何もない街

郷愁

第1話

 何もない街だな、と地元を散歩しながらトオルは思う。

 トオルの地元は新百合ヶ丘。何もないことなんてないし、むしろ新宿や渋谷やらと違ってゴミゴミとしていなくて、人によっては住み良い街だと思うのに、けれども、トオルが反発を覚えるのは要は飽きているから、なのだと薄々トオル自身、気が付いてはいる。

 トオルは生まれてこの方、地元を離れたことがない。東京には住まないんですか? とかつてのバイト仲間に言われたこともあるトオルだったが、新百合は別に住むのには便利なところだし、トオル自身、大都会東京なんてものに憧れなど抱いていない。だからこそ、こうして地元に留まったまま、年を重ねているのだ。それ自体に別に不満はない、とトオル自身、思ってはいる。けれども、何かしら変化が欲しい、と人によってはそれは無いものねだりじゃん、と言うかもしれぬがトオル自身、それは常々思っていることもまた事実なのだ。

 しかし、ビローンと間延びしたような日常を抜け出す手段をトオルは持ち合わせてはいなかった。


 だから、こうして歩くしかない。それが自分にできる、唯一無二のことだと自分に信じ込ませるかのように。

 トオルは歩いている。今日は平日だったか、あるいは土日だったか、分からない。目の前には住宅が広がっていて、団地などもある。人はまばらであるから、今が日中だと考えると今日は平日なのかもしれない。もっと駅前の方に出れば、あるいは人がたくさん溢れているのかもしれない。だとしたら、日曜だ。

 こんな感じでトオルの曜日感覚はもう当の昔に狂ってしまっているのである。それは他でもない、トオルが今現在、無職であるという事と決して無関係ではないとトオル自身、薄々気づいているのだ。

 

 トオルは少し前まで清掃会社に勤めて働いていた。もちろん、正社員なわけはない。コンニャク並みの意志しか持たぬトオルである。正社員の職などに勤めたら、その多忙さに即座に音を上げてしまうことは火を見るよりも明らかだ。また、自分でもそう自覚しているトオルは非正規雇用者として清掃会社に勤務していた。

 ぶっちゃけ、清掃と言う仕事を舐めてかかっていた。頭も使わないし、他人と接するわけでもない、これなら俺にもできるだろうと高をくくったような気持ちがトオルにはあったのだ。

 が、やってみたら思いのほか、大変だった。大変と言う言葉を遥かに上回るくらいの業務量、そして、意外と覚えることの多い事、この二つがトオルの精神に重くのしかかってき、トオルはすぐに仕事を辞めたのだ。僅か八か月の勤務であった。あまり金を使う趣味のないトオルは多いとは言えないけれど、そこそこの貯金はある、と自負していた。まあ、トオルと同い年の、30歳のサラリーマンと比べたらあまりにも低すぎる額だとは思うが。しかし、あまり他人と比べることのない、比べても無駄だ、とどこか達観したところのあるトオルは元クラスメイトの年収など一切気にせずに日々を過ごしていた。

 が、貯金はあると言えどいずれは尽きる。その事実は無職三か月の今、トオルの心に重くのしかかってきていた。まさか、無職生活というものがここまで早く貯金を食い潰すものだとは思ってもいなかったのだ。そんなに浪費しなければまあ、半年は大丈夫だろう、くらいの気持ちでいたトオルだったが、実際は違うのだった。まさに、トオルは無職で居ることの怖さを身に染みて実感させられたのだった。

 トオルの散歩コースは最寄りの駅から新百合ヶ丘方面へ、ただ黙々と歩くだけのものだ。散歩コースに現れるのは住宅街や団地や、あとは近所の馴染みのクリーニング店、スーパーなどだけである。間違っても繁華街、なんてものに突入したりしない。そこがこの散歩コースの、トオルの気に入っているところだった。

 無職生活が板につくにつれ、トオルは他人に見られることを気にするようになった。たとえば自宅のアパートを出、駅に向かって歩いて行こうとする。付近の住人に出会う。中には挨拶したり、しなかったり、みたいなオバサンに出会うこともままある。特に朝のゴミ出しの時とか。トオルはそんな時、無言でサッと、おばさんを視界の中に入れているのにも関わらず、あえて「気づいていませんよ?」といったような表情を浮かべて彼女の脇を通りすぎる、のだが、おばさんは許してくれない。ニコっと笑みを浮かべて「おはようございます」と言うのだ。虚を突かれた形のトオルは当然のことながら「お、おはようございます……」と少々、どもり気味に返すしかない。オバサンがトオルの脇を抜けて背後へと遠ざかっていく。トオルはその姿をチラ、と確認せずにはいられない。そんな自分に苛立ちを覚える時もある。だが、確認せずにはいられない自分の性癖も、トオル自身、きちんと分かっているのだ。彼女はあの後、つまりは僕と別れた後、たとえば家族とかと話すのだろうか? お隣のアパートの一室に居る男、ちょっと変なのよ。え? どう変なの? うーん、なんかね、挨拶しているのに顔も上げないし……表情も暗いのよ。何を考えているのか分からないし、正直怖いわ。物騒な世の中だからねぇ……ちゃんと働いているのかしら? 私も知ってるけど、あの人、平日の日中にここら辺ウロウロしているみたいだし……。

 恐怖の会話がトオルの脳内で展開されるが、もちろん実際に行われた会話では多分、ない。トオルの被害妄想がこのような会話を脳髄にて展開させているのだ。

 気落ちしそうな気分を必死で盛り上げつつ、今日もトオルは新百合ヶ丘を目指して歩いて行った。最近では、これが仕事になりつつあるな、と苦笑気味に脳内で呟きながら。


 トオルは喫茶店に来ている。仕事をしていた頃は休日のみの利用だったが、今はもう、その仕事を失ったわけだから毎日が日曜日。トオルはやることのない日常と言うのが、どんなに苦痛か身をもって知ったここ数週間だった。とにかく時間の進みが遅い。かといって、こうした無職期間を使って旅行に出る、なんてタイプでもない。第一、トオルは行ったことのない場所が怖いのだ。なので、今、一人暮らしをしていると言っても実家から2,3駅離れたくらいのところにアパートを借りて暮らしているのだ。田舎から夢を持って上京、遠路はるばる東京へ! といったタイプの人間ではない。

 そんな、出不精のトオルが暇を潰せる場と言ったらこの喫茶店くらいしかないのだ。なので、事あるごとに来ている。週に二日、仕事がある時は来ていたが、今はもうほとんど毎日と言ってもいいくらい、トオルはここで当て所ない時間を過ごしている。

「こんにちわ」

「こんにちわ」

「……いつもの、でよろしいですか?」

「うん」

 そうして彼女はニコっと笑い、僕にコーヒーを差し出す。僕は笑顔で受け取る。彼女ももちろん笑顔だ。

 ……という、妄想を抱いてトオルはただひたすら、レジに居る彼女のことを見続けている。それはもう正直、友人・知人に知られたら恥ずかしいくらいの凝視の仕方がなのであるが、友人知人など遥か昔に縁遠くなったトオルには関係のないことではあった。

 彼女の名前は黒瀬麻美。もちろんトオルとは何ら関係のない、ただのコーヒーショップの店員である。黒瀬さんは特別、トオルのタイプという感じの女性ではない。トオルはもっとこう、ギャルっぽいというのか、飾らないというのか、とにかく素を出してくれるような女性がタイプなんであって、黒瀬さんはその埒外に居た。いわゆる接客業的な態度でトオルに接し、トオルとしてはもっとこう、こちらに食い込んでくるような接客をしてほしいのであるが(だって週に5日も通っているんだよ? もっと僕にはこう、常連客として接してくれてもいいじゃないか! という不満が実はトオルにはある)、彼女はいたって営業的なスマイルをその顔に浮かべ、トオルに接してくるのだ。彼女の笑顔はそれはもう接客業としてはベストなスマイルなのであるが、トオルとしては少し物足りなく感じる。もっと彼女の本質に迫るような、ちょっと砕けたというか、素が見えるような笑顔を浮かべてほしい。心の底ではそう思っているトオルであった。

 相も変わらず、つぶさに見続けているトオルではあったが、もちろん、彼女と親密な関係が出来上がっているわけではない。トオルは性体験もしたことのない、正真正銘の童貞なのだ。顔立ちはそこまで悪くはなく、かと言って覿面に良いわけでもない。が、実はトオルは内心では「俺はそこまで顔の悪い男じゃない。むしろ、かっこいいところもあるのでは?」と毎晩、ふろ上がりに鏡をチェックする度に思っている。時には決めポーズなんかもしたりして、一人悦に入っている。が、そんなトオルの姿を知る者はもちろんいない。

 黒瀬さんに(恋愛的な意味で)近づきたいのかどうか、トオル自身分からなくなっていた。こうして、週に何度もこの喫茶店を訪れるが、挨拶以外の言葉を交わしたこともなく、というか、挨拶すらも臆病なトオルはろくにできないでいた。彼女が「こんにちわ!」と常連客限定にする挨拶にさえ、まともに返せずにいたのだ。素直に「こんにちわ」と返せばよいものを、どうもトオルは妙齢の女性を前にすると、それもやや好みに合致した女性を前にすると緊張でもってまったく声が出なくなってしまうようなのだ。そうした性質を自覚してもいる。だが、自分一人ではどうしようもない。誰か僕に救済の手を差し伸べてはくれまいか……。

 トオルは頭を抱える。彼女と懇意になる手段がまるで思いつかない、またそれを実行できる自分と言うものを想像することがまったくできない。頭を抱えるしかないのであろう。

 その日、トオルはただ茫洋とコーヒーをすすりながら彼女を見ているしかなかった。時に彼女と目が合ったような気がしたが、それは気のせいというものであろう。また、あまりにジロジロ見るというのも憚られる。ストーカー扱いされて、この店を出禁になったらそれこそたまらない。この喫茶店へ毎日たどり着くこと、それが今現在無職であるトオルの唯一つの仕事なのだから。


 無職になってから三か月が経過していた。失業保険の申し込みもしたトオルだったが、自己都合での退職のため、支給されるまでは三か月待たないといけない。実質四か月待つことになる、とネットで失業保険のページなどを参照して情報を得ていたトオルだった。

「いよいよ働かないとダメか……」

 蒸し暑い部屋で一人ごちるトオル。九月に入ったというのに、まだまだうだるような暑さが続いている。トオルは節約のため、扇風機のみで涼をとっていた。エアコンはつけない。けれども、暑いのには割かし平気なトオルだった。

「女の子も薄着になるし……いい季節と言えばいい季節なのかもしれない」

 などと一人ごちては団扇をパタパタやっている。本格的に金が無くなりつつあった。無職生活というものが、まさかここまで早急なスピードで貯金を食い潰すとは想定外だった。貯金と言っても50万もない。毎月の家賃が3万5000円に、そこに食費やら光熱費やらとにかく計算したくない数字の羅列が頭に浮かんではトオルを苦しめていた。

「女は良いよなぁ……」

 にっちもさっちもいかなくなったらカラダを売ればいいんだから。

 最低なことを考えるトオルだったが、これも無職暮らしが板についたからであろう。無職は人の心を腐敗させる。無職でいると周りの人々すべてを恨むようになる。

 誰もがそうなるわけではもちろんないのは分かってはいたが、少なくともトオルにとってはそうだった。

 なんとかせねばならぬ。

 そう思いつつも、うだるような暑さから逃れられない九月、トオルは団扇でパタパタ顔を仰ぎながら外を眺めるしかやることがないのであった。夕焼け空が窓の向こうに広がっている。なのに、気温は一向に下がる気配を見せない。

 今日も一日が終わる。俺は何もしないまま。

 そのような気分がこの時間になると決まってやってきてトオルを滅入らせるのだった。

 無職生活といっても初めの頃こそ、多少の解放感に包まれ、イイ気分で居たのだが、それもすぐに立ち消えた。残るのはいつ金が尽きるのだろうという不安と、今後果たして仕事が見つかるのか、大げさに言えば社会復帰できるのか、といった不安に苛まれる日々が続くだけであった。ぶっちゃけ在職中よりもキツい精神状態がトオルを襲っていた。

「さて、どうするかな……」

 トオルは地元の図書館に来ている。喫茶店と共にトオルの二大憩いの場である。格段、読書が好きなわけではないのだが、静かな場所なのでくつろぐのには向いている、とトオルは思っている。周囲を見渡せば何やらトオルと似たような境遇、つまりは失職している、という状態の人もちらほらと見かける。もちろん、こちらがただ一方的に見た目で判断しているだけだが……。けれども、なんとなく沈んでいるように見えたり、露骨にうなだれていたりする中高年の男性にはトオルは自分の未来像というものを投影せずにはいられなかった。

「俺もいずれはああなるのか……」

 やや失礼だが、そう思ってしまうトオルは少なくともそう思っているうちは大丈夫だ、危機感があればなんとかなる、と自分に言い聞かせてここ数日を過ごしていた。

「…………」

 ここには目の保養になるものはない。受付のカウンターにやや若く見えるお姉さんが居るが、地味だしトオルの好みじゃない。よって対象から外す。

 どうしよう、終日ここで過ごすか、はたまた喫茶店へ行くか。けれども、喫茶店は今日行ったしな。一日、二度も訪れたら黒瀬さんだって訝しく思うだろう……。

 トオルはこのようにして終日、黙考に明け暮れている。ボーっと何を見るでもなく空中の一点を見つめ続けるトオルは間違いなく変質者だ。あ、いや、変質者というとなんだか性的なニュアンスが含むのでアレだな。変質者ではなく、狂人、はたまた奇人といった類のものであろうか?

 たまにこちらを訝しく見てくるおじさん・おばさん、あるいは親子の存在をトオルは一応、認識している。あ、今、俺のこと、変な目で見たな。この野郎。といった気持ちになるのだけれども、反撃はしない。それは社会人にとっての最低限の矜持である。と、トオルは思っている。誰彼構わずケンカをふっかける輩をトオルは最低、と信じている。最も今現在、社会人であるのかないのか、微妙なところではあるのだが……と先の信念を撤回したくもなっている昼下がりのトオルだった。


 トオルは寝転がって無料求人誌を読んでいた。月曜日になると無料求人誌が三種類ほど、近所のスーパーやら駅やらで補充されるようになっている。無職なら知っていて当たり前の情報だとトオルは思っている。その求人誌をひたすら隈なく眺めて何か良い求人はないか探すのがトオルの現在の仕事だ。

「あ~……ほんといい仕事ないなぁ」

 ごろり、と仰向けになって呟く。顔の上には無料求人誌。思わずため息を漏らす。

「……」

 今が何時なのか、トオルは知らない。もはや時間の概念など超越しているのだ。それこそが無職生活だとトオルは思っている。人間、やはり朝起きて働き、夜にはしっかりと寝るべきだ。今現在のトオルには朝早くに起きる理由が無い。なので寝ている。しばらく経つと朝に寝て昼過ぎに起きる、みたいな生活になっていることに気が付くがもう遅い。トオルはこのような生活にズブズブとのめり込み、抜け出す術を持っていなかった。

「大野さん……」

 トオルの呟きは一人暮らしのアパートに虚しくこだまするのみだ。今、トオルが呟いた大野さんと言うのはトオルの高校時代の同級生の名前だ。トオルは少々、ギャルっぽいというか、元気ハツラツな感じの女の子が好きだった。トオルはどちらかと言うと内向的で、今風に言えばオタク気質なところがあったが、そういった男は女にもオタク的な趣味を持つ人を求めるものらしい。本当かどうか分からないが、ネットでそのような情報をかつて得たことがあった。しかし、トオルにはその情報を見、釈然としない思いが残るだけだった。自分は確かに内向的で、どちらかと言えばオタクと言われるような部類かもしれない。けれども、決してオタク女子など求めてはいない。自分はルーズソックスを穿きこなし、太ももが露わになってもまったく気にしない、といった風の女子高生が好きなのだ!「……まあ、今時ルーズソックスなんて穿いている女子高生など居ないけど」

 そう呟きながらまた、ごろりと仰向けになる。視界には見渡す限り大野さんの顔写真だらけである。皆、トオルが大野さんのフェイスブックから拝借したものだ。それを拡大し、プリントしてわざわざ額縁に入れたのである。なぜ、このような行動をトオルは取ったのか。トオルは心中を探ってみるけれども、具体的な理由は出てこない。ただ、10年は経とうとしている、この貧乏アパート暮らしに風穴を開けたいというか、何某か変化が欲しいとか、つまりはそのような理由でもって、こうして大野さんの顔写真を貼り詰めたのだと思われる。「思われる」ということにして、どうにかしてトオルは自身の行為を正当化しようとしている自分を発見する。これは変態がする行為ではない。ただ単に……大野さんへの恋慕が募ったゆえの行為なだけで。いつまでも言い訳がましいトオルである。

「大野さん、今頃何をしているかなぁ……」

 懐かし気に呟くトオルだったが、もちろん、現役時代、大野さんと口を効いたことなどない。いや、あるいにはあったが極めて事務的な会話という感じで、というか、それはもはや会話ではない。伝達とか、そういった類のアレである。トオルが思う男女間での会話では決してない。今はもう会えない。当たり前だが。それを心底悔いるかと思えば、口下手な自分のことだ、大野さんと話す機会を誰かに設けてもらっても自分は決して大野さんを楽しませるような会話はできないだろう。

 夕暮れと共にだんだんとネガティブ思考に陥るトオルであった。無職なまま、三か月という月日を過ごしたということもトオルの心を大きく削っていたように思う。もうそろそろあれだ、何かしら行動を起こさないと。自分はこのままだといずれナメクジのようにとろけて無くなってしまう。

 焦燥にも似たような気持ちを抱き、ある日トオルは一大決心をした。

 女性経験をしてこよう。

 誰もが耳を疑うと思う。けれども、トオルは本気だった。幸い、時間だけはタップリあるし。これが残業まみれのサラリーマンじゃ、こうはいかないだろう。いや、いくのか? サラリーマンってやつは外回りの営業の時なんかにデリヘルとかホテルに呼んじゃって行為に及ぶのだろうか……? 社会経験が同年代の社会人に対して著しく低いトオルにはそのような行為を想像すらできない。サラリーマンという存在も、トオルにとってはイメージ上の人物でしかない。

 だから、経験するのだ。経験が物を言う。もう大野さんには会えないけれど、黒瀬さんになら会えるし。女性経験をすることで何某かの自信がつき、黒瀬さんに対し、何某かのアクションを起こせるかもしれぬではないか。

 このように思ってトオルは一万円札を握り、地元のピンサロへと向かうのだった。


 トオルは緊張している。昔、サラリーマンの友達に風俗に誘われたことがあった。あの時は断ってしまったのだが、こんなに緊張するならあの時に経験しておけばよかったかもしれない。友達と一緒ということで緊張も和らぐ気がするし。その友達とは何が原因か、よく分からぬが、今現在は疎遠中だ。まあ、友達などそんなものだ。

 男は元来、孤独な生き物。

「よしっ!」

 気合を入れてトオルは歩き出す。ここは町田。新百合ヶ丘から何駅か離れたところにある街。新百合ヶ丘よりかは幾分、猥雑な感じというか、とにかく人の匂いがする街と言っていい。新百合はニュータウンなんて言われることもあって、やっぱり小奇麗だけれども、人の気配の少ない街だ。設計者がわざと消しているように思えてならない。人工的な街。

 トオルはずんずん進んで行く。幾分、手に汗をかいている。緊張の汗だろうか? と疑問符を浮かべるがもちろん緊張の汗であることをトオル自身分かっている。ただ、緊張を和らげるために反芻しただけだ。

 しばらく行くと目的の店が入っている雑居ビルが見えてきた。小田急方面の町田という街は健全に栄えている。健全に、というのはいわゆる風俗なんかは無く、若者に人気な服屋やら家電ショップやらブックオフやらが並んでいる、雑多な街だ。反対に、横浜線の方に向かうと街の雰囲気が変わってくる。とにかく小田急側と比べて店が少ないし、何年前からあるのだろう? と思わず疑問を口にしてしまうような古い雑居ビルなどが並んでいる。中にはラブホテルもある。共に老朽化が進んでいる、と外見から分かる。

「ここか……」

 トオルは目的の雑居ビルを見上げている。昼間だというのになんだか薄暗い印象である。一人の男性客が階段を下りてきた。裕福なようには見えない。トオルと同じく無業者かもしれない。無業者ではないとしても、現実では女に縁のない、寂しい男ってやつなのかもしれない。って失礼か。

 トオルは一人ごちる。

「行くか……」

 今ならまだ引き返せる。心の奥底からそのような声がするが、毅然と振り払う、にはトオルは優柔不断過ぎた。しばらく、ビルの周囲をウロついたりして時間を稼ぐ。何のための時間稼ぎだか、おそらくトオル自身分かってはいない。けれども、ジッとしてはいられないのだ。

 トオルはいよいよ決心した。ここで男になるのだ、俺は。ただ一回、風俗を利用するだけなのにいささか大げさではないのか。人はそう言うだろうが、風俗と言えど風俗嬢とは会話が発生するではないか。トオルにだってそれくらいの知識はある。女性との会話……果たして何年ぶりになるだろうか? トオルは高校卒業からかれこれ12年くらい経っていることを踏まえ、自身の現状について考えを巡らせてみた。今現在、トオルと何気ない会話をしてくれる女性は皆無……。高校を卒業してからは本当にナニモナイ青年時代だった……。

 トオルは頭を抱える。周囲には何をしているんだろう? と興味深げにトオルに視線をやる通行人の姿もある。けれども、トオルには気にする素振りはない。それどころではないのだ、と身振りで示しているトオルなのであった。


「いらっしゃい」

 目の前にはやや小ぶりの女性が立っている。トオルは呆然と立ち尽くす、って今は座席に座らされているから「立ち尽くす」というのはおかしい、呆然と座り続ける、といった感じでトオルは女性に目を凝らしている。

「やだ、そんなに見つめないでよ」

「あ、すみません……」

 なぜだか謝ってしまうトオルなのであった。

 さて、とトオルは思う。

 来てみたはいいが、この先どのように”行為”に及ぶのか、まったく予想もつかないトオルなのであった。取り合えず、受付の、おそらく黒服とか言われる若い店員には「指名なしで」と伝えた。こうすると空いている、すなわち待機状態の嬢をトオルにあてがってくれるのだ。これくらいの知識は身に着けているトオルなのであった。

「じゃあ、とりあえず服抜いでくれる? あっ、それからこのお店は本番は無しね」

「本番……?」

「もう、分かってるでしょ」

 やたらなれなれしい態度の嬢であった。まぁ、わざとトボけたトオルもトオルだったが。

 嬢が慣れた感じで服を脱がせてくれる。自分の服も脱ぐ。小さな、けれども、形の良いおっぱいが露わになる。トオルはどうしていいのか、分からなくなる。黙って見つめ続けていいものなのか、あるいは少しばかり視線を逸らした方が礼儀としては適っているのか。俯いて自分の服を畳んでいる嬢の、つむじの辺りに取り合えず、トオルは視線を固定させた。やはり、あまりジロジロ見るものではないだろう、きっと。素人判断だったが、そのようにした。

「じゃあ、とりあえず、この店のルールを説明するね」

 嬢が色々と説明をしてくれる。本番行為はいけない、ペッティングのみ、だとかなんだとか。トオルはろくに聴いていなかったが、とにかく「本番行為だけはいけない」ということだけは重要なところなので頭の中にインプットした。

「じゃあ、まずは手始めに……」

 そう言って嬢がトオルの乳首をペロペロと舐めだした。トオルは身動きできず、ただ天井にぶらさがっているミラーボールを眺めるしかない。見渡せば薄暗い中、サラリーマンと思われる客が嬢に服を脱がされていた。顔は始終ニヤケ面。薄暗い中でも案外分かるものだ。

「…………」

 先ほどから乳首を舐められているトオルだったが、何かを発語した方がいいのか、分からずにいた。嬢の言うことによれば人によって性感帯のある場所は違うらしい。なのでまずは乳首を責めてみる、との向きだったが、少なくともトオルにとっては乳首は性感帯じゃないみたいだ。「あっ」とか「うんっ」とか、自身の口から何かしら喘ぎ声のようなものが出るかと思ったが、出ない。ただただ、嬢が乳首を舐めてくる感触を、身体の上に感じているだけである。気持ちよくは、ない。

「乳首じゃ、ないみたいね」

 無反応のトオルに業を煮やしたのか、嬢は少々あきれ顔。トオルはなんだか申し訳ない気分になっている自分に気づく。もっとこう、素直に欲望を露わにできるタイプの男になりたかった、と心底思ったトオルだった。たとえば、嬢を「金払ってるんだから本番やらせろ!」みたいな感じで責めていく強気な男とか……。法律上、いけないのだろうけれども、そういうタイプの男の方が風俗を楽しむには向いているような気がする。

 嬢がズボンを脱ぐように要求してくる。恥ずかしい。トオルは恥ずかしがりながらもチラチラと嬢が脱ぐ様を見ている。嬢の方はと言えばそんなトオルの視線などお構いもなしに堂々と脱いでいる。堂が入っているってこういうことを言うんだろうな。トオルは思う。

 これでお互い、本格的にマッパになった。トオルは羞恥心に襲われるが、裸になってもなお、堂々としている嬢を見るとなぜだか「負けてられない」という気持ちになり、無表情になる。無表情の裏には今にも赤面しそうなほどの羞恥心が隠されているのだが、あえて気づかないふりをしている。

 嬢が無言でトオルの陰部を舐め始める。ええ、生で? 生で舐めるの? 驚きに声をあげそうになるトオルだったが、もちろん無言を通す。ここで声をあげたら「え? こういうことをするの、初めてなの?」と嬢に馬鹿にされそうで怖い。

 またもや無言の、どうしていいのか分からない時間が過ぎていく。出口付近らではいかにもうだつの上がらない、トオルとそう年の差のない男が嬢にキスされていた。また、ニヤケ顔。男の僕が言うのもナンだが、なんというか、恥ずかしい。そういう顔を見せるな! とトオルは思う。

 別れ際に客とキスする。そういう仕組みらしいことをトオルは知る。キスか……そういや、風俗通いに精通している友達はプレイを最中もキスされるとかなんとか言っていたな。けれども、今、僕のチンポを舐めてくれている女の子とはまだキスしていない……このまま、キスなしか?

 やや残念に思うトオルであった。キスとかしたら、なんか恋人気分に浸れそう、と妄想をたくましくしているのだ。

 プレイの時間は確か30分だったはず。嬢は相変わらずジュボジュボとやっているが、トオルはと言えば、それに気持ちよさを感じることなく、いや、気持ちいいことは良いのだが、それはマッサージ的な気持ちよさであって、性的な気持ちよさではない。なので、射精には繋がらない。トオルはそう、健気に頑張っている嬢に伝えたかったが、嬢は相も変わらず顔さえ上げないので、伝えられない。なんだか嬢も疲れてきているように感じる。

「あの……」

「え? 何?」

「あ、いや、なんでもないです……」

「……」

 話しかけない方がよかったか。女の子の怒気が身体から伝わってくるようだ。トオルの錯覚かもしれないのだが。


「ちょっと、冷たい手で触らないで」

「あ、すんません」

 女の子の背中があまりに透き通るように美しかったので思わず手を伸ばしてみたトオルだったが、先のように断られてしまった。ややショックを受けているトオルである。それが陰茎にも伝染したのか、徐々に萎んでしまった。「ほら、頑張って!」などと女の子は声を上げるが、効果なし。というか、こういうのに「頑張って」もクソもあるのだろうか……冷静になるとますます落ち込んできて陰茎は通常の形に戻ってしまった。

「一応、抜いたってことで」

 女の子はそう言ってニッコリと笑った。トオルもヘラヘラ笑いを返す。

 30分と言う時間が異様に長く感じた。女の子と二人、こうして並んで座っていても気の利いた事一つ言えさえしない。なんだかこうして二人で居ると徐々に落ち込む気持ちが膨らんでいくような気がしてトオルは不安でならなかった。というか、もうすでに落ち込みは大分進行していて、今すぐに家に帰って布団を被って眠ってしまいたい。トオルはそう思っていた。

「……何か聞きたいこととか、ないの?」

「あ、うん。……年齢とか聞いてもいいの?」

「いいよ。26」

「あ、そうなんだ。今年で、26?」

「うん、そう」

「そう、なんだ。この仕事はもう長いの?」

「うーん、そんなに長くはないかな。三年くらいかな」

 三年も!? と驚きたいトオルだったが、これ以上会話を続けるとボロが出そうだと不安になり、「そうなんだ」で終わらせた。その後は終始無言。まあ、いつものトオルだったのだが、初対面である彼女は「この人、会話続かないなぁ……」と思っているかもしれなく、それが不安なトオルはだからこそ、さっさと帰りたい。

「まあ、これも社会勉強だよ」

 トオルはこういうところに来るのは初めてだから、勝手が分からなくて辛いよ、ハッハッハ、などと空笑いをして見せたのだが、それに対する彼女の回答が前述の通りだった。確かにこれは社会勉強だ。ここに来れば取り合えず、女の子と触れられる。そして、女の子とのコミュニケーションが全然成り立たないことを知らされ、心はボロ雑巾のようになっているトオルだった。

 帰りには例のように嬢にキスされた。なんか手紙らしきものも渡された。嬢のキスする顔が、たとえ営業用ではあったとしても笑顔なのが救いだった。本当にメンドクサソウにされたら、それこそトオルはもう、店を出てすぐにその場から飛び降り自殺したかもしれない。それくらい、(精神的に)コテンパンにやられた初・風俗であった。


 トオルは嬢からもらった手紙を見ながらポツポツと歩いている。手紙には「来てくれてありがとう。また来てね」云云かんぬんと書かれていて、最後にはハートマークまで書かれていた。それをトオルは呆けた顔をして見ている。見続けている。通行人がそんなトオルを不思議そうに振り返るが、もちろんトオルは気づかない。穴が空くほど、という表現が適切なほど、手紙を見続けている。

 ――これが、女の子からもらった唯一無二の手紙なんだ。

 トオルの心中にはそのような、浮足立った気持ちが生まれていた。

 トオルはもちろん女の子から手紙なぞもらった試しはない。いや、あるにはあったか。あれは確か中学卒業の日だった。一人の、見知らぬ女の子から手紙をもらったのだった。少しぽっちゃりとしていて、顔もお世辞にもタイプとは言えなかったけれども、トオルは驚きと共にその手紙を受け取ったのだった。そして、その女の子は別の誰かと恋愛をし、今では一児の母として幸せに暮らしている、というのはトオルの想像であって、実際に彼女が何をしているのか分からない。フェイスブックとか調べてみれば分かるかもしれぬ、と思うが、それをしたらなんだか人の道を外したような気が引ける。だから、しない。そして、彼女が僕の事を覚えていない、ということだけは確実だ、とトオルは思っている。むしろ、覚えているのはトオルの方だ。その女の子からもらった手紙をトオルは後世大事に、とは大げさだが、戸棚に大切に仕舞っているのである。落ち込んだ時、何か悩みを抱えた時、トオルはその手紙をこっそりと取り出し、文面を読むのだ。そうして、自分の事を好いてくれた女の子が過去に一人、確実に存在したことを思い出し、落ち込む自分を鼓舞するのだ。

「あの子、元気かなぁ……元気だといいけれど」

 僕はこうして風俗通いをする男になりました。

 唐突にそんなダメな男になった自分を、当時のその、手紙をくれた女の子に伝えたい気持ちが沸き起こってきたトオルだった。

「しかし……イケなかったなぁ、俺」

 頑張って、とまで励まされた男の客なぞ、過去に居たのだろうか? 風俗に精通している男に聞いてみたい気もしたが、トオルは今現在無職な身の上、学生の頃の友人らとはすっかり疎遠になっているし、また、成人してからできた友人とも疎遠になっている。まあ、友人などその程度のものだ、とやや諦観めいたものを抱いて人間関係というものを考えているトオルだった。

 横浜線側の、町田駅のホームが見えてきた。終わってみたら、なんというのか、女の子と一時でもまぐわったあの瞬間はまさに夢幻の世界そのものではないか、トオルはそのように考えていた。目の前には普段通りの光景、勤め人や主婦らが闊歩している。薄暗い闇の中、ひと夏の経験じゃないけれども、初めての経験をしたトオルは現実に帰ってきたような、それでいてほっとしたような気持ちに包まれていた。

 また、あの店に行くだろうか? トオルは自問する。いや、きっと行きはしないだろう。

 帰りの列車に乗る頃にはすっかり平常心に戻っていた。風俗なんて所詮、お遊び。自分を変えてくれるなんてそんな大仰なこと、考えないこと。それが今回、トオルが風俗から学んだ唯一のことだった。


 あれから一週間が過ぎた。あれから、というのはトオルが初めて風俗を経験した日から、という意味であって、何かしら変化が起きるんじゃないかと期待したトオルだったが、案の定と言うのかなんというのか、これはトオル自身、初めから分かっていたことだったが、何も変化はなかった。

 今では僕のチンポを舐めた女の子の顔すら思い出せない……初めての経験だったのに。

 トオルはショックであった。そのショックが具体的に何によるものなのか、探りを入れてみても漠然としていてうまく答えられない自分にまた、ショックを受けていた。

 そのショックすらも月日の流れというやつが強引に洗い流し、トオルはまた無職で退屈な、苦痛の時間を過ごしていた。

 トオルは仰向けに寝そべり天井を見上げている。かれこれ何分経過したのか、トオルは知る術はない。もちろん部屋に時計はあるが、自分が何分前にこうして寝そべり、天井を見上げ始めたのか、覚えていない。胸に手を当てると確かに呼吸していると分かる。俺は生きている、と感じる。何もしていないのに。世間の人等は働きに出ているのに自分の時間は止まっているように感じる。皆、先を急ぎ過ぎるのだ。これを「生き急いでいる」と言うんじゃないのか? 現代の社会のスピードは速すぎてついていけない、と感じる。しかし、社会に生きる人々にとってはそのスピードが普通であって、普通以下のトオルはだからこそ、社会に出るのに及び腰になるのだった。

 トオルは起き上がって夕食の準備を始める。トオルは割と自炊をする方である。実家暮らしだった頃は家事全般を母親に任せ、トオルときたら米すら研いだことのない有様だったが、人間、必要に迫られればやるものだということをトオルは一人暮らしの経験から知ったのだった。

「さて……」

 と言っても作るのはマーボー豆腐やら袋ラーメンに野菜を混ぜたものだったり、およそ料理とは言えない代物だったが。けれども、「野菜を切る」という技能を獲得したのは一人暮らしの賜物である。包丁すら持ったことがなかったのだから。人間、必要に迫られれば成長するものだ。

 トオルは調理に集中している。今日は野菜ラーメンを作ることに決めた。にんじん、もやし……それくらいでいいか。あとは肉を入れよう。調理は良い。無職生活が板についてから、この「調理」というものがトオルに与えられた唯一無二の仕事であると、トオル自身実感していた。調理=仕事と捉えたら、仕事をしている時のトオルは活力がみなぎっている。やはり人間仕事をしなければ。にんじんを切りながらそう思うトオルであった。

 トオルはテレビを見ながらこしらえたラーメンを食べ始めた。テレビはろくなのがやっていない。ゴールデンタイムだというのに興味を引く番組が無い。テレビ業界はもう終わりだろう。俺とテレビ業界、どちらが先に終わるのか……などといったことを益体もなく考え始めるが、酒を飲み始めたとたん、そうした雑念はどこかへ飛んで行ってしまった。 トオルは黙々と食べ続ける。部屋が無音なのが辛いのでテレビをつけてはいるが、トオルは番組内容を把握してはいない。笑ったり、泣いたりしているテレビタレントを何か、人間以外の生物でも観るようにして観ている。「ああ、人間ってこういう風に表情を変えるんだな」そんなことを思うトオルである。

 トオルは孤独であった。無職生活が始まって以来、ろくに喋っていない。コンビニ店員からお釣りを受け取る時、トオルは「どうも……」とか細い声で言うようになった。そうでもしないと日本語、というか、声の出し方すらも忘れてしまう、との恐怖を覚えたからだった。

「どうも……」「どうも……」「どうも……」「どうも……」「どうも……」

 しかし、これだけでは会話が成立していない、とトオルは薄々ではなく良く分かっていた。やはり会話らしい会話をしないと。いざ社会に出た時、ろくに喋れないんじゃ職場で浮き、すぐに退職するハメになってしまうだろう。

「よし、会話するぞ!」

 この三か月ですっかり錆び付いたコミュニケーション能力ってやつを取り戻そう。

 ラーメンを食べながら、あるいはテレビを見ながら、固く心の中で決意するトオルであった。


 トオルは相も変わらず喫茶店通いと続けていた。いつもの決まった席に座り、忙しそうに働く黒瀬さんを見やる。細い身体でよく働いているなぁ、と思う。細いからよく動くのか、あるいは、仕事をし続けることによって細くなったのか、それは判明しないけれども、黒瀬さんを見るたびにトオルは「あの子は生きているなぁ」と思う。トオルだって生きている。こうして生きて、ストーカーばりに黒瀬さんを見続けている。けれども、トオルは生を実感できなかった。生きているのに死んでいるような状態。それが無職と言うものだとトオルはこの三か月間で思い知っていた。

 ぼんやりと黒瀬さんを見続けるトオル。どうにか会話の糸口を掴もうと画策中である。彼女が暇な時、というのは難しいだろう、ちょっと手の空いた時、たまたま僕の席へ来てはくれないだろうか? そうすれば、「社員さんですか? よく働きますね」などと労いの言葉一つかけられるのに。

 そう夢想するトオルであったが、対人能力がこの三か月間で著しく低下、さらには今までろくすっぽ女の子と会話らしい会話をしたことがないのだから、前述したような声かけは無理であろう。それは本人も薄々分かってはいたが、けれども、一縷の望みにかけたい気持ちも同時に持っているトオルなのであった。

「はぁ……」

 可愛い黒瀬さん。無職になって唯一良かったことは時間を気にしなくていいことか。いつまでもこうして意中の人を眺めていられる。明日仕事があるサラリーマンにはこうした行為は無理であろう。今日は日曜日。明日から始まる五連勤を思って憂鬱な気持ちになっているサラリーマンもあるいは居るのかもしれない。彼らに対し、今だけは優越感を感じるトオルであった。


「ありがとうございます」

 これが今日、黒瀬さんがトオルにかけてくれた唯一の言葉だった。いや、コーヒーを注文する時、「こんにちわ」と声をかけてもくれたか。黒瀬さんの働く喫茶店は常連客に対しては「こんにちわ」と声かけするようなマニュアルみたいなものがあるらしいのだ。黒瀬さんの意思で「こんにちわ」と言ってくれるのなら、こんなにありがたいことはないのだが……。

「まあ、マニュアルだろうな……」

 トオルは夕日をバックに家路を辿っている。夕日をバックに、何かセンチメンタルな心情に駆られている男、と言う感じの俳優にでもなったような気分で歩いていたトオルだったが、別にナルシズムを感じているわけではない。トオルは本気で凹んでいた。自分のふがいなさに。

 会話ってどうやるんだっけ?

 根本的な問いにトオルは答えられずにいた。なので、トボトボと夢遊病者みたいに歩くしかない。そんなトオルを夕日が照らしている。カァカァ、と烏の鳴き声まで聞こえてくる。夏の終わりを知らせるかのようだ。黒瀬さんも夏が終わり、何かしら生活に変化が訪れるかもしれぬ。もしかしたら、彼氏ができたり……てか、もう居るのか? どうなのだ?

 考えてはいけないことを考え始めたトオルだった。気分はますます塞いでくる。

 道端には猫が居る。死にそうな顔をしているトオルを不思議そうに見ていたが、それは人間側の解釈であって、ただ単に人間が通ったから目を向けた、というだけのことかもしれない。猫の気持ちは分からない。

 猫を呼ぶようにトオルはチッ、チッ、チッ、チッと舌を鳴らしてみる。が、案の定と言うべきか、猫は寄ってこずに少し離れた一軒家の柵の向こうへと逃げて行ってしまった。そこからトオルの様子を窺っている。どうやら、これ以上、距離を詰めるのは難しそうだ。

 これが、僕と黒瀬さんとの距離なのだろうか……?

 迂闊にもまた、ネガティブなことを考えてしまうトオルだった。つまりはこの猫と僕との距離は今後一切、縮まる予定はない。猫の目からは毅然とした、「これ以上近寄らないでください」という意志が感じられた。それは黒瀬さんが僕に言ったとしても何ら不思議な発言ではない。というか、これまで僕は女性と、そこまで親密になれた試しはあっただろうか? この猫同様、女性の方も僕が近づけば近づくほど逃げて行ってしまう……。

 トオルはそのように考えてまた憂鬱になった。そんなトオルを小馬鹿にするように夕日はいつまでも照らしている。重い足をずりずりと引きずりながら家路を目指すトオルであった。


 先ほどからトオルは三角座りをしながらテレビを見ている。いや、テレビはついているだけでトオルの興味を引いてはいない。ただ単に人の肉声が欲しくて垂れ流しているだけである。

 無職になって三か月、いや、四か月だったか? 無職になると時間の感覚がアヤフヤになってしまう、しかし、その事すらも今のトオルにとってはどうでもいい事に成り下がっていたのだった。

「また、会話できなかったよ、大野さん……」

 壁面には大量に大野さんの顔写真がある。トオルはそれに話しかけて会話した気分に浸っていた。初めは少し抵抗があった。なんだか美少女アニメキャラに話しかけるオタクな男性のような気がして気が引けたのだ。けれども、寂しさも無職三か月となって極まったのか、トオルはもう大野さんの顔写真に話しかけることに何の躊躇もなくなっていた。

「どうすればいいかな……」

 大野さんは微笑むだけである。というか、写真なのだから表情が変わることは無論ない。分かってはいると思うが。トオルはけれども、口角を上げて笑いの表情となっている。その顔は幸せそうだ、と他人に思われるのには十分な迫力を備えていた。

「ああ……」

 トオルは横になる。こうしていると四方八方、大野さんに取り囲まれたような、大野さんのぬくもりを感じられるような気持ちになるのだ。新聞記事で母を亡くした独身の女性が母の遺影を壁に飾っていると言っていた。そうしていると母に守られているような気がする、と新聞記事の中で女性は言っていた。トオルにはその気持ちがよく分かるのだった。僕もこうしていると大野さんと言う偉大なパワー、女神と言う存在がもし居たとするなら、それは大野さんだ!

 感極まったトオルはそのようなことまで考え出していた。一般の人から見たら奇人・変人の類だろうが、もちろんトオルにはそんなことは関係ない。大野さんの写真を飾ることが奇人・変人と呼ばれるのなら、喜んで奇人・変人とやらになってやろうじゃないか。

 トオルはどこか捨て鉢のような気持ちで現在の生活を送っていた。


「なんだこれは……」

 テレビでは最近のラブドールはすごい、という情報が流されていた。今は孤独な男性とやらが増加傾向にあるようだと言う。独身=孤独というわけでは決してないが、やはり孤独と言うのは男性にとって無縁ではいられないテーマらしいのだ。

「そうなのかなぁ……?」

 一人ごちるトオルではあったが、無論、トオルとて決して一人暮らしの中で孤独を感じないわけじゃない。その証拠にこうして大野さんの顔写真を部屋中に貼り付けているではないか。僕は孤独じゃない! と言ったってそれは強がっている部分もあるのではないか。

 テレビの中ではとある中年男性が紹介されていた。離婚を経験してから、リアルの女性に対する恐れ、あるいは失望みたいなものを抱いてきたらしい。それで女性不信にはなったのだが、やはり寂しさは免れられない。そこで登場したのが先述したラブドールと言うやつだ。男性はコレ(ちなみに男性はラブドールのことを”物扱い”されることをしきりに嫌がっていた。「これは物じゃないんです! 人間なんです!」といった類の事を失礼なアナウンサーに散々訴えていた)と生活することにより、かなり孤独感が減ったのだとか。その証拠はトオルが見てもよく分かるものだった。男性の幸せそうな表情……「満たされている」といった表現が適切なほど、ラブドールと暮らす男性の表情は生き生きとしていた。

「俺も買ってみようかな……」

 幸い、10万程度ならあるし。旅行に行くでもない、かといって一緒に酒を飲むような友人らもいないトオルは有り余るほどではないけれども、それなりに貯金していた。それなり、と言ったってたかが知れているが、少なくとも10万円に困るほど、逼迫しているわけではなかった。

 そうと決まればさっそくPCに向かうトオルであった。テレビに映っていた、恍惚とした表情を浮かべるおじさんを思い出しながら、自分も何か、恍惚感で心が満たされるのではないか、といった期待を持ってのグーグル検索をした。

「これか……」

 確かにテレビで映っていたドールがサイトで紹介されていた。一体10万。上を見上げればキリがないのだろうけれども、少なくともサイト上の画像を見た限りでは、劣化品ではないようだ。最近はこういうので孤独を癒す男性が多いのか……? あのテレビのおっさんもアナウンサーに”彼女”を物扱いされたら、激高していたしなぁ……。そんなにすぐにラブドールをリアルの女性と思い込めるものなのだろうか……?

 半信半疑なトオルだったが、さりとて他に使い道のない10万円である。金はまた稼げばいい。どうせ今の暮らしをずっと続けるわけじゃなし。金が尽きたら必然的に働くしかないだろう。そうなればいい、とどこかで思っているトオルである。だって、そうなればもう、後先考えずに仕事を探すしかないのだから。ケツに火がついたと思って就職活動に臨めばいいのだ。


 トオルはフィギュアと共にテレビを観ている。初めの頃はやはり抵抗があった。フィギュアを恋人扱いするなんて、といった気持ちが先に立ち、のめり込めなかった。けれども、夜、床に就く時、フィギュアの胸の上に手を当てて眠るとどんなに安眠できることか。トオルは経験するまで知らなかった。フィギュアにこんな効能があるだなんて。いや、これもプラシーボ効果というのだろうか、トオルの思い込みによって安心感を得ているような気持ちになっているだけなのかもしれない。けれども、それでもトオルは幸せだった。無職生活が続くことに寄って訪れる様々な不安を、少なくともフィギュアを抱いて寝ている瞬間だけは忘れることができた。

「寝ようか、仁美」

 部屋中を張り巡らす、トオルの元同級生の女の子の正式名称は大野仁美である。彼女の名から、トオルはラブドールに名前を付けたのだ。仁美、と呼ぶと部屋中にある大野さんの顔写真が、いや、大野さん自身が反応してくれるように思う。もちろん、錯覚なのだが。それでもトオルは幸福感に包まれて眠ることができた。

 しかし、まだまだトオルにはこのラブドールを大野さんだと思い込むことができないでいた。ラブドールの容姿がどうにも美少女すぎるのだ。いや、大野さんが不細工というわけではない(トオルはいわゆる不細工な女の子を好きになることはない、トオルの視界には容姿が可憐な女の子しか映らないようにできているのだ)。あまりにも大野さんとかけ離れた容姿のため、どうにも集中して「大野さん……」と呼びかけ出来ずにいるのだ。

「これじゃちょっと気分が出ないよなぁ……よし」

 トオルは深夜だのに起き上がってパソコンを立ち上げた。専用の画像フォルダを開く。中身はもちろん大野さんの顔写真でいっぱいだ。他にも、かつて可愛いと思っていた高校のクラスメイトの写真がある。トオルが盗撮とかして手に入れたのではない。最近はフェイスブックなどで、特に女性に顕著なのだろうが、自分の顔写真を公開しているのだ。こうしてトオルみたいな男に保存されるとも知らずに……。少々、危機感が無さすぎではないのか? トオルもそのように思う気持ちはもちろんあったが、しかし、過去の好きな女の子の顔写真をこうして簡単に手に入れられる時代に生まれついた幸運に感謝する気持ちの方が大きかった。

 トオルは大野さんの自撮り写真を気に入っていた。化粧が薄くて、とハッキリした物言いはできないのだが、最近の20代の女性の比べれば大野さんはあまり化粧していないように思える。そして、その表情も自然だ。いかにもな決めポーズをとる、最近の若い女性の自撮り写真がトオルは苦手だった。よくテレビなどで放送されるが、あんなの何が良いんだろうと思う。クッソ不細工じゃないか。共演の男性タレントも下卑た笑いでそうした女性タレントを持ち上げているし。「あんまりイイ写真じゃないね」などと誰か一人でも言えばいいものを誰も言わず、誰も彼もがその不細工女性タレントの自撮り写真を称賛しているのだ。こんな気持ち悪いことあるか? 誰も彼もが賛同するなんて……。

 トオルはそのような煮えたぎった気持ちを抱いているので、最近ではほとんどバラエティ番組を観なくなっていた。って、それはまあいい。

 話が脱線した。

 トオルはプリント作業に集中する。

 印刷された画像はよくできていた。最近のプリンタ技術の向上は素晴らしい。これがあと数年も経ったら、本当にきめの細かい画像が印刷可能になるのではないのか。プリンタ開発技術者の、これからの技術向上を願いたいトオルであった。

 出てきた大野さんの拡大画像を注視する。やっぱり、相変わらず可愛い。部屋の壁にも飾り付けてあるのだが、こうして拡大した画像をまじまじと見ると大野さんの可愛さが際立って心に迫ってくるような気がする。やはりタイプの顔だ。トオルはそっと顔を近づけ、キスをした。気分が向上してきた……深夜だのに。

 それをラブドールの顔に貼り付けた。

「う~ん……なんかこう、アレなんだよなぁ……」

 セロテープで貼り付けただけだったがどうにも気分が乗らない。やはりダメか。これを大野さんと思い込むのには無理があるような気がする。というか、絶対に無理であろう。

 トオルは印刷された画像をはがし、クシャクシャにした。このラブドールは別の女の子として扱おう。さしづめ、僕の相談相手とかに打ってつけかもしれない……。そのような思いに着地点を見つけ、トオルは再び床に就いた。


「おはよう、なっちゃん」

 トオルは寝起きざまに隣に居る女の子に声をかけた。もうすでにトオルはラブドールを『女の子』として認識し始めていた。名前を呼ぶことにより、よりリアルに『この子は人間の女の子である』と刷り込まれたようだ。

 女の子は夏樹と名付けた。別に深い意味はない。ただ、呼びやすさからそう名づけただけだったが、ひょっとしたら某CMに出てきた女の子が『なっちゃん』と呼ばれていてそのCMは世間的にもかなり有名になったので、知っている人は多数居ると思われる。なっちゃんと呼ばれる女の子はディレクターの意向もあるのだろうけれども、かなり明るい感じの女の子だった。トオルは夏樹には明るい女の子でいてほしかった。人生色々ある。けれども、いつも暗い顔をしていたんじゃダメだ。気落ちしそうな気分の時でも気丈に、明るく振舞う、トオルはそんな女の子が好きだった。ので、ドールには夏樹と名付け、愛称は『なっちゃん』とした。

 以上がなっちゃんと名付けた経緯である。説明終わり。

 トオルはすでに、女の子と一度も付き合ったことがないのにも関わらず、人生の伴侶を得たような気持ちでいた。こんな気持ちなら、就職活動もうまくいくかもしれない。思ったよりポジティブな気持ちに包まれている自分を感じ、トオルは夏樹に微笑みかけた。ドールは何の返事もしない。当たり前だ、だってドールなのだから。しかし、トオルにとっては人間の女の子だ。返事するとかしないとか、そんなのは些末な問題だ。心が通じ合っていればよい。トオルはそのように考えた。

 今日もトオルは昼過ぎに起きた。朝早く起きる必要がないので、結局、夜中までダラダラネットサーフィンなどをし、この時間に起きることになる。一人暮らしなので、誰も叱ってくれる人などいない。それを自由気ままと人は呼ぶだろうが、気まますぎるのも問題だ。人生、何かしら拘束があってこそ、初めて自由と呼べるものに感謝を感じるのかもしれない。

 トオルは身支度をして出発をする。一応、無職と言えど身なりは気にするようにしている。トオルはお金はかけないけれども、割かしオシャレに気を遣う。といっても買うのはユニクロとか、いわゆるファストファッションの服ばかりだったが。それでも自分なりのこだわりはある。

 鏡に向かって決めポーズ。今日の俺もイケているな。鏡に向かってニッと笑みを浮かべるトオルである。かれこれ長い事、他人と会話をしていないので笑う機会がないのだ。やはり、人間、会話の中にあってこそ、笑みを浮かべるのだと思う。

「黒瀬さんと、笑いを含んだ会話ができたら……良いな」

 できるかな? 俺。居間に居るドールに話しかけてみた。もちろん、心の中で。ドールは相変わらず、無機質な目をテレビに向けているだけだ。顔は笑っているが、それは口角が上がっているだけのことであって、笑みではない。営業用スマイルとでも言うべきものか。

 けれども、今はそれでいい、と思うトオルであった。俺には伴侶が居る。その思いがトオルを『働く』ことへ動かして行っているような気がした。


 トオルはデパートに来ていた。子供の頃からよく通っていたデパートだ。地元に住み続けているのは何もポリシーがあってのことではない。単に出不精と言うのか、知らない街へ行くのが怖いだけだ。田舎の人はよく親元を離れて、遥々東京へ来たりするもんだ。皮肉でも何でもなく、トオルはすごいと思う。自分なら親元、まあ、一応、親元は離れているか、けれども、地元を離れて東京に住むなんて考えられないと思う。小一時間も電車に揺られれば東京へ行ける距離のところにたまたま生まれたから、こんなことを思うのだろうか? バスが一時間に一本しか来ない、みたいなところに生まれたら考えが変わるのか。トオルは分からずにいる。

「まあ、ともかく……」

 トオルは無料求人誌を注視している。場所はブックオフ。平日の昼過ぎ、人はそんなには居ないだろうと高をくくっての外出だったが、意外や意外、トオルと同い年、あるいはもっと年下か? と思われる男子が熱心に漫画を立ち読みしている。彼らもトオル同様、行くあてのない人たちなのか、無業者なのか。それは分からないけれども、少なくとも女には縁がなさそうだな。彼らをチラ見しつつ、そんなことを思う。

 トオルは再度、求人誌を注視しだす。自分は彼らとは違う。そんな気迫めいたオーラがトオルを覆っている。それが周囲にどんな影響を及ぼすか、トオル自身分かっていないし、分かる必要もないだろう。現代人はそんなに赤の他人には関心はないのだから。

「やはり清掃の仕事に戻るしか、ないか……」

 いわゆる3Kと呼ばれるような、きつい・汚い・危険の三つがつく仕事ばかりが紹介されているように思える。かと思えば、営業職、なんてのも結構な数が掲載されているのに気づく。

 でも、俺、営業なんてできないしな……。営業している自分と言うものをまったく想像できない……。

 トオルは思わず頭を抱えたくなった。ここがブックオフだから、躊躇したが。自分の部屋に居たら、躊躇なく頭を抱えて「うぉぉぉぉ!!」だの「うがー!!」だの苦悶の声を上げたことだろう。

 伴侶を得たと思って気分上々で家を出てきたのに、いざ現実と向き合うとコレである。気が滅入ってきた。誰かに癒してほしい。その癒しさえあれば俺はまた再度復活できるのだが。

 今、その癒しを与えてくれる女性は少なくともなっちゃんしか思い当たらない。本当なら黒瀬さんにその大役を担ってほしいものだが……。それはまた、夢のまた夢となりそうだ。

「取り合えず、就職しなきゃな……それでこそ、黒瀬さんに近づく権利を得られるというものだ」

 このような発言から、トオルは無職を人間ではない、エタヒニンのように思っている所があった。それはそうなのだが、このブックオフ内にも、似たような、エタヒニンたちが居るかもしれないぞ? いや、きっと居るだろう。

 トオルは彼らを人間扱いしていなかった。まずは、人間にならなきゃ! いや、なりたい……。

 それがトオルの願いであった。


 新百合まで散歩に来たら、決まって最後には黒瀬さんが働く喫茶店にお邪魔した。お邪魔と言ったらなんだか常連の客が店員の女の子に挨拶するような、そんなニュアンスが感じられるがもちろんトオルはこれまで同様、黒瀬さんと挨拶らしい挨拶も交わしたことがなかった。光陰矢の如し。トオルはこのまま、黒瀬さんを観察するためだけにこの喫茶店を訪れ、そして、人生を終えるのか。そんな想像までしては暗くなっているトオルだった。

「それじゃダメだ……」

 トオルはいつもの、指定席とは言えないまでもいつも座っている席に座り、コーヒーを飲んでいる。前方には黒瀬さん。常連と思われるご高齢の夫婦に対して愛想よく振舞っている。振舞っている、というよりも自然体といった方がいいだろう。堂に入っている。もうかれこれ、長い事、この喫茶店に勤めていることが窺えた。業務的な挨拶ではなく、自分から好んで挨拶するような、そんな姿勢が窺えた。そこもまた、トオルにとって魅力的なポイントだった。

 トオルはあくまでも観察を続ける。時折コーヒーに手を伸ばしたり、持ってきた新聞を読んだりなどしていたが、意識は黒瀬さんに向いているので集中できていない。活字が頭に入ってこない中、文字だけを追っている。

 何か、何かチャンスはないか。黒瀬さんと、業務的な挨拶以外の言葉を交わしたい。

 コーヒーを飲み終え、気が付けば店内が暗くなっていた。この喫茶店は夕方の六時になると、夜用というのか、アルコールを振舞う店に変質するので、店内も幾分、「大人な」ムードになるよう、照明を落としているのだ。

 トオルはいつものように返却口までグラスを持って行く。黒瀬さんが中で、洗い物をしている。言葉を交わすチャンスだ。

「あの……」

「あ、ありがとうございます~」

「ど、どうも……」

 トオルは固くこわばる顔を崩せず、無表情に返事をした。黒瀬さんは笑顔で言ってくれたのに。渋々、という感じで店を後にするトオルだった。


「また、ダメだったよ、なっちゃん……」

 トオルはなっちゃんを抱き寄せ、呟いている。時刻は午前零時を回ったか。暗闇の中、時計は見えないがなんとなくそんな気がしている。

 カーテンの隙間から薄明かりが漏れている。トオルの呟きに対し、なっちゃんは何も返答を返さないが(当たり前だ)、微笑みをたたえているのは分かった。僕を労わってくれているようだ、とトオルは思う。

 自分はもう、一生生身の女とは縁がないのではないか? まだ三十代だのに、そんなことを思うトオルである。なっちゃんに手を伸ばす。温かい、生身の女性の肌だと感じるが、もちろん気のせいだ。心が弱っているから、そのように感じるのだと思う。

「俺、もうダメなのかな……?」

「……」

「このまま一生生きて行くのなら、今すぐにでも死んだ方がマシだな」

 ハハハ、と自嘲気味に笑うも返答する声は聞こえない。当たり前だ。フィギュア相手に話しかけるなんて終わってるな、という思いがトオルにはあった。けれども、今ではあの、ラブドールをリアルの彼女扱いする、ドキュメンタリー番組に出ていた中年男性の気持ちが分かるような気がした。一人は辛い。けれども、生身の女性と付き合ったら、決して幸せなだけじゃない、人間が二人いるんだもの、そこに関係性が生じることによって起こる軋轢などがトオルには面倒臭く感じられるのだ。きっとあの中年男性も同意してくれるように思う。けれども、やっぱり一人寂しい夜もある。そんな時に傍に寄り添ってくれるのが、

「俺にとってはなっちゃんなんだな……」

 胸の上に手を当てて眠りにつく。黒瀬さんと話せなかったのは残念だったが、自分はもう、このままでもいいか、という考えも頭にチラつくトオルであった。


「そんなことないわ」

「え?」

 トオルはハタと目を開ける。ひょっとして喋った? そんなまさか。トオルはなっちゃんの表情を確認する。相変わらず、以前と変わらぬ笑みを浮かべている。口元も見てみるけれども、喋った形跡は窺えない。

「安心して。私がついてる。だから、死ぬなんて言っちゃダメ」

「……」

 トオルは呆然として二の句が継げない。一度、頬をつねってみる。漫画で見たような方法だが、試さずにはいられなかった。

「現実……だよな?」

 トオルは立ち上がり、電気をつけてみる。相も変わらず、なっちゃんに喋った形跡は窺えない。じっと目を見つめてみる。空洞で、何も映っているようには思えない。こいつが意志を持って話すなんて――ありえるか?

「ありえるよ。私は人間だもの」

「うわっ!」

 思わずのけぞり、尻もちをついてしまった。隣の部屋から壁ドンでも来ようかと気構えるが大丈夫なようだ。時計を確認すると深夜零時を少し回ったところだ。胸に手を置き、これから眠りと言う体勢だったのに、すっかり眠気が飛んでしまった。

「お前……人間だったのか?」

「さっきからそう言ってるじゃない、失礼ね」

「にしてもなぁ……」

 やはり受け入れられない。これが小説や映画の中なら、ありえないこともないが、僕が生きている世界はノンフィクション。人形が喋るなんて、普通は受け入れらないことだ。

「私は人形じゃなくて人間なの」

 あくまでも頑なに、そう主張するドールであった。

 まあ、いいや……。今、ひょっとしたら夢の中に居るのかもしれないし。明日になったらいつものように、何もしゃべらない(当たり前だ)ドールが僕の横で眠っているのかもしれないし。

 トオルは再び、電気を消した。無職だけれども、生活リズムを崩すわけにはいかない。無駄な夜更かしは将来、社会復帰する時の足かせになるかもしれないのだから。

 驚きで心臓がバクバク言っていたが、とにかく眠る体勢を整えることにした。ぎゅっと目を瞑り、これが現実ではありませんように、そう願いつつトオルは眠りが訪れるのをひたすら待ち続けた。


「おっせぇな! 何やってるんだよ!」

「はい、すみません……」

「前にも教えただろ? 一度で覚えるんだよ!」

「……はい」

 それはさすがに無理だろう、という文句が喉元までせり上がるが新人であるトオルはもちろん口には出せない。

 トオルはひと月前から働きだしていた。また清掃業だが、完全な未経験職よりかは幾分マシだろう、という消極的理由によってこの会社で働き出していた。

 日夜、トオルに働くことを勧めるなっちゃんの存在が、トオルを労働へと駆り出したと言えよう。トオル一人では決して、再び社会に出ようなんてことは考えられなかった、とあの頃を振り返って思うトオルであった。

「にしても……」

 やっぱり働くって辛いな。他の従業員は時には談笑を交えながら働いている。新人であるトオルは仕事を覚えるのに精いっぱいでとてもじゃないけれども、笑っている余裕などない。それに新人が余裕ぶっこいて笑っていたりなんかしたら、また前述したように怒鳴られるのがオチだ。

「お前なぁ……」

「はい、すみません」

 皆まで言わせず、謝るトオルである。呆れ顔の先輩は明らかにトオルより年下で、ひょっとしたら10歳くらい下なのかもしれない。自尊心が著しく傷つけられるトオルであったが、文句は言えない。今までサボってきたツケが今、来ていると思った方がいいだろう。

 今はまだ、雑巾がけやら窓ふきなど簡単な業務しか任せてもらえない。先輩らを見ると洗浄機械というのか、清掃業特有の機械を使って床を磨いたりしている。ああいうのを扱えるようになると、自分に自信が生まれ、もしかしたら黒瀬さんと対等におしゃべりできるようになるのかもしれない、と愚行するトオルであった。

「ほら、まだここ汚れてんぞ!」

「あ、すみません……」

 モタモタ作業するトオルを先輩が怒鳴り散らす。よくもまあ、自分より10歳も年上だろう男に、このように怒鳴れるものだ。自分がもし、彼の立場だったらやっぱり気を遣うと思う。トオルは目上の者には気を遣う、純真な日本人であった。

「今に見てろよ……」

 ボソボソと呟きながら、それでもトオルは作業に集中した。


「疲れたよ、なっちゃん……」

「……」

 最近では仕事の疲れからか、いつの間にやら眠ってしまっていたりする。だから、こうしてなっちゃんと言葉を交わすことも少なくなってきた。

 なっちゃんは相も変わらず、無表情なまま、トオルの隣に居続けている。もう、ここ数日、なっちゃんの口から言葉が発せられることはなくなっていた。トオルが無事に就職したから、その役目を終えたのか、それは分からない。けれども、なっちゃんの存在は未だ、トオルの心を支え続けていた。なっちゃんが居るからこそ、仕事を頑張れる。これが、完全に一人暮らしなら、トオルは今すぐにでもあのムカつく先輩の前に立ち、「今日で辞めさせてもらいます!」と言い放つだろう。

「いや、さすがにそれはできないか……なんか言い返されたら怖いものな……」

 どこまでも臆病なトオルであった。

 しかし、働き出してからイイこともあった。コンビニ店員やら、近所の人やら、トオルは無職期間中、彼らの視線と言うものが怖くて仕方がなかった。自分は何か変人だと思われているのではないか? 別に誰に確認したわけでもなくても、トオルはそのように考えて日中の外出を控えていたのだった。外出するのは決まって日の落ちかけた夕方頃に限っていた。まあ、夏の間は日中のあまりの暑さに怖気づいた、というところもあったのだが。

 それが今やどうだ。ネット通販で購入した商品を届けに来てくれた郵便局員とも、以前なら視線を合わさずにやり取りしていたというのに、今じゃ、堂々と挨拶できているじゃないか。自分は成長している、そのように考えているトオルであった。

「それもこれもなっちゃんのおかげだよ……」

 トオルはそっとなっちゃんに手を伸ばす。髪をかき上げ、目元を確認しようとする。相変わらず、なっちゃんの瞳に感情は宿っていない。けれども、心で通じ合っている、馬鹿らしいとラブドールを持ったことのない人は思うかもしれないけれど、トオルは本気でそのように考えていた。

「よかったわ」

「え?」

「これでもう、私が居なくなってもやっていけるわね」

「……何を言っているんだよ、なっちゃんが居なくなったら俺、またすぐに仕事を辞めちゃうよ……」

「泣き言を言わないの」

 トオルは頭にふと、人の手の感触のようなものを感じた。薄暗闇の中だから、それがなっちゃんの手なのかどうか、判然としない。けれども、確かにトオルは誰かに頭を撫でられたような気がした。

「……動いた?」 

 返答は聞こえてこない。気のせいだったか。なっちゃんに入れ込み過ぎた自分の意識が、『なっちゃんに撫でられた』ように感じただけのことだったかもしれぬ。そんなことを考えながら、トオルは深い眠りへと落ちていった。


 仕事は順調に続いていた。今はとにかく、新しいことを覚えるのが楽しいと感じているトオルだった。以前は日曜日なんか、明日からの仕事を思って憂鬱になっていたものだったが、今は少なくとも、また新しい仕事を覚えられる、となってそこまで憂鬱にもなっていなかった。トオルにも人並みの向上心が生まれつつあった。

「それもこれもなっちゃんのおかげだよ」

「あなた何回、その言葉言うの?」

「何回でも言うさ。だって本当の事なんだもの」

 トオルはなっちゃんと共に縁側に佇んでいた。狭いアパートの一室だから、縁側と言うほど大層なものでもなかったが。

 ベランダからすぐのところには一軒家が聳え立っている。この一軒家から時折、子供の馬鹿丸出しの声が聞こえてきて、やかましい。けれども、今はなっちゃんと一緒だから心は平穏でいられる。波立つなんてことはない。

「なっちゃん、好きだよ」

「私もよ」

「……本当? 本当にそう思ってる?」

「そう思ってるわよ。いちいち確認するの、よくないわよ」

「そっかぁ」

 今までこんなに幸福感に包まれたことなんてあっただろうか? そう思うトオルであった。

 向こう側には路地が見えていた。そこに小学生の男の子、二人が何やらこちらを指さしながら笑っている。近くに居るのは親御さんのようだ。険しい表情でトオルを見ている。

「……何かおかしいのかな? 僕ら」

「おかしくなんてないわ。きっと私たちの仲が羨ましいのよ」

 そうだろうか? 親御さんの表情を見ると羨んでいるようには見えないけれど……。

「あの人、人形に向かって喋ってるー。変なのー」

「コラ、あんまり見ちゃダメ!」

 叱責するような声が聞こえる。なっちゃんは人形ではない、人間の女の子なんだ! そう主張したいトオルであったが、何も小学生相手にいちいち憤ることはないじゃないか。そう思い、彼らに対しニッコリと笑った。ゾッとするような、何か見てはいけないものを見てしまったかのような表情をする親御さん。一体、何だってんだろう? 僕はただなっちゃんと会話をしているだけだのに。何もそう、変人を見るような目で見なくたっていいじゃないか。そう、反論したいトオルであった。

「ほら、あの人ですよ」

 気が付けば警察なんかも駆けつけていて、僕の方を指さしている。その警察の青年も何やら険しい表情をしている。

 路地を抜けてこちらに近づいてきた。親御さんは子供の手を引き、先に行きたがっているが、物珍しさが勝ってか、子供はそこに留まり続けている。

「失礼ですが」

「……はい?」

「これは……何なのでしょう?」

「僕の彼女です」

 警察官の表情が一変する。こいつはヤバイぞ、と声に出さなくてもそう言っているのが表情から分かる。僕が何をしたって言うのだろう。他人のアパートの敷地内に入って来て、変人扱いするのか? 失礼じゃないか!

「ちょっと署までご同行願えますか?」

「え?」

「あ、いや、だから署までご同行を……」

「いやいや、何だって署まで行かなくてはいけないんですか!」

 思わず激高し、大声を出してしまったが、その行動がもう、『精神病者が取り乱したよう』に彼らには見えたのだろう。

「あなた、ずっと話題になっていたんですよ。近所に『人形相手に独り言をブツブツ言っている、変な人がいる』って」

「…………」

 そうなのか。知らなかった。

 気が付けばパトカーも路地の向こうに止まっていた。あれに乗せられ、僕は尋問を受け、変人扱いされるのか、精神鑑定といったものまでさせられるのかもしれない。

 ふいに視界に変化が起きた。警察官はトオルの近くにいるはずだのに、すごく遠く感じる。本格的に頭がおかしくなった? 分からない……。

 トオルはなっちゃんに助けを求めようとした。なっちゃんは相も変わらず、前方を見つめ続けているだけ。警察官が何やら喚いている。それすらもどこか遠くで喋っているように、トオルは感じる。

「夕日が綺麗だなぁ……」

 喚く地元の住人、警察官の声をどこか遠くから聞こえるものとして聞き、トオルは上空に昇る夕日をいつまでも、いつまでも眺め続けていた。

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何もない街 郷愁 @negatebu

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