焼き鮭

三津凛

第1話

「いらない」


別に、そこの太った焼き鮭に言ったわけじゃない。

焼き鮭は橙色の脂をのっけている。その向こうに炊きたての白米がある。隣にはときたての味噌汁。

湯気って、綿毛のようだ

セーラ服のリボンの硬い結び目は、そのまま社会の拘束を見るようだ。

アイロンのきいたスーツは去勢された動物の滑らかな毛並みを見るようだ。背中だけしか見えない、あのエプロンの解けたことのない結び目は呪いの徴を見るようだ。


「いらない」


別に、そこの太った焼き鮭に言ったわけじゃない。

橙色の脂が膨らんで、皿の淵に溢れそうになっている。焼き鮭はそのまま切り身で海を泳いでいるわけじゃない。肥えた腹わたを掻き出されて、切り分けられた。何億もの子どもたちまで奪われてから、切り身にされる。そうして、焼き鮭にされるのだ。

橙色の脂は水晶のように輝く。それは物言えぬ焼き鮭の最期の涙に見えた。

ときたてだったはずの味噌汁は、味噌が底に沈んで二層になっている。豆腐の面は乾いていた。

新聞がかさこそと鳴る。途端に嫌な気持ちになって、味噌汁をこぼす。

炊きたての白米は、まだ温かかった。汁碗に残った味噌汁に白米を突っ込む。でも何もしないで、白米が茶色の味噌汁を吸って肥えていくのを私はただ見ていた。


「いらない」


別に、そこの太った焼き鮭に言ったわけじゃない。橙色の脂もいつか乾いて萎んでいた。灰色の焦げた皮が、不健康に切り身にはりついている。それはどこまでもついてきて離れない自己嫌悪のようで、怖かった。

箸を挟めないまま、朝食は冷えて固まっていく。

セーラ服のリボンの硬い結び目は、そのまま社会の拘束を見るようだ。

アイロンのきいたスーツは去勢された動物の滑らかな毛並みを見るようだ。

背中だけしか見えない、あのエプロンの解けたことのない結び目は呪いの徴を見るようだ。


「いい加減、食べなさいよ」


初めてエプロンの結び目が振り返る。アイロンのきいたスーツも、そこでようやく動き出す。


「いらない」


別に、そこの太った焼き鮭に言ったわけじゃない。


「せめて、鮭だけでも食べて行きなさい」


「いらない」


別に、そこの太った焼き鮭に言ったわけじゃない。言ったわけじゃない。

エプロンの結び目は振り返ったまま、動かない。アイロンのきいたスーツも、箸を途中で持ったまま動かなくなった。

何か言いたそうだった。


「だって、いらないんだもの」


私は冷えた焼き鮭を見つめながら言った。エプロンの結び目は、焼き鮭の皿を差し替えた。

ふっくらとした、よく肥えた活きのいい焼き鮭だ。橙色の脂を浮かべている。

私は半分泣きそうになりながら呟いた。


「いらないって、言ってるでしょ」


太った焼き鮭に言ったんじゃない。

エプロンの結び目とアイロンのきいたスーツは隣り合って、知らないふりをしている。

私は俯いて、ひたすら脂の溢れる焼き鮭を見つめ続けた。


「あんたたちなんか、いらないのよ」


幸せな湯気が立ち込めて、私の前は見えなくなった。


「今夜は親子丼にしようかしら」


エプロンの結び目は空気を読まずに呟いた。

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焼き鮭 三津凛 @mitsurin12

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