かんざし

第3話 かんざし

 実を言えば、先日菊乃が左源太に直談判をしてきた折、彼は彼女の気勢と真っ直ぐな瞳に気押されて、さればと正直にすべてを話してしまった。

 新之助と幼なじみの深雪の生い立ち、斬殺された彼女の父親の遺志を継いで道場を再興することになったこと、新之助本人はまだよくわかっていないだろうが、たぶん深雪を好いていること。

 その時は正直に話すのが相手に対しての誠実と考えたのだ。けれど、

「余計なことを言いすぎた。俺としたことが菊乃さんの前であまりにも饒舌になりすぎたようだ」

 菊乃は気強く見えても婦女子であることにかわりはない。恐らくひどく傷ついたであろう。自分が惚れている男が他の女性を好いている。その女の父親の遺した道場をともに盛り上げている。これでは自分の入る余地などない。相当な愚鈍者でも察しがつく。

「それで菊乃さんは道場に来なくなったと言うのか?」

「わからん。しかしその公算が強い」

「その責を感じてお前も元気がないと言うのか?」

「……」

 思い返してみると確かにある時から、菊乃は深雪の前で妙に落ち着かない素振りを見せるようになった。

家事を教えてもらう立場で必要以上に恐縮しているせいかと新之助は勝手に思っていたが、左源太の言うとおりであるとしたら彼女の女心がそうさせたのだろう。新之助の脳裏には明るく快活な菊乃の振る舞い、日向の向日葵を思わせる笑顔、それに比べて最近の妙に萎れて元気のない様子、来なくなる一日前、何度も振り返り、振り返りしながら帰っていった淋しげな彼女の後ろ姿が焼きついていた。

 新之助はしばらく黙って考え込んでいたが、突然どなるように言った。

「わかった。俺は明日、菊乃さんの家に行ってくる」

「行ってどうするんだ」

うつむいていた左源太がすかさず新之助の決心をくさすように言う。

「お前が行って左源太の言ったことは嘘だとでも言ってくるのか? 誤解だとでも? 馬鹿らしい、そんなことでごまかされるような娘じゃない」

確かに、新之助本人が出ていって何を言ったところで虚しいものになるだろう。それに左源太が菊乃に言ったことは嘘でも何でもなく真実だと、新之助は突然殴られでもしたかのように今初めて痛切に思った。

 はじめは確かに不幸な境遇の幼なじみへの同情だったかもしれない。けれど明らかに今は違う。いなくなったのは菊乃だが、これが深雪であったらと考えると、いてもたってもいられないだろうと思っている自分がいる。皮肉なことにあやふやだった己れの気持ちは左源太の言動によってひどく明らかになったのである。

――自分は深雪が好きだ

 この気持ちはもはや誤魔化しようがない。そういう意味で言うと遅かれ早かれこのような事態となるのは避けられなかったことだろう。偽りの言動によって菊乃が慰められようはずもない。

「菊乃さんに何をしてやれるのか? うまい考えがあるというのか?」

「ない、なにもない。ただ……このまま菊乃さんが道場に来なくなったのをこれ幸いとするわけにいかないじゃないか。左源太の言うとおりあの人は真っ直ぐな人だ。だから自分も曲げたことを言うつもりは毛頭ない。しかしどちらにしろ、こんな形で終わらせるわけにいかないじゃないか」

「それでも」

 つい声の大きくなった新之助に、左源太は静かに首を振った。

「やめた方がいい、新之助。お前が行くのはかえってあの人にも酷だろう。すべては自分の不始末だ。どうなるかわからんがひとまず俺に任せてくれないか」

 久しぶりに見た左源太の真剣な面差しは新之助をぞくっとさせる。ここ数日間の彼のため息の原因はこれがすべてだった。自分のとるべき行動への迷いが漸く無くなったせいかむしろ清々しい顔をしている。

「菊乃さんには誠を見せるしかあるまいな」

左源太は少し笑ったようだ。

 ふたりのやりとりの一部始終を陰で聞いていたものがいる。やはり左源太の様子を心配して秘かについてきていた深雪であった。


 禄高三千、小普請組支配、旗本佐橋文右衛門の屋敷は、赤坂の森のような敷地に悠然と建っている。大仰につきだした見越しの松に総檜の門構えは大藩の家老に劣らぬものがあった。

 左源太は裃こそ着けなかったものの精一杯の盛装をしてズカズカと乗り込んでいった。

 何をするにも当然のような態度に、彼を留める者がない。門番も懇意の客人だろうと決めつけてやり過ごした。敷石がざわざわと音をたてて彼の行く手を励ますようだった。

 漸う玄関の三和土に足を踏み入れたところで初めて朴訥そうな侍女が

「どなた……、でしたでしょうか」

とそれでも恐る恐る尋ねた。

「鹿南道場の犬丸左源太と申します。恐れながら菊乃殿にお取り次ぎ願いたい」

 よっぽどこわい顔になっていたのだろう。侍女は左源太の気迫に押されたようにあわてて後ろに飛んでいって、程なく戻ってきた。

「菊乃様はお琴の稽古中ですがすぐ参りますとのこと。どうぞこちらへ」

左源太にとっては履物を脱ぐ間さえもどかしい。妙に落ち着きのない自分がらしくなくて我ながら可笑しくなってくる。

 寸分も隙なく手入れされた濃い緑の庭に面して長い廊下が続いている。左源太の先に立って歩く侍女の後ろ帯を見つめながら、屋敷内の何処からか静かに流れてくる琴の音が、何より菊乃の存在を思い起こさせた。良かった、病に臥せっていたわけではないようだと左源太はひとまず安堵した。それは忘れていた何かを揺り起こすような、意志を感じさせる調べではあったが、どことなく悲しげに聞こえるのは考えすぎだろうか。

 左源太はいくつもあるであろう客間の一つに通された。外はいつのまにか雨が降りだしたらしい。開け放たれた障子戸の向うに見事な紫陽花が幾本も眺められた。季節ごとにその時々の最高の眺めの部屋で客人を迎える。おそらく二月前には満開の桜が来る者を喜ばせていただろう。菊乃に初めて会ったのは桜も吹雪となっていたころだったろうか。

 左源太は部屋の真ん中で瞑目して、あらゆるものと対峙しようとしていた。

――やがて、琴の音がやんだ。

雨の匂い、遠くに響く鹿威し、梅雨の時節特有の湿った静粛の合間を縫うように小さな足音がゆっくりと近づいてきた。


「今年もまた、夏がやってくるんですね」

 縁側で拭き掃除をしていた深雪が立ち止まってぽつりと呟く。

「ああ」

 新之助は書物を読んでいた手元を休めて、深雪の後ろ姿を見やった。今日は左源太が留守のせいもあって稽古も休みにしている。昼過ぎに降りだした小雨はいよいよ本降りになっていた。

「私は夏が嫌い」

 暑いのは苦手なのです、と笑う深雪を前に、新之助は笑えないでいる。

 深雪の父が何者かに斬り捨てられたのは五年前の夏。おそらく夏が嫌いなのは暑いなどという理由でないのは容易に想像できる。新之助はなにげなく床の間に掛けてある刀を見た。松波家伝来の和泉守兼定、この刀は関が原以来もう何百年も人を斬っていない。

「深雪ちゃん、もしも」

「え?」

「もしも鏡先生を殺した下手人が見つかったら、仇討ちをする気はあるかい」

「何を突然………」

「いや、深雪ちゃんにその気があったらの話だが、俺に助太刀をさせてくれないかと」

「新之助さんが……?」

 深雪はまじまじと新之助を見つめ返した。新之助の方もそう言ってしまってから自分の言動がひどく浮ついたものに思えて、あわてて言葉をつけ加えた。

「深雪ちゃんが女にしては群を抜いている腕だということはわかっている。しかし相手も相当な剣の使い手だ。深雪ちゃん一人ではやはり無理だと思う。だから、」

「ちょっと待って下さい、新之助さん」

 新之助の言葉を制して深雪は静かに首を振る。

「気持ちはうれしいけれど私……、たぶんもう下手人は見つからないと思います。何のてがかりもないんですもの。五年もたった……、もう五年もたってしまった、あの日から」

 もう何もかも終わってしまったのだと、深雪の目は言っている。新之助は黙るほかない。

 それでも話題を変えようとしたのか、彼女はさらに明るい口調で言う。 

「知っていた? 新之助さん、私は十八年前の夏に生まれたの。夏に生まれたのに『深雪』なんておかしな名前でしょう。色が白かったからって話もあるのだけど、父も夏の暑さが嫌いで、夏だからこそ冬の雪が恋しかったからって」

 笑っている。その姿がかえって健気に見えて、新之助には切ない。

 深雪はどうにも笑わない新之助に気がついて、少し躊躇したようだったが、続けてこんなことを切り出した。

「五年前のあの日、父は私にかんざしを買ってくれていたらしいのです」

「かんざし……」

「でも私は見たことがありません。父が襲われた当日に出稽古に行った町の道場の 人が見ているだけで。父が稽古後の酒席で娘に買ったのだと言って嬉しそうに紫陽花のかんざしを皆に取り出して見せていたそうです。私にくれるつもりだったのでしょう。でもあんなことになってしまって……」

「それで、そのかんざしはどうしたの」

「それがいくら探しても、父の遺品からは出てこなかったのです。私も道場の人からその話を聞いて、父の最後の形見だと思って必死に探したのですが……」

 だから紫陽花の季節になると無くなったかんざしといっしょにあらゆる悲しみを思い出す。夏は彼女にとって辛い過去を思い出させる材料がありすぎるのだった。

「でも安心してください、新之助さん。私は今とても幸せ。こうしていい人達に囲まれて、父の道場も再興できましたし」

「深雪ちゃんにそう言われると俺も思いきった甲斐があったというものだな」

 新之助はそこでやっと笑った。

「それより私、ひとつ気になることがあります」

 深雪は急に声を落として 

「菊乃さんのことです。私、菊乃さんが道場に来なくなったのは新之助さんが原因ではないと思います」

 ごめんなさい、この間のおふたりの話を聞いていました、と彼女は言う。

「菊乃さん、以前何の気なしに私がそのかんざしの話をしたらみるみる顔色が変わって……。あれ以来です。菊乃さんが妙に元気がなくなってしまったのは」

「深雪ちゃん、それ本当の話?」

「ええ」

 いやな予感がする。新之助は床の間の刀をつかんで立ち上がった。


 静かに障子が開いて、少しうつむき加減の菊乃が現れた。道場で見慣れていた侍姿とはうってかわって色鮮やかな浅葱色の振り袖をまとい、何本もの花を束ねたような華やかないでたちに、左源太はひどく圧倒されてしまった。情けなくものも言えないでいる彼を前に菊乃はしずしずと歩み、彼の真正面に腰を下ろした。

 暫くの沈黙が二人の間を通り抜けた。

 やがて左源太が思いきったように

「本日は突然の参上、誠に不躾とお思いでしょうが」 

 言いかけると、

「いいえ」

 菊乃がゆっくりと口を開いた。

「わたくしの方こそ、無断で道場を休むようになってしまって……。でも、今日は正直言って左源太様にいらしていただいて、ほっとしております。もしも今日いらしたのが新之助様の方だったらわたくしも合わせる顔が無かった気がします。不思議ですね、左源太様には何でも素直に話せるような思いがいたしますのよ」

 ひどくみっともないお話も聞いて頂いていたせいでしょうか、と微笑んだ。しかしその微笑みも一瞬で、火の落ちた線香花火のようにすぐに消えた。

「でも、いずれは知られることでしょう、わたくし、お話ししなければならないことがございます」

 菊乃の言いかけた言葉を左源太はさえぎった。

「それについてですが、先日の私の饒舌ぶりが菊乃さんを大変傷つけてしまったことをまずもってお詫びにあがったわけです。どうか新之助のことは許してやってくれませんか。なに、男は彼ばかりではありませぬ。新之助程度の男であれば世間にごまんとおります。私が保証いたします。菊乃さんに新之助では不足というものです。因みに私なんか如何でしょう。新之助には勝るとも劣らないと自負しておりますところで……」

 出るに任せて我ながらとんでもないことを口走ったと思ったところで、ふと見た菊乃の目に涙が溢れているのに気づいて、左源太は驚いて口をつぐんだ。

(ああ、またやってしまったか)

 どうしてこう自分は菊乃さんの前で言葉数が多くなるのだろう。

「ありがとうございます、左源太様」

 菊乃は少し笑顔を作りながら、涙をぬぐった。

「左源太様のお心遣い、この菊乃、身に染みております。でもいいのです。そのことについてはもう忘れることにいたしました」

「忘れる……」

「もうとっくに諦めました。それに今となっては深雪さんにも合わせる顔が無いのです。だから道場にも行けなくなりました」

 これを、と菊乃は手元から布でくるんだ小さな包みを取り出した。左源太が手早くそれを開くと中からかんざしが現れた。薄紫と桃色を配した上品な紫陽花のかんざしである。

「これはいったい……」

 あらためて菊乃に目をやると、彼女は庭の紫陽花に見入っている。左源太の方は見ずに、まるで言葉を放りだすように言った。

「わたくし、深雪さんのお父上を殺めた下手人を知っております」


 長い沈黙が、あった。

 左源太は菊乃の横顔を見つめつづけている。菊乃はもう二度と左源太に目が合わせられないかのように、俯きつづけている。

「下手人を知っているとは、それはどういう……」

 左源太が言いかけたその時、背後で鋭い視線を感じた彼は咄嗟に脇に置いていた刀の柄に手をかけたまま振り向いた。

「お父さま!」

 菊乃が驚いて叫ぶ。

 半開きの襖の向こうに初老の男が立っていた。この屋敷の当主、佐橋文右衛門忠長その人である。

 彼はそのまま何も言わずに左源太の前につかつかと歩み寄った。突然の稲光が、文右衛門の険しい顔をくっきりと浮かび上がらせた。

 雨はいっそう激しくなっている。

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