これが結末と知っていたら

尾方亜由美

第一話

「俺と結婚してください。これからもずっと、俺の隣にいてほしい」

 これが人生で初めての、本気のプロポーズ。今までさんざん練習したから、かまずに言えた。当の君はというと、固まったままで答えてくれなくて、返答を待つ俺の拳に力が入る。いつも一緒にいてくれて、ありがとう。君の笑顔やくれた言葉が、フラッシュバックして泣きそうだ。

 これが結末と知っていたら、あの日の俺はどうしただろうか。


「…ろ、紘」

 揺り起こされて目を開けた先にいたのは、見飽きた顔。

「鳴海!起きんかっこのバカ者」

 …と、唾を飛ばしてがなる国語教師の田尻のひげ面だった。

「ほら、立って教科書読んで」

「えと、何ページ?」

「三十八ページ五行目!寝すぎだよ紘のバカ」

「えー、『現代における産業の空洞化の問題点は』…?」

 順調な滑り出しだったはずだが、教室内から失笑が漏れる。

「違う!百十九ページ十四行目だ!今の単元は小説だろうが!読む前に気づけ!」

 田尻の怒号に、失笑が絶笑に代わった。彼女も腹を抱えて笑っている。くそ、やられた。

「美里…お前なあ」

「ひっかかったなー、紘って本当に単純」

 目に涙まで浮かべる彼女は辻川美里。体型も行動も小学生。

「代わりに乙坂!読め」

「はい」

 明朗に音読し始めた彼の声に、クラスメイトの女子は笑うのをやめ聞き入った。イケメンというのは何をしていても絵になる。

「おい、お前が寝てるせいで俺が読む羽目になったんだけど」

「ごめん、輝馬てるま

 乙坂輝馬は優等生でルックスも良い、クラスのリーダー的存在だ。

 俺たち三人は幼稚園時代からの幼馴染で、地元では名の知れた有名トリオである。

 輝馬は幼いころから模試で上位連続の神童で、何をやっても器用にこなす美里も大会で入賞してはメディアから注目された。あ、俺はというと近所の子を泣かせるわ学校の物壊すわのただの悪ガキでした。はい。

 なんだかんだ高校三年の冬を迎えた今も、三人で過ごすのが当たり前の日常だった。喧嘩した回数は数えきれないけど、この関係が変わったことはない。輝馬と美里が、校内一有名なカップルになったことを除けば。去年の文化祭、美里が有志団体による歌や漫才などの出し物を行っている野外ステージに行きたいというから三人で見ていたのだが、輝馬が何を思ったかそのステージに駆け上がって美里に告白したのだ。同学年はもちろん後輩にもファンの多い輝馬のぶっ飛んだこの行動は、瞬く間に全校中に知れ渡った。傍若無人、冷静沈着なあの輝馬が、俺に相談の一つもなく白馬の王子様ですら恥じらうような愛の告白をしてのけたんだから、驚くしかない。

 その時のことは、鮮明に覚えている。美里がまごついた顔で俺を見てきたから、何を戸惑うことがあるのかと首をかしげてやった。引き留めてほしいと書いてあるようにも見えたけど、無視した。歓声に包まれるステージを、俺は一つの路傍の石として見ていた。

 美里が輝馬を好きなことは、ずっと前から気づいていた。だから俺は、ステージから顔を背けたくなる衝動をこらえた。その衝動を、恋と呼ぶわけにはいかないから。


 教室内には静寂が戻ってきていた。俺らが通うこの高校は小学校から大学までついた私立校なので受験の必要もなく、高校三年生のこの教室にも平和な雰囲気が漂っている。なんとなく輝馬の整った横顔に視線を送ると目が合って、前を向けと口パクで叱られた。


「東京の大学を受験しようと思うんだ」

 美里が朝練で不在だった今朝、輝馬が放った小さな声が脳裏をちらつく。

「は?なんで?」

「やりたいことができたんだ。そのためには東京に出ないと」

「へー、すげえな。美里は知ってるのか、それ」

「いや、まだ」

「言っとけよ。大学の入学式で泣く羽目になるだろ、あいつ」

「もちろん。あと、大学の寮で生活することにしたから」

 それは、俺の体を電流が貫くような衝撃だった。

「…地元、出んの?」

「うん」

「なんでだよ。ここから東京まで二時間弱だろ。頑張れば通えるじゃん」

「自立…してみたいんだ」

「それ、美里に言えんのかよ」

 これから先も当たり前のように、三人で生きていくのだと思っていた。少なくともエスカレーター式のこの学校にいる限りは。

「…言うよ、いつか必ず」

「お前がどの学校行くかなんてお前の勝手だけど、美里泣かせたら許さないかんな」

「ずっと聞こうと思ってたんだけどさ、紘って美里のこと…」

「そんなんじゃない。あいつが泣くと面倒くせえの、知ってるから」

 昔から美里のなだめ役は俺と決まっていたのだ。俺はそれだけ言い残して輝馬の前から去った。あいつがその時何を思ったのかも、どんな顔だったかも知らない。


「鳴海ィ…、お前いつまで現代文やってんだよ」

 いつの間にか授業が変わって、数学になっていた。

「そーかそんなに現代文が好きか、言っといてやる」

「やめてください飯田先生、俺ゲイだと勘違いされてそういうことされたらどうするんすか」

 えーやだ、田尻となんて。女子たちが途端に顔をしかめだす。

「その失礼な発言ごと報告しといてやるから、とっとと数学の用意をしろ」

「勘弁してくださいよ」

 また笑い声に包まれる。今日はどうも授業に集中することができなかった。

「先生」

「どーした、乙坂」

「体調が悪いので保健室に行ってきてもいいですか」

 唐突に輝馬が手をあげたと思ったら、つやつやの顔でそんなことを言った。調子が悪いようには見えない彼の声色からは、『保健室で寝る』という策略が透けて見える。

「誰か保健委員、付き添ってやれ」

 飯田はたいして輝馬のほうを見ることもなく了承の意を示した。こういう時優等生は便利である。

「私が付き添います」

 立ち上がったのは、美里だった。途端に男臭い声が上がる。

「保健室で何する気だよー」

「校医、いないといいねえ」

「ばっ、お前らちげえよ。美里、付き添いとかいいから」

「うるさい」

 輝馬は顔を真っ赤にして怒り出したが、美里は半ば引っ張るように輝馬を連れて行った。


「今日の紘、ぼーっとしすぎ。めっちゃ笑い者にされてたじゃん」

「半分はお前のせいだろうが」

 輝馬はそのまま早退してしまって、大方校医を言いくるめて家に帰ったのだろう。おかげで帰り道は美里と二人きりだった。

「ねえ紘、今日は寄り道して帰ろうよ」

「はあ?」

「プラネタリウム。久々に、行こ」

「そういうのは彼氏と…」

「輝馬がこういうの興味ないの知ってるでしょ」

 

強引に連れてこられた町はずれのプラネタリウムは、思ったより過疎化が進行していた。宇宙飛行士になりたがっていた美里は、よくここにきては同じ公演を飽きずに見ていたのを覚えている。俺としても有名な星の説明はそらんじれるほど見ているので乗り気ではなかったが、実際来てみると懐かしさがこみあげてきた。

 誰もいない館内で、本日の最終公演が始まる。美里はお気に入りの特等席に座った。ペルセウス座流星群が、いちばんきれいに見える席だ。就寝前の子供に絵本を読み聞かせるようなトーンで、宇宙の起源についてのナレーションが始まる。始まって五分で寝てしまう輝馬と、ナレーションに合わせて内容を暗唱する美里の横顔を思い出すと、なんだかおかしくなって笑った。


「世界に二人きりみたいだね」

「何言ってんの、お前。輝馬に言えよ、そういうことは」

 急に告白めいた発言をする美里に不覚にもときめいて、ちらりと横目で覗う。美里は目を閉じて、リクライニングに身を任せていた。

「いいじゃん、こういうとこで言ってみたかったけど輝馬とは来れないんだもの」

「だからって」

「私さあ、ちっちゃいときに流れ星が見たいって騒いだの、覚えてる?初めてこのプラネタリウムで、流星群をみて」

「覚えてるよ。曇り空だから無理だって輝馬が言ったのに、お前は駄々こねて」

「紘は私をお化け山に連れて行ってくれたよね」

 お化け山は俺たちの家の近所にある鬱蒼とした山だった。昼間でも暗く、切り立った崖が偏在するため子供の立ち入りは禁止されていたあの山からなら、見えると考えついたのだ。結局流れ星を見ることは叶わず、美里が怖くなって泣き出すせいでおぶって下山しなくてはならなかったうえ、親にお化け山へ行ったことがばれて散々に叱られた。

「私さあ、今は流れ星を見つけたくないんだよね、分かる?」

「なんでだよ。お前信じてたじゃん、三回流れ星に願いを唱えると叶うってやつ」

「そうなんだけどさ、なんか今願うことがないなって思って」

「…あーまあ、俺もないかも」

「でしょ?昔は七夕の日、短冊がいくらあっても足りないほど願い事があったのにさ、流れ星を見つけても願いたいことが何もないの」

 こんな夢のないことを言うなんて、今日の美里はらしくない。丁度その時、ペルセウス座流星群が映し出された。

「つまんない大人になっていくみたいで、なんだか怖いなあ」

「まあそれはそれで毎日が充実してるってことでいいんじゃないですか」

「んーそうとも言うね。あ、そうだ紘。『流れ星』を使ってプロポーズしてよ。毎日に充実しちゃってる、この今の私に」

 それは、懐かしい響きだった。よく美里は、俺と輝馬にこのゲームをさせて遊んでいた。〇〇を使ってプロポーズせよ。そして、より美里をときめかせたほうが勝利する。

 いつも、このゲームの勝者は輝馬だった。ロマンティックで情熱的な文句に弱かった美里に、俺の言葉は全然届かなかった。内容はつまらないし大事な所で噛むし、いつも恥だけかかされて負けた。

「それ、俺は苦手なの知ってるだろ」

「飯田先生にゲイだと誤解されるほど浮いた話のない哀れな幼馴染に、練習させてあげてんの」

「流れ星に、君への愛を誓うぜ」

「宇宙空間を漂う塵に愛を誓われても困る。ていうか語尾が気持ち悪い。やり直し」

「流れ星を塵って言ったらもうムードも何もないだろう。流れ星はすぐに消え去ってしまうけど君のことは離さないよ、とか?」

「ストーカーみたい。気持ち悪いから却下」

「あーもう!却下ってなんだよ。君がどこにいても流れ星に乗って会いに行く、とか」

「変わってないなあ、紘は」

 小バカにしたようにくすくすと笑う美里。幼稚園から今に至るまでに、俺の恋愛スキルが高まっているはずはない。正解が俺にわかるはずがなかった。

「お前との出会いは流れ星に当たる以上の奇跡だと思うよ」

「紘の答えはいつも私の欲しい答えの斜め上をいくね」

「褒めてんの、それ」

 俺の答えは一応美里のお気に召したようで、それからしばらく美里は黙った。


「ねえ紘、願い事一つできた」

 上映も終わりに差し掛かったころ、出し抜けに美里はそう言った。

「なんだよ」

「三人でこれからも同じものを見て、同じように感じて…一緒に生きたい」

 幼い時と変わらない美里のいたずらっ子のような笑顔に、何を思えばよかったのだろうか。この時俺が流れ星に込めたいと思った願いは、けして許されるものではなかった気がする。


「ジャングルジム行こう」

 そこは俺たちの思い出の場所だった。昔から、明るくて能天気な美里が泣き顔を見せるのはジャングルジムの頂上で夕焼けに染まる街並みを見ながらと決まっていた。

「…紘、輝馬から聞いた?」

「聞いたよ」

「ねえ、輝馬いっちゃうよ」

「…知ってる」

 美里も今日、保健室で聞いたのだという。美里は知っていた。自分の願いが叶わないという、現実を。

「紘は、いいの?それでも」

 美里の大きくて丸い目から、涙が一粒ずつこぼれた。細い体が、小刻みに揺れている。

「あいつが自分で決めたことなんだから、俺にはどうしようもできないだろ」

「私は嫌だよ、こんな風にバラバラになるのは。ねえ紘、今ならまだ間に合うよ」

「美里がどうするかは自由だけど、やっぱ自分の人生は自分の意志で決めないと」

「…紘は冷たいね」

 やりたいことがあると言った輝馬の顔を思い出す。今俺たちが引き止めたら、確実に彼を苦しめることになるだろう。

「まさか輝馬がそんなこと考えてたなんて」

「美里はどうしたいの」

「追いかけるよ、もちろん」

 もう美里は泣いていなかった。街並みに沈んでいく夕日を睨みつけるように、そっと呟く。いつもこうだ。結局美里の中には明確な答えが出ているから、俺はたいてい耳を傾けていればよかった。

 けれど今日は同じように夕焼け色に染まりながら、俺の答えを探した。三人がバラバラになるときは死ぬ時だと思えるほど、俺たちは当たり前のように一緒にいたのに。今更二人を失った俺の人生に、何が残るのだろう。

 ああ、俺は二人を守る騎士だったのだと、その時悟った。白馬に乗った輝馬が美里を迎えに来て、幸せに暮らすその横で、俺は二人を見守り続ける。美里を好きだったことがあるかと問われれば、そんな時期もあったと答えるだろう。でも、この長い物語でその感情は邪魔なだけなのだ。彼女にはもう、たった一人の王子様がいるのだから。

 

 次の日、その王子様は姿。早退してから、家に帰っていないらしい。

 美里はそれを聞くなり、肩を震わせて俯いた。空いたままの右隣も、前も向けなくて、その日の授業の内容はろくに覚えていない。

 一人で帰る道がこんなにも長いものだと、この学校に長く通っていながら初めて気づいた。いつもなら美里や輝馬がいて、当たり前のように笑いあって、家までがあっという間で。そんな大切な日常が壊れていくのを淡々と眺めるしか能のない俺には、輝馬が消えた理由も、美里にかける言葉も見つからない。


「紘、今日一緒に帰れる?」

 輝馬がいなくなって三日目の放課後、美里にそう声をかけられた。にもかかわらず道中は薄気味悪い沈黙が続いた。

 向かった先はいつものジャングルジムだった。美里は結局何も喋らない。柿色が世界を包み込んで、できることならこんなきれいな夕日の日に世界が滅亡してほしいと思った。いや、美里の隣でなら、いつ世界の終わりを迎えてもいい。もしこの感情が世間一般で恋と定義されるなら、俺は今そう告白するべきなのだろうか。うつむいて背中を丸め、器用にジャングルジムの上で体操座りをしてのける彼女にどんな言葉をかけていいのかわからないまま、ぼうっとそんなことを考えていた。

「元気出せよ美里。輝馬はきっと大丈夫だって」

「大丈夫…?」

 とりあえずかけた気休めの言葉が、美里のスイッチを入れてしまったようだ。途端に彼女は体育座りをやめて俺に向き直ると、怒りながら泣き始めた。

「そんなわけないじゃない!あんたのせいで、今頃輝馬は」

「俺のせい?」

 美里はいつも静かに泣くタイプだったから、急に髪を振り乱して怒り出したことに面食らった。しかも彼女の怒りの矛先はどうやら俺らしい。

「そうよ!今だから言うけど、輝馬が大学に行きたいって言ったとき、あんたは私の心配をしたそうね?」

「あ、ああ、そうだけど」

「最低!どうして輝馬自身を引き留めてあげないの!」

「はあ?落ち着けって、美里」

 俺の制服を前後に引っ張って、美里は泣きながら訴えた。落ちそうになるのを必死にこらえる。なんだ?俺の何がダメだったんだ?


「輝馬は…輝馬はねえ、出会ったあの時からあんたのことが好きだったの!」

 

世界が徐々に茜色に染まるその中で、俺は自分の過ちに気づいていった。

「東京の大学に行くなんて嘘なの!あんたに気持ち悪いって思われたくなくて、私と付き合って…。どんな気持ちで、今まで」

「なんだよ、それ…。じゃあお前の気持ちは」

「私はずっと輝馬のことが好きだったよ!輝馬が私を好きじゃなくても、絶対振り向かせてやるって思ってた!でも、もう間に合わない!」

「…お前知ってるだろ?輝馬が今何してるのか」

 輝馬が姿を消したあの日の朝、美里への気持ちを俺に確かめてきた時の輝馬の表情は、どう頑張っても思い出せなかった。行かなくてはならない。輝馬の気持ちに何か答えなくてはならない。物語を壊してしまうほどの、届いてはいけない思いを抱える辛さを、俺は十分に知っているから。

「輝馬に会わなきゃ」

「きっと輝馬はもうこの世にいないよ」

「は?笑えない冗談はやめろ。輝馬はそんな奴じゃない」

「冗談なんかじゃない、本当。紘は輝馬を何も知らない」

 その言い方にも腹が立って、それから美里とは口を利かなかった。


 しかし一週間後、その悪夢のような現実はやってきた。彼はお化け山の茂みの奥深くで見つかったのだ。あちこちの関節や骨を折った状態で、即死だったらしい。

 学年一の人気者の死は、校内どころか町内中に光の速さで知れ渡った。ただ彼が死に至った理由だけは、闇に葬り去られて。


 輝馬の葬式が行われたその日は、皮肉なほどによく晴れていた。親族と、俺の家族、そして美里の家族だけが参列を許された、家族葬だった。

 死化粧を終えた輝馬の顔は、驚くほど清らかなものだった。そういえば出会った頃の彼もこんな冷たい表情だったと、急に出会った日のことを思い出す。

 

幼稚園で暴れまわっては先生から叱られていた俺と、勉強ばかりで滅多に笑わなかった輝馬に、外で日が暮れるまでたくさんの友人と走り回っていた美里。正直俺たちはそれぞれが正反対だった。

 あれは、塾の宿題を淡々とこなしていた輝馬に、何人かがいたずらしたのがきっかけだったと思う。いつも教室の隅で机と向き合っていた彼を気味悪く思っていた者は少なからずいたが、関わった者は初めてだっただろう。彼らは教科書を盗み、クレヨンでぐちゃぐちゃに落書きをし、彼をさんざんに笑った。そしてなぜそれにかっとなったのかよく覚えていないけれど、俺の体は動いていた。そいつらの胸ぐらを掴んで、あと一歩で殴り掛かっていたと思う。それを止めたのが美里だ。彼女は俺の拳を両手で包んで首を振った。

 そのまま美里は俺と輝馬の手を引いて、ジャングルジムに上るよう促した。

「ありがとう」

 ジャングルジムの頂上で、輝馬の声を初めて聞いた。

「僕の代わりに、怒ってくれて」

「おう」

 なんだか照れくさくて、そっけなく答えたのを覚えている。それまで無表情を貫いてきた輝馬の、初めての笑顔をその時見た。

「輝馬君はさ、どうして勉強してるの?」

「お母さんが、私立に行けって」

 輝馬は小さな声で美里に言った。彼の意思でないことは、すぐに分かった。

「じゃあ美里も勉強する」

「え?」

 俺と輝馬の声が重なった。

「楽しそうだから、美里も私立行きたい。紘君も、どう?」

 それが、俺たちの始まりだった。美里が差し出してきた手を俺が握った、それだけだ。そして俺は両親が目を剥くほど勉強に打ち込むようになった。輝馬を一人にしたくなくて、美里の手のぬくもりを、忘れたくなくて。


 輝馬が俺に惚れるとしたら、この日彼の代わりに拳を突き付けたあの瞬間だろう。俺は今まで「友達」として輝馬に接してきたけれど、そんな俺の行動はいったいどれほど彼を傷つけてきたんだろうか。


「俺と結婚してください」

 気づけば俺は、彼を前にそんなことを口走っていた。親を含めた周囲の全員が、唖然となる。

「絶対、幸せにするから」

 やっぱり彼は固まったまま答えてくれなくて、悲しみと後悔が入り混じって爪が白くなるほど拳に力が入った。周囲はどんどん騒がしくなる。当たり前だ。死んでしまった人間に、明るい未来を約束するなんて狂っている。まして、男から男に。

「紘はやっぱり、私の欲しい答えの斜め上をいくね」

 美里だけが、唯一この場でほほ笑んでいた。彼女の久しぶりの笑顔だった。なぜか言いたくなってしまったのだ。輝馬のついた嘘に甘えてしまっていた日々を、これからも忘れないためにも。ささやかな贖罪に輝馬へ俺の人生初のプロポーズを贈ろう。無論こんなもので許されるとは、思っていない。


「私、人は死んだら天国へ行くと思ってた」

 輝馬の葬式が終わって、俺たちはまたあのジャングルジムに来ていた。

「でもロケットが出来て、雲の上には宇宙が広がっていて、果てしないほど広いってことがわかっちゃった。そこに天国なんてなかった」

「何が言いたいわけ」

「人は、何かを発明して知識を得るたびに信じる心を失っていくんだろうね。大人になるってこういうことなんだなって、最近思うの。三人でずっと一緒にいられると信じてたのに、こんなに難しいことだったんだ」

 妙に大人になることを怖がる美里を見つめながら、次に流れ星を見たらどうか時を止めてほしいと願うことにした。いやこの願いは、自分のためか。

「ねえ紘、行きたい所があるんだけど」

 急にジャングルジムから羽でも生えたかのように飛び降り、表情を明るくした彼女が昔と同じ無茶ぶりをする。

「流れ星、見たくなっちゃった」

「絶対に嫌だ」

 輝馬がそこで転落死を遂げたと町中が知った今、子供はおろか大人も寄り付かなくなっていた。

「お願い」

 恋人が死んだ場所に行きたいなんて正気じゃない。けど、なぜかこいつの上目遣いにはいつも勝てない。

 子供のころ、あんなに遠かった頂上があっという間に見えてきた。すでに日は暮れ、ぽつぽつと星が見える。寒風に身が縮んだ。

「三人でずっと一緒にいられますように」

 目を閉じて彼女が呟く。もう叶わない、純粋な願いを。

「流れ星あったの?」

「ないけど」

 星空を背景に、寂しく微笑む美里がなんだかとても美しく見えて、一枚の写真にでも収めたくなった。彼女の髪が風になびいて、輝馬はもうどこにもいなくて、今この一瞬が二度と戻ってこないと実感させられる。


「じゃあいこっか」

「もういいのかよ」

「うん、もう心残りないや」

「そうか」

 なんとなく美里が少し名残惜しそうに見えたけれど、来た道に向き直る。

「あ、紘はついていかないんだっけ。本当冷たいなあ」

 振り返ると、昔から近づくことを禁じられている場所に、美里は立っていた。その規制線の先に何があるのか、この町に住むものなら誰もが知っている。

「お前何してんの?」

「楽しそうだから、私もいきたい。紘も、どう?」

 懐かしい響きだった。

「どう、って…そっちには崖しかないだろ。どこに行くんだよ。危ないからほら」

 美里から差し出された手を、引っ張ろうとしたら逆に引っ張られた。

「うわっ」

「輝馬が逝くなら、私も逝きたいの」

 バランスを崩した俺を抱きとめた美里が耳元で囁く。何かが食い違っている。根本的な、何かが。美里の心に全然ピントが合わない。

「さっき紘は聞いたよね。どこに行くんだよって。そうだねえ、天国とでも言おうかな。まあ存在しないんだけど」

 とても楽しそうに、朗らかに笑った。でも今は、その笑顔が俺の中の恐怖を増殖させていく。逃げ出したかった。一刻も早く、この山から。

「ねえ紘なら、私の願い事をかなえてくれるでしょ?」

「ね、願い事って」

 寒さで口が回らなくなってきていた。どこから俺は、彼女の発言を勘違いしていたんだろうか。

「ついこの前、三人で一緒に逝きたいって言ったじゃん」

 ちゃんと聞いていたのかと、腰に手をあてて頬を膨らませてみせる。そして出会った日のような無邪気な笑顔で星空を背景に手を差し出す。

「一緒に、流れ星になってくれるよね」

 お姫様はこんな結末をご所望らしい。彼女が欲しがっていたあのプロポーズゲームの答えはこれか。

 彼女の上目遣いには降参した。やっぱり俺は、こいつに巻き込まれる運命なのだ。出会った日と変わらない手のぬくもりを、俺は思い出していた。

 

これが結末と知っていたら、あの日の俺はどうしただろう。この二人と出会い人生を共にすると選択した、あの日の俺は。

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