第十六話 神の名を冠する速さを持つ聖女の弟子の名は

 エナには予想があった。

 エルスがジェシカの弟子だったとしても、その実力はたかが知れているだろう、と。決してエルスのことを侮っていたわけではない。だが、ジェシカの足元にも遠く及ばないと、本気でそう思っていたのだ。

 だが、実際はどうだろう。

 エルスと巨体の流れるような一連の攻防を眺めながら、エナはあっけにとられていた。

 信じられないことに、エルスは法術士殲滅兵器である石の巨体と対等に渡り合っていた。

 巨体の攻撃をかわし、時に受け流し、あるいは軽々と宙を舞うエルスの姿を見たエナがゆっくりと納得する。


「……なるほど、常に重力法術を使い続けてるってわけ」


 確かに、法術の中でも高位にあたる重力中和の法術なら、気を引くのには十分だろう。

 パッと見ただの儀礼用の短剣にしか見えないそれが、巨体の腕を鋭く深くえぐる。短剣の方もただの短剣ではないのだろう。恐らくは希少な法術道具か何かか。注意を逸らす強力な法術が仕込まれている――ますます囮役としては適任だ。

 重力を中和すれば、空中で受け身を取ることも、人の背丈の数倍もの高さまで跳躍して攻撃をかわすのも容易い。

 巨体がエルスに注目している今なら、小瓶の法術を展開させ、巨体を小瓶に戻すことができる。そう思ったエナは、エルスから手渡された小瓶の表面に彫られている古代文字とその法術の構成を読み取ると、意識を集中させる。

 案の定、巨体はエナに見向きもしない。

 エナからやや距離を置いて立っていた少年も、エナに見習うように法術を組み立てる。

 作戦は順調。このまま上手くいけば、問題なく終わるだろう。

 と、エルスが巨体の攻撃から逃れるために中空に飛び上がった時だった。

 エルスの重力中和の法術が巨体が気取る有効範囲から外れたためか、それとも、エナと距離を置いていた少年の方がエルスより距離が近かったからなのか、とにかく理由はわからない。

 巨体はエルスが飛び上がった隙に、一番近くにいた少年に注視すると詰め寄ったのだ。


「うげ!」

「――っ!」


 中空を蹴ったエルスが、割って入る形で少年と巨体の間に体を滑り込ませる。

 だが受け身が不十分だった。

 抜き放った短剣で防いぐことで直撃は割けたものの、少年の代わりに脇腹付近を殴打されたエルスが、勢いのまま少年の右に吹き飛んだ。少し離れた草の茂みに頭から突っ込む。ばきばき、と枝が折れる派手な音。


「おい! 大丈夫か!?」


 少年が焦燥めいた叫びをあげる。

 が、返事はない。

 頭でも打って気絶したのか、エルスは茂みから立ち上がろうとしない。死んだように、足だけが茂みから突き出ている。


「おいこら、マジでちょっとお前! 起きろってば!」


 ますます切羽詰まったように少年が叫ぶ。少年が組み立てている法術構成は不安定に揺れていた。少年の周囲に見えるエーテルも弱弱しい輝きを放っている。

 そうなれば当然、巨体の標的は、この場でより強力な法術を使っているエナになる。

 ぐるりと身体を半回転させた巨体がこちらを向いた瞬間、ひやりとしたものがエナの背筋を走った。

 まずい。反射的にそう判断したエナは身を翻そうと半身をひねる。法術を中断し、少年を囮にして一刻も早くこの場から逃げ――



 ――ジェシカは助けるだろ。



 ――られなかった。頭の中で繰り返されるエルスの言葉が、エナの足を止める。

 その迷いが致命的な隙となった。気づけば、エナの眼前まで迫った巨体が、大岩のような腕をこちらに振り下ろそうとしていた。


「ぁ……」


 磨き抜かれたエナの反射神経は、無意識のうちに防御法術を組み立てている。だが、どう見ても間に合わない。

 不思議とゆっくりと振り下ろされる巨体の拳を木苺色の瞳に映しながら、誰にも聞こえないほど小さな声で、エナはぽつりとつぶやいた。


「……うそつき」



 が。



「――誰がうそつきだ」


 やたらと近くから聞こえた淡泊な少年の声に、エナの瞳が驚愕で見開かれる。

 一瞬遅れて、がぎぃん! と甲高い音。

 とっさにエナはばっと横を向いた。エルスの足が突き出ていた茂みはぽっかりと大きな穴があいているだけで、エルスの姿は既にない。続いて正面を見れば、いつの間にかエルスはエナに背中を向けて立っていた。二本の短剣を眼前で交差させ、巨体の拳をぎりぎりと受け止めながら。

 嘘だ、というように叫んだのは少年だった。


「空間転移!? そんなバカみたいな速度で組めるわけが――!」

「人がちょっと寝ていたぐらいで、嘘つきだのなんだの失礼なこと言いやがって」


 エルスは素っ気なく言い放つと力任せに短剣を左右に引くような形で振り抜いた。押し返された巨体がぐらりと少し揺れたところで、エルスは本当に馬鹿みたいな速度で法術を組み立て、解き放つ。法術を読み取ることに長けた感知特化と呼ばれるタイプの法術士であるエナですら、目で追えない速度で。


雪月ニヴォーズの始まり!」


 間欠泉のように地面から吹きだした光の水流が巨体を真下から貫く。

 しかし、寸前で軌道から逃れたらしい。巨体は衝撃で軽く吹き飛んだだけだった。巨大な図体が森の中を滑るように転ぶ。

 その様子を視界にとらえながら、エナはふと思い出していた。


 そういえば、ジェシカ様は――


葡萄月ヴァンデミエールの宴!」


 エルスが間髪いれずに叫ぶ。続く声と共に、本当に、冗談としか言えない速度で次々と法術が放たれる。

 真っ直ぐに伸びた閃光が、水で押し流すように巨体をさらに奥へと弾き飛ばした。追撃するような形で無数の氷の刃が巨体に襲い掛かる。白刃のような苛烈な雷撃が閃く。終わらない津波のような怒涛の攻撃。


 ――〈神速〉の異名を持っていたんだった。


 そこで、ざわりとエルスの黒髪が音もなく逆立つ。


「原初の静寂よ。風の竪琴が奏でる白き翼よ。蒼の地平線を駆けるは天の息吹!」


 エルスが謳う。よく通る清廉な少年の声で。

 法術で奥に押し流された巨体は、損傷こそしているものの、大したダメージではないらしい。ふらついたように身体を起こした後、すぐさまこちらに向かって襲い掛かって来る。

 エルスの法術構成を組み立てる速度と精度には目を見張るものがあるが、早く法術を解き放てる分、火力が不足気味なところがあるのだろう。見た目こそ派手だが。

 巨体との距離を測りながら法術を組み立てるエルスが、背後のエナに目配せしてきた。その視線にはっと我に返ったエナは小瓶を再び握りしめると、封印のための法術を展開させていく。

 そして、エルスの眼前に、巨体が到達しようとする直前。


「導きたる小さな灯の光よ。幾千の光芒となり、一閃、無音の闇を斬り開け――!」

 

 エルスの詠唱が完了すると共に、煌々と青白く光る巨大な火柱が空に上る。

 火柱の中に閉じ込められた巨体が、凄まじいエネルギーに身動きが取れずにもがいているのが見えた。

 エルスが鋭く叫ぶ。ちょうど、エナが封印法術を完成させたタイミングで。


「エナ、今だ!」


 その呼び声に応えるように、エナは鍵となる言葉を唱えた。


「終わりなき回廊に閉ざされし永劫の扉よ!」


 同時、巨体を中心にして、法術陣が広がっていく。

 螺旋を描くように光の線が四方八方へ走り、幾何学的な模様を生み出す。まるで芸術的な絵画にも見える光は、石の巨体をそっと抱きしめるように包み込む。

 やがて、光の中で巨体の姿が砂のように溶け、エナが掲げる小瓶の中に吸い込まれて消えるのを三人は見た。

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