第5話 壁際の攻防 外側篇


 鳥の鳴き声が聞こえる。

 目を開けると、輝き過ぎている太陽の光が目に飛び込んでくる。

 あまりの眩しさに思わず、目を細めた。


 それは朝に似ていた。


 水気を纒った草が頬をくすぐる。冷たいと思うと、体全体も何となく濡れているのに気づいた。

 僕は起き上がり、辺りを見回す。あるのは木や草ばかりだ。


 昨日のことはある程度は覚えている。倒れたところまでは。

 しかし、その後の記憶はまったくない。だから自分が生きながらえたのか、死んであの世に行ったのか、僕自身分からない。


 僕は自分の体を一通り確認する。手足もちゃんとあるし、体が透けているなんてこともない。


 ……僕は生きている、らしい。


 こういう場合は大抵、神仏を拝んで生きていることに感謝するべきかもしれない。でも僕はこの状況を不可解に思う気持ちが先に立つ。

 力尽きて倒れたあの時、僕は死ぬと思った。死への恐れとか、生への執着とか、そんな感情が芽生えないほどに、あのとき僕は自分がこれから死ぬということを直感していた。

 なのに、僕は生きている。

 そのことに理由なんてないのかもしれない。僕は死ぬと思っていたけど、あのとき起こったのは死ぬほどのことじゃなかったのかもしれない。だけど、あれほど自分の死を感じていたのに、死ななかったことにやっぱり納得がいかなかった。

 こんなことにいちいち拘泥している僕は、かなりひねくれているのだと思う。普通は奇跡とやらが起こったのだと信じるだろうが、僕はあいにく、そんな純粋な人間じゃなかった。


 どんっ


 僕の後ろで何かがぶつかる音がした。

 振り返ると、そこには透垣すいがいがあった。透垣は割いた竹を縦横に並べているだけだから竹と竹の間に隙間ができやすいものであるはずだが、この透垣は隙間がない。まるで竹を編み込んでいるかのようである。こんな隙間のない透垣があるのだとほぼ二十二年過ごしてきた人生のなかで初めて知った。


 起きたときには気がつかなかった。

 透垣があるということは、そこに誰かの家があるということだ。さっきの物音はこの奥にある家のなかで起こったのだろう。

 もしかしたら誰か僕に気づいたのか――?

 僕は何となく気になっていると、その透垣には隙間があった。縦横ともに僕の人差し指ほどの長さしかない小さな隙間だ。そこだけ竹が剥けているらしい。


 どんっ


 と大きな音がした。さっきよりも大きな音だ。


 透垣が揺れて手が触れていた僕に、その音とともに強い振動が伝わってくる。どうやら、透垣に何かぶつかったようだった。


 何事が起こったかと、僕はそれを何の気なしに覗いてしまった。これじゃあ惟憲と一緒だと頭の片隅では思ったが、それを気にしている余裕が無かった。


 透垣にできた隙間――僕は今それに顔をひっつけて中を窺っているわけだが――の向こうで、白黒の何かが出現したのだ。

 それが人の目だと理解するのに少々時間が要った。


 そう理解したとき、僕は叫び声を上げていた。


「「うわぁぁぁぁぁあ!」」


 叫んだと同時に透垣の向こうからも叫び声が聞こえた。


 声が重なる。


 僕はすばやく透垣から体を離す。荒い息を整えながら、僕は何が起こったのか、確かめようとした。


 隙間の向こうで「目」が大きく見開かれている。それと目が合った。大きな、黒みがかった深い紫色の瞳が、驚きと不安を潜ませて僕を真っ直ぐに見つめている。

 怖がられているんだと分かっているのに――もちろん僕も怖くないわけじゃないけれど――僕はその瞳に見入ってしまった。

 夜空みたいな色だ。そこに星があってもおかしくないと非現実的なことを思ってしまうほど、それは透き通って綺麗だった。

 しばらく目を反らせなかった。


 この透垣を隔てた向こうに誰かいるのはもはや明らかだった。気になるのはそこにいるのが誰かということだ。

 それを尋ねようとした時、透垣の隙間から、何かが落っこちてくる。それは地面に当たって何度か跳ねた。僕はそれが山の急斜に従って転がっていくのを、すんでのところで捕まえる。


それは笹の葉で巻かれた円形の何かだった。僕は笹の葉を剥き、中を見てみると、そこには握り飯が二つある。

僕はなぜ握り飯が透垣の穴から飛び出してきたのか、まったく見当がつかずに呆気にとられていると、またそこから何かが落っこちてくる。今度は地面に落ちる前にキャッチし、手のひらを開いてみてみると、それは竹をでできた筒のようだった。


手につかんだときの衝撃で、竹筒の中が音を立てて揺れた。中に何か液体が入っているようだった。

開けてみると、そこには水が入っていた。

僕は思わず透垣の穴を振り返った。そこからは今はもう何も見えない。

この隙間から出てきたのは、水と握り飯だ。これらはつまり、

「ぐぅー」

と今まさに腹の虫が声をあげた、僕に一番必要なものだった。

色んなことがあって忘れていたが、いま僕は、文字通りの意味で、死ぬほどお腹が減っていた。僕はすぐにその握り飯に食らいついた。


いつもの僕なら、どこの誰とも分からない人間からもらったものなど口に入れないだろう。しかし今の僕にはそんなことを気にしているお腹の余裕はなかった。


僕は最後に水を飲み干す。そうすると、間を空けずに、また新たな竹筒が透垣の隙間から落ちてくる。

僕はそれをキャッチして、再び中を見ると、また水が入っている。


……何だ、何だ?水ならさっき飲んだぞ。また飲めっていうのか?

と、心の中で突っ込んで、ようやく僕は重要なことを忘れていたことに気がついた。


……これは誰が、やっているんだ?


目的は間違いなく、僕に水や食料を与えるためにこんなことをしているんだろうが、一体誰が、何の理由でこんなことをしているのか、僕にはさっぱり分からない。

思い当たる理由としては、僕を殺そうと空腹につけこみ、毒入りのものを食べさせている、とか。握り飯にも水にも変な味はしなかったが、無味無臭の毒もあるかもしれないから、一概に大丈夫とは言えない。しかし、僕はこんな山奥で、誰とも分からない人間に殺されるようなことをした覚えはない。生きている以上どこで恨みを買っているかなんて分かったものではないが、僕は自分が殺されようとしている、とは思いたくなかった。

しかし、一度思いついてしまったことというのは簡単に頭から離れないもので、何だか気味が悪くなってくる。

考えてみると、何も言わないで、水や食料を与えるっていうこと自体おかしいし、こんなことする理由もやっている人間も分からないし、さらに気味が悪くなってくる。


 だから僕は、二本目の竹筒を透垣すいがいの穴からそっと向こう側に返した。一本目と握り飯は仕方がないが、二本目を飲む気にもなれないし、これだけでも返却しておきたい。毒が入っていたら、二本目を飲まなくたって御陀仏になるだろうけど。

ぼとんっと竹筒が地面に当たる音と、液体が揺れる音が、向こう側から同時に響く。間違いなく、竹筒は向こう側に返却されたようで、僕はため息をついた。

しかし。

一分ぐらい経って、その竹筒は再び、透垣の隙間から頭を出してそのまま落下し、思わずキャッチしてしまった僕の手に帰ってきたのである。


 透垣の隙間を、僕はぽかんと見つめた。僕を見つめていた深紫の瞳は今はそこにいない。だけど確かにその持ち主が僕の手に筒を落としてきたのだ。


 気味の悪さはより深みを増していた。


 返した竹筒を再び無言で送り返してくるなんて恐怖しかない。何か話しかけてくるならまだその意図も分かりそうなものだが、何も言ってこないというところが、かなり、怖い。


 僕は持っていた竹筒を見る。竹筒にはなんらおかしなところはないが、とてつもなく恐ろしいものに思えてくる。怖いと一度思いだすと、何もかもが恐ろしく思えてくる。

 僕は一刻も早くこの竹筒を手放したくて、もう一度、竹筒を透垣の隙間に差し込もうとするが、出来ない。何だと思うと、その隙間の部分が肌色のふにゃりとしたもので塞がれていた。少しの隙間もなく。

 それは明らかに人の手だった。そのことが誰かの意図をもってこの隙間がふさがれたのだということを、生々しく感じさせる。


 この隙間を塞がれたら竹筒を返せない。つまり返させないこと……それが目的か。

この人は何としても、僕にこの竹筒を受け取らせたいのだ。


……怖い。怖すぎる。竹筒を受け取らせたい、ということはその中の水を飲ませたいということと同義だ。そこまでして僕に水を飲ませたいということは、もしかしたら……本当に僕は殺されそうになっているのでは?ははは……まさかね。

さっきまで冗談混じりにしか考えていなかった一つの可能性がいま、現実味を帯びてくる。


 ど、どうしよう。どうしたらいい?このままここにいたら、殺されずとも何か良からぬことに巻き込まれるんじゃないか?

そんな考えがばかりに頭を支配をされていた僕は、完全に冷静さを失っていた。


逃げなくては。とにかく逃げなくては。そんな考えでいっぱいいっぱいになってしまった僕は、あてもなく走り出した。

出来るだけ遠くに。遠くに。地面の草を踏み分け、木の葉をかき分けて、僕はその場から遠ざかっていく。

透垣の向こう側のことなど、少しも考えないままに。



 ただひたすら走っていくと、木々の向こうから、目を背けたくなるほどの強い光が差し込んでくるのが見える。僕は目を細めながらその光の方へ突き進んでいくと、突然視界が開ける。

そこは偶然にも昨日、惟憲と別れた場所だった。ここからなら、都まで帰る道も分かる。

ここまで来たら、もう大丈夫だろう。

「よ、よかった…」

僕は大空に手を突き上げて、喜びを噛みしめる。そのとき、僕は手に何か握っていることに気づいた。

それは……あの竹筒だった。

「あ……」

 僕はあの竹筒を持ったまま逃げてきてしまっていたのだ。


「どうしよう……」





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〈新〉若紫の君と光源氏になれない僕−桜miracle− いなほ @inaho_shoronpo

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