堤防

@isako

堤防

 濠一ごういちの住まう村は大きな河のすぐそばにあった。その河は村での生活において、生命の支柱として不可欠のものとなっていた。村の住人達は河でとれたものを食べ、河の水で身を清め、そして河の流れを引いてきた水路で水田を営んでいた。村では、河を司る土地神の保護によって豊かさが保たれているのだという考えが、広まっていて、季節ごとに、豊作を願いまたそれに感謝する祭りがあった。濠一は、土地神についてそれほどに深い信仰を奉げているわけではなかったが、祭りのときに提供されるご馳走は大好きだった。

 濠一はもともと、村の人間ではない。彼は遠く、東の都から来たのである。彼はまだ自身も幼い頃に、都で罪を犯した父親とともに追放され、流浪人となってあげく、この村に流れ着いたのであった。村の人々は、都で罰によって両目を潰された父親と、幼子であった濠一を受け入れた。

 濠一の父親は、眼こそ見えなかったが、村の人間に知恵を貸してやることができた。彼は、都では商人をしていたのである。その経歴に、ある種盲信に等しい権威を感じた村の人間は、彼に商売について教えを乞うようになった。当時の村の人間が外部の人間と触れ合うのは、ほとんど物々交換をするときだけだった。その際、貨幣による交渉を度々持ち掛けられていたのだが、村の人間は誰一人として、貨幣の概念を上手く理解することができなかったので、村における流通は、物々交換のレベルでその発展を抑圧されていた。そこで彼の知恵が役に立ったのであった。濠一の父親は、丁寧に時間をかけて、貨幣のことを村の人間に教えた。それも特に、村の長を務める人間に、たっぷりと時間を割いて貨幣について教授をした。その男は、貨幣の概念(というより、その有用性についてのみ)を理解したそのとき、濠一の父親の価値を認めた。やがて濠一の父親は、村における商売顧問となった。そうして濠一たちは余所者ながらも、村の中での立場を手に入れたのであった。

 しかし、濠一の父親は自分の息子のさきのことを考えていなかった。父親は息子にその知識や知恵を授けることはなかったのである。父親が死んだとき、濠一は十六歳だった。そのときには濠一は村の雑務を手伝うようになっていた。彼もまた立派な労働力の一つだったのだ。父親が死ぬと、当然、村の商売は滞るようになった。だが濠一には父の代わりすることはできなかった。村の人間は濠一を責めたりなどはしなかった。濠一とて村の一員であり、よく働く男手であり、そして村の商いに貢献をした男の息子なのである。村には、父親の大きな業績に敬意を払う者がたくさんいた。とはいえ、父親が死んだ今、濠一はただの、一人の男でしかなかった。家族もいない。また、彼はもともとは流れ者である。誰も口には出さないが、明らかに濠一は、村における部外者だった。通常の暮らしにおいて、それが表面化することはない。それでも、なにかの折につけて、自身が異人であることを濠一は生活の端から見て取ることができた。それは祭りのときの料理であったり、村で割り振られる共同役務のその内容であったりと、様々だった。濠一はそういった自分の存在に、表しようのない心苦しさを感じていた。だがそれは、言っても仕方のないことであり、そんなことをぶちまけて波風を立てることこそ、むしろ避けるべきことだと彼は理解していた。濠一はそういう世界の中で生きていた。それが彼の生きる世界であり、濠一がどう思おうと、世界は濠一にふさわしいままであるよう彼を拘束していた。そして濠一もそれを受け入れていた。少なくとも、受け入れているつもりであった。


 例年に比べ、比較的暖かかった冬が終わって、春がやってきていた。濠一は河の水温で季節の変わりを実感することができる程度には村に適応していた。ただ村の人間なら誰でもそれはできた。週に一度か二度、温かく柔らかい雨が降った。そしてその後には、河でたくさんの魚が獲れた。村では、それらの半分を皆でわけ(もちろん、濠一にもそれは分配される)、そしてもう半分を保存用として干物にした。

 ところで、濠一の村での仕事というは、死んだ牛や馬の死骸を、皮と肉と骨に分解することだった。

 水が温かくなると、河の水を利用するその仕事はずいぶんと楽になった。水が冷たいあいだは、全ての水作業は、凍える思いで行うことになるから、春というのは、河の水の温かさがもたらす安らぎという側面も兼ね備えていた。

 濠一に解体された死骸のうち、肉は食料になる。皮は女たちが丁寧になめして、革細工になる。骨は河で洗われたあと、これも女たちが綺麗に磨いて、装飾品になる。革細工と磨いた骨は(ときには肉も)この村の商売の種になる。これらを町の人間に売って、それで得た金で、村では作れないものを買う。物々交換が――濠一の父のおかげで――売買になったことで、村は以前よりも裕福になっていた。物々交換では手に入らないものも、貨幣によって手に入れることができたのである。

 今回の冬は暖かかったこともあって、冬の間に一人も死人が出なかった。そのことで村の人々はいつもより陽気だった。その、春の初めあたりの時期は、誰もが普段から穏やかな気持ちでいられた。それは濠一も同じだった。この村では毎年冬に、年寄りか子供かが命を落としていた。今回はそれがなかった。暖かくなってから、「そう言えば誰も死んでないな」という話になって、それが村中に広がっていった。特に祝い事をするということもないが、死人が出ないというのは村にとっては喜ばしいことであった。村は貧しいわけではなかったので、くいぶちの心配をするような状況ではない。村人の死を悲しむだけの余裕があるからこそ、死を内包しない冬はある意味で象徴的であり、彼らはその年にかつてない幸福を予感していた。

 濠一はその年に十八歳になった。彼にはまだ嫁はなかった。他の同い年の男子たちはみな、嫁を貰っていたが、彼にだけ相手がいなかった。村で最も醜い男が濠一より先に嫁を娶ったとき、濠一は自分の出自を悔やんだ。彼は嫁を貰えなかった。それは、彼が余所者だからだった。濠一は健康であったし、顔も悪くなかった。父のような利口さや知識を持っているわけではないが、彼は愚かな男ではなかったし、誠実な青年だともいえた。嫁がいればきっと、彼女を心から愛し、彼女のために日々を過ごしただろう。だがそれは叶わない。彼が余所者だからである。余所者に女をやるなら、それは余ったときでいい。村寄り合いの長たちはそう考えていた。村の中に外の血を入れるのには、正式なルートが存在した。数年に一度、村の若い女数名をよその村の女と交換するのである。彼女たちは、血で言えば濠一と同じ余所者だったが、濠一とは違い、村同士の体制維持と友好存続の象徴ともいえる存在だった。彼女たちは丁重に扱われ、村の一員となる。村の中でも比較的立場の強い家に入り、その家の人間になる。それが、掟であり、慣習だった。村にとって、流れ着いた余所者には果たすべき義理も、守るべき誇りもないのである。

 濠一は一人で、集落の内もっとも中心から離れたところにある小屋に住んでいた。かつて父親とともに暮らしていた家である。村において、家がある――そしてその長である――というのは、そのまま寄り合いの参加権を持っているということであった。濠一は人生の節目で他の村人との差を付けられていたが、基本的な扱いや地位は他の村人とほとんど同じだった。また、村寄り合いへの参加権については、他の若者たちよりも、ずっと早い時期に与えられていた。他に家族がいない以上、彼の為に声を挙げるのは彼しかいない。村の大人たちもそのことを理解していたからである。濠一の後見のようなことをしている稲吉という老人がいて、彼が濠一の寄り合いへの参加を提案した。稲吉は、もし自分が死んだら今度こそ濠一を保護するものがいなくなることを予見していたので、若いうちから濠一に村で暮らしていくことを教える必要があると感じていたのである。当然、気にかけてくれる稲吉に濠一はなついた。稲吉には既婚の娘はいたが、息子はいなかったので、稲吉も濠一をかわいがった。それでも、稲吉が自分の家に濠一を招き入れなかったのは、濠一に一人で生きていくという人生のあり方を憶えさせるためであった。そこを稲吉は説明しないので、濠一はいくら親切な稲吉も、やはり余所者である自分とは一線を引いているのだと思っていた。この悲しい誤解は、永遠に解消されることはなかった。


 とある春の日の、昼時前のことであった。濠一は、他の村人たちに混じって、遠巻きに役人を見ていた。藍染めの美しい衣服をまとったその若い男は、堂々としていて、村寄り合いの長連中の人間による応対を受けていた。彼が今年の村の担当官である。村の人間の数や労働力としての性質を吟味し、また田畑の規模をそれと合わせた条件に含め、村でおおよそどれくらいの作物がとれるのかを推定する。それが税の基準となり、作物の収穫の時期には何度もやってきて、徴収をする。それが彼の仕事だった。    

 濠一は、その年の近い、身なりのいい男を見るたびに、自分と彼との違いについて、思索せざるをえなかった。馬に乗って現れては、村長や村の幹部たちに手厚い歓迎を受ける彼と、村の隅で、牛を解体する自分。二つの間には、絶対の隔絶があることは濠一にもわかっていた。濠一にとって仕事とは、牛の解体と荷物運びの二種類でしかなかった。その役人は、官吏という立場にしては、村の人間に対しても礼儀正しい男であったが、その礼儀正しさがかえって、村の人間と彼との乖離を示しているように濠一には感じられた。彼のような振る舞いと話し方をする人間は村の中にはいない。

 濠一を呼ぶ声があった。それは稲吉の娘で、稲子という女のものだった。稲子は濠一より八つ年上で、村で一番小さな水田を持っている男の妻だった。稲吉が濠一に優しくしてくれるのと同じように、稲子も濠一に優しかった。

「役人さまが来てる」濠一は言った。

 額にかかる前髪を後ろに撫で付けてから、稲子が背伸びをして、人ごみの向こう側を見通そうとしたが、稲子の背丈ではそれはできなかった。稲子がそばに立ったとき、濠一は彼女の汗のにおいを感じた。ボロ着の首元に、汗ばんで土に汚れた肌が覗いている。

「役人さまは、いつもきゅうていで酒ばっかり飲んでるって、お父が言ってたべ」稲子が目を細めて、人混みに隠れて見えない役人を睨みながら言った。

「宮廷にいるのは、都のオダイリさまや。あの役人さまは都じゃなくて、町から来てる」

 都に住んでいたことのある濠一は、ぼんやりとだけこの国の統治システムを理解していた。ただそれは、「役人がいて、もっと偉い役人がいて、そして一番偉いのがオダイリさま」という程度の認識でしかなった。

「オダイリさまってだれ?」稲子が聞いた。

「すごく偉い人」

「役人さまよりもか?」

「そう」

 へぇ。と感心しながら、稲子は相変わらず役人の姿を探し続けていた。彼らにとって、オダイリさまよりも、身近な権力である役人の方がずっと現実的な存在だった。

 やがて役人と村の幹部たちは村長の家に入っていった。普段は寄り合いが行われるその場所は、ときにはふさわしい人間のもてなしにも使われるようになっている。役人が見えなくなったので、野次馬をしていた村人たちはちりぢりになって自分の仕事に戻っていった。

  村長の家の中でどういった会話が行われているのか、濠一にはその想像はつかなかった。ただ自分が、どれだけ歳をとっても、あの輪の中に入ることはできないのだろうとだけは感じていた。寄り合いの隅で、川底に沈む小さな貝のように、じっと呼吸だけをしながら黙り込むことが自分の限界なのだと分かっていた。

「それじゃあ」と言って、稲子も自分の持ち場へ帰っていった。秋から春先にかけての期間、わらじを編むのが彼女の毎日の仕事だった。彼女の手には、温かく乾いたわらの匂いが染みついている。少し前に、偶然だが手が触れ合ったときがあって、なんとなくそのあとの自分の手を嗅いだことで、濠一はそのことに気が付いた。

 一人ぼっちになった濠一は、ふらふらと河原へ向かった。そこが彼の仕事場であった。


 河原では、濠一の同僚である作蔵が待っていた。彼の手には大きな鉈が握られている。

 作蔵は著しいほどの小男だった。彼の短い手足と、その手足と同じくらいの大きさの鉈のせいで、彼の仕事姿はちぐはぐで滑稽だった。さらにあばたの目立つ頬と、極端の斜視を右目に持っていて、作蔵は見た目において激しく奇妙な男あった。それでも、作蔵は村の誰よりも素早く丁寧に獣をさばくことができた。濠一も、牛や馬をさばくやり方を彼から教えてもらっていた。

 作蔵が甲高い声で怒鳴って、遅れてやって来た濠一を責めた。作蔵が大きな声を出す度に、河原で他の仕事をしている娘たちがひっそりと笑った。作蔵は白痴的だった。彼にはどこか、その頭脳に抜け落ちているものがあると、人々は常に感じていた。

「役人さまが来ていて、それを見に行ってた」濠一は言った。

「ほお、そうかい。じゃあ始めるべ。ヤクニンさまも見ていてくださる」

 また娘たちが笑った。作蔵は役人の権威と、神々の権威を混同していた。という認識しかない。彼はもう二十五歳で、寄り合いにはまだ参加していないものの、歳からすれば立派な男であるはずだった。彼の年齢と精神のギャップが、愚者特有の喜劇を生み出していた。

 その斜視の目つきのせいで、作蔵がどこを見ているのか、慣れないものには分からないのだが、濠一はそのとき、どうやら作蔵が自分を笑う若い娘たちの方に注目を向けているらしいことを、彼の狂った目線から読み取った。

「濠一、聞こえっか?」作蔵は声を潜めた。

「娘っ子たちがわしのことを見て笑ってるべ」それを聞いて、濠一はどきりとした。

「最近よくあるんだが、村の若ぇモンが、よくわしのことを笑っとるんじゃ。初めは、わしのことをと思ったがどうも違うらしい。お前何か知らんか」

 濠一は、知らない、と返した。

 ――ほお。そうかい。全くの無邪気で作蔵はそう言った。二人は作業を開始したがそれきり、そのトピックに触れ直すことは一度もなかった。

 生命の残骸を分解し、人間社会に還元するのが彼らの仕事である。


 作蔵は嫁を貰っている。というのもその嫁が稲子である。作蔵が十五のときに、二人は夫婦になった。二人の間に子はない。それは、作蔵のせいなのか、稲子のせいなのか、誰にも分からないが、とにかくそれでまた、作蔵は笑われている。子も成せない白痴であると。子供の話をすると、作蔵は激怒した。それは癇癪かんしゃくに近いものだった。作蔵のような小男が何を言おうと誰も気にしなかったが、ただ彼があまりにも不憫であるので、皆が彼に気を使っていた。そういう優しさよりも彼に感じる滑稽さが勝ってしまう若い村人だけが、彼を明確に嘲笑したのであった。

 濠一は二人を見ていて、いつも思った。おれは違うと。おれは白痴でもないし、種無しでもない。もしおれが、稲子の夫なら、絶対に稲子はおれの子供を産んでいるだろう。おれなら稲子に気まずい思いをさせはしない。作蔵じゃだめなんだ。おれならきっと稲子を幸せにできるのに。どうして稲子は作蔵の嫁なんだろう。どうしてこの男に女がいておれにはいないんだろう。それは分かりきっていることだった。濠一が余所者だからである。濠一が悪いのではない。濠一はただそうであるだけで、そしてまたこの村がただこうであるだけだった。しかしそれが濠一には苦痛であった。彼が余所者であるだけで、彼には嫁がいない。それは村の長たちが決めていることだった。濠一には嫁は要らないのだと、そう決まった。それは濠一の意思とは全く無関係のところにある決定だった。異なるのだから分けようというのだ。誰かが彼にそう言ったわけではないが、そういう暗黙の了解を、彼は村の雰囲気から察していた。

 なぜ子供は作れないし、白痴一歩手前の作蔵には稲子がいて、おれにはいないのだろう。おれの方がふさわしいはずなのに。なぜ稲子はおれのものでないんだ? 濠一は日々、それを自問していた。


「濠一!」夜明けすぐの雄鶏の如く、作蔵は鋭い声で叫んだ。

 濠一ははっと我に返った。そして握っていた鉈を素早く牛から引いた。鉈は深く牛の脚にその刃をうずめていて、骨にまで切り込んでいた。これでは刃が傷んでしまうし、骨も削れてしまって、あとで値段を取り決めるときに不利に働いてしまう。あるまじき失敗だった。

「ああ! 呆けてやがった! 呆けてた!」作蔵は嬉しそうに囃し立てた。

「すまん。気を付ける」濠一は不注意を詫びた。

「肉をさばくときは、そのこと以外考えちゃいけねぇんだって、昔から言ってらぁ!」作蔵はそう言うと自分の作業に戻った。彼が抱え込んでいる牛の脚は、見事にその肉がそがれている。むしろの上に、既に切り取った肉が丁寧に並べられていて、それは濠一の捌くどの肉よりも滑らかな切り口をしていた。一方、濠一の方は切り口が醜く歪んでいて、このままでは後で、皮を剥いで洗ってから鞣すときに、端の歪んだ部分だけは切り取って捨てなければいけない。逆に言えば、作蔵の手にかかればそう言った余分をなくすことができた。


 牛の解体については、この村において作蔵に口を出す人間はいない。彼のやり方と技術が最高で、それ以外は必要とされていなかった。そして、村の人間は、濠一がそれを継承することを望んでいた。それは期待であり、またある種の圧迫として濠一を追いつめた。毎日、すぐそばで彼の技術を見ている――そしてまた、彼からの指導を受けている――濠一には、自分では作蔵の解体技術を完全に継承できないことが明らかだった。作蔵は天才でだった。彼は牛や馬の個体それぞれの違いを一目で見抜いて、刃を差し込むべき筋を見つけることができた。それは経験の蓄積や知識の活用で至ることのできる境地ではなかった。彼自身、自分の作業を言語化したり体系化したりして伝承させることはできないだろう。他の誰だってできない。それは彼の技術は彼の感覚の中にしかない世界だからでもあり、また、彼の知能が先天的な問題として著しく低いせいでもあった。

 物覚えが悪く、膂力りょりょくや体力もない。何をやらせても並を大きく下回る結果しか残せない上、あの白痴的な性質のせいで、作蔵は十五のときに村から放逐されかけた。そこで彼を救ったのが稲子であった。彼女は、村長に請願した。村の全ての仕事を試させて、それで作蔵がなにもできないとわかってから、追放を考えてくれと。稲子の頼みは、寄り合いの参加者であり、彼女の父でもある稲吉の協力もあって、村長に認められたのである。作蔵は、村の仕事全てを試させられることになった。それは、寄り合い業務を除いたすべての作業、つまり、普段は女にやらせていたような仕事も作蔵に従事させるということであった。そして彼は今の仕事に、半ば諦められているような状態で巡り合った。それが弊牛馬処理の仕事であった。その仕事は村の中でもあまり歓迎されているものではなかった。これは通常、家ごとの持ち回りでやる仕事だった。だが、死骸の解体という仕事は、死穢しえに直接触れるものであるので、どこの家も、あまり進んで受け持ちたがる仕事ではない。そういう事情があった。もちろん、作蔵はそんな事情は気にしなかった。気にしないというよりも、知らなかったし教えられても理解できなかった。そして、ひとたび彼が鉈を握って、牛の亡骸の前に立つと、誰に教えられるでもなく彼は適切に身体を動かし始めた。ずっと昔から、それだけをやって来たとでもいうように、必要なものと、そうでないものを取り分けることができた。彼には、きっと、それらの死骸の部品がどういう用途で使われていくのか、全く予想もつかなかったはずである。大人が二人がかりで半日をかけ済ませる作業において、作蔵は一人でとりかかり三時間で終わらせた。初めて鉈を握ったその日の出来事であった。 

 そうして、彼は、村での居場所を手に入れた。子供たちが、彼をあざ笑おうと、彼には村の中での存在価値が確かにあったのである。

 だが一方、濠一にはそれがなかった。濠一は白痴でもなければ、人並みに働くことができたし、寄り合いに参加しても、そのあり方をすぐに理解して自分のいるべき場所とすべきでないことを察することができた。それでも、濠一は自分が作蔵よりも社会的に、その評価として劣っていると感じざるを得なかった。濠一が村に留めておいてもらえるのは父の功績のおかげでしかない。また、その父が死に、濠一が彼一人になったときには、彼は作蔵の助手としての業務を与えられた。それは、彼に動物を解体する能力やその素質があったからというわけではなく、ただ他にさせることがないのと、誰かが作蔵のあとを継いでくれれば、作蔵が居なくなっても、弊牛馬処理を高レベルの完成度に維持できて、さらに、また持ち回り制の仕事にしなくて済むからであった。

 濠一の劣等感には、田の問題もあった。濠一は流れ者故に自分の土地を持たない。彼には、田畑を耕し、自分の食い扶持を生産することさえできない。それはつまり、他の村人たちから食料を分けてもらっているわけで、税の供出にも一切貢献できていないことになる。ところが、作蔵は田を持っていた。村では最も小さな田ではあるが、それは確かに毎年米を生産して、彼と、その妻である稲子を養い、そして納めるための米を供出していた。作蔵は弊牛馬処理のかたわら農作業を妻との二人三脚でこなし、村での役目を果たしていたのだ。濠一も自覚してある通りに、明らかに彼と作蔵では社会的な承認についての格差があった。どうにも埋めようのないその格差を、濠一は羨ましげに見つめることしかできなかった。村中の人間から見下されている作蔵にさえ、自分が劣っているという感覚は、濠一の自尊心を蝕むかたちで、深くその根を下ろしていた。

 そして濠一はまた、そういった感情と同時並行して作蔵を――もちろん、友として――愛していた。作蔵は、その知能の問題上も関係していたのだろうか、豪一が余所者であるという事実について、それを知ってもなお、扱いを区分するという発想を持たない人間だった。つまり、彼こそ純粋に、濠一と他の村人を平等に扱ってくれる唯一の人間だったのである。稲吉や稲子も、濠一に親切にしてくれる素晴らしい人たちであったが、その奥には、濠一への同情があるのを、濠一自身が感じ取っていた。作蔵は一切の遠慮なしに濠一を友として迎え入れ、そして仕事においては、善き師として彼を導いた。濠一にとって、作蔵はかけがいのない友であった。濠一は作蔵を深く羨み、妬むのと同時に、彼を愛していた。この相反する感情は、時として濠一を苦しめた。もしも、自分が稲子に思いを寄せていることを作蔵が知ったなら、作蔵は激怒して自分を糾弾するかもしれない。そんな風に考えることもあった。


 解体作業が終わり、濠一は骨についた血と小さな筋を洗い落としていた。河の水に骨を浸けると、そこから赤く血がにじみ出ていく。何かどす黒い感情のようにその赤は周囲の水の色を染め上げ、下流の方へ流れていった。細かな筋が取れたら、次の骨にとりかかった。

 四時間で解体が終わり(作蔵一人でするより、二人でする方が時間がかかる)、すべての後始末は終わった。牛は完全に骨と、肉と、皮に分かれた。骨と皮は女たちが待つ広場に運ばれ、肉は二人で取り分を切り分けてから、村長のところへいく。そこからまた、村中に分配されることになる。処理を担った濠一と作蔵は、特権的に肉の好きな部位を手に入れることができる。作蔵は牛の尻の肉を好んだ。濠一は腹の肉が好きだった。


 村の中心にある広場(とってもただ広いだけの空間)のすぐ近くに村長の家はあった。彼の家は濠一のそれよりもずっと広い。まず部屋がいくつか分かれているし、床には畳が敷いてある。この村でちゃんと畳があるのは村長の家だけだった。濠一も既に何度か寄り合いで村長の家に出入りしているが、そこは濠一の小屋とは明らかに違う空気で満たされていた。そういう、濠一にとってはほとんど異界にも思える空間に、今彼はいた。

 彼を取り囲むかたちで、村の顔役である村長と、その側近的立場の幹部たちが輪を作っている。最も年長なのが村長で、彼はだいたい六十歳ほどであった。幹部は全部で四人いて、上は村長と同い年、下は村長の息子で四十五歳だった。彼ら五人が村を実質的に取り仕切るメンバーだった。寄り合いには他にも二十数名の男が参加するが(濠一はそこに含まれる)、やはり大いに力を持つのは、幹部と村長の五人である。そういう、村における政治的な人間たちが、濠一を一人呼び出し、ほとんど密談に近い場を作り出していた。もちろん、濠一はひどく緊張していた。

「そんなにかたくならんでええ」幹部らの中で最も若く、また村長の息子でもある武生たけおが笑って言った。

「へえ」濠一も笑って返すが、その笑みはぎこちなく、ひきつっている。また、彼はそれを自覚して顔を赤くした。

 村長が幹部の一人を見た。何か目配せをして、合図を送ったようだった。その幹部は頷いて、濠一の名を呼んだ。濠一はきっと背筋を伸ばして、彼の方に向いた。もしも、この村を追い出されるような話であれば――。彼は胃臓が激しく縮むのを感じた。

「濠一、おめえ、このところはよくやっとるそうだな」幹部が言った。

「はぁ、あ、ありがとうございます」濠一は少々どもりがちに返した。

「親父さんが死んでもう二年か。身寄りもないのに、おめえはこの村で懸命に働いてくれておる。作蔵とおめえが、牛を捌いてくれるから、わしらの生活が保てているといっても、大げさではなかろう。わしらは感謝しておる」

「そんな、おれはこの村でいたいから言われた仕事をやっとるだけです。余所者のおれを、こうして置いてくれてるだけで……」

「お前を余所者だとは思っとらんぞ」別の幹部が口を出した。他の幹部たちも、口々にと声を出す。濠一は俯いて、少し顔をしかめた。

「いや、濠一はまだ、ほんとうにわしらの仲間というわけではない」

 そう言ったのは村長だった。濠一は顔をあげて、彼を見た。村長は険しい表情で濠一を見つめていた。彼を畏れた濠一は、ふっと目をそらした。

「濠一、この場は寄り合いではない。お前の気持を聞くために、わしらが勝手に集まり、お前を呼んだだけだ。だから、今ここでは、お前が思っていることを言ってよいのだ。全てをわしらの胸の内にしまうと約束する。ここで言ったことは、その全てが他言無用となる」

 濠一は、それを聞いて息を呑んだ。そして、ぐっと唇を噛み込んで、口を一文字に結んだ。彼の頭が、静かに沈んでいく。武生が諭すように彼の名を呼んだ。濠一は自分の眼に涙が浮かび始めているのを感じていた。

「嫁が欲しいです。おれには、まだ、嫁がいない」震える声で濠一は絞り出した。武生の嘆息する声が聞こえた。やはりそうであったか、とでも言わんばかりだった。

 濠一が思いを人に打ち明けたのはそれが初めてであった。彼は今まで、この村の人間すべてが自分を異視していると思っていたし(それはあながち間違いではなかった)、そうであれば、なおさら、自分が彼らの望む以上の領域に踏み込んでいった場合、いつ排外意識が表面的になるか分からないという不安があった。濠一は、村の人間に気に入られるように努め続けることが、自分の村での生活、すなわち安定した生活を保ち続けるための絶対の条件だと考えていたのだ。おかしな欲をさらけだして、「余所者のくせに」と思われたらならそれで、一つ立場が危うくなる。そのように彼は意識していた。だから今までは、本当の気持ちはおくびにも出さなかった。嫁を貰えないどころか、村を追い出される不安にも、濠一は怯えていたのだ。もし、村の中から――何かの事情で――仲間外れが選出されることになるとすれば、自分が選ばれるだろう。そのようにも彼は考えていた。

 ふぅむ、と村長は自分の顎を撫でた。穏やかに目を閉じて、何かを思考している表情をしていた。幹部たちは静かにそれを見つめていた。濠一もそうだった。ただ、まだ顔の紅潮と目の潤みは収まっていない。この告白は彼にとって、それだけ大きなことだったといえた。

「今日ここにお前を呼んだのも、実はそのことについてであった」村長は仰々しく言った。周りの連中もそれに合わせて頷いた。何度も。

「お前は村のためによく尽くしてくれている。お前の頑張りは、なにかの形として、認めてやるべきだという話があるのだ。これはわしらの中だけでなく、寄り合いに参加できない村の仲間からも、それぞれにそういうことを言う者がおる。おのおのが、こっそりとわしにそれを伝えていった。わしはそれらを聞いて、これは濠一の扱いを改めねばならぬと感じた。そうして今、わしらはここにおるのだ」

「つまりだな、濠一よ」武生が、彼の父の考えを端的に言った。

「お前に、嫁をやってもよいということになった」


 濠一は今までにない喜びを感じていた。それは、牛の解体の技術向上を実感したときよりも、祭り事のときのご馳走よりも、なによりもましてずっと嬉しいことだった。濠一の人生において、何かが付与されたのは本当に久しぶりのことだった。父を亡くしてしてそれ以来、彼はまともに何かを得た記憶がなかった。一人になってからは、失うこともなければ、得るものもほとんどない、平坦な道をずっと歩いていた。だが、歳を経るにつれて自分の村での立場をしっかり認識するようになっていくと、その平坦な道は平らながらも、ほんの少し下っているし、村の他のみんなと、ずれたところにあるのに気が付くようになっていた。だからこそ、青天の霹靂ともいえる村長の提案は、彼の心を激しく躍らせた。彼が真っ先にその喜びを共有したいと思ったのは、稲子の父親であり、濠一の後見をしている稲吉老人であった。

 稲吉は濠一から事を聞かされると、濠一同様に大いに喜んだ。実は、村長に請願をした者たちの一人は、稲吉であった。稲吉こそ濠一の行く末を最も真剣に案じてくれる存在だった。稲吉は濠一の婚姻における祝いの席の場で、上等の酒を用意すると彼に約束した。 

 ――村のみんなを呼んで、お前がちゃんと、村の一員として家を持つということを教えてやるのだ。と老人は息まいた。濠一は嬉しくて、何度も頷いた。また涙が目に溜まった。嬉しくて泣くというのは、彼にとって初めてだった。その晩、濠一と稲吉は二人で語り明かした。祝いの場に並べる御馳走のこと。いざ嫁をもつとなると、気を付けておかねばならないことがいくつかあること。そしてそのうちでも重要なものを逸してしまえば、夫婦の関係が崩壊しかねないということ。稲吉がそれを一つ犯してしまって、稲子の母にとんでもない目にあわされたということ(稲吉は決して、犯してしまったことのその内容について語ろうとはしなかった)。

 そしてふと、稲吉老人が尋ねた。「それで、いつ、誰を、嫁にもらうのかね」

濠一はそれに答えることはできなかった。

 濠一への婚姻許可が下りた話は、村中に広がった。しかし、実際に濠一がすぐさま嫁を貰うというようなことは起きなかった。自分の娘を濠一にやりたいと思う人間は一人もいなかったのである。濠一に嫁を与えることに反対した人間は一人もいなかった。だが、あえて、濠一に家を任そう考える人がいないのも当然であった。濠一は田も畑も持たない。財産は村のはずれのボロ小屋のみ。そしてなにより、未だ濠一への差別意識は、村の住人の中に染みついたままなのであった。濠一は何も変わらない現状に失望した。そして、またそれにも慣れてしまった。嫁のことは、あまり考えないようになった。そうする方が、気持ちが楽だったのである。


 春もそろそろ終りという時期だった。少しずつ、空気が熱気を帯び始めていた。このところは雨が少ない、濠一は空を見上げそんなことを考えていた。だが、田を持たない濠一には、空模様のことを考えても仕方がないという自虐的な観念が付きまとっていた。彼の仕事は、死んだ牛と馬を解体するだけだった。それは雨だろうが雪だろうが変わりなくやってくる仕事だった。冬は、肉が凍らないうちに捌けばいい。気にするのはそのくらいだった。  

 濠一は自分の、村での立場を考えないようにするのと同じように、他のあらゆることにも無思考的、非思考的になっていった。あからさまに気力を失った濠一を見て、彼に親しい人たちは、彼のことを心配した。

 村にまた、役人が来ていた。春に来たのと同じ若い役人だった。毛並みのいい馬に乗って、三人組でやってきた彼らは、まず少し、村の幹部たちと簡単な挨拶を交わしてから、村長の家の中に入っていった。その一連の流れを、濠一や他の住人達は不思議そうに見ていた。今までに、この時期に役人が来たことはなかった。彼らは、田畑の検地の時期と収穫の時期にしかやって来ないはずだった。今年の検地はもう済んでいるし、まだ収穫の時期には遠い。そういう時期に役人がやってくることに、住人たちはなにかしらのイレギュラーを想像したが、会談の内容が公表されることはなかった。幹部たちは村において強大な権力を持っていたが、あくまで彼らは村のために尽くしていた。そういう実績や、印象もあったのだろうか、村の中で異議を唱える人間はなかった。彼らは信頼されていたのである。

 役人が帰っていったあとのことだった。その日は捌くための死骸がなかった。牛や馬の死骸は、近くの農村や町から運ばれて村の前に捨て置かれる。それがあれば濠一と作蔵の仕事があるし、なければ河原での仕事はない。だから、その日濠一は、他の家の農作業を手伝っていた。村の人間の役に立つことが、村における自分の存在意義であるという、強迫的でもあった濠一のその意識は、村での業務について、彼を懸命にさせた。その努力は、仕事の成果という形で実を結び、雑用務を任せることにおいて濠一は一定の評価を得ていた。ただし、それが彼への差別意識を改善させるよう働くことは決してありはしなかった。その日も濠一は、自己保存のため懸命に働いていた。

 遠くから、若い男が一人駆けてきた。おぉい。おぉい。と誰に呼びかけるでもなく、ただ注目を集めるための大声を叫んでいる。彼は、村中を駆け回ってきていたようだった。誰かが、なにごとかを尋ねると、彼は興奮交じりの震えた声で、唾を飛ばした。濠一も、その言葉を耳にした。

 ――

 濠一は作業を中断して、河原へ駆け出した。

 河原では既に、作蔵が数名の男たちに取り押さえられていた。砂利の上に頬を押し付けられている。彼は獣のような唸り声をあげてもがいていた。「」そう叫び続けている。今にも破裂しそうなほど紅潮した顔面からはあらゆる体液が噴き出していた。その醜さがいっそう、彼を人間から遠ざけているように濠一には思えた。

 野次馬がたくさん集まってきていた。事情は分からないものの、その異様な雰囲気を皆が感じ取っていた。そして多くの者が薄ら笑いを浮かべている。

 濠一は思わず作蔵のもとへと駆け寄った。作蔵を取り押さえている男を一人突き飛ばして、「やめろ」と怒鳴った。濠一が作蔵の身体を支えて、彼を立たせた。作蔵は未だ、「わるくない、わるくない」と呟き続けている。

 突き飛ばされた男が、起き上がって濠一に掴みかかった。

「てめぇ、よそもんのくせに」

 そう言われて、ついに濠一も逆上した。作蔵を抑えていた男たちと、濠一とで乱闘騒ぎが起きた。抵抗もむなしく、濠一は袋叩きにあった。ついでに作蔵も叩きのめされた。リンチは武生が止めに入るまで続いた。


 濠一が他の家の農作業を手伝っているその時、作蔵は河原で茫然として時間を過ごしていた。その日は解体すべき牛や馬の死骸が無かったので、彼は暇を持て余していた。巨大な頭部と、小さな身体の作蔵が、河原に腰かけその流れを眺める様は、奇妙な雰囲気を作り出す情景でもあった。濠一であれば、手が空いているときには、自然とどこからか声がかかってきて、解体の仕事がないときでも何らかの手伝いをしているのだが、作蔵に何かを手伝わせようとする者は村にはいない。作蔵は弊牛馬処理以外の仕事は、一切まともにやりきることはできない。それはずっと前から分かり切っていることだった。自覚のない、不名誉な余暇を抱えた作蔵は、河の流れに耳をすませ、きらめく水面を彼の斜視に映していた。傍から見れば、白痴の呆にしか見えないその姿であったが、彼の中では、一つの思考が行われていた。そのとき彼は、自分の仕事のことを考えていた。頭の中で牛の処理をシミュレートしていたのである。だがそれは自身の能力向上のためではなかった。

 彼の技術は、これ以上ないレベルにまで達していて、作蔵自身もそれを悟っていた。ただそれは漠然としたイメージでしかなく、自分がこの分野において最高水準に至るまでの技術を身につけている――などという自尊は一切含まれていない。本当にただぼんやりと、というくらいの認識だけを感じているのだった。決してその感覚はネガティブなものではなく、転がる岩がふさわしい場所でその回転を止めるように当然の帰結であるとして、作蔵は受けていていた。水が流れるのと同じように、人がやがて死にゆくのとおなじように、自分の技術はその成長を終えた、と。言語や概念ではなく、感覚でそれを悟っていた。

 それゆえ、彼にとって重要なのはその技術を濠一にもれなく伝えることだった。自分には牛や馬を捌くことしかできない。そう思ってきて――また周囲に言い聞かされてきて――ただ無心に畜生の死骸を解体し続けていた。そうしていると、いつの間にか隣で自分に教えを乞う少年がいた。何かを教えられる経験はあっても(そしてそのほとんどは作蔵には理解できない)、人に何かを教えるのは初めてだった。作蔵には、自分がしている作業を言語化して濠一に伝えることはできなかった。作蔵の作業を見て真似させるしか、教える方法がない。作蔵は既知の、あのおなじみの壁にぶつかった。。それは作蔵が生まれてから、ずっと彼の人生を縛り続けてきた呪いだった。物心ついて、自分と他人との境界が生まれたそのときから、一度も拭われたことのない劣等感だった。だがしかし、今回だけは事情が違った。弊牛馬処理は作蔵にとって唯一の心の支柱であり、彼はこの仕事について一切、妥協を認めたくはなかった。自分にしかできないことを他人に教える必要がある、という課題が、作蔵にとって革新的な契機となったのである。作蔵は、なんとか自分の感覚と技術を濠一に伝えるために、それらの全てを一連の概念として体系化しようとしていた。作蔵は自分のやり方を、突き詰めていけばいずれ、システマティックに解説できるだろうと予感していた。それは言葉で説明することが不可能でも、少なくとも、実演しながら、「こうであるときはこう」と場合と手段に分割された指示を出せるような感覚だった。もちろん、そういう言葉の思考があったわけではない。彼の中で、焦点の合わなかった映像が少しずつ形を固めていって、最も見えやすい鮮明さに収斂していくような感覚を必死でつかもうとする作業が行われていたのである。これは、作蔵にとって革命的な出来事であった。

 そうやって河原で一人、作蔵は思索を続けていた。河の流れを見つめていた目は、彼自身も気づかぬうちに、閉じられていた。目を瞑り、手を動かし、彼は今までの数百体の獣たちの死骸を思い浮かべ自分のやってきたことを表現するための形として落としこもうとする作業に没頭していた。既に数時間、彼は河原の、座るのに程よい大きさの石の上に腰かけている。

 すると、かすかに鼓膜を撫ぜるように、人の笑う声が聞こえてきた。作蔵は初め、聞こえはしたものの特にそれを気にすることはなかった。なんといっても彼は今、頭の中での作業に夢中になっていたのである。喉の渇きも空腹も、感じないほどに集中していた。しかし、しばらくすると、再び風に流れて笑い声が聞こえてきた。女の声だった。そしてそれは一人ではなく複数のものであった。これには、作蔵の思考も中断させられてしまった。目を開けて辺りを見やると、村の娘たちが数名、作蔵に距離を置く場所ではあったが、明らかに彼を意識した視線を向けてくすくすと笑っていた。彼女らは、口元を隠して、粘っこい笑い声を漏らしていた。作蔵の視線に気づくと、今度はとせわしなく騒ぎ始めた。それは作蔵にとって、決して心地のいいものではなかった。彼にはうまく表現できなかったが、彼女たちの振る舞いからよくないものを確かに感じていた。

 作蔵は立ち上がって、娘たちのところへ向かった。彼はそのとき、ちょっとした全能性さえ感じていた。それは先ほどまでの――彼にとっての――革命的な思索のためだったかもしれない。

「なんで、笑っとるんだ」作蔵は言った。

 作蔵が、憤然とした表情で彼女らの前に立ったときには、もう娘たちは笑っていなかった。彼女たちにとって、作蔵はいつまでも自分を客観的に見ることができない白痴であり、彼が自分たちの世界の中に侵入してくることなど、ありえないことだったからである。娘たちは、本来存在しない檻の中から出てきたものに対して、原始的な恐怖を感じていた。

「お前たちは、なんでわしを見て笑っとるんだ? そんなに、わしは面白いのか」

 作蔵は怒鳴り散らした。今まで、明確な形を持たなかった娘たちへの――そして自分以外への――ネガティブな感情が、あふれ出した。娘たちのうち一人がついに泣き出した。また、別の一人は駆け出してどこかへ消えた。

 娘たちは何を言うでもなく、顔を凍り付かせて固まっていた(泣いている一人を除いて)。作蔵も一度怒鳴ったはよいものの、そこからどうすればいいか分からなかった。彼は白痴的ではあったが、暴力に訴えることを決して善しとしない信念を持っていた。

「いかなるときであれ、乱暴を禁ずる」それは既に死んだ作蔵の父が、彼に言い聞かせ、覚え込ませることができた唯一の信条だった。白痴である息子が、いつか感情にまかせ村の人間を傷つけることがあれば、必ずそれをきっかけにして、作蔵を村から排他する動きが起きることを予見しての教育だった。作蔵の心に深く刻まれたその命題は、父の死後も、彼の衝動的な感情の発露を厳格に制限する審級として在り続けていた。そしてこの時もまた、彼は父の言葉に従い、暴力に感情を任せるようとする己を律していたのである。

 作蔵はしばらくのあいだ娘らと睨み合っていた。作蔵の、困惑と怒りの混在する表情と向き合うことで、娘らも、作蔵に危害を加えるつもりがないことに気が付いた。そしてまた、彼はただ、自分たちが彼に対して行っていた嘲笑に腹を立てているだけのだと、わかった。

 もうあと、数秒で、一人の娘の口から、謝罪の言葉が出てこようというその時だった。村の方から男が数名、駆けてやってきた。尋常ではない顔つきである。その熱意に気圧され、唖然として作蔵は彼らを見つめていた。そして男たちは作蔵のもとへ辿り着くやいなや、先頭の者が作蔵を打ち倒し、組み伏せた。娘たちはみな涙を流し、安堵に泣き叫び始めた。それからは濠一の知る事情と同様である。

 事実は全て、偽りなく裁定者である村長に伝えられた。娘たちは嘘をついて誤魔化すようなことはしなかったし、唯一、悪意を以て作蔵を陥れようとした、村の男たちを呼んだ娘と、激情に駆られ、作蔵と濠一を叩きのめした若い男たちは、厳しく叱られることとなった。だが、この一件が村に残したのは、濠一と作蔵に対する明らかな異視だけだった。


 雨期が近づいてきていた。この時期の雨が、田畑を潤すことで、村の作物を支える重要な要因であることは村の共通認識となっていた。田を持たない濠一でさえ、例年、この時期には雨の到来を気にしていた。雨が降らなければ、作物はうまく育たず、一年が破滅的なものになりかねない。ただ今年において、彼には無心に雨を待ち続けられるほどの心の余裕はなかった。気にしないようにしても、ふと若い女を村で見かけると、どうしても自分の境遇をみじめに感じざるを得なかった。無気力を振る舞っても、井戸の底から湧き出てくる水のように、彼の欲望はまだ尽きることはなかったのである。

 雨期が迫るにつれ、村には件の役人が頻繁に訪れるようになっていた。村の人間は彼の来訪を歓迎するでもなく拒むでもない。濠一も遠巻きに彼を見ているだけだった。

ただ一度だけ、濠一が役人と接触(と呼ぶにはそれは余りにも淡白なものであったが)をもったことがあった。役人と武生が、話をしているのを見ているときのことだった。村長の息子であり、寄り合いの中心人物である武生は当然、役人ともそれなりに親密な関係を持っていて、濠一が見るに、村の中では、彼が最も役人に親しく振舞っているようであった。武生と役人の二人が村長の家の前で話しているとき、会話の途中で、武生が濠一を指さした。そのとき濠一は他の村人の中に混ざって役人を見物していたのだが、自分に注目が集まったので非常に驚いた。役人は武生の指に沿って視線をゆっくりと動かし、濠一を見た。濠一は役人と目が合うことが畏れ多く、目線を下げてしまった。それでも一瞬だけ彼と目があったが、その短い時間では、役人が何を考えているのか推し量ることはできなかった。濠一が視線を戻す頃には、役人は武生に向かい直っていて、やがて二人はいつものように村長の家の中に入っていった。そうなると、村人たちも毎度の如く解散して自分の持ち場へ戻った。

 それからは、役人は来たとしても、彼が濠一を見ることは一切なかった。次第に、あれは武生が何かの雑談の種に自分のことを話したのだろうと、濠一も辻褄を合わせて気にしないようになった。


 その日は、雨が夜明け前から降り始めていた。それは激しい雨だった。村の子供たちは雨に歓喜し、村の広場を裸足で駆け回っていた。これで今年も作物に期待ができるという安堵か、大人たちも穏やかな表情でそれを見守っていた。濠一が雨の中、仕事道具を背負って河原へ向かうその途中で、武生が彼を呼び止めた。武生は言った。「今日はやらんでええ」

 濠一が理由を尋ねると、武生は神妙な顔で彼を手招いた。どこかへ連れだすようだった。大人しく武生についていくと、案内されたのは河原だった。堤防を登り、河川敷へ降りようとしたとき、濠一は驚きのあまり、そこに立ち尽くしてしまった。

 河が濁流と化していた。それは普段、濠一や作蔵が作業を行う砂利の河川敷部分にも浅くではあるが及んでいて、土色に濁った暴力的な流れが河を満たしていた。

「今朝がたは牛を運んでもおらん。河の作業は、今日は無理じゃ」武生はそう言った。

 濠一はただ茫然と、その河の異常を見つめるばかりであった。


 同日、夜更けのことである。濠一の小屋の戸を叩く音があった。

 濠一は既に寝入っていたが、次第に強さを増すその音で――来訪者がしびれを切らし小屋に侵入する前に――目を覚ました。恐る恐る戸を開けると、そこにいたのは武生であった。やはり雨は降り続けていて、彼は静かに濡れたまま、ついて来い、と小さく言った。武生の様子からなんらかのイレギュラーを感じとった濠一は、大人しく黙って(それは寄り合いのときの彼の振る舞いと全く同じだった)、彼についていった。そうして濠一が連れていかれたのは、村長の家だった。

 その大部屋の中は一切の明かりがなかった。夜の村は月明かりしか頼りにできない。その空でさえ、今宵は雨雲に覆われていた。村長ならば、灯をともす油を用意できたはずだが、それをするつもりはないようだった。濠一は奇妙さと同時に、不気味な何かを予感していた。どうやら人の気配がするのだが、自分と武生のほか、誰がそこに同席しているのか、濠一には分からなかった。雨の音は、部屋の中にまで入りこんできていた。

「寝入ったとこすまんな、濠一」武生が抑えた声で言った。濠一がそれに返事を返そうとすると彼は、「いらん、いらん、」と言葉で制した。黙ってきいとれ、と優しく濠一に言い含める。

 濠一はわけの分からぬまま、沈黙を保ち畳の上に座っていた。

 暗闇の中から、声が聞こえ始めた。濠一の眼はまだ部屋の闇に慣れていない。それは村長の声のように濠一には思えた。声は語った。


 昨晩より降り始めた雨は、今もなお、降り続いている。河の水嵩は、器に水を注ぐように増え続け、このままでは、堤防の頂点に達する恐れがある。そうなればあの濁流が溢れ、村に流れ込み、我々の生活は死に追いやられることになるだろう。


 声がそう言うのを聞いて、濠一は濁った水に破壊される村を想像した。雨に濡れていた身体が、その寒さに、一度ぶるりと震えた。

 彼らの村は、ここいら一帯の水源であり、平野を東西に分断する河の東側にあった。そしてその対岸、つまり西側にも、同じ様な集落が一つあった。二つの集落は互いに《西》《東》と呼び合っていた。それぞれの長を立て独立した形で支配体制は確立していたが、河は簡単に横断できるので、村人たちに本格的な区別意識は存在しなかった。ただ官吏の都合で、それぞれ別の役人が担当して東西の村を管轄していたが、村同士は至って友好な関係を保っていた。

 声は言った。

 ――他所よそに水が流れきってしまえば、こちらで溢れることはないのだ。これは村全体を救うためのものであり、仕方のないことなのである。《西》の者たちが死ぬか、我々が死ぬかの違いでしかないのだ。


 濠一はどす黒い、混沌とした残酷の闇から、その指令を受け取った。


 ――かの村の堤防を破壊せよ。先んじて氾濫を誘い、村を守るのだ……。


 そして声は付け加えた。

 濠一には、その任務の引き換えとして一つの権利を与えられること。もし、ことを成し得たならば、村の中の女を誰でも、夫のいない者に限り、一人選んで娶ってもよいこと。その選択には、村の最高権威である村長の後押しが備わること。

 濠一は闇の中から差し出されたものを聞いても、すぐには応えられなかった。あまりに唐突なそれらの話は、彼の理解のぎりぎりのところにまできていた。濠一は何か言わねばと、口を開くが、喉からは吃音者の如く矮小な短音が漏れるばかりだった。そこに、困惑で頭蓋の内側を塗りつぶされている濠一の名を呼ぶ声があった。彼にはその声が、どうやら稲吉老人のものであるように思われた。声は闇より囁きかけてくる。――嫁じゃ。お前に嫁が来るのだ。お前は男になるのだ。何を迷うことがあろうか……。

 気づけば、濠一は村の広場に出ていた。当然のように雨は降り続けていた。そばにいた武生が言う。「よう言うた。えらいぞ濠一」武生の大きく、肉厚の掌が、ばしゃりと濠一の肩を励ましに打った。そして彼は、しばらくしたら必要なものを準備して迎えに来るから、ここで待っていろ、と濠一に告げると、雨の中を駆けていった。雨中の夜の空気は、水分と闇を重たく孕んでいて、それは濠一の身体をあますことなく覆っていた。呼吸するたびに、彼の体内にぼってりと湿った空気が入り込んで、肺を内側から圧迫していた。

 すぐに武生は戻ってきた。彼の手にはいくつかの道具が握られていた。そして、そのそばには作蔵がいた。作蔵もまた、同じ荷物を抱えていた。

「作蔵が共について手伝うことになっとる」武生はそう言って、道具を濠一に手渡した。

 鍬の木製の取っ手が、やけに冷たく感じられた。なぜ作蔵がつくのか。そう尋ねようと濠一がして武生を見ると、彼はやり込めるようにじっと濠一を見つめていた。その視線は、濠一には力強い激励に思えた。穏やかな笑みを浮かべ武生は振り向き、雨の中を去った。

 そして残された二人は顔を見合わせたのち、静かに河原へと歩き出した。

 河の様子を見るに、まだ堤防を越えて村に水が流れ込むというようなことはなさそうだった。だが、その流れは激しく、泥のように濃い濁流が、有無を言わせない速度で流れていた。この状態の河を直接渡る術はなかった。しばらく南に下り、町近くの橋まで行かねば、対岸の堤防にはたどり着けない。二人は流れに沿って橋へと走り出した。駆けていけば、夜明け前にはちょうど対岸の堤防にたどり着けるだろう。濠一はそんな風に考えた。

 作蔵は女にも劣るほどの小男であったから、彼の走るペースは濠一よりもずっと遅い。それに彼は体力もなかったので、作蔵と共にぬかるみを駆ける道は、濠一にとってひどくもどかしいものだった。作蔵のほうも、濠一に迷惑を掛けまいと必死に歩調を合わせるのだが、そうすれば、無理に体力を使う分、休憩の時間が増えた。その焦りが、濠一の精神の表面を荒々しく撫ぜた。作蔵による遅鈍の歩みに、彼は無気力の苛立ちを感じた。

 やがて二人は、町近くの橋に着いた。夜の闇の中だったが、濠一にはそこに何かがいるような気がした。作蔵に尋ねたが、「なんもおらんが」と不思議そうに応えるだった。濠一は、この一連の出来事の不気味さそのものに怯えながら、その闇のなかの何かに気付かれないよう、ゆっくりと橋をわたった。橋の下で、ますます勢い付いている河の流れが、その音だけを濠一の鼓膜に届けた。

 あともうじきで、西側の堤防までたどり着けるというところまで来ると、《西》の村の、その外観らしきものが遠目に見えてきた。ほとんどないに等しい月明りのもとでは、それは濠一が闇の中にみた幻想であったかもしれない。だが濠一には、確かに《東》の村とほとんど変わらない集落が見えていたのであった。同じような広さで、同じ作りの小屋が同じような数だけ建てられていた。人々の生活がそこにはあった。濠一はそれを眺めていて、まるで自分の村をそのまま見ているような気分になった。自分の村となにも変わりはしない、人間の生活の営みが、ここでも途切れることなく行われているのだ。濠一は茫然とそれを眺めながらも、静かに決意をした。おれはこの村を破壊するのだ。これは村のためであり、おれの将来のためであるのだ。そう思うと、彼はすっかり雨に濡れてしまった身体に、不思議と力がみなぎるのを感じた。

 二人が《西》の堤防の、その土の盛り上がりの始まりのところまで来た。もうしばらく行けば、自然堤防の上に築かれた、固い土の壁が現れるはずだった。そこまで来たその時、ふいに作蔵は言った。

「おまえは、わしを白痴者だと考えるのか?」

 あまりの唐突に濠一は言葉を失った。しかし、なぜ今その問いがあるのかとは、彼は思わなかった。ただ驚きがあった。作蔵に何らかの意識があったことは濠一も認めていたが、まさか明確に自覚があったとは、それも白痴という言葉で認識をしていたとは思っていなかった。濠一の不意の唖に構わず、作蔵は続けた。

「前に、村の娘たちが言った。わしが白痴だと言った。わしは違うと思ったが、みんなはそう思っているようだった。稲子に聞いたら違うと言った。でもそのあとすぐに、稲子は泣き始めた。村長に聞いたら、気にしなくていいと言った。わしは白痴か?」

 しばらくの沈黙のあと、濠一は「作蔵は白痴だとおれは思う」と作蔵の方を見ずに言った。それから彼を伺うように目を遣ったが、雨と夜がつくりだす闇の中では、作蔵の表情を捉えることはできなかった。ただ、彼の、怒りに震えるその息遣いだけは、はっきりとその音は濠一に聞こえていた。

「おれは、作蔵のおかげで、牛の捌きを知った。作蔵は村の誰よりも、捌くのがうまい。おれはそれでいいと思う。白痴でもいい。でも、誰かがお前をからかって白痴とするのは、おれは嫌だと思う」濠一がそう言うと、作蔵は押し黙った。

 静かに、そして緩やかに時間が流れていった。もうずっと降り続けていた雨の音が、濠一にはやけに大きく感じられた。彼はこの沈黙に緊張したが、次第にこれが無意味なものなのだと分かって、それからは時が過ぎるのに身を任せた。

「そうか」作蔵が言った。もう怒りの色はなかった。

 濠一は、確かな心の通行を作蔵に対して感じた。そしてそれは、作蔵も同じであった。


 河沿いに歩き続けると、次第に《河》の傍の地面の盛り上がりが、急激になっているのに濠一は気が付いた。二人は、既に《西》の堤防にたどり着いていた。まだ辺りは夜の闇に包まれている。濠一の想定よりも早く、二人は目的地にやってくることができた。

 堤防に登り始めると、河の流れが聞こえてきた。その音は濠一が普段、《東》の村で聴く音とは全く違った音だった。まるでとてつもなく大きな身体を持った、暗いところに棲む悪性の生物が、豪雨に乗じて河を下ってきていて、堤防からうっかり落ちてきた人間を喰らうために、河の中で身じろぎをしているような。そしてその動きに合わせ、河の水が、その流れや雨粒の落下とは別に、大きくだぷんと揺れている……

 堤防を完全に破壊する必要はなかった。《東》の堤防が壊れる前に、《西》の堤防が先に壊れるよう少しだけ脆くしておけば、きずをつければいいのである。そうすれば河の流れは《西》の方へ氾濫を始め、すべての過剰な水流は《西》の村に押し寄せる。結果、反対側の《東》は守られる。小さくていい。だが確実に決壊を促す疵を、堤防に刻み付ける。濠一はそれを意識しながら、《西》の堤防を登りあがった。そして、河面を見下ろした。

 闇の中、一瞬、すぐ足元のところに、液体に特有の光の反射のきらめきが見えた気がした。濠一は恐る恐るしゃがみ込んで、堤防の頂点部分、己が足を降ろすその濡れた地面に手を置いた。そして少しずつ、怪物のうねりを思わせる水音のする方へ手を伸ばす。降り続ける雨が、彼の手の甲を柔らかく叩いていた。

 手を伸ばし切る直前、冷たいものが彼の指先に触れた。それは連続した水の移動の感触だった。途端、濠一は温度とは別種の寒気を感じた。もう既に、越水直前というところまで濁流はせり上がってきている。

「作蔵」消え入りそうな、雨音に溶け込んでなくなりそうな声で彼は友を呼んだ。作蔵はその声を聞き逃さなかった。だが彼もまた、同じ様に河の流れに手をさらし、自分がどこに立っているのかを認識して戦いていた。呆けた声で返事を返したが、濠一にはそれは聞こえなかった。

 濠一は自然の生み出す盲に恐れながら、堤防の土をその手で撫ぜた。土は雨風に当てられ、そしてまた濁流をたっぷりと吸い込んで柔らかくなっていた。二人が肩に背負っている鍬や鋤は必要ない。足元の土を何度か手で掬うだけで、堤防はその形を保てなくなるだろう。放っておいてもこの土の壁は、もうもたない。濠一にはそれが分かった。そしてまた、同じことが《東》の堤防にも言えるだろうということも、彼はその思考に逃してはいなかった。

「濠一」

 今度は作蔵の方から、濠一を呼ぶ声があった。それは先ほどの濠一のように、自然に恐れをなした者の、縋りつくような声ではなかった。雨と河の音で支配されている闇の中、確かに作蔵の存在を示す力強さがあった。

 濠一はその声に、振り向いた。朝日は未だやってこない。単調で絶対的な水の音と、神性をも感じさせる完全な黒の中に、彼は作蔵の気配を感じていた。だがその眼には、闇の他、映るものは一切ない。頭上から、低く轟く音が聞こえたような気がした。

――西……。

 作蔵がそう言ってすぐに、鋭い稲妻が閃光をまき散らし、彼らの顔を照らした。ごく短いその瞬間に、作蔵の目に宿っていた善の光を、濠一は見逃すことはなかった。そして濠一は、なぜ作蔵が自分に同行させられたのかを分かった気がした。

 濠一は迷いなく、鋤で作蔵の横面を打った。そのまま彼を、死の流れの中へ叩き落した。作蔵の短い呻き声と、河の中に落ちる音のあとすぐ、世界には相変わらずの闇と、生命を飲み込む流れの音が戻ってきた。

 残された男は優しい手つきで足元の土を、濁流の側から村の方に鋤を使ってかき出した。柔らかな土が糞のようにぼろぼろと堤防を転がり落ちてゆく音が聞こえた。鋤を河に投げ捨て、手を足元にやると、新たな流れが、静かに眠っているであろう生命たちの方向へ流れ出しているのが分かった。それを確認した男は、その場を駆けて逃げ去った。彼の村に戻るまで、男は一度も休むことなく走り続けた。


 濠一が一人で村に戻ってきても、作蔵のことを尋ねる者は誰一人いなかった。濠一が村に着いてから開口一番に、作蔵は誤って河に転げ落ちた、と告げると、皆は口をそろえて彼を惜しむ言葉を口から垂らすばかりであった。それで濠一は自分の選択が間違っていなかったことを認識した。濠一に彼の行方を尋ねる者はいなかった。稲子でさえそうだった。ただ、作蔵の唯一の血縁者である彼の年老いた母は、明らかに濠一に対して、敵意のこもった視線を投げかけてくるのだが、濠一は、特別どうという対処をするでもなかった。その老女も、恨みがましい、ねばつく視線で濠一を睨むが、それ以上のことはできないようであった。ただ、何もできないからこそ、その、絶望的な目つきは、濠一の心の奥を、著しく震え上がらせるものであった。

 濠一は、作蔵の老母を恐れるようになった一方、作蔵を殺したことについては、さほど彼の心を苦しめることはなかった。それが村の望みであることは明白であったし、彼は、土壇場で見るべきではないものに目を向けてしまったのである。濠一は、それこそ、作蔵の最大の落ち度であり、あのとき黙っていることができたのなら、作蔵はこれからも村で生きていくことができたはずだと考えた。作蔵は不憫な男であり、また自分のやったことは、不可逆的で、重大なものであったが、作蔵は死すべくして死んだのだと、やがて濠一は心の底からそう思うことができるようになっていた。

 濠一はかねてからの約束に、当然のように稲子を選んだ。稲子の方も断ることなく、彼らは夫婦となった。その婚姻にもっとも喜んでいたのは、稲吉老人であるように濠一には思えた。また作蔵の土地を継ぐことで、村で一番小さいものながらも、濠一は田を持つことが出来た。濠一は死者の地位を完全に継承した形になった。彼は求めていたものをすべて手に入れた。

 濠一は稲子との初夜において、自分がやはり、女に対して男で在れるのだと強く思い知った。は、濠一にとって満足のいく結果に終わった。彼はそれが初めての体験であったが、聞き知る通りにつつがなくことを遂行することができた。妻の、やけに、に不慣れな様子を示しているのを気にした夫が、終わってから何気なく尋ねると、彼女は、「作蔵は不能でした」と答えた。それを聞いて彼は、自分が打ち殺めた男のことを思い出すと同時に、奇妙な満足感を得るのであった。その初夜より、妻に妊娠の傾向が現れるまでは、毎夜ことは行われた。妻の、赤く染まる顔を眺め、荒々しく加速していく息に自分の呼吸を合わせるたび、彼は死者に対する優越で、自覚さえない卑屈の笑みを浮かべていた。それを知るのは彼の妻のみであった。

 田を手に入れ、女を手に入れた濠一は、これでやっと村の一員として、認められるものなのだと、すっかりそう考えていた。だがあの雨の中から帰ってきてからも、彼は一度として、心の中の変革を実感することはなかった。なぜそうなのか、彼には分からなかった。 

 村での扱いは、一つの家の長としてのものであるし、誰かの濠一に対する排他的意識の表れも、もう村には存在しなかった。それでも、濠一はどこか、心の中に不安定さを抱えていた。彼は、もしかすれば、これは、作蔵を殺めたことに対する負い目からくる苦しみかとも思ったが、やはり、未だ残る閉塞感とはそれは別種のものであり、なにか他の要因があるのだと、認識していた。心に在り続ける、不明瞭な悪性を思わせるその腫を孕んだまま、数日が過ぎた。


 河の水が引き始め、やがて通常の水位にまで戻ると、濠一は弊牛馬処理の仕事を再開した。もちろん、それは濠一の仕事であった。牛の死骸を前に鉈を握ると、不思議と作蔵の姿の、牛を捌く姿が思い浮かばされた。彼のその熱心な手つきの映像を、かみしめるように思い出しながら牛の肉体に刃を切りこませると、驚くようにすんなりと、肉と骨が分離した。彼はいつの間にか、作蔵の技術を体得していた。しかしなぜか濠一にとってそれは忌避すべきことのように思えた。彼は解体の途中で、鉈を置いてしまった。

 彼は彷徨の足取りでなんの意図もなく、河のそばまできた。河川敷には湿気た土の匂いが蒸し上がってくるようだった。浅く、広い河は、水位こそ元に戻っていたが、まだその流れは濁った土色を残していた。そして彼の正面には、決壊した《西》側の堤防があった。大きく水に浸食されたその土塊の穴の向こうに、濁流に破壊された《西》の村の残骸が見えた。まだ土の色を残す河の水の流れの中に、作蔵の身体がないか、彼はふと目で探した、もちろんなかった。そしてほっとした。

 だが、彼は堤防の向こう側から、荒れ果てた姿でこちらに向かってくる人影を認めた。――作蔵は生きていた! 濠一は息を呑んだ。身体が硬直したが、目はその人物を追い続けていた。そして、彼に続く形で、老若男女を問わない人々の、十人足らずといったくらいの集団が続々と現れ出した。その全てが、同様に泥水に汚れた衣服をまとい、酷く衰弱した様子で、河を渡ってこちらへ歩いてきた。濠一は自分の思い違いに気付いて、そして未だ濁ったままの流れの中を駆けて、先頭の男の下へ向かった。

 ひどくくたびれた様子の若い男は、濠一を認めると、弱弱しく震える声で、懇願するように言った。

「我々は《西》の村のものです。村のほとんどの者が死に、田畑や家はみな潰れてしまいました。どうか、我々を助けてくれませんか。《東》で、住まわせてもらえませんか」

 そう言った彼に、濠一は徹底した微笑みで頷き返した。

そしてそのとき、彼はようやく、村の一員と成れたことを自覚したのであった。

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堤防 @isako

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