要だろう。けれどその先は才のある人物だけの“境地”ってやつだ。生まれながらに備わっている力だ。残念ながら俺もそこまではいってない。謙遜なんかじゃない。そんなのは少しやればわかるんだ。しかしおまえには俺がどんなにやっても手に入れられないその才がある。菊乃さんにはわかるのだろうな、それが。おそらく大なり小なり彰一郎殿の件が関係しているとは思うが‥」

 新之助は狐につままれたような顔をしている。あわてて何か言いかけるのを左源太は間髪いれず、

「これからは面胴竹刀の道場剣法でなく、実戦がものをいう時代が来るぞ。なァに、おまえにはそれだけの力があるんだ。道場剣法なんか俺が急仕立てだがみっちりしこんでやらァ。春までには、なんとかなるだろ」

「春って‥‥‥左源太、祝言は?」

「おまえを一人前の道場主にした後だ。祝言は来年の春と決まった。それが菊乃さんの望みでもある」

 そうと決まれば忙しいぞおと左源太はひとりで嬉しそうだ。とにかく今日は泊まっていけ、それっと言いながら手を叩いたと思うと何処に隠れていたのか目の前に侍女達が次々祝いの膳を運んでくる。なんだかすっかり乗せられたようだ。結局その日は朝まで飲んで、昼すぎに起こされるまで二人は目も覚まさなかった。


 それからというもの、門下がすっかり帰った後の人けのない道場で、毎日のように左源太は新之助に稽古をつけた。基本に忠実に、飽くまで「道場剣法」として。

 実戦向きの剣などと言われても全然思い当たる節のない新之助は素直に彼の手ほどきを受け、いつしかその腕は夏に麻が育つが如く、日々に目に見えて上達していった。教え方のうまさと、本人の真剣さは大した相乗効果となる。

 ある日、この日も朝から新之助には左源太による厳しい稽古が行なわれていたが、昼前にひとまず休憩ということになり、途端に道場の床に転がるように崩れ落ちた新之助を横目で見つつ、差源太は所用を思い出したと言って出て行った。最近の彼はさすがに各方面に忙しいようだ。それを機に、荒い息をして座り込む新之助の手元に、静かに昼食の握り飯の盆を差し出したのは深雪である。

「ああ、ありがとう、深雪ちゃん」

 激しく動きすぎると却って食欲が失せるものらしい。少し苦しい表情のまま、なかなか手をつけないでいる新之助を見て、同じように稽古場の床に腰をおろした深雪は、過日の菊乃の姿をぼんやりと思い出していた。

 菊乃が道場に再び姿を見せてから初めて深雪と相対した時のことである。

 奥の部屋で勘定方の仕事をしていた深雪のもとへ訪ねてきた菊乃は、いきなり深雪の足元に両手をついて跪き、土下座せんばかりに頭を下げ、深雪の父の一件を謝罪した。

「深雪さんのお情け深いお手紙に思わず心強くして恥も知らぬままこちらに舞い戻りましたが、私の兄の罪が消えたわけではありません。今になって兄の所行を深雪さんに許して欲しいなどとは口が裂けても申せません。このうえは深雪さんが私に何をされようと、この菊乃、いかようにも甘んじて受ける所存でございます。」

 当人が亡くなってしまっている以上仇討などということも叶わぬこと。しかし兄の身代わりにこの身が八つ裂きにされようとかまわぬという程の強い意志さえ感じられたのである。

 当の深雪としても父の件で当人の周囲の者までを罰して償ってもらいたいなどという気持ちは既に毛頭ない。それよりもあらためて、この菊乃の一点の嘘偽りも見えないまっすぐな気持ちに心打たれていた。これではあの左源太が心奪われたのも無理はない。

 菊乃にしても兄の一件でどれほど心に傷を受けたか計り知れない。咎人とはいえ兄を失い、心ならずも跡取り娘となった後も、心の闇を覆い隠しながら人一倍気丈夫に、虚勢を張って生きてきたに違いないのだ。

 しかし何も知らなかった頃の、他愛のないことで朗らかに笑いあっていた自分たちのことを思い出すにつけ、何故、自分にも黙って消えてしまったのか、正直に話してくれれば良かった、私と菊乃さんとの仲ですのに、と口に出そうとして、いや、自分を大切に思うからこそ、言えなかったのだと深雪は思い直した。あんなに勇んで通ってきていた道場も、それにつながる人の縁(えにし)も何もかもを打ち捨てて、消え去る他なかったのだと。

 俯いたまま、自らの両の手の上に自然に涙が滴り落ちるのも構わぬ菊乃の様子に深雪は静かに言った。

「菊乃さん、どうかもう悲しまないで」

 そのまま菊乃の濡れた手をとり、ゆっくりと握り返した。

「私の気持ちは手紙に書いた通りです。あなたが罰せられる謂れは何もない。でも本当に私の望みのままというお気持ちがあるならお願いがあります」

 深雪は微笑んだ。その瞬間自分自身の目からも溢れた涙が零れ落ちたのがわかった。

「これからも二人、いえ、四人で、ずっと仲良くいましょう。そう、新之助さんと左源太さんとともに」


 新之助はようやく握り飯に手をつけたようである。一口食べ始めてしまえば食欲が戻ったらしく、口いっぱいにほおばりつつこんなことを言いだした。

「実は左源太に真剣でこそ強い才などと言われて、おかしなことだと思いつつ、ふと思い出したことがあるんだ」

「何を?」

「あれは、そうだな、自分がまだ元服前の十歳か、そこらのころだ。鏡先生の道場に通い始めて四年ほど経っていただろうか……」

 道場内の紅白戦に参加した新之助は五つも年上の門下と手合わせになった。それなりに粘りも見せたが結局最後は体格差もあり床に転がされるような形で負けた。

そのまま道場の隅で面も外さぬまま悔しくて泣いていた新之助を見た三十助は、その日の終わりに中庭で帰り際の彼を呼び止め、手招きして言った。

「大丈夫、新之助は負けてない。強いて言うなら負けていたのは手足の短さくらいなものだ」 

 笑っている。新之助としてはそう言われても余計な慰めなどいらぬという意地もあってくろく返事もしない。そっぽを向いたきりの新之助に三十助は構わず、それにしても、と小さくつぶやいた。

「新之助、お前の剣法には何故かいつも不可解な何かを感ずることがある。私としてもうまく言葉で表せないのが困ったところだが。我が道場に来始めの頃からずっと感じていたことだ」

 実は本人に言わぬまでも三十助にはこの感覚に心当たりがあった。かつて門下の者に、これと同じような気を感じた者が幾人かある。

それは少なからず後に「人斬り」と呼ばれるようになった者たちであった。剣術の腕はさほどでもない。しかしいずれも竹刀の軽さでは拾いきれない不思議な鋭さを持っている。

 勿論この時の三十助にとっては後にその一種の「人斬り」とも言える者の手にかかる、自身の運命を知る由も無かったが。

「その何かが、新之助のこの先に吉と出るか凶とでるかは私にもわからぬ。けれど今は深く考える必要はない。精進してこの先も励むことだ」

 それは多少なりとも見込みがあるという意味だと勝手な解釈をしたまま、新之助は機嫌を直して家に帰った。しかし残念ながらその後もめきめきと頭角を現すようなことも無かったので、この三十助の言葉もすっかり忘れていたのである。

「父がそんなことを……」

 深雪は幼い新之助を庭先で暖かく諭す父の姿を思い浮かべて、たまらなく懐かしい気持ちになった。また同時に新之助も同じ感覚を覚えたのであろう。あらためて深雪の顔をじっと見つめたかと思うと、少しはにかみながら言った。

「他ならぬ鏡先生が自分と深雪ちゃんを引き合わせてくれたのだと思う。自分はそれに全力でこたえなければならない。思えば自分の有るか無きかの才などどうでもいいことなのだ」

それにしても、

(人と真剣で相対する機会などあるわけはない。)

 自分のその“天賦の才”などというものは所詮一生かかっても立証出来ないだろう、無きも同じの才だと思っている新之助に、“その機”は案外に早くおとずれた。


 年も押し迫った師走の稽古納めの日であった。深雪は朝から正月の用意の買い出しに出かけて戻らない。昼過ぎに稽古が終わってしまうと男二人はもうすることがなかった。道場の内外は門下がきれいに掃き・拭き清めて、下げられた松飾りも清々しい。鏡餅も据えられて、後は正月を迎えるばかりである。

「久しぶりに枡もとにでも出かけるか」

 と何方からともなく言いだした。

 あそこは祝言の直後に新之助と深雪とで挨拶がてら立ち寄った以来である。その時に奥から出てきた女主人はフグの如く太っているし、やはりどこから見ても不器量だったが、なるほど気は優しく、深雪が新之助とかいう目の前にいる青年武士と夫婦になったと聞くと涙を流して喜んだ。

「これでもう何も心配は要らない。お雪も苦労した甲斐があったというものだねぇ」

 としげしげと深雪を見つめ、細く赤い目をしばだたせていた。 

「近くに来たときは寄っとくれよね」

と長いこと手を振って別れたが、あれからずいぶん御無沙汰してしまっている。年越しそばには少々早いが馳走になるのも悪くない。

 日本橋界隈の大通りの雑踏を避けて近道しようと二人は狭い路地に入った。裏道は表通りの賑わいが嘘のように人通りがない。やがて目の前に土手が開けた。寒風の合間をぬった陽光に水面がキラキラしている。

 ふと見ると川沿いに続くいくつもの小屋に無造作に立てかけてある材木の陰に、一瞬ではあったが

―― 颯

 と何かが隠れた気が、新之助はした。

 なんだろうと口には出さなかったが、横にいた左源太がいきなり足を止めて、

「やはり‥‥‥」

 まずかったか、と口のなかで低く呟いた。

「何が?」

 まのぬけた声で新之助が尋ねた口が閉じたか閉じないかのうちに、件の材木の後ろから男が二人、現れた。

 いずれも険しい顔をして、新之助と左源太の行く手をさえぎるように三間ほど向こうの道の真ん中に対峙している。

「おかしいと思っていたんだ、道場を出たときからずっと」

つけられていたんだよっ、と左源太が舌打ちしている横で新之助は、背後でザザッという草履が土をばたつかせるような音を聞いて振り向いた。後ろには三人、遠巻きではあるが囲まれている。

「どなただったかな」

 思わずそう口に出したのは新之助であった。なんだか自分でも不思議なほどに落ち着いた声である。

 男たちはいずれも羽織り袴のきちんとした身なりで、よく年末に出没する追剥や無頼者の類でないのは明らかである。ならば答えは一つしかない。男たちは新之助の問いには答えず、

「その方、犬丸左源太だな」

 前にいる男の一人が左源太をゆびさして怒鳴るような声で言った。

「いかにも、犬丸だが」

 すでに傾きかけた西日が眩しくて、左源太は細い目をして答えた。

「人にものを尋ねるときはまず自分から名乗るのが筋というものだろう」

「名など名乗らずとも我等の用件は知れるはずだ、犬丸殿」

 暫くの間が、周囲に緊張感を走らせた。左源太はそれを打ち消すように故意にのんびりした口調で

「さぁ、とんと見当がつかぬ」

「‥‥‥菊乃様とその方とのご婚儀の件、我等はなんとしても解せぬ」

 真ん中の男が苦々しげに言う。

 やはりそういうことか、と左源太はため息をつきながら、袴の膝のあたりをぱんぱんと叩いた。皺が気になるのではない。

「それはまた何故に」

「理由など今更述べる必要があろうか」

「貴殿は彰一郎様の件を楯に取り、佐橋家に婿入りを迫ったのに相違あるまい」

「彰一郎様の秘事で殿の弱みを握ったつもりになり、こともあろうに菊乃様に縁組もうとはどこまで見下げ果てた奴‥‥‥」

「文右衛門殿がそう申されたのか?」

 こう聞いたのは新之助。

「言わずとも我ら家中の者にはわかるのだ」

「そのような卑怯な手だてを使われて迎える男を我らの当主と認めるわけにはいかぬ」

 口々に言い合う男たちはひどく興奮して、彼らの吐く息で辺りが白く煙っている様にさえ見える。

(勘違いもいいところだ)

 どうしてそんなふうにとるのか。

 左源太は苦笑している。その隣で新之助はハラハラしながら、

「おい、はっきり違うんだと言ってやれよ。話しに来たにしてはこの陣容は異常だぜ」

「言ってわかるような連中ならいいんだが‥‥‥」

 風が出てきた。

 左源太の羽織の袖がはたはたとはためいている。双方無言で見つめあうこの間がいかにしても息苦しい。前にいた男が我慢しきれなくなったように

「何れにしても彰一郎様の件を知られた以上このままでは済まされぬ。其許も同じだ」

 と言って新之助を指さす。指された新之助は思わずぞっとして一瞬体を硬くしたが、すぐに気をとりなおしてゆっくりとした動作で左源太の後ろに背中合わせに立った。

 こんな家臣がいるのではこのまま祝儀を執り行うのも支障がある。説得のためには多少時間が必要かもしれない、と左源太は思った。

 で、少しなだめるような口調で

「しかし祝言の日まであと一月もない。いまさらそれを俺のほうから勝手に取り止めて釈明などしては却って佐橋様の恥になる」

 それでもいいなら話をしても良い、という意味の持って回ったこの言い方が男たちには哀願のように響いたのだろう。前の男はニヤリと笑い、

「貴殿が突然に亡くなったとなれば、御家中の恥にはなるまい」

言うなり、それが合図だったというように一同スラリと刀を抜いた。剣先が西日に反射してキラリと光った。

 左源太はすばやく背中越しに耳打ちした。

「いいか新之助、峰打ちだぞ、峰打ち」

「‥‥‥わかってる」

 二人のうち、先に刀を抜いたのは新之助の方だった。相手が真剣を構えた姿を見て、何故か妙に肝がすわっていた。

「後ろの三人は任せろ」

 言い放って、ダッと駆けてゆく。草履は後ろに脱ぎ飛ばしている。次の瞬間にはもう男たちの悲鳴が聞こえてきた。

(やっぱり新之助)

 おまえの才はここにあったか。

―― のんきに感心している暇はない。

 左源太が抜刀したとたん奇声をあげて斬りかかってくる男を刀ごと受け止めて前に押しやった。次の瞬間には胴に一撃を加えている。男は腹を押さえながら、ものも言わずに前かがみに倒れた。刃のある方なら致命傷だが、肋骨が折れたくらいで済んだろう。あっと言う間だ。次に横から大上段に刀を振り上げて来た男を軽くいなして、よけざまに思いきり足を払うと、男はまぬけな姿でどうと転倒した。

その拍子に落とした刀を勢いよく彼方に蹴り飛ばして男の目の前に刀の切先を突きつけた。もう一寸も動けない。

 さて、この場において一番驚いているのは新之助だったろう。三人の真剣を構えた厳つい男たちを前にして、恐ろしいとは少しも思わない。

(何故だろうか)

 少なくとも新之助には竹刀を使うときよりも男たちの構えにはるかに隙が出来ているのがわかる。つまりは“触れただけで切れる”真剣そのものの殺傷能力に頼りきっているのだろう。その分甘さが露呈する。

 自分自身も手合わせの時のような掛け声は発しない。ただ相手の頭声のみ聞こえる。それが却って新之助の心を平静にさせた。刀の重さも感じない。臆するどころか頭が冴え冴えとして全身から闘志が漲ってくるようだった。男たちも新之助のその雰囲気を感じ取ったか、

(これは異な事)

 と一同互いに顔を見合わせた。強いと聞いていたのは免許皆伝者の左源太の方だ。弱い方は三人で一瞬のうちに仕留めてさっさと前の二人に加勢をするつもりだった。

 構わず右から来た男は切先の届く前に新之助に避けられて直ぐに小手を打たれた。骨の砕けるような鈍い音がして男は地面に刀を取り落とした。呻き声をあげながら膝をついて、立てもしない。

 続いて左から刀を振りかざして来た男は新之助にふところが触れ合う程に鼻先まで歩み寄られて素早く胴を打たれた。一瞬息が出来なくなったらしく、そのまま昏倒した。

 三人目はさすがに臆して少し離れて中段に構えた。刀を持つ手が震えているのがわかる

 よく見れば歳も歳だ。鬢に白いものも混じっている小男である。佐橋家代々の忠臣かも知れぬ。新之助も少し哀れに思えて

「‥‥‥もう、」

 ここらでやめては? とその男に声を掛けた。奇妙な問い掛けではある。若輩者に馬鹿にされたと思ったのだろう、その男は

「黙れっ!」

 たあっと声を出して打ち出した刀は宙を斬った。これは竹刀でも新之助の相手ではない。

 何がどうなったかもわからぬうちに気がつくと大地に転がされていた。

 こうして僅かな間に五人の男たちが道端に鮪の如く横たわった。

 左源太はさっきの男の前に切先を突きつけたまま、新之助の活躍をしばらく見物していたが

(たいしたものだ)

 敵にまわしたくない男だな。

 間もなく、新之助が息せき切って戻ってきた。

「左源太、怪我はないか? 」

「ああ。大丈夫だ」

 言いながら、左源太は顔をしかめて眼下の男たちをぐるりと見渡した。

 どちらにしてもこのように誤解をしているのはこの五人だけではなかろう。異論を唱える家臣たちに一々説明してまわらねばならぬのだろうか。そう考えるとうんざりする。

「安心しろ」

 左源太は転がっている男たちに、聞かせるでもなく呟いた。

「彰一郎兄の件は俺が地獄の底まで持ってゆく」

 足下の男がぴくりとした。一同薄れた意識のなかで聞いているのだ。そこで今度は聞こえるように大きな声で、彼は叫んだ。

「いいか? 俺が菊乃さんと夫婦になろうというのは佐橋家の家禄がどうのこうのは関係ない。ひとえに菊乃さんを愛しいと、そう思ったからだ。ただそう思っただけだ。わかったか、こんな恥ずかしいこと大声で言わせるなっ、馬鹿野郎」

――― 悶着の多い婿入りではある。


 佐橋家の家臣たちに襲撃されたという事実は当の二人よりも周囲を驚かせた。

除夜の鐘が鳴る頃になって、道場でのんびり酒を酌み交わしていた二人に佐川文右衛門自らが大慌てで謝罪にきた。菊乃もいっしょである。

「曲解しているらしき家臣たちには厳重に戒めておきました。実際手を下した者には、まだ起きられぬ者もいるのですが、いずれはそれ相応の処罰をしなければ‥‥‥。これも私の不徳のいたすところ、犬丸殿と松波殿には大変な迷惑をかけてしまった」

「いや、わかってくれればそれでいいのです。これも方向違いとはいえ、主に対する忠心の成した業でしょう。あながち罪してはかわいそうだ」

「けれどそれではこの私の面目がたたぬ」

「それではどうでしょう。罰するかわりに起きられる者は正月の稽古初めからすぐに、怪我人は傷が癒え次第、うちの道場にお預け下さるというのは」

 身を乗り出してそう言ったのは新之助だ。

「あのいい加減な剣術ではお家一大事の折には役立ちません。私が一から躾けてやりましょう。いや、実際私にとってもあの一件が思わぬ功を奏して幸いとするところがあるのです」

 笑っている。左源太はこの親友をひどく頼もしく思えてしげしげとながめ、心底嬉しいと思った。

 新之助のこの言葉に、それまで深雪を含む三人に対しての申し訳のなさにずっとしゅんとしていた菊乃がにわかに嬉々として言った。

「漸く御自分の才にお気づきになられたようですね、新之助様。私の目に間違いはございません。新之助様に真剣で立ち向かえる人などそうそういないはずです」

 そばにいた深雪がクスリと笑った。深雪自身もあの事件の当座、女主人に挨拶がてら偶然「枡もと」に立ち寄っており、ケラケラ笑いながらのれんをくぐって店に入ってきた二人と一緒になった。

 ついさっき犬に追いかけられたみたいな口調で事件のことを話すので最初はびっくりしたが、今はもう左源太と菊乃の幸福だけを願っている。

 菊乃のだしぬけな言葉に呆気にとられた父、文右衛門の横でなおも彼女は言う。

「わたくし、家臣に言ってやりました。『このわたくしがどんな理由があろうと不本意な殿方をおとなしく迎えるような女人でないことは百も承知していたのではなかったの?』と」

 実際、家臣たちの誤解を一番氷解させたのは菊乃のこの言葉だったのかも知れぬ。


 明け、新春の吉日に、左源太と菊乃の祝言は予定通りとどこおりなく、盛大に執り行われた。披露の宴には新之助と深雪も招待されたが、続きの間の末席に包帯だらけの男たちが五人、ニコニコしながら座っているのはなんともまぬけでおかしかった。

「あの節は大変失礼した。ご無礼許されよ、奥方」

と後で新之助が席をはずした隙にこっそり深雪だけに謝ってきたところによると、やはり根は悪い輩ではないのだ。数日前から新之助の提案どおり道場に通ってきていたこの男たちは毎日のようにかの道場主にこてんぱんにやられている。過日より包帯の数が多くなっている気もする。

 新之助は今や自信に満ちた若き道場主として鹿南道場をもりたてている。門下も最近は奇妙な包帯男たちを仲間に迎えて多少戸惑いながらも順調に力をつけている。

 色々なことがあった一年であった。もちろんこれからも様々なことにぶつかるだろう。

けれどこの一年のことが後々大きな糧になって、あらゆることも乗り越えていけるに違いない。深雪はそう確信している。


 大きく開け放たれた宴の間の障子の向こうに満開の桃が花開いている。春は誰の上にもこうして音もなく忍び寄ってきていた。

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痛快娯楽青春時代小説! 鹿南道場の春 牧 亜沙美 @shouji77

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