百鳥さえも 歌うなり


 その日の塾の授業は、あっという間に終わってしまった。がやがやと帰り始める友達を横目に、カバンのポケットに入っているチョコ菓子を手に取る。


 大丈夫。声をかけて、「今朝はありがとう、これ、お礼に」って言って、チョコ菓子を手渡して、別れるだけだ。


 頭の中で何度も繰り返したシュミレーションを、最後に一度だけ反芻する。手に取ったそれを制服のポケット(もちろん、カイロが入ってるのとは別の場所だ)に入れ直して、私は席を立った。




 といっても、すぐに国見と合流するわけではない。彼は授業の後は必ず、わからなかったところを先生に聞きに行く。だから駐輪場で携帯でも見ながら待っていよう。そう、思った矢先だった。


「佐々木さん」

「はえ?」


 予想外の事態に変な声が出た。聞き間違えるはずもない、今の声はあいつのものだ。勢いよく振り返ると、思った通り、完璧に帰り支度を済ませている国見がいた。ちょうどよかった、とポケットに手を突っ込んだその時。


「一緒に帰ろう」



 .........いま、このひと、なんていった?


 予想外に予想外が重なって、私の頭は真っ白になった。そういえば今日は一日中外が真っ白で、いつもと同じ街並みが違って見えたな。雪遊びしたかったな、って、違う違う。


 ぽかんと固まってしまった私の顔を、国見が不安げに覗き込んでくる。何か言わなければ、と声を出そうとしたけれど、緊張と驚きと喜びで声が出ない。どうしよう、とパニックになる私を見て、国見は「あ」と声を上げた。


「もしかして先約が......」

「ううん! 大丈夫、それは、ない」

「じゃあ」

「いいよ、帰ろう」

「うん」


 若干裏返った声で返事をすると、国見はヘラリと笑った。その顔が眩しくて直視できなくて、私は踵を返す。


 外に出ると、また雪が降り始めていた。吐いた息が白くなる。駐輪場まで向かう間、カイロを取り出して揉んでいると、隣から柔らかい笑い声が聞こえてきた。


「それ、朝の?」

「う、うん。これ、ありがとう。あとハンカチも」

「気にしないで、いつも予備を持ち歩いてるんだ」

「そうなんだ。あ、それで......これ、お礼」


 ここぞとばかりにチョコ菓子を渡す。彼は目を丸くしてから、両手でそれを受け取った。


「ありがとう」

「うん」


 辛うじて返事をしながら、私は国見から顔を背けた。今の私の顔、絶対に緩みまくっててカッコ悪いから見せられない。辺りが暗いのがせめてもの救いだ。


 駐輪場から自転車を出してまたがる。コートにマフラーに手袋と完全装備の国見は、私が防寒具のたぐいを何一つ身につけずに帰路につくと聞いて目を丸くしていた。道理で今朝は手が真っ赤だったのか、寒そうで見てられないから手袋を貸すよ、というありがたい申し出を全力でお断りし、夜の街を並んで走り出したわけ、なのだが。


 会話がない。


 そりゃそうだ。チョコを渡したらはいさよなら、のつもりだったもんだから話題なんて考えてない。普段なら、例えば奏子と話す時なんかは、わざわざ話題を考えたりなんてしなくても大丈夫だけど、いかんせん相手が悪い。考えれば考えるほど、何を話せばいいのかわからなくなる。


 信号待ちをしている時にチラリと隣を盗み見る。もこもことマフラーを巻き直しているその姿すらも愛おしくて、やっぱりニヤケが止まらない。私の視線に気づいたらしい国見と目が合ったけど、すぐに逸らしてしまった。


 信号が青になる。私たちは互いを気遣いながら、ゆっくりとペダルを漕ぎだす。


 そのうち、会話がないことへの不安より、一緒にいられる時間が少しでも長くなったということの嬉しさが勝ってきて、少し心の余裕ができた。

 大丈夫。難しいこと考えなくても、話題なんてあちこちに転がってる。私なら、ちゃんと会話を楽しめる。だって、奏子といる時に話題が尽きたことはないんだから。大丈夫。



 私、もっと国見と話したい。



『これが最後のチャンスだよ』と言う奏子の声が、耳の奥で蘇った。


 試しに学校の授業のことで話を振ってみたら、案外すぐに反応が返ってきた。

 学校のこと、塾のこと、受験のこと。

 思いつくままに共通の話題を口にする。

 笑ったり、驚いたり、くるくると変わる国見の表情は見ていて飽きない。そのうち私の調子も戻ってきて、会話はどんどん弾んでいく。


 そうこうしているうちに、小さな公園の前に差し掛かった。背の高いビルが目の前からなくなったことで少し広く感じる空を見上げて、私は思わず呟いた。


「満月だ」


 眩しい月明かりが、街を、雪を、私たちを照らしている。運転中だからまじまじと見ることはできないけれど、それは今年一番の輝きにも感じられて。満月と雪だなんて、なんだか縁起が良さそうだね。確か、そう言おうとしていた。けれど。


「綺麗だね、月」

「うん。.......え?」


 私より先に、国見が言った。その台詞に、どこかで読んだ夏目漱石の言葉が頭に浮かぶ。確かその意味は、と途中まで考えたところで頭を振って思考を止めた。いくら一緒に帰ろうと誘われたとはいえ、流石にそれは自意識過剰なのではないか。というか、それくらいでいちいち期待してちゃ、心臓が持たないぞ。


 でも博学な彼のことだから、きっと漱石の逸話は知っているはずだ。なら、もし、今の言い回しが意図したものなら。

 胸の中の期待が膨らむ。


「今のって」


 あの有名な言い回しにすごく似てるよね。


 そう言おうと振り返った私は、顔を真っ赤にしている国見を見た。私の視線に気づいた彼がマフラーを目元まで引っ張り上げる。それでも隠しきれていない耳の色が、雪の白に映えていて。


「今、の」

「忘れて」

「いや忘れない! 待って、ちょ、国見くん!」


 国見の自転車が急にスピードを上げる。その後を追おうとしたものの、凍っていたらしい地面にタイヤを取られて、私はバランスを崩した。それでもしっかと地面に足をついて顔を上げる。


 遠ざかる背中、焦る心。このままじゃ帰れない、と私はやけになって叫んだ。




「死んでもいいわ!」




 冷たい空気が喉を刺す。口から漏れる白色が空に消える。月の光が一際眩しくなった。


 ああ、なんて陳腐でありきたりで平凡な表現なんだろう。

 それでも、これ以上の言葉を、私はまだ知らない。



 先を行く自転車が急ブレーキをかけて止まろうとして、つるりと滑った。すんでのところで転倒だけは免れた人影がこちらを振り返る。遠くてはっきりとは見えないけど、きっとその顔はさっきよりも赤くなっているに違いない。


 私はにやけ顔のまま、ペダルを踏み込んだ。






【完】


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かすみかくもか 五月女 十也 @mistake-maker

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