第2話 春の日の再会
まだ肌寒い三月の半ば、実家のある町に帰ってきた。
四月から働く会社は、実家から通える近さで、気楽な一人暮らしともお別れだ。
卒論の発表が終わってから卒業式までに少し余裕があったので、先に引っ越しを済ませて実家でのんびりしている。そんな時、お父さんに誘われておばあちゃんの家を見に行くことになった。
おばあちゃんの家の池の上に、大きな
小さい頃に一度だけ見た光景は、今も変わらず美しかった。白い花が満開で、ヒラヒラとこぼれる花弁が鯉の池に落ちて幻想的だ。
けれど、そんな美しい光景も全く目に入らないくらい、私の心は混乱の渦の中にある。
おばあちゃんの村の入り口。あの夏彦くんの家がなかったのだ。
「お父さん、ここにあった家は?」
「え、ここに家はないぞ。昔っから。ほら、鳥居の向こうに小さな
「でもこの前の雪の日に……」
「狐様に騙されたんじゃないのか?ここの稲荷神社の狐様は、いたずら好きだというから」
私、騙されたのかな。
◆◆◆
夏彦くんと話したのは、ほんの短い時間だけど、すごく楽しかった。好きになった。また会いたいと、そして夏彦くんもきっと同じだと思った。
でもあの家は幻で、夏彦くんはいなくて……。
何日も何日も、悩んで、混乱して、今も悩んでる。でも、卒業式を終えて実家の自分の部屋に戻る頃には、少しだけ気持ちも落ち着いた。
壁の、おばあちゃんが描いた絵を見てると、描かれているのは私なのに、なぜかあの日の夏彦くんの笑顔が思い出される。
春の晴れた朝、軽いコートを羽織って外に出る。
夏彦くんがタワーマンションに住むって言ってたのを思い出したから。
そこはうちからも近くて、歩いて十分ほどのところにあった。できたてのマンションは高級感に溢れて、入り難い雰囲気だったが、思い切って管理人さんに声をかける。
「あの……ここの一階に伏見さんって方は住んでますか?」
「え?入居者の個人情報は教えられないよ」
「そうですか……」
「そもそも一階には住居はないし」
「ないんだ……やっぱり」
諦めて帰ろうとした時、私の後ろから入ってきたおばちゃんが、声をかけてきた。
「ねえねえ、あなた。伏見さんって言ったら、それのことじゃないの?」
彼女が指差す先をよく見ると、柱の向こうの奥まった場所に鳥居の朱色がちらりと見えた。
このマンションは、エントランスのドアの手前にも来客が座って待てるようにロビーと中庭があって、テーブルとソファーが置かれている。そのロビーの一角に、背丈ほどの小さな鳥居と社、そして一体の狐の像があった。
「ここのお稲荷さんは、伏見から来ていただいたって聞いたわよ。そこの可愛らしい鳥居は、マンションを選ぶときに決め手になったのよ」
そういうと、おばちゃんは中へ入っていった。管理人さんはオートロックのドアより外に関しては我関せずというふうに、黙って座っている。
私は小さな鳥居に歩み寄って、手を合わせて目を閉じた。
「やっぱり幻だったのかな、夏彦さん」
「わお!楓ちゃん、来てくれたんだ!待ってたんだよ」
「え?」
目を開けると、ニコニコ顔の夏彦くんが、私の手をとって引っ張っていく。その先にはさっきまであった鳥居と社は見えず、普通のマンションのドアがあった。
「さあさあ、入って!ここが俺の家で、職場だよ」
「職場って……」
私のいうことを聞きもせず、夏彦くんはグイグイ手を引っ張って、奥へと案内した。そこは新しく綺麗に整ったマンションの一室だったが、それ以上に清浄な空気に満たされている気がする。
水が入った透明なガラスの皿がテーブルの上に、ポツンとひとつ置かれていた。
「ここが、俺の職場。見つけてくれて、ありがとう」
ガラスの皿からは、全然信心深くもない私にさえわかるほどの、神々しい光がこぼれている。それは部屋中に広がり、さらには外まで流れ出しているようだった。
「自分の社を持って仕事し始めたら、あまりお気軽に出かけることもできなくってさ。楓ちゃんが来てくれるのを、ずっと待ってたんだ」
「夏彦くんって、……神主……さん?」
「いや、違うけど、えーっと、改めてそう言われると、俺って何だろう?」
うーん、うーんと首を傾げ始めた夏彦くんの頭に、ぴょこんと、狐の耳が見えた気がした。
不思議な家に住む、不思議な人。
だけど不思議と怖くはなかった。
色々と話したけど、結局夏彦くんの正体は、分からないまま。本人もよく分かってなさそうなのは謎だ。
家業があって、見よう見まねで覚えるんだよ。新しく職場ができたから、俺が派遣されたんだ。そんなふうに言ってた。
夏彦くんの姿は誰にでも見えるわけじゃないらしい。けど、たまに見える人に会うと嬉しくって飛び跳ねたくなるんだって。私と会った時も、そういえば跳ねてたっけ。
お茶を飲んでおまんじゅうを食べて。このおまんじゅう……お供え?ま、まあ考えまい。そしていっぱい話をして、涙が出るほど笑ったりもした。
どのくらい時間がたっただろう。じゃあね、と手を振って見送られながら玄関を出ると、そこはタワーマンションのロビーだ。振り返れば夏彦くんの家のドアはなく、かわいい鳥居と社、そして狐の像が見える。不思議な体験だけれど、ただ素直にわが身に起こった事を受け止めて、そっと胸に手を当てた。
管理人さんはこっちをちらっと見たっきり、何も言わずにそっぽを向く。
「お邪魔しました」
出口でそう声をかけたら、そっぽを向いたままボソッと呟く声が聞こえた。
「また参りに来てあげな」
「はいっ」
マンションの外に出ると、まだ少し冷たい風に乗って、淡いピンクの吹雪が舞う。
「ねえ、楓ちゃん。あのさ……好き!」
「……私も」
雪の朝 安佐ゆう @you345
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