第4話の下 少女の住む世界


 少女は急いでいおりの中へ駆けていく。その音に気づいて、少女の走る姿を見とがめたのは少女の乳母だった。


「騒々しいこと。そのように乱暴な歩き方はなりませんといつも言っているのに」


 乳母めのととは、生まれた子どもに母親の代わりに母乳を与える人間のことである。母乳を卒業した後も側にいて、子どもの世話をする場合がほとんどだ。やはり乳飲み子のときから側にいるから、その子にとって実の親よりも身近な存在になることが多い。母親を早くに亡くしている少女にとっては、一番長い間一緒にいる人間は乳母だったし、少女は乳母に育てられたといってよかった。そのせいか、他の女房より少々……いや、かなり口うるさいのは、少女にとってうんざりするものだったが。


「ごめんなさい。でも……」

「でも、などと申してはなりません。常に素直で聞き覚えのいいことが、殿方に愛されるために必要だと申しているでしょう」


 またか、と少女は聞き流す。


「水が欲しいのです」


 少女は自然を装う。まるで自分自身が水を欲しているかのように。


「水?そのために走ってきたのですか」

「ええ、まぁ……」

 少女が苦し紛れにそう答えると、乳母は目を細めて言った。


「……また透垣すいがいの近くに行っていたのですか」


 何もかもすべて見透かすような乳母の視線が少女を貫く。


「外で風にずっと当たっているから、喉が乾くんじゃありませんこと?」


 少女は思わずたじろぐが、少女は自分を奮い立たせて、精一杯嘘をつく。


「行っていません」


乳母は少女の言葉に耳を傾けなかった。


端近はしぢかに寄ってはならぬと、いつもあれほど申しているのに……端近どころかおくの外に行くなんて……!なぜそう聞き分けがないのですか!」


 激しい乳母めのとの声に少女はびくりと体を震わせる。

 端近はしぢかとは家の中でも屋外に近い場所のことだ。例えば縁側など庭や垣に近い場所が端近に当たる。透垣は縁側のすぐ近くにあるが、庵の敷地から出ることはないものの、側に行くには外に出ないといけない。女性が軽々しく端近はしぢかに行くことは愚かな行為であり、たしなみのない女のすることだと乳母めのとはいつも少女に教え聞かせてきた。

 少女が普段、乳母めのとの言いつけを破ることは少ない。しかし、少女はこの件に関してだけは頑として譲らなかった。何度叱責されようと、懲りずに透垣すいがいの近くに行くことをやめないのだ。


「はぁ……この先が思いやられます。そのような頑なな性格では、良い殿方とのご縁談が来ても破談になってしまいますよ。いつまでもこの乳母めのとが側にいるとは限らないのです。自分の立場をわきまえ、女人として常に正しい行動をしなければなりません」


 その言葉には少女もむかむかしてくる。


「……そのようなもの、来るわけがありません。わたくしは忘れられた存在です。ここで一生過ごせばよい。……少なからず、お父様はそう思っていらっしゃるでしょう」


「そのようなことを申すものではありません。……姫君、あなたはどこに出しても恥ずかしくないご身分に生まれ、類まれなご器量をお持ちです。あとはそのご性格さえ直せば、どのような高貴な殿方のもとに嫁がれようと立派にやっていけます」


 その言葉を少女は信じなかった。


「……話が逸れました。水を汲んできます」


 少女は、乳母の言葉など今は至極どうでもよかった。少女はとにかく焦っていた。早く、あの人に水を届けなければ。


 少女がそう言うと、乳母は、

「お待ちください。水を汲むなど、姫君のすることではありません。わたくしが行ってまいります。姫君はそこで待っていてください」

 と言って、奥に引っ込んだ。



「待たせてごめんなさい!……これ、水です」

 少女は胸の苦しさを感じていた。狭い庵のなかで人生を過ごしてきた少女は、これまでろくに走ったことなどないのだ。すぐに息が上がってしまうのも無理はなかった。

 少女が透垣の穴から手を伸ばし、水の入った碗を差し出す。この隙間はなかなか小さい。碗をわずかに透垣の外に出すことだけで精一杯だった。


少女がその穴から差し出した碗を、外にいた人が手を震わせながら受け取るのを少女は確認した。

 それをちゃんと飲み終えたのか、少女の位置からは見ることができなかったが、しばらくするとその碗は空になって、透垣にある隙間の位置まで帰される。

「ありがとう……ございます」

 その囁くような声は、少女の耳に辛うじて届くほど弱々しい。


「他にも欲しいものはありませんか?」

「い、今は……ありません。もう少し……ここで休んでいたら、多分大丈夫です」

「本当に……大丈夫、なんですか?」

「はい……確信は、ありませんけど」

 そう伝える声は途切れ途切れだった。必死で声を絞り出している、そんな感じだった。


 これ以上、喋らせることはこの人の負担にしかならない。

 そう直感した少女は、口を閉じて、その場に座る。

 「衣が汚れる」と怒られることも予想できたけれど、どうでもよかった。


 ここなら何があっても、すぐに気付けるから。


 少女は黙って「この人」の側に居続けることに決めた。



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