第4話 告白
「犬丸左源太殿‥‥ですな」
文右衛門は刀の柄から離れていない左源太の左手にちらりと目を走らせながら
「貴殿も相当な術者とお見受けする。しかし安心なされるがよい。私は貴殿と話をしに参ったのだから」
そう言うと厳しい形相を次第に柔らかくさせ、左源太と向き合う形で菊乃の隣に腰を下ろした。家臣は七十余名を越える大旗本の当主ながら、左源太の父親よりは遙に若い。流石に生まれながらの上品さが漂い、しかもそれが決して厭味でない。
「ご無礼、お許しください。御家中で刀に手を掛けるとは」
左源太が居ずまいを正しつつ、恐縮して言うと、
「是非もない。武士とは本来そういうものです。私も貴殿を試す気持ちがあったのも否めない」
目を細めて、遠いものでも見るように左源太を見つめた。その瞳は飽くまで優しく、先刻までの殺気が嘘のように雲散霧消している。
「我が娘とはいえ女だてらに剣術修行に勤しみ、貴方の道場には大変難儀な思いをさせていたことは察していたつもりです。どうか許して頂きたい。鹿南道場の評判は予予伺っておりました」
「恐れ入ります」
深々と頭を下げながら菊乃の顔に目をやると、その表情は未だ心の内の恐怖を覆い隠すように苦り切っている。隣の文右衛門とはひどく対照的でそこだけ異質な空気の流れを感じるのは左源太だけではない。先刻からのその雰囲気を感じ取ってか文右衛門は暫く目を閉じて自らの心を鎮めているように見える。しかしその静粛も長くは続かず、やがて見覚えのあるまなざしで左源太を真っ直ぐに見据えて、こう言った。
「先程我が娘が貴殿に言いかけたこと、娘の口から申すのは余りに不憫というもの。この文右衛門が代わってお話いたしましょう。わが家の恥を晒すことになろうと思うが貴殿を見込んで潔くお話するほかはあるまい」
今から四年前、鏡三十助が斬殺されてちょうど一年たつかたたないかの頃だが、江戸の市中に何件も続けて「辻斬り」が横行する騒ぎがあった。下手人はいずれも何の手掛かりも残さず逃げている。同一人物の犯行であることはその手口から見てすぐに知られたところではあるがすべてが一刀両断、財布をはじめとした所持品には手つかずで、物盗りや追剥の仕業ではない。
そのうち被害は文右衛門の家臣にまで及んだ。年若いが、忠誠心の厚い男で、文右衛門も息子の如く可愛がっていた男である。しかし彼の場合は多少下手人に手抜かりがあったかまだ息のあるうちに発見された。
報を聞いて駆けつけた文右衛門の「誰にやられた」という問いかけに彼は虫の息で
「彰一郎様が‥‥」
「えっ」
「どうしたことか‥‥‥わたしには‥‥‥さっぱり‥‥‥」
無念というよりただ驚愕の色をなした表情のまま、男は医者に運ばれる途中で絶命した。
文右衛門は足ががくがくと震えてその場を動くことが出来ないでいた。そしてその男が死んだことに心から安堵している自分がひどく情けなく、また恐ろしく思えた。
“彰一郎”とは、彼の、文右衛門の、たった一人の息子の名前だったのである。
息子の彰一郎が夜な夜な屋敷を抜け出して、明け方近くに戻ってくることが度々有ることを文右衛門は知っていた。辻斬り騒ぎが江戸の町を震撼させ始めた時、まさか彰一郎が‥という疑惑の念が心のうちに全く起こらなかったと言えば嘘になる。もしやと思う筋がいくつか考えられた。けれどそこは実の親、必死でその思いを否定していた、その矢先の出来事である。
ある晩も彰一郎は夜半にごそごそと支度をし、裏門から出ていった。家臣の一件以来眠れぬ夜を過ごしていた文右衛門は夜明け前に、彼が帰ってきたらしい、小さな物音を聞きつけ、思わず布団を剥いで寝床から起き上がった。そして足音を忍ばせることもなく妙に堂々と自室に戻ってゆく彰一郎の姿を目撃した。ぜえぜえと肩で息をしながら落ちつきなく、何処を見ているとも思われない血走った彰一郎の目をまのあたりにし、文右衛門は突如思い出したものがある。
(あの時‥‥そういえばあの時も彰一郎はあんな目をしていた‥‥‥)
―― それよりさらに一年前、彰一郎十九歳の夏
「転んだ! 転んでしまったんですよ!」
変に興奮した様子の彰一郎が着ていた呂の着物の前合わせのあたりを血だらけにして帰ってきたことがあった。つんとするほどに酒の匂いが漂っていた。
「そうしたら転んだ拍子に鼻を強か打ちつけて‥‥‥。鼻血が出ました。酷いものです。いい男がだいなし‥‥」
笑っている。外傷もなく、転んでほこりにまみれた様子も無い袴を見て、文右衛門は不審に思いはした。が、夜も更けてはいたし、強くは問い詰めなかった。
「それよりほら、菊乃に似合うと思って手に入れたのだ」
彰一郎は懐から、紫陽花を形どったかんざしを取り出して見せた。父とともに兄を迎え出ていた菊乃は手に取ろうと伸ばしかけた手を既での処で止めた。
「やぁ、これは参ったな、血がついてしまっている」
彰一郎は照れたように笑いながら、着物の袖で血を拭った、その時の彼の上気した頬、大役を果たしたように満足そうな、それでいてしつこいほどの不気味な笑顔、
―― あの時の目
(そうだ、彰一郎はあの時と同じ目をしている)
物陰から父が見つめているとも知らない彰一郎は急ぎ足で自分の部屋に向かい、障子を開け放し、昨夜から布団が敷かれた状態のままの部屋の真ん中に進んで正座した。
そして、やおら左手に持った刀を抜き、手にした布切れで慣れた手つきで鍔もとから切先まで一気に拭き抜いた。血と人の脂とで、刃先がギラギラしているのが、闇の中でも恐ろしいほどに、文右衛門にはわかったのである。
(やはり息子は咎人であったか!)
文右衛門は信じられない光景に我が目を覆いたくなった。が、心とは裏腹に彼から一瞬も目を離すことができない。
自分の目の前に高々と刀を掲げて、彰一郎はうっとりしたような目つきで刃先を見つめていたが、どうかした拍子に障子の陰の文右衛門と目があった。それで慌てるかと思いきや、彼は父の目を正視して、ニヤリと笑ったのである。驚いて後ずさった文右衛門を尻目に、彰一郎は刀を鞘に納め、何事も無かったような顔をして布団にもぐり込んだ。
すぐに静かな寝息をたてて、眠りについたようである。
(乱心したかっ! 彰一郎!)
文右衛門は胸に張り詰めていたものがぷつりと切れて、へなへなとその場に座り込んだ。
(いつからだ! ‥‥‥一年前の、あの夏の日からか)
いますぐ、彰一郎をたたき起こして、ことの真偽を問い質すのは簡単だった。しかし、当の文右衛門にはどうしてもそれができなかった。すでに彰一郎が常人の精神を持ち合わせていないことは明白だったからである。
文右衛門は事態を図りかねた。夜明けを待って、極少数の家臣を呼びつけて、彰一郎を入り組んだ屋敷の奥も奥、十畳程の鍵の掛かる部屋へ押し込んだ。俗に、座敷牢と呼ばれた場所である。
文右衛門はひとまず息をついた。少なくとももうこれ以上息子が人をあやめることは無いだろう。
「閉じ込められた彰一郎は騒ぐ様子もなく、すっかり観念したようにおとなしく座敷牢に入っていました。思えば息子も、自らの内なる狂気を知っていて、自分ではどうすることもできずに、誰かが止めてくれるのを待っていたのかも知れません。齢二十、あまりに若く、不憫ではあっても、私にはどうすることも出来なかった」
そう言う、文右衛門の瞳には涙が滲んでいる。
「生きていれば、そう、ちょうど貴方くらいだ。彰一郎はそれから一月後のある朝、舌を噛み切って自らの命を絶ちました。世間には病死としてあります」
息子の長い苦しみもようやくそこで終わったのでしょう、と文右衛門は言った。
菊乃は父の隣で長い袂で顔を覆いつつ、嗚咽を堪えて静かに泣いていた。
快活で、何不自由なく見える明るい笑顔の陰に、実兄のこのような暗い過去を引きずっていた彼女の、抑えていた思いが一気に吹き出したように、左源太には見えた。
そのまま彼は長い間無言で、俯いたままの二人を前に動けないでいた。
が、突然、背後の襖の向こうの、息を殺して潜んでいる複数の男達の気配が、左源太を我に返らせた。
その数も一人、二人‥‥五人はいるだろうか。今度は明らかに前とは違う種類の、凄まじいまでの“殺気”をむき出しにしている。目的は自ずと知れた。
( 話を聞いたからには生かしては返さない、ってか?)
「お二人とも、どうぞお顔をあげて‥‥‥。私は何も聞かなかったことにします」
(こんなこと言っても後ろの方々は許さないだろうけれど)
慌てた。しかしどうする。逃げるか。とするとどこから。
「菊乃さん、私は」
左源太は素早く算段しつつ、高まる動悸を抑え、思わず顔を上げた菊乃に向かってこう言った。
「兄上の件からはどうぞ一日も早く立ち直られて、また道場の方にお越しくださるのをお待ちしております。貴方が悪いんじゃない。もちろんお兄さんも。彼は病気だったんだ。悪いのはその病です。そうですよね、文右衛門殿」
文右衛門は真っ赤な目をしていたが、救われたような表情でゆっくりと頷いた。
――けれど、相変わらず後ろの“妖気”は静まらない。今にも飛び掛かってくる気配に背中が総毛立ち、冷や汗が滲んだ左源太が再び刀の柄に手を伸ばした、その時、
「玄関に、鹿南道場の松波新之助様がお越しです」
さっきの侍女の素っ頓狂な声が廊下に響いた。
「鹿南道場の犬丸左源太が来てるはずだ、出せ、って少し脅かしてやったんだ」
雨上がりの帰り道、新之助は笑いながら言った。
「しかしあそこも門番はいい加減だな。俺が行ったときは居眠りをしていた」
「新之助が来てくれて助かった。一時はどうなるかと‥‥‥。大旗本ともなれば屋敷内が一つの国みたいなもんだ。入るのは簡単でも出るのは難しい。あのままあそこで万一俺が斬られても、死体は庭の片隅にでも埋めて、後は誰が訪ねて来ようと知らぬ存ぜぬさ。危なく桜の肥やしになるところだった」
「佐橋文右衛門の指図だろうか?」
「いや、彼に罪はない。おそらく家臣達が気を利かせ過ぎたんだろう。まァもっとも目の前に死体が出来てしまえば後は事後承諾するしか無かったろうが‥‥」
「恐ろしいところだなァ、しかし目前でそのようなことが起きれば今度は菊乃さんが狂ってしまわれたかもしれない。俺は二つばかり命を救ったな」
新之助は半ばふざけた調子でそう言いながらも、使わずに済んだ刀の黒光りした鞘を後ろ手にそっと撫でた。友人を危機から救った安堵感と同時に、まだこれから先に越えてゆかねばならない幾つもの山を思うと、全身に重い疲れを感じざるを得なかった。
その日も夕暮れ時、新之助と左源太はふたりして深雪の部屋に訪れて、今日あった出来事の一部始終を彼女にそのまま語って聞かせた。三人の前に置かれた紫陽花のかんざしが、早々に火を入れた行灯の光の中にぼんやりと浮かんでいた。
「そうですか‥‥菊乃さんのお兄さんが‥‥‥」
深雪はうすうす感じていたものも手伝ってか、父を殺した下手人が明らかになったことに今更に驚いたようには見えなかった。気味が悪いほどの冷静な様子に、新之助と左源太は却って彼女の正気を疑った。
やがて深雪は目の前の紫陽花のかんざしを手にとって、静かにゆっくりと自分の髪に差した。彼女の姿を茫然として見つめていたふたりは、その艶めかしさにハッとして息を呑んだ。長い年月、あるじを待っていたかんざしが、今やっと戻るべきところに帰って、行灯の薄明かりのなかで生命を得たように、その輝きを増したが如く見えたのである。
またその紫陽花は深雪の漆黒の髪にあまりにもよく似合っていた。
「誰も悪いわけじゃない、誰も‥‥‥」
深雪は口のなかで小さく呪文のようにそう唱えた。自分を戒めるようなその声は小刻みに震えている。気がつくと、深雪の目から一筋、二筋、涙が伝わって、やがてそれはとめどもなくあふれ出た。見開いた瞳は何ものも見ようとしていない。
新之助はたまらなくなって思わずダッと深雪のもとへ駆け寄った。そしてそのまま深雪を両腕にかかえて強く抱き寄せた。思いがけないほど華奢な肩をした、この小さな幼なじみへのいとおしさのあまりに胸が締めつけられ、目が眩みそうだった。
深雪はそれによって初めて声をあげて泣いた。外界の空気に触れた赤子が、後戻りできない生の営みの始まりを憂うかのように、突然に泣きだすのに似ていた。
かたくつぶった新之助の目にも、涙があふれていた。
左源太は黙って部屋の外に出た。
廊下から見上げた夜空に、静かに満月が輝いていた。
菊乃の姿が道場から消えたまま、日々は平穏に過ぎていった。
一月、二月、厳しい夏の暑さを越え、秋の気配が忍び寄る清涼の候に、新之助と深雪は祝言を挙げた。鏡三十助を知っていた新之助の叔父が深雪の親代わりとなり、松波宗助もこの祝言話を快諾した。松波の屋敷で祝事は三日にわたって続き、晴れてふたりは夫婦となったのである。
住まいは鹿南道場と地続きの、かつての鏡三十助の屋敷を改築した。道場には今までどおり左源太が塾頭として毎日通って来ていたが、夫婦の仲の良さに当てられて、左先生も早いところ身を固められてはいかがですかと門下にからかわれる事も度々であった。左源太も言われるごとに
「かなう恋はめずらしい。俺はめずらしくない方なのだ」
とか何とか言ってのらりくらりかわしていた。そんなある日、
「引き紙を見て参りました」
玄関先に、りんとした声が響いた。彼岸で新之助夫婦が菩提寺に墓参りに出かけ、道場も休みで一人留守番をしていた左源太は一瞬、午睡の夢の続きかと疑いながら、聞き覚えのある声の主に慌てて玄関に走り出た。
けたたましい足音に三和土の上の若侍は微笑したようである。左源太の顔を見上げて
「犬丸左源太様にご教授いただきたい。‥‥‥よろしいでしょうか?」
薄青の友禅に仕立てのよい青絹の袴、紫紐で結い上げた総髪は微かな風に揺れる。手には大事そうに紙片を抱えていた。まぎれもない、懐かしくも凛々しい菊乃の姿であった。
「一月前、深雪さんが手紙をくれたのです」
菊乃は座敷にあがろうともせずに左源太の目を見据えて言った。彼は菊乃に吸い寄せられるように、玄関に降り立った。
白足袋が汚れるのも気づかない風である。左源太の脳裏には、祝言直前、夜遅くまで行灯の火の下で、誰かに手紙をしたためていた深雪の姿が浮かんでいた。
「深雪さんは手紙でこう言っていました。色々な事があったけれど、今、自分は幸せになろうとしている。貴方にも幸せになってほしい、と」
言った菊乃の瞳は涙で濡れている。左源太はその涙を、菊乃の頬から指でそっと拭った。
にっこり笑って、そしてこう言った。
「幸せになりましょう、私と一緒に」
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