Kajaladia ―カハラディア―

雪柳 アン

序章 幻の種族

 男たちの荒々しく叫ぶ声が聞こえて、ジェラールは目を覚ました。

 船出してから十日間、度重なる大波との格闘で、疲れが溜まって眠ってしまったらしい。

 荷物を詰めた木箱を背もたれにし、腕を組んだ姿勢で寝ていたようだ。おかげで体の節々が痛い。

 甲板にいる男たちは舵を取るのに忙しい。彼らは疲れ知らずなのか、ずっと動き続けている。

「ロゼット様、お加減はいかがでしょうか?」

 従者が膝をついてジェラールの傍に寄った。実は彼は船が苦手だった。その上この波のせいで四六時中吐き気に苛まれている。

 今は比較的穏やかなようだが、まだ頭がぐらっとする。

「はぁ……ははは、私はあまり船乗りには向いていないようだね。未知の世界への冒険がこんなに大変だったとは思ってもいなかったよ」

 思わず苦笑いが出た。だが従者は心配そうに眉をひそめている。

「あと二日です。航路図が間違っていなければ、あと二日でディアナ湾に到達し、カハラディアに上陸できます」

 カハラディア……。その地名が、いよいよジェラールにとって現実味を帯びてきた。今まで何処となく夢の世界のような感覚だったが、とうとうその場所に自分たちは降り立とうとしているのだ。

 この未開の大地について、彼はさまざまな噂を聞いてきた。化け物のようにでかい牛や鹿が闊歩し、ジェラールが今まで暮らしていたユーリタニアではとっくの昔に絶滅したオオカミが森に潜み、そして――もはや古代の幻の人類といわれる「鳥獣人」が暮らしているという。その名の通り鳥や獣のような身体的特徴を持ち、文明を持たず、原始的な狩猟採集をして暮らす種族だといわれている。

 二千年程前まで世界各地にいたそうだが、今ではその生きた姿を見る者はほとんどいない。彼らの存在を確かめられるのは残された骨や爪、羽毛ぐらいだが、珍しいため世界中で高値で取引され、偽物も少なくない。

 一世紀ほど前にジェラールたちの敵国、エスニア帝国がカハラディアを初めて訪れたのだが、その時に「鳥獣人」の生き残りを発見したという。ジェラールたちの任務は、まだエスニア人たちが開拓していない北部へ向かい、新たな資源と開拓地を見つけ、幻の人類の生態を調査することだ。

 ジェラールの手元には、かつて南の大陸からやってきた商人がもたらしたという「獣人」の頭蓋骨がある。これをくれたのは彼の友人なのだが、当初ジェラールは偽物だろうと思っていた。こういうのは大抵、少し古い人間の頭蓋骨に適当に犬かヒョウの牙をくっつけ、それらしくしてあるだけだからだ。ところがその頭蓋骨を詳細に調べてみたところ、牙の生え方や長さにいかにも取り付けたような不自然さがなかった。さらに牙を引き抜いてみると、歯根や歯槽骨の形状がぴたりと一致していたため、これは人為的につけられたものではないと判明した。

 彼が今度のカハラディア開拓に抜擢されたのは、彼の博物学へのあくなき探究心と、牧師としての深い信仰心を買われたからだった。祖国アルゴメア王国女王から命を受け、カハラディアの自然環境とその原住民について詳細な調査を行い、もし原住民との意思疎通が可能であれば「神の教え」を布教するようにと。

「カハラディアにいる原住民のことですが……」

 傍にいた従者が突然切り出した。

「奴らは非常に獰猛で攻撃的だと聞いています。我々が向かう北部にいる人種は特に危険で、目に入るもの全てに襲い掛かるとか…………」

 従者は早くも怯え始めているようだ。声のトーンは低く少し震えている。

「未開の地には危険がつきものだ。だからこうやって何人も護衛を連れてきているじゃないか」

 ジェラールは船乗りたちと共にせわしなく動く護衛たちを見やった。今は防具を身に着けず軽装だが、引き締まった肉体はいかにも武人らしい。

 万が一に備え、護衛は百人つけている。彼にはいささか多すぎる気がしなくもないが、アルゴメア王国の未来がかかっているからだろう。それ以外にも彼の身の回りの世話をする従者が十五人ほどいる。ほかにも荷物を運ぶための馬が二十頭用意されていた。船は二隻用意され、ジェラールと従者と護衛、計七十六人がこの船に乗り、残り三十人の護衛と馬たちはもう一隻の船に乗っている。

 雲の切れ間に日の光が差し込んできた。それがジェラールには一筋の希望のように思えた。これまでの航海で、彼はろくに日の光を見てこなかったからだ。

 突然男たちが騒ぎ始めた。何か見慣れぬものを目撃するような声である。体調が優れないながらも、ジェラールは男たちの視線の先にあるものへの好奇心には逆らえなかった。

 少しふらふらしながら、彼は船べりに近づいた。

 海面から何か黒い大きな塊が盛り上がってきている。それが霧状の海水を吐き出したかと思うと、大きな細長い板のようなものが姿を現し、その後魚の尾ひれのようなものが現れた。

 あれがクジラという巨大生物なのだろうか。ジェラールは興奮し鼓動が高まるのを感じたが、同時に手に何も持っていなかったことを悔やんだ。未知の世界へ行くのだから、常に羊皮紙と木炭は持ち合わせていようと心掛けていた。しかし不安定な気候に苛まれ、貴重な紙を塩水なんぞに晒して傷ませてはならないと、ずっと箱の中にしまったままにしていたのだ。

 クジラはあっけなく彼らの前から姿を消し、男たちはすぐに持ち場に戻っていった。


 その後ずっと波は穏やかで、ジェラールはようやく苦しい船酔いから解放された。遠くに陸が見えるようになると、海辺の生き物もより多く見られるようになった。彼は船の上を舞うセグロカモメをスケッチしたり、黒と白の斑を持つ背びれのピンと立ったクジラの群れを観察したりして過ごし、海の生き物の営みを間近に知ることができた。

 やがてディアナ湾に到達し、上陸がいよいよ迫ってきたときのことである。ジェラールは降りる直前まで生物観察を続けていようと思って、船べりから身を乗り出して海面を眺めていた。

 ふいに視線を下に向けたとき、水面付近で白っぽい物体が泳いでいるのが目に入った。

 体型や大きさから最初イルカかと思ったが、やけに胸びれが長すぎるように見える。まるで上半身は人間のような……。

「え?」

 思わず小さく声が漏れた。その細長い胸びれは真ん中から直角に曲がり、先端に何が棒切れのようなものが握られているのが見えた。そして「それ」が水面から顔を出した。

「…………!!」

 彼はその瞬間体が凍り付いた。「それ」はすぐに海の中に潜ってしまったが、彼はそれが、人間のような顔をしていたことをはっきりとこの目で捉えた。「それ」とは確かに目が合ったし、それで相手はすぐに潜ってしまったのだろう。

 彼はしばらく身動きが取れなかった。今見たものが間違いでないなら、あれは人魚だ。上半身はどう見ても人間だったし、下半身は魚のように流線型で、先端には魚やイルカのような尾ひれがついていた。

 …………まさかあれが、幻の人類「鳥獣人」だというのか。彼は専ら陸上にいるものかと思っていたが、海にもいたようである。

 海岸付近に差し掛かると、船乗りと護衛たちが下りる準備を始めた。此処はまだ誰も上陸したことがないため、桟橋も何もないらしい。ジェラールや大事な荷物が水浸しになってしまってはいけないと、彼らが先に上陸して、その場しのぎの簡単な桟橋を造るのだとか。

 海岸は灰色をしており、周囲をぐるりと険しい山々が囲んでいる。だが辺りは霧に覆われ、遠くの景色はぼんやりとしか見えない。ジェラールは男たちが水浸しになりながら桟橋を建設している間も、船べりに張り付いて周囲の環境を観察し続けた。

 ようやくだ、とジェラールは思った。ついに、未知の大地、カハラディアに着いたのだ。この環境といい、遭遇した生物といい、やはり明らかにユーリタニアとは違う。

 頭の片隅ではやはりあの人魚のことが気になっていた。彼らは専ら海でしか生活しないのか、単独行動なのか集団行動なのか、武器や道具は何を使っているのか、どんな文化を持っているのか、様々な疑問が脳裏に浮かんだ。だが彼らが本当に噂の人類だとすると、そう簡単には近づけないかもしれない。否、身の危険さえ覚悟する必要があるだろう。

 陸にいる「鳥獣人」たちはどんな姿をしているのだろう。彼は、あの頭蓋骨の標本のような鋭い牙を持つ種族と直接対峙するのだろうか。彼らには神の教えを理解できるほど知性があるのだろうか。

「……ロゼット様? ロゼット様、ロゼット様!!」

 従者がいつの間にかジェラールの背後で肩を叩いて声をかけていたようだ。物思いにふけっていて気付くのが遅くなってしまった。どうやら桟橋は完成し、降りる支度をしなければならないようである。

 従者たちに支えられながら、彼はゆっくりと渡し板に足を下ろし、桟橋に降り立った。人が歩くたびにギイ、ギイと音がする。今にも板が割れてしまいそうに感じる。

 海岸は砂利になっており、歩くたびにザクザクと音が鳴る。少し離れたところでカモメたちが岸に打ち上げられた魚をついばんでいる。あの辺りであの人魚型の「獣人」が休んでいることはないのだろうかと、やはりジェラールは気になってしまった。

 初夏だというのに冷たい潮風が顔に打ち付けてくる。彼は羽織っていたコートをぎゅっと掴んだ。

 崖を上り、砂利道から草地に変わったとき、ジェラールはふと後ろを振り返った。二隻の船はずっと岸辺に佇んでいる。彼はそれらが、なんだか置き去りにされているような気がして、少し胸が痛んだ。

 草地を歩き続けると、背の高い針葉樹が生い茂る森の中に入った。マツやトウヒの木立の間を歩くと、自分たち人間がとてつもなく小さく思えてくる。ユーリタニアではもっと背の低い広葉樹が多かったのだ。ただでさえ曇り空で薄暗いところを、木々の陰で森はもっと暗い。いつどこで何が出てきてもおかしくない気がする。

 どこかで小鳥たちがさえずるのが聞こえた。ユーリタニアでもなじみ深いその鳴き声を聞いて、彼は少しほっとした。何もかもすべてがユーリタニアと違うわけではなさそうだ。

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