第十七話 薔薇色に染まる恋心は、薄紅色の口づけの告白と共に
立派な庭園の中にある東屋で、エルスは紅茶を飲んでいた。
そこは〈秩序学会〉の敷地内にある広大な田園地帯だった。敷き詰められた若草色の芝生の上には石畳の道が伸びている。道の両脇には三角帽子のような桂のトピアリーが等間隔で並び、その合間を縫うように色とりどりのダリアや白いユリが咲き誇っている。
エルスの向かいに座っているのは緩やかに波打つ銀髪を束ねた女性だった。優雅に紅茶のカップを持っている姿は絵画のように美しい。
女性――ジェシカ・ル・ロアは今回の顛末を次のように締めくくった。
「――というわけで、エナは第二級危険物を再度封じ込めた実力を評価され、無事に宮廷法術士見習いに昇格した。私も権威が失墜することなく。お前も色々とご苦労だったな」
「そーですか」
どうでもよさそうに返す。エルスの腕には包帯が巻かれていた。
ワイヤーで組まれたテーブルの上にはラズベリーを贅沢に使った宝石のようなタルトがのった皿と、バニラの香りが漂う紅茶の入ったカップが並んでいる。
エルスは紅茶を一口含んでから、真正面からジェシカを見た。
「それで、今回の件。どこまでが師匠の読み通りだったんですか」
「なんのことだ?」
そらっととぼけたように聞き返してくるジェシカ。
エルスは構わず続けた。
「綱渡りの部分があったとはいえ、結果的に全て丸くおさまった。これで、師匠の思惑が何もなかったとは言わせません」
困ったようにジェシカは苦笑した。薄紅色に色づいた唇が、完璧な弧の形を作る。
「やれやれ。随分と疑われているようだな」
「疑うなという方が無理かと。……観察処分が解けた直後、ユイはもう一度試験を受けることになりました。それも師匠がそういう風に事を運んだからですよね。どうせ、宮廷法術士や古都トレーネのお偉方を上手く口車に乗っけたかなんかしたんでしょう。もう一度、師匠の権威を失墜させようとしている奴らから妨害工作に遭うことも予測した上で」
「よくわかったな。もっとも、そのぐらいまで考えが至らなければこちらも困るが」
「その頃までには、アレク
「その通りだ。もっとも、現実はそううまくいかなかったがな」
「アレク兄が俺にユイを観察するよう頼んできたのは――滅茶苦茶わかりやすい理由ですが、カタリーナやアレク兄が師匠の協力者として目をつけられてたために、執政部が許さなかった。どっちも師匠の幼馴染ですからね」
「正解だ」
〈アヤソフィアの学び舎〉を取りまとめる執行部と執政部。
執政部の大半は古都トレーネの重鎮で埋め尽くされている。
ジェシカを疎ましがっている古都トレーネの貴族があれこれ口出し出来る隙があるとしたら、こちらだろう。
「師匠がアレク兄に妨害工作の件や自分が置かれている状況について詳しく話さなかったのも、誰がいつどこで聞き耳立ててるかわかったものじゃないから、警戒してあえて話さなかった。そういうことですか」
「そうだ。対してお前は私の弟子であることは公には伏せてある。その噂はもちろんここ〈アヤソフィアの学び舎〉で流れているが、噂程度では、執行部からしたら証拠不十分だ。無論、執政部の側が強制することが出来るだろうが、な」
「執政部は〈アヤソフィアの学び舎〉のスポンサーみたいなものですからね」
「もっとも、執行部を納得させるためにかかる手間とデメリットを考えたら、あまり効率的ではないだろうが」
「だから、俺に白羽の矢が立ったというわけですか」
「ああ。つまり、お前は私の協力者としてはうってつけだったというわけだ」
「そういうのは協力じゃなくて、利用したっていうんです。駒にしたっていうんです」
「まあ、そう目くじらを立てるな」
なだめるようにくすりと微笑むジェシカ。
エルスは軽く息をついた。
「レアルタはユイと年齢が離れてるから、ユイを刺激することにしかならないでしょうけど、観察者の候補ならブリアンだっていたでしょうに……」
「ソエルの方にも話はしてみたさ。酷く慌てながら絶対無理と言われて断られたがな」
「無理……?」
エルスのクラスメイトである同い年の少年。真昼の太陽のように元気な笑顔が脳裏に思い浮かぶ。同時、あの能天気が首をぶんぶんと横に振って冷や汗を滝のように流しながら「無理むりムリ! ぜぇぇぇぇぇぇったい無理!」と断る姿も。
エナとユイと何かあったのだろうか。
そんな風にエルスがクラスメイトが断った理由について思い巡らす前に、ふと目の前の女性の空気がふわりと和らぐ気配。
それに気づいたエルスが顔を上げれば、ジェシカが柔らかに微笑んでいた。
「エルス、お前には本当に感謝している。ありがとう」
それは思わず目を見張りたくなるほど美しい微笑だった。美人に見慣れているという自負があるエルスでさえ、思わず目を奪われるほどの。
その笑顔は反則だ。一瞬とはいえ、不意打ちの笑顔にうっかり見惚れたエルスは内心で文句を垂らす。
そこへ、やって来たのは濃茶の髪の男性と桃色にも見える紅色の髪を高い位置で二つに結わえた幼い少女だった。アレクセイとユイ、あるいはエナ。
「ジェシカ様っ!」
弾んだ声と共に少女――エナがジャンプし、ジェシカに飛びついた。
「やあ、エナ。久しぶりだな。元気にしていたか?」
胸に飛び込んできたエナを歓迎するように、立ち上がったジェシカがエナを両腕で受け止める。
「はいっ。ジェシカ様のご機嫌はいかがですか?」
「愛しのエナに会えたんだ。とても満ち足りた気分だよ」
……なんとまあ。
ジェシカの歯の浮くような台詞に、エルスは軽い当惑を覚えた。
普段の彼女からはとても想像できない慈愛に満ちた表情である。これが〈死の天使〉として恐れられた大陸最強の法術士か。
アレクセイに問う視線を向ければ、いつものことだから、と言うように困ったような表情で肩を竦めてきた。どうやら日常風景らしい。
「あ、えーたんっ」
と、エナがエルスの方を向く。彼女はぱあっと顔を輝かせると今度はエルスの腕に両腕を絡ませた。
意味ありげな目でジェシカがエルスを見た。
「随分と好かれてるみたいだが?」
「知りませんよ。んなこと」
恋人にするみたいに、エナはエルスにべったりとくっついている。
思わずエルスは半眼をエナに向けた。
「……お前、なんかこないだと態度違いすぎないか?」
「え、そうかなぁ?」
「ついこないだまで、蔑むような目で俺のことを罵倒してただろ。殺そうとしただろ」
「あの時のエナは、ちょっぴり反抗期だったの」
てへ、と言いながらわざとらしく自らの拳をこめかみのあたりにこつんと突くエナ。
エルスは半眼のまま指摘した。
「反抗期で殺されかけてたまるか。っていうか、何か裏でもあんのか」
「エナはそんな裏表のある人間じゃないよ。失礼しちゃうなあ」
「だったら、一体なんだっていうんだ」
「いーじゃない。そんな細かいこと」
そう言ってエナはするりと腕をほどくとエルスから離れた。煙に撒かれた気分。
と、すみれ色の瞳を瞬かせて、驚きとも不思議とも取れる表情で聞いてきたのはジェシカだった。
「しかし、本当にいきなりだな。何かあったのか?」
すると、エナは恋する乙女のように、もじもじと後ろ手を組みながらジェシカを見上げた。
「えーとぉ、それはぁ。……言わなきゃ駄目ですかあ?」
ジェシカは愛しい恋人を前にしたような満面の笑みを浮かべた。とろけるような笑み、という表現がまさにふさわしい。
「ぜひとも、教えてもらえないだろうか。私としても気になるしな」
「ジェシカ様がそう言うんなら喜んで!」
「おい」
突っ込む。だが誰も聞いていない。早くもエナのヒエラルキーの頂点に君臨しているのが誰なのかを悟ったエルスだった。
エナは嬉しそうにはにかんでいた。こうしてみるとユイにも見える。
「だって、えーたん。言ってくれたじゃない。エナのこと守るって」
「は?」
「例え何があっても必ずお前を守ると誓うって、あの時言ってくれたじゃない」
「そうなのか?」
声を上げたのはジェシカだった。心なしか意外そうである。
渋々とエルスは肯定した。
「……今この瞬間、この場所だけ、な。限定的だからな?」
「というわけで、エナはえーたんに愛のプロポーズを受けて、ときめいてしまったのです」
恥ずかしそうに「きゃっ」と声を上げてエナは頬を赤らめた。
「それはそれは。エルス、では私の妹分を一生かけて守れよ」
「え、師匠それ本気で言ってます?」
エルスは心配になって聞き返した。
ジェシカは「もちろん」と笑顔でうなずいている。冗談か本気か判別しづらい。
とっさに反論が口から出そうになるも、ぎりぎりのところで踏みとどまった。ジェシカのエナの溺愛ぶりから見て、迂闊なことを言えばこの場で撃ち殺されるかもしれない。
と、不意に、エルスは服の裾を引っ張られた。
「あの、えーたん」
「ん?」
そこにいたのは、エナと同じ顔をした、だが先ほどとは全く異なる顔つきをした引っ込み思案な少女、つまりはユイだった。顔は一緒なのに、こうして見ると、まるっきり別人に見えてくる。実際、別人だが。
「あの……あのね、えーたん。ユイ、うれしかったんだ。あんな風に言ってくれて」
そう言ってはにかみながら嬉しそうに微笑むユイ。その健気な姿は、彼女がエルスを心から慕ってくれているのがよくわかる。
なんとなく悪い気はしたが、エルスははっきりと告げることにした。
「ユイ、俺はお前の恋人になるつもりはないし、お前の気持ちにも応えられない」
「うん、わかってる。えーたんがユイのことを好きじゃないのは、わかってるつもり」
「だったら――」
「でも、将来えーたんに好きな人ができて、その人と結ばれるまでは、それまでユイがえーたんのことを好きでいるのは、いいよね? それぐらいは、駄目かな? 迷惑?」
「いや、迷惑っていうか――」
エルスが言い淀んだその時だった。
不意にユイが動いた。彼女は、花びらが舞うような自然な仕草でそっとエルスの頬に桜色の唇を落とした。
とっさに何が起こったのか理解できなかったエルスは反応することも忘れて、その場に立ち尽くした。
頬に触れた小さな熱の正体が何だったのか。
エルスが軽い自失から立ち直り、そのことに気づいた頃には、ユイは東屋を出て〈秩序学会〉の建物に続く石畳の道を走り抜けていった。途中、軽い会釈をして、逃げるように立ち去っていく。
その場に残された三人のうち、最初に声を上げたのはアレクセイだった。やたら真面目な顔をして聞いてくる。
「それで、どうするの?」
「何がだ」
「っていうか、どっちにするの?」
「どっちって、んなこと聞かれても」
そんなもん、どう答えればいいんだ。そう内心でつぶやいてから、エルスは思いついたように口を開いていた。
「っていうか、第一、俺は年下に興味ないぞ」
「え?」
「え?」
ジェシカとアレクセイから同時に疑問の声が上がる。
「……え?」
最後に、遅れて聞き返したのはエルスだった。
アレクセイは非難するようなじっとりとした目をエルスに向けた。
「エルス、君、ユイの資料にちゃんと目を通さなかっただろう」
これから説教を始めかねない口調の義兄。
しかし、エルスはまるで反省の色も見せずにさらりと答えた。
「概略は知ってるつもりだし、実力と顔がわかればいいかなって」
「やっぱり」
「生年月日とかまでは、そんな詳しくは……ってもしかして」
感づいたエルスは、今度はジェシカへと視線を移した。
ジェシカは悪戯を告白するように人差し指を立てた。
「ユイとエナは、お前より二つ年上だ」
「は?」
「さて、どうする? エルス・ハーゼンクレヴァ」
実に楽しげなジェシカの声が、朗々と響いていった。
~FIN~
もっとも簡単な、とある少女の殺し方 久遠悠 @alshert
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