第1章 光る眼

 森を歩き続け、開けたところに出たころには空は晴れ、日が傾いていた。西の方角では空が鮮やかなオレンジ色に染まっている。今夜は此処で寝泊まりすることになるだろう。従者や護衛たちは馬に括り付けられた荷を地面に下ろした。

 ヤギの皮でできたテントを張り、焚き火を起こして、彼らは夕食の支度を始めた。とはいっても、干し肉や干し果物、パンなどといったすぐに食べられる保存食を食料袋から取り出し、乾燥させた茶葉でハーブティーを淹れる程度のものである。ジェラールは従者から木の椀に注がれた茶を受け取ると、手にその温かみを感じて気が安らいだ。

 食事を終えたときには、既に日は落ち、辺りは暗くなっていた。夜の虫やカエルたちの静かな合唱が響き渡っている。夜空を見上げると、三日月と、満天の星空が広がっていた。ユーリタニアにいた時よりも、星々がよく見える気がする。夜空を横断するように、天の川が流れていた。

 夜空に見とれていた時、遠くで何かが鳴くような音が聞こえた。

「ウオォォォォ―――――ン……ウオォォォォ―――――ン……」

 犬の遠吠えによく似ているが、それよりは野太く、声も長い。

 ジェラールは不思議とその声に恐怖は覚えなかった。むしろ、とても美しいと思った。美しさと同時に、どこか悲しげな響きもある。彼はその声に導かれるように聞き入っていた。だがすぐに、彼は誰かに上着の裾を引っ張られるのを感じた。

「どうかされましたか……?」

 若い従者が薄暗い中怪訝そうにジェラールを見つめている。

「近くにオオカミが潜んでいるのでしょう。さあ、早くお休みになってください」

 そう言われてふとジェラールは我に返った。数人の護衛たちが槍や松明を持ち、警戒態勢に入っている。彼は従者に半ば強引にテントに押し込まれた。

 テントの中に入ってしまうと、ほとんど何も見えない。隙間から月明かりや焚き火の明かりがわずかに入るだけだった。ジェラールは正直、外でもっと星空や不思議な遠吠えに酔いしれていたかった。だが何も見られなくなってしまった今は、寝る以外することがない。渋々毛皮の寝袋に入り、休むことにした。外では焚き火のパチ、パチと爆ぜる音、護衛たちが地面をザク、ザクと踏みしめる音が聞こえる。それに聞き入っているうちに、だんだんと意識が遠のいていった。


 ジェラールは深い森の中に一人で佇んでいた。木々は風に煽られ、騒がしく梢を鳴らしている。背後で獣の唸り声が聞こえて、はっと振り返る。

 気配もなく木の棍棒を持った骸骨たちが現れ、ぐるっとジェラールを取り囲んだ。骸骨たちは鋭い牙を生やし、お尻からイヌやネコのような細長い尾骨が伸びている。馴れないネコのようにシャーッと威嚇し、槍を構えてジェラールににじり寄ってくる。恐怖でパニックに陥った彼は、一体の骸骨に無意識に体当たりした。骸骨はあっけなく崩れ、骨が地面に散乱する。その途端残りの骸骨たちが一斉に突進し、ジェラールは一目散に逃げ出した。どこへ行けばよいのかもわからず走り続けると、森が開けた。だがほっとしたのも束の間、開けた先にあるのは崖だった。その先には荒れ狂う海だけである。波が崖の岩肌に激しく打ち付けている。獰猛な骸骨獣人たちがすぐ後ろまで迫ってきた。

 ジェラールはじりじりと崖に追い詰められていく。そして足を踏み外した途端、崖から転落し、海に投げ出された。前方が細かい泡で覆われ、何も見えない。息は苦しくなり、服が水を含んで重くなり、体の自由を奪う。

 海の底から不気味な影が忍び寄ってくる。黒光りした鱗を持つ人魚型の「獣人」たちが、鋭い爪と牙を剥き、ジェラールに群がってきた。そして一体が彼の喉元に食らいつこうとしたとき、突然視界が真っ暗になった……。


 気が付くと、ジェラールはテントの中で仰向けになっていた。どうやら今のは夢だったようだ。夜が明けているのか、テントの中は薄暗かった。

 彼は深くため息をつき、あれらが現実でなかったことに安堵した。しかし、骸骨ではないとはいえ、あれに血肉をまとった生き物がこの森にいる可能性はある。しかも、人魚型の「獣人」については実際昨日目撃していた。だが夢で見た行動が実際のものと同じとは限らない。彼は胸の中でそう言い聞かせて落ち着こうとした。

 テントから顔を出すと、朝の霧が立ちこめ、昨晩と同じように従者や護衛たちが動き回っていた。テントのいくつかは既に畳まれ、荷物がまとめられていた。

「おはようございます、ロゼット様。よくお休みになれましたか?」

 昨晩とは別の、もう少し年上の従者が、柔和な笑みを浮かべて挨拶する。

「どうかな……夕べ化け物に襲われる夢を見てしまったんだ。食い殺される寸でのところで目が覚めたんだが……」

 悪夢による疲れが出ているのだろうか。正直ジェラールははまだ眠かった。

「慣れないことや不安があると、それが夢として表れることがありますからね。大丈夫ですよ、我々が貴方様をお守りいたします」

 そのささやかな一言がジェラールにはとても心強く感じられた。思わず笑みがこぼれる。

「ありがとう、頼りにしてるよ。ところで、夕べは大丈夫だったかい?」

「はい?」

 従者は昨晩のことについて何も知らぬかのようにきょとんとしている。

「夕べオオカミか何かの遠吠えが聞こえて、あの彼が私にテントに入れって言ったんだ」

 ジェラールは昨晩声をかけた従者の方を指さした。彼は今、せわしなく荷物を馬につないでいる。

「護衛たちも何か警戒していた様子だったし、どうだったのかなって」

「ああ、そのことですか」

 従者はあっけらかんとして答えた。

「何もありませんでしたよ。あれからしばらく周りの様子をうかがっていましたが、特に何かが接近してくる気配もありませんでした。万が一の時に備えて焚き火が消えてしまわないようにして、それから休みました。御覧の通り、皆元気です」


 顔を洗うため川辺に行くと、少し離れたところでハクチョウの親子が泳いでいた。二羽の親鳥と灰色の五羽の雛鳥がいる。ほかにも何羽かカモたちが泳いでいた。

 足元では一匹のカエルが草の陰に身を潜ませている。つい捕まえたい衝動に駆られそうになるが、カエルを触った手で顔を洗うのは良くない気がした。

 顔を洗って軽く口をすすぎ、身支度を済ませると、昨晩と同じように保存食とお茶で簡単な朝食を取った。

 その後もジェラールは従者や護衛たちに囲まれながら、内陸の方へ進んでいった。特に目的地があるわけではないが、この地形について知るため、彼は随所でスケッチをしたり、発見したことをメモしたりしていった。従者たちにもこれまで通ってきた道を地図として記録してもらった。

 しかし、時には一人になりたいと思うときもあった。遠くで見慣れぬ生き物を目にしたとき、彼が一行から離れようとすると必ず護衛も数人ついてくる。彼らが無神経に甲冑をガシャガシャ鳴らすせいで、せっかく間近で観察したいと思っても逃げられてしまうのだ。ジェラールは彼らに、見失わない距離にいるときは自分が一人になっても付き添わないように頼んだ。だが彼らも彼を守らなければならないという責務を感じているからか、納得してもらうまでに時間がかかった。


 しかし、やがてそうはいかない事態になってしまった。

 ある夜のことである。ジェラールがテントの中で横になっていると、遠くでまた遠吠えのような声が聞こえた。だがその声は、最初の夜に聞いた美しくて哀愁を帯びた音色ではない。もっと耳障りで、群れを成しており、高い声や低い声が入り交ざっている。まるでジェラールたちを威嚇するような響きなのである。外でつながれている馬たちが不安そうにいななくのが聞こえ、彼は鼓動が早まるのを感じた。

「ロゼット様、大丈夫ですか?」

 テントの前で護衛が声をかけた。金属が擦れ合う音がする。武装しているに違いない。

「あれは何かな? あれもオオカミの遠吠えなのか?」

 彼にわかるはずもないと思いつつも、不安が口をついて出た。

「私どもにもわかりません。しかし、声は割と近いように思います。明日以降、此処から遠ざかるまではお一人になりませんようお願い致します」

 彼の声は落ち着いているが、静かな厳しさもあった。そこからジェラールは、この緊張感が深刻なものだということを悟った。

「そうだね。しばらく思うように観察ができないかもしれないが、身の安全の方が大事だからね」


 不安のためか翌朝いつもより早く目を覚ましてしまった。テントを出ると外はまだ薄暗く、従者や休みを取っていた護衛たちも起きたばかりのようで、まだ身支度をしていた。

 早めに食事を済ませ荷物もまとめてしまうと、ジェラールたちは足早にその場を去った。

 ジェラールは屈強な護衛たちに四方を囲まれて歩いた。今までならあり得ない態勢である。だが周りの景色や、あの不気味な鳴き声を上げた生き物が近くにいないか気になり、時折護衛たちの間から外の様子を伺った。

 シラカバ林の中を歩いていた時である。背後で突然一頭の馬が悲鳴を上げた。

 護衛たちが一斉に振り向き、槍を構える。一人が悲鳴を上げた馬に近づいた。ジェラールも陰からその様子を伺うと、彼が馬の尻から矢を引き抜くのが見えた。

 それを目にした途端、彼は血の気が引くのを感じた。誰かが自分たちに向けて矢を放ったのだ。黄土色と黒の縞模様の矢羽がついており、矢尻は馬の血で赤く染まっていた。すぐに従者が馬の尻に軟膏を塗って手当てをする。

「皆、此処は危険だ。先にロゼット様と従者たちを行かせろ。我々は此処で敵と対峙する。後でお前たちに追いつくから、気にせず行っててくれ」

 護衛のリーダーが部下たちに呼びかける。だがその割に声は小さい。敵に聞こえにくくするためだろう。

 ジェラールとすぐ後ろにいる従者たちのところで人が別れ、後ろにいた護衛たちが態勢を変えた。前方にいた護衛たちが何人か後ろに回り、ジェラールにどんどん先へ行くよう促す。

 ジェラールは振り返って残されていく護衛たちを見つめた。あそこにいる彼らが皆やられてしまったらと不意に考えてしまう。兵士の数が減れば当然その分こちらは不利になる。彼は残された者たちの無事を祈らずにはいられなかった。彼らの姿が見えなくなるまでずっと後ろを振り返ってばかりいたが、敵が現れる様子はなかった。

 焦る気持ちを抑えながら、ジェラールたちは湖のほとりに出た。此処は開けているし、敵が接近してもすぐにわかるだろう。

 ところで、あの矢を放ってきた敵は何者だろう。まさかあの不気味な遠吠えの持ち主が矢を放ったのではあるまい。あの声は人間のものとは思えないからだ。

 日が傾き始めたころ、ようやくあの護衛たちが戻ってきた。激しく息を切らしているが、少し数が減っている気がする。当初あの林では、三十人ほどの護衛たちが残されたはずだが、今は二十人ほどになっている。また一人の護衛は、足を負傷したのか馬に乗せられていた。

「何があったんだ?!」

 ジェラールは事情を聞こうとリーダーに駆け寄った。

「ロゼット様、森は大変危険です! 先ほど我々は、醜悪な未開人どもに襲われました。あのままロゼット様たちが残り続けたら、無事ではなかったでしょう……」

 普段は冷静な護衛のリーダーが、今は声を震わせている。

「どんな奴らだ?!」

 ジェラールは間髪入れずに尋ねた。それは敵に対する恐怖もあるし、不謹慎にも好奇心もあった。

「獣や鳥のような体の特徴があって……恐るべき俊敏さと攻撃力の高さを持っています……。ある者はオオカミのような尖った耳や長い尾を持ち……ある者はカラスのような漆黒の羽毛を腕から生やしている……暗闇で光る眼を持ち、足には大きな鉤爪が伸びて……その鉤爪や槍、弓矢で我々に容赦なく襲い掛かってきたのです……」

「…………なんということだ」

 彼は衝撃を受け、崩れるようにその場に座り込んだ。敵の恐ろしさもさることながら、その姿の異様さにも彼は驚愕していた。話を聞いている限りだと、噂に聞いていた「鳥獣人」のようではないか!

 彼はそれ以上何も言えず、ただぼんやりと湖に映り込む西日を眺めていた。彼の頭の中では、対立する二つの思いが争っていた。恐るべき敵に対する回避したいという思いと、彼らの姿を実際に見て確かめたいという思いだ。

「ロゼット様、くれぐれも近づいて見てみたい、などと考えてはなりませんぞ!!」

 護衛のリーダーはジェラールの考えていることを見透かしたように警告する。その口調はとても強く、厳しかった。

「………………」

 ジェラールは「そうだ」とも「嫌だ」とも言えず、黙ったままでしかいられなかった。


 ジェラールたちは数日間此処で野営し、辺りの環境を調べてから移動することになった。それまでの間、彼はずっと待機せねばならなかった。自分たちの命を狙う存在がいることを実感してしまってから、ジェラールは此処へ来たことは間違いだったのかと何度も自問した。自分を守るために、此処にいる者たちが犠牲になってしまうことを考えると、胃が痛くなった。

 しかし、カハラディア開拓は祖国アルゴメア王国のためでもある。敵国エスニア帝国に対抗するためには、こちらもカハラディアを植民地支配し、勢力を拡大することが重要だ。この世界は神が我々人間のために創造されたものであり、神の教えを弘めゆくことで暗黒の未開拓地に光を照らすのだ。愚かな未開人どもに道を阻まれるわけにはいかない。

 だが敵の詳細をわからずしてどうやって対処すればよいのだろう。まだジェラールは敵の姿をしっかりと見ていない。敵の行動や暮らしを把握しなければ、有効な策を練ることもできない。ではどうやって無傷で接近したらいい? 住んでいる場所、潜んでいる場所もどうやって突き止めればいいのか?

 その夜、彼はテントの中でまたあの気味の悪い吠え声を聞いた。以前聞いた時より、声は大きいしはっきりと聞こえる。武装した護衛たちが甲冑をガシャガシャ鳴らしながら動く音も聞こえる。

 ジェラールは寝袋に潜り込み、ひたすら無事に朝を迎えられることを祈った。あの声と「鳥獣人」らしき敵が同じかどうかはわからないが、体の震えが止まらない。その間にも、遠吠えはずっと続いていた。


 結局ろくに眠れずに朝を迎えてしまった。皮肉にも夜が明けてから瞼が重く感じる。

 そろそろ食料が底をつき始めたので、この湖で釣れた魚で食事をとった。焚き火と積み重ねた石で作ったかまどに底の浅い鍋を置いて、手のひらサイズの小さな魚がそのまま載せて焼かれるのを、ジェラールはぼんやりと眺めていた。彼は身の危険が迫っているにもかかわらず、今ひとつ緊張感を持てていないことが不思議だった。自分は守られているから安全だ、と心の奥底では思っているのだろうか。

 皿に盛られた焼き魚を受け取った。香ばしい良い匂いがするのに食欲が湧かない。 フォークで身をほぐしながら口に運ぶ。中まできちんと火は通っているが、焼きすぎているのかパサパサする。塩も焼きあがる直前に振られたので、身の方には塩気がない。

 頭と尻尾を残し、茶を飲みながら口を漱ぐと、湖の対岸付近で何か大きな生物が佇んでいるのを見つけた。朝の霧の中に包まれて全体がよく見えないが、巨大な馬かシカのように見える。此処の馬たちよりも一回り、いや二回りくらい大きいだろう。高く張り出した肩甲骨に、膨らんだ鼻づら。その動物はしばしば水面に顔を突っ込み、水草か何かを食んでいる。

 あんな大きな動物にも天敵がいるのだろうか。そう考えるとジェラールはぞっとした。同じぐらい大きくて、獰猛な肉食動物がこの地にいるということになるからだ。そいつらにとって人間など敵ではないだろう。

 朝の支度が済んでからも、彼は自然観察に身が入らなかった。従者たちは負傷した護衛たちの手当てをしたり、汚れた衣類を洗濯したりしている。杭につながれた馬たちも落ち着かないのか、荒く鼻を鳴らしたりジタバタ動き回ったりしていた。

 このままずっと夜が来なければいいのに、と彼は馬鹿げた願望を抱いてしまった。

 昼下がりの湖畔は不気味なほど静かで、動物の気配もほとんどない。時折カモやハクチョウたちが舞い降りてくる程度である。気を紛らわすためこれまでのスケッチやメモの整理をしていたら、あっという間に夕暮れになってしまった。

 見回りに行っていた護衛たちも戻ってきたが、特に異常はないとのことだった。むしろ、此処にとどまっている方が敵に居場所を特定され危険だということになり、明日早朝此処を発つことになった。

 日は落ち、また夜を迎えてしまった。昨晩同様、交代で護衛たちが松明を片手に寝ずの番をしている。この日は満月だった。テントや明かりを持たない人々の姿がくっきりと見える。

 遠くでまた遠吠えがした。しかし今度は、初めての夜に聞いた、あの美しい遠吠えだった。この声に敵意は感じない。まるで不安に怯えるジェラールをなだめてくれるかのようだった。


 寝袋にくるまってうとうとしていた時、外がやけに騒がしくなった。護衛たちが呼びかけ合うのが聞こえる。激しく地面を蹴り、走り回っているようだ。ジェラールはテントからこっそり顔を出す。

 焚き火は彼が寝る前に比べ激しく燃え盛り、護衛たちは火矢を構えていた。向こうに何かいるに違いない。

「ロゼット様! 駄目です! 中に入っててください!!」

 一人の護衛がジェラールに気付き叫んだ。咄嗟に彼はテントの中に籠った。

「あそこにいるぞ! 放て!」

 護衛のリーダーが叫ぶと、ピュウッと一斉に矢が放たれる音がした。遠くで醜い悲鳴が轟く。

 何度も何度も矢が放たれるのが聞こえるが、敵らしき相手の声はどんどん近くなっている。

 そのとき、テントに誰かが飛び込んできて、ジェラールは心臓が止まりそうになった。

「ロゼット様、もう此処にはいられません! さあ、お荷物をまとめてこちらへ!」

 まだ十八歳ぐらいの、若い護衛だった。

 ジェラールは寝袋に書類や筆記用具を詰め込み、それらを丸めてテントから出た。護衛は既に軽い荷物のみ袋にまとめて背負っている。

「テントはそのままにしておきましょう! 時間がありません!」

 状況をまだ把握できていないジェラールを尻目に、若い護衛は手甲をはめた手でジェラールの右手首を掴んで走り出した。護衛の足の速さについていけず、彼は何度も躓きそうになる。

 ジェラールは置き去りにされていくテントを振り返った。周辺では残された護衛たちが、今度は槍を構えている。敵はすぐそばまで迫っているようだ。

「うわっ!!」

 前方を疎かにしていたせいで、彼は転んだ。硬い石が露出していたところに、膝を思いきりぶつけてしまった。激しい痛みにぎゅっと目をつぶる。

「大丈夫ですか?! さあ、私につかまって!」

 護衛が差し出した手につかまろうとするが、あまりの痛さに体がうずくまる。背後では悲痛な叫び声が聞こえる。

 ジェラールは震える手で護衛の手につかまり、ゆっくり起き上がると、今度は振り返らずに全速力で走った。

 森の中に逃げ込み、低木の茂みに身を潜める。此処ではろくに物が見えなかった。

 一体、外では何か起きていたのだろう。まさかこの間護衛たちを襲ったあの「鳥獣人」たちが、今度は自分たちの野営地を襲ってきたのだろうか。夜でよく見えなかったし、先に護衛には連れ出されてしまったので、詳しいことはわからない。

「なあ、いったい何が起きているんだ? この間の敵がまた襲ってきたのか?」

 隣で身を潜める護衛に、ジェラールはほとんど息だけの声で尋ねる。

「私もよく見ていません。しかし、我々を襲う何かが迫っていることだけはわかりました。これ以上とどまることは危険だと判断し、貴方様をお連れ出しいたしました」

 暗闇のせいで彼の顔はまったくわからない。真顔でいるのか、恐怖で歪んでいるのか、声を聞く限りでは判断できなかった。

「こんなの、今日だけのことだよな? また皆集まれるだろう?」

 胸にしまっておくのは苦しかったので、ジェラールは淡い期待を込めて護衛に尋ねた。

「…………さあ、どうでしょうか。皆散り散りに逃げてしまいましたので……」

 護衛のその声には、期待の欠片も感じられない。ジェラールの脳裏に最悪の展開が過った。

 彼は体が凍り付いて、しばらく動けなかった。

「今夜は此処で夜を明かすしかないでしょう。お体が冷えますので、寝袋にくるまっていてください」

 ジェラールはその指示に従いたくなかった。受け入れたくなかった。彼は無言で、膝を抱えて座った姿勢のまま動かなかった。肩や足からじわじわと寒気が襲う。夜のカハラディアは冷えるのだ。

 ジェラールは俯き、胸の中で叫んだ。

(神よ! 何故貴方は我々にこれほどの苦痛を与え給うのか! 私がこの地で貴方の教えを弘めたいと思ったことは、間違っていたというのか!)

 ジェラールの気持ちを察していたのか、護衛は彼にしつこく声をかけなかった。持っていた毛布をそっと肩に掛けてくれた。


 眩しい光を浴びて彼は目が覚めた。こんな状況下にもかかわらず寝てしまったようだ。しかし体はすっかり冷えてしまい、顔を上げたときに肩がぶるっと震えた。

「お目覚めですか?」

 護衛がジェラールにやさしく声をかけてくれた。護衛は彼から少し離れたところで向かい合うように座っていた。

「君は……眠れたのか?」

 護衛は軽く首を振った。

「いいえ、貴方様をお守りするため、ずっと見張っておりました。幸い敵は此処まで追ってこなかったようです」

 あどけなさの残る顔立ちからは想像もできないほど、護衛は落ち着いていた。

「他の者たちは……皆大丈夫なのか?」

 ジェラールはすぐにまた昨晩の恐怖が蘇り、護衛に駆け寄った。

「わかりません。私たちのように逃げ出せた者もいるでしょうし、あのまま野営地で戦い続けた者もいるでしょう」

 護衛は不気味なほど無表情で淡々と話す。それとも、ジェラールの前では冷静なふりをしているのだろうか。

「……今後、どうすればいいと思う?」

 彼も護衛に合わせるように感情を抑えて言う。

「また彼らと合流できるまで、しばらく私たち二人で過ごすしかないと思います。敵には既に私たちの居所を知られているので、野営地に戻るのは危ないでしょう。彼らはもしかしたら、私たちを散り散りにするのが目的だったのかもしれません。分散させることで弱体化させ、倒しやすくしようとしているのでしょう」

 今護衛が言った「倒す」という言葉は、すなわち「殺す」ということだろう。怯えるジェラールを前に言葉を選んだのかもしれない。


 近くにまだ敵が潜んでいる可能性があるため、ジェラールたちは火を起こさず、ヤギ皮の水筒の水だけを飲んで移動することにした。なるべく音を立てぬように、最低限の言葉のみ交わし、歩き方にも気を遣った。

 ところが一時間ほど歩いた後、彼は自分の悪い予感が的中したことを裏付ける光景を目にしてしまった。

「そんな……!!」

 十歩ほど離れた茂みの奥で、人が倒れている。服装からジェラールの従者であることは間違いない。うつ伏せになり、風が吹いてもピクリとも動かない。駆け寄ろうとする彼を護衛が腕を伸ばして止め、代わりに護衛が倒れた従者に近づいた。膝をついて、従者の手首に触れる。

「駄目です。命を落としたようです……」

 護衛は振り向いて静かに言った。だがその目はジェラールを見ていない。

 ジェラールは恐怖と悲しみと絶望感で喚きそうになった。しかし、大きく口を開けたところで、敵が近くにいることを思い出し、口を閉じた。

 戦争で人が死ぬとは、こういうことなのか。ジェラールは戦場に立ったことがないので、目の前で人が殺されて死んでいる光景には耐えられなかった。しかもその死は、次は我が身だということを暗示している。

 彼はパニックに陥りそうだった。でも、此処でパニックを起こしたら今度は自分が殺される。彼は必死で落ち着こうと、死んだ従者のために祈りを捧げた。

 護衛は、従者の手に何か握られているのに気付いたようだ。そっと右手に手を伸ばし、ゆっくりと引き離す。

 それは丸められた羊皮紙だった。羊皮紙を開くと、護衛は驚いたように目を見開いた。

「ロゼット様。これは今まで我々が歩いてきた道筋を描いてきた地図です。彼は最期に、貴方様にこれを渡そうとしていたのでしょう」

 護衛がそう言って差し出した地図を見た途端、ジェラールの目から大粒の涙が零れ落ちた。

 手が震えてうまく受け取れない。やっと受け取って開いてみたものの、涙で視界が歪みよく見えない。涙を拭って見てみると、道筋だけでなく、目印となるような山や川、湖、森の植生などもわかりやすい図で丁寧に記されている。それを見たら再び涙が込み上げてきた。

 彼は確信した。

(そうだ、これは神の思し召しなんだ。たとえ野蛮な種族に襲われても、いや、だからこそ、この地で神の教えを弘めなければならない。私にこの作りかけの地図が託されたということは、私にはこの地図を完成させねばならない使命があるということなんだ)

 ジェラールは涙を拭い、顔を上げた。もう、行くしかない。前に進むしかないのだ。

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